野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

視ることと触れること

視ることと触れることとは、対象を知るうえで不可欠の要件である。視ることだけでも、触れることだけでも、対象を構成することはできるけれども、五官のうちのどれか一つだけによって対象を構成してもそれだけでは対象を十全に知ったと言うわけにはいかない。

ところで、われわれのまなざし(注意・気)は、それぞれの度合いで別々に励起状態にある感官を賦活させ対象の諸属性を感覚し知覚する。そしてそれらの諸情報を綜合して対象を一つの像(イメージ)にまで形成する。言い換えると、一つの像の裡に、どの程度の、どの範囲で諸感官が励起され、どれだけの豊かさを含んでいるかによって、その像の質が決定されるともいえる。五官の励起のされかたの度合や、そこからもたらされる情報の豊かさや、どの感官に相対的な優位を与えたかによって、その像の質や内容が異なったものになるということである。

いま仮に視覚と触覚の二つの感覚だけをとりだして考えてみることにすると、一般的に前者は高次なもの、あるいは精神性といったものに関係し、後者は低次なもの、原始的なものに関係すると考えられている。

このような価値の優劣が妥当か否かは別にしても、そうした優劣が支配的となっている時代にわれわれが生きていることは確かである。それどころか、視覚の圧倒的な優位さにくらべれば触覚など無視しても構わないというほどに、両者の価値の差は激しくなっているとさえいえる。

しかし先に述べたように、対象をより十全に知ろうとするためには、五官のひとつひとつすべてが高次に賦活され、より豊かな情報を当の対象から引き出してくること以外ではない。

特定の感官のみが賦活され、その感官から引き出された情報のみが拡大され豊かになっても、それはあくまでひとつの断面のみの豊かさにしか過ぎない。

しばしばわれわれは、一断面からの情報を積み重ねることで、対象を十全に知りえたと考えがちだが、それは錯覚であり思いちがいである。

対象そのものはもっともっと豊饒なものであり、われわれの認識をはるかに超え出た先に存在しているものだからである。