野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

愉気(輸気)とは何か

野口整体法の基礎になっているものの一つが、気であり、気の運用である。それほど重要な概念である気について、野口晴哉氏は「気は気であるとしか言いようがない」あるいは「整体操法の技の中心は、この輸気とその感応にあるのであるが、残念ながら気の問題は直接会得するより他に道はない。整圧も輸気を離れて存在しない。・・・気は気で自得する以外に説くすべがない。輸気ということはこういうことなのである。(「整体操法読本巻二実技」)と語ることが多いため、何となくわかった気になって先に進めてしまうことが多い。

研究会などの場においても、個々人が気をどの程度自得しているのか、わかったつもりになっているに過ぎないのか曖昧に感じられることもしばしばである。何事においてもそうなのだが、ある対象への理解は人により千差万別であるし、人によっては雲泥の差が生じていることがあるのは当然であろう。

そこで、野口晴哉氏が指し示す、気の実態に可能な限り接近するために、氏の気をめぐる言説を探索することは無駄ではないだろう。

ここでは、そんな思いから、「健康の自然法」を手掛かりに、気の諸相について探索してみたい。以下の引用は、野口氏がアメリカに留学中の長男に送った手紙の一節である。

 

愉気って何だという質問だが、人間の気力を対象に集注する方法だと考えたらよかろう。

人間の精神集注は、その密度が濃くなると、いろいろ意識では妙だと思われることが実現する。

穏やかな太陽の光でも、集注すると物を焼く。光はレンズでとらえるのだが、気は精神集注によってちからとなる。

それ故、愉気するには高度な精神集注のおこなえること、恨みや嫉妬で思いつめるようなこころでない、雲のないような天心が必要である。・・・

人間というものは元来、自分や自分の家族の体のけがや故障を正し、また癒す本能を持っている。

この本能の働きを高め得れば、人間はいつでも、どこででも自分の身を護れる。

生きている人ならだれでも触手療法はできる。

痛いと、思わずその部分を押さえる。血が出ると押さえる。それが自然の触手療法だ。創傷でも打撲でも、その部分に手掌を当てて、その思わず押さえた手を放さないで、心を集注し、気を凝らして、裡の動きが感ずるまで手をあてておくことが、パパの説く触手療法だ。

手掌に冷風感や蟻走感や温かい感じがするが、それが経過して何も感じなくなったら止めればよい。

注意を集めたり気を凝らすと、感覚も体の働きもさかんになる。・・・

天来の勘も、気を凝らしていることに自ずと働き出す。

だから手掌に気を凝らすと、異常のあるところ近づけただけで異常感を感ずる。

触手療法の感覚はこういうものらしい。

触覚ではない。そういう知覚以前のものらしい。

しかしパパは、病気している心を正すことが一番大切なことだと思っている。病気したと思っている機会に、その心を正すことが本当の健康を理解させるに都合が良い。

精神が集注し統一しやすい為だろう。

心の姿勢が正しくなって触手療法を行い施すことがパパの主張する触手療法なので、この点病気の心のまま体の病気を治すつもりで触手するような行為はパパの触手療法ではない。

パパの触手療法は体の正常な働きを発揮し、その機縁に体の本当の使い方を会得させることであり、ただその為にだけ触手療法を行う。