野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

野口晴哉氏 6.22 前後の時空

1976年6月22日、野口氏は自宅で64歳の生涯を終えられた。永沢哲氏の「野生の哲学 野口晴哉の生命宇宙」(ちくま文庫)には野口氏の最後の様子が次のよう書かれている。

「・・亡くなる四日前に、鳩尾に出来た硬結を、一人の弟子ーそれは家族であったーに触らせ、「そろそろかな」とつぶやくと、昏睡状態に入った(腎臓に障害が出やすい体癖(七種)をもっていた彼は、それにともなう尿毒症を示していた)。それはまったく静かな死だった。」

月刊全生8月号(1976第150号)には、奥様の昭子氏による「寂」と題する美しい哀悼の文章が掲載されている。

「・・・先生は二月に休みを宣言しながら、三月、四月、五月と六月の半ばまで、少しも休まなかった。ただ自分の体調に合わせて、自分の指導する人数を減らしたというものの、来られた方を見ると、ついやめられなくなり、時には百人を越すこともあった。・・六月になって、ある日私はふと、三十年前の先生との対話を思い出した。「弘法は六十二で死んだが、僕は六十五かな。」「六十代で死ぬなんて全生とは言えないわ。」「全生とは長生きすることではない。蝉は一年でも全生だ。弘法は倦きたんだよ。馬鹿ばかり相手にしているとね。」・・・十八日の暁方、私が背中に愉気をしていると、背を向けたまま「もう終わりか」と呟いた。私は訊き返すことが出来なかった。・・・二十日の朝、ミカンの入ったくづ湯をカップ一杯食べて、・・皮椅子に、体を斜めに横たえていた。・・・その午後から、先生の容態が変わった。・・お腹に愉気すると、肋骨からすぐ下が舟底のように凹んで、必死に愉気しても、呼吸が大きく入って来なかった。・・・二十一日から、先生はセミダブルのベッドに寝たきりになった。そして水しか飲まなくなった。・・・二十二日・・午後三時ごろから、先生は汗をびっしょりかき出した。拭いても、拭いても出る汗で、パジャマがぐっしょり濡れ・・・夜になって、呼吸が少しづつ変わりだした。朝ロイの言った時間であった。それでもいささかの苦しみも見られなかった。・・祈るようなはりつめた静寂の中に、だんだん息がかすかになって、すーっと消えた。「寂」そのものであった。」

(参考:詳細は、野口昭子著「回想の野口晴哉ー朴歯の下駄ー」(ちくま文庫)をご覧ください。)

 

7月10日、整体協会本部で協会葬が行われた。「月刊全生(9月号)」にはその時の様子や当日読まれた弔辞などが詳しく記載されている。しかし、ここでは、「月刊全生(11月号)」に載った、安岡章太郎氏の追悼文(野口先生を偲んで4「死期のついでに」)から興味ある文章を引用してみたい。ちなみに、安岡氏は野口氏が信頼を寄せていた数少ない人物の一人だったということが「愉気法講座145」(p.47)に語られている。

 

「・・・いつか先生は、「僕は飛行機で死ねたらいいと思っていますよ。だって、僕は普通の病気では死ねませんからね。みんなの命を預かっている僕が、変な死に方をしたら、みんなを欺したことになる。ちょっとやそっとのことじゃ死ねないんですよ。」私は最初、何というキザなことを言うんかと思った。しかし、聞いているうちに、これはキザでも何でもない、どうしようもないほど苦しいことを打ち明けられたという気がした。みんなの命を預かっている、これは只事ではない。その信頼に応えて生き抜くということ、その不安や苦しさに耐えることは、全く並大抵のことではない。・・・いったいそれは、いつ頃から、どのようにして迫ってきたのか。無論、私たちにそれはわかりっこない。しかし、結果から言えば、それは今年の二月、大阪で転倒されてからのことであろう。いや、その前にも数々の前兆はあったに違いない。そして、そのことを先生は十二分に予知しておられたのであろう。しかし、それはあくまでも他人ごとのように予知されただけで、死んでゆく自分自身をハッキリと認められたのは、もっと後のことではなかったであろうか。・・・亡くなられた後に、先生の机から発見された遺稿(註:手書きの「我は去る也」の原稿)の文字は、激しくイラ立った先生の内心を私たちの前に叩きつけるように示している。しかし私はこれを読むと、何故か逆に、ホッとしたような心持にもなるのである。

先生が、これまでの孤独な道を歩んでこられたことを、これほどハッキリと示されることによって、刻々と足元から潮が満ちてくるような切迫感とは裏腹に、先生自身は、その潮に自分をまかせきって、やっと背中の重荷から解きはなされたというような安らぎが、行間から浮かび上がってくるのである。人の本音を聞くことは淋しいことに違いない。しかし、おそらく、それを聞いた瞬間にだけ、私たちは、移り変わる自分自身という生きものに触れた気持ちになれるのである。」

 

今回のブログの終わりに、野口裕之氏の「形見」と題する、薫り高い文章を引用したい。この美しい文章は、「月刊全生」(2018年5月号)に掲載されたもので、出典は身体教育研究所発行の「季刊独鬼」(2008年4月)からとの記載がある。

「・・父が亡くなり、書斎を整理している時に、膨大な原稿の中から、この詩(註:白秋「邪宗門」)を書き写した手帖を見つけた。紀乃のことだなと直ぐに思った。その先数頁は、五才で亡くなった愛娘に対する慟哭ともいえる文章が綴られていた。それは胸の中の琴線を掻き乱し、喉を絞り上げる叫びのような文であった。悲しみが地鳴りしていた。まるで生涯をかけて形成した<俺の世界は俺の周囲を廻る/俺は此處にゐる/動かない>という雄々しい境地が、単なる啖呵のようにしか聞こえなくなる程、嫋嫋とした姿を曝け出していた。こんな父の姿を見たくないと思ったが、同時に何かホッとする感じがした。前後の日付から察すると亡くなる前年に書かれたものらしい。

亡くなる前年に、仕事のことで父と喧嘩をして家を飛び出した。・・・そろそろ金も尽きた頃、知人からの電話で父が倒れた事を知った。あの父が死ぬ筈がないと思ったが、「今度は駄目かも知れない、今なら間に合うよ」という囁くような声に心が動き、急いで駆けつけた。椅子に眠っている父は総白髪だった。一年でここまで老いるものかと思った。

会葬に来た友人が耳元で囁く。亡くなる一週間前に父の操法を受けた時、「ダン(註:裕之氏のニックネーム)は出て行ってしまいました。でもやがて帰ってくる日は近い」。カザルスの演奏するブラームスの六重奏が場内で響きわたるなかで、僕は泣き、父を急がせたことを恥じた。カザルスが時々唸る。父の声に似ていた。・・・」

 

(参考:野口晴哉口述「愉気法講座145(1976.3.20)」より)

「・・私はこの間、大阪で転びました。打ったわけでも何でもないのに、転んだのです。普通は滑ったとか、躓いたとか、油断していたとか、何か理由があります。そのどれにも当てはまらない。むしろ、足が速くなってしまって、転ぶまいとして踏ん張ったために転んだ。活元運動で転んだのではないかと思うくらいです。それで自分の足が自分の思うように動かないということが判りました。私の生活は五十年以上は坐ったきりでした。最近三年位は、この部屋の中を廻りました。それで運動が足りなかったのか、ともかく、自分の体の使い方がおかしかった。どこかに偏った処を作っていた。

それで、全部やり直ししなくてはならないと思いまして、一か月間休むことに決めました。・・・だから体中が変わってくる。自分では判らなかったが、随分無理していたことが判ります。・・・今日も休もうかと思ったのですが、ボソボソお喋りしていれば変わると思った。・・・そうすると、適当な鬱散がある。夜は眠れる、御飯が食べられる。動かないと御飯も旨く食べられなくなるのです。大変面倒な決心をしたものだと思いました。しかしこの生活も今月いっぱいで大体やめて、正式にやろうとは思っております。でもここまで来たのだから、体の中の細かい感じが無くなるまでと思っております。指はしびれる。足はもつれる。声まで出なくなってきました。よくせっせとこき使ったものです。今、順々に休めています。大分前にひょう疽をやったことがあるのです、その跡が痛み出してきました。三十年ぐらい前に、肋骨を折ったことがあるのですが、そこが痛み出し、その時のようにゴボゴボ水が溜まってきました。体がだんだん以前へ行っているのだということが判りました。あとは、メチルアルコールを飲んだくらいのことで、別段何も毀したことがありませんから、まあ、そんなもので、もう一度胃袋が痛むのだろうが、それはずっと先だろうから、一応は動き出そう、そう思っております。こういうことが続くかも知れませんが、体は昔に戻ってきました。少なくとも気の集注は昔のようです。本を読んでも斜め読みができる。岩波文庫で二百ページぐらいのものは一時間かからない。・・・」

 

ところで、この第145回の口述記録の最後尾に、野口氏が唐突とも思える表現をされています。この数ページ前に、ある教育学者の息子が家を飛び出したが、愉気をしたら戻って来たという件があるので、まったく関連がないとは言えませんが、それにしても文脈やトーンが違いすぎる気がしてなりません。以下に引用しておきます。

「・・人間の持っている力が大きければ大きい程、自信を持って生活し、それに気が付いて使えるようになった時から、独立とか自由とかいうものが始まるのです。自分の体のことを抜いて、独立とか自由とか偉そうに言うものではないと思うのです。まああまりそういう悪口を言わないで・・・ ・・・ ・・・ここで止めます。」