野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶⅡ(59)上肢操法、下肢操法(その2)

忘れてしまうといけないので、このブログにメモしておこうと思う。先ほど(12月27日 pm.10)NHKEテレの番組、「欲望の哲学史マルクス・ガブリエル、日本で語る~」(31日の午前0時45分にも再放送される。)を視ていたら、最後の方でラカン鏡像段階の話が出てきて、いま世界は人間の意識が作り出した共同幻想の最終段階にあって、他には何もない自分の映った鏡の中の自分だけの世界に生きており、だから世界のあちこちでトランプ大統領のような、自分しかいない世界、鏡に映った自分以外何もない世界、自分の気に入らない他者をことごとく排除することのできる世界に到達している、というような内容のことを、進行役の哲学者ガブリエルが語っていた。

そして彼は、こういう時代に至った現代が、実存主義から構造主義へ、そしてポスト構造主義へ、さらに今ポスト・リアリズムの時代(「新実在論」の時代)へ突入しようといている、とまとめていた。

これは私のかなりいい加減な要約なので、また改めてちゃんと書き直さなければと思うが、脱構築からポスト・リアリズムへの転換に至ったというこの哲学者の言葉に、正直すごくびっくりした。

以前このブログで、養老孟司氏の唯脳論について触れた時にも思ったのだが、「リアルなものなどどこにもない」という考え方に対して、一対一の生きた人間関係の中で考え続けることが、野口氏が自覚的に選択した方法的態度であり、その眼の前に生きて働く人間の行動に直接触れ、確かめ、考えていくという氏の覚悟が、それゆえに未来的だと感じていた私には、とても新鮮な発言に思えたからだ。

生命というものに向き合い、決して辿り着くことなどできそうにない、「生命」の豊かさ不思議さを前にしながら、しかし飽きることなく、まるで子どものように眼をキラキラ輝かして向き合っていく野口氏の姿が、改めて私の裡に浮かんできたのであった。そしてマルクス・ガブリエルの「新実在論」というものを学んでみようと思った。また脱線しました。失礼。

 

I先生。「前回に引き続き、手と足の操法について説明します。」

 

上肢操法というのは、頭の操法や一側の操法に相当しています。ところが下肢操法というのは、脊椎の三側の操法に相当します。

三側は変化が早い。今日少し食べ過ぎた、というだけで三側に変化が生じる。そして三側を操法すると、すぐに臓器の変動が収まります。

だから、病気治療ということを対象に操法するのであれば、三側だけで十分なのです。三側だけでほとんど処理がつく。初等でも三側の練習をしましたが、それは変化が早く、確かなので、自信を持ってもらう為に練習してもらったわけです。

 

臓器の変動はまず三側で見る。その調整も三側で行う。三側の硬結部分を押さえればいい。ぎゅうぎゅう押さえなくていい。

三側の中でも胸椎の七、八、九番の場所は、一番変化が多くて、しかもいろんな臓器変動をそれらをそっと押さえるだけで治ってしまう。

 

昔、梶間良太郎という人は、その部分の操法だけで全ての変動を治している。どんな病気の場合でも、八、九、十、九、七、八の三側で処理している。彼は、精髄反射療法といって、当初は脊髄を全部対象にしてやってっていたが、経験を積むにつれて、九、七、八に徹していった。

野中豪策氏は、側腹、永松氏は右の排泄活点だけで万病に処そうと考えていた。

しかし数多い脊椎の中で九、七、八だけですべてを処理するということは多少無理があるが、その意味は非常に大きく、三側の梶間流の操法というのは今でも整体操法の型として残っている。

足の操法も、ほとんど三側の操法と同じような意味を持っている。すぐに変化を起こす。体のどこかが具合が悪いと、まず足が重い。だるい。肩が張ったりする。肩が凝ったのかと思うと、足の方に血液がうまく流れていない、体液が足の方に流れていない。足を治すとそういうものがなくなってしまう。

足の操法の型というものは、安全かつ無害なところが選ばれている。だから、いくらやっても害はない。逆に言えば、効果も余り期待できない。手の操法にも裏の操法があるように、足にも効果があるが、へたにやると害があるような操法もある。

足も、変化が早く、まだ胃が痛まないうちに足が冷たくなる。咽喉が腫れる前に、足の先が冷たくなる。足の裏というのは敏感で、そこに振動を与えると、頭や耳に音として感じる。

 体の異常はみな足に感じる。病気も重くなると足がむくんでくる。死ぬ前になると足がむくんでくる。足に体液が流れない。

右の内股の操法をやると、虫様突起炎そのものが良くなってしまう。腹膜炎や肝硬変などでお腹に水がたまっているような場合でも、急速に減っていく。何かお腹の中の体液の移動と内股とは関係があるようである。

左の内股は、小便が出ないような時に硬い。それを押さえると出るようになる。尿を出そうとして出ない状態や、我慢すると漏れるとか、終わりの歯切れが悪いというのも、みな左の内股が硬い。左右で使い分けることが必要。

 

内股操法をすると、体液の流れを良くする。また何となく不安であるとか、気分が受け身になっているとかいうものも、なくなってきて、積極的な気持ち、前向きの気分になってくる。疲労感(疲労ではなく)を処理するのにもこの内股操法は極めて有効である。疲労感の処理は、坐骨操法と併用すると、体中クタクタになっている時でも、疲労感をなくすことができる。坐骨から坐骨神経に沿って操法していく。

 

練習

今日は、内股操法と坐骨操法を練習します。

まず、内股の操法。相手は仰臥で、いつものように、膝で相手の逃げ道を封じます。

まず相手の膝に当てておき相手の逃げ道をふさぐ。そして、上から順に硬い処に手を当てて、手の方に力を入れるのではなくて、こちらの膝を寄せるように押さえて行く。硬くなっているので、三側をおさえるようにゴリっとやらないで、やりかけた処までで押さえて放す。硬くなっている線によって、感情の閊えであったり、体液の閊えであったり、疲労であったり、尿の閊えであったりといろいろであるが、今はとりあえず硬い処に手を当てて、膝で寄せる。力を入れて強く感じさせるのではなくて、逃げる処を押さえて強く感じさせるというようにする。

 

次に坐骨系統は、うつ伏せでやる。疲労感処理は大腿部をつまむだけでいい。つまんだ処に太い線があるので、それをつまむ。そのあとでアキレス腱をそっと押さえる。これも手でやるのでなく膝の押さえで強く感じさせる。内股の操法のあとにこれをやっておくと、尿出しや、虫様突起炎の効果が持続する。最後に、足親指の内側の根元をつまんで回転させておく。

閊えが多い人ほど停滞も多いが、体中のどこかが閊えて判らない時、一応これをやると大抵よくなりだす。足の操法は、訳の判らないような異常に出会った時にやってみると、意外な効果を発揮する。

操法上の問題として、放し方が遅いと、やる都度に鈍くなる。初め触った時は痛いが、だんだん慣れてしまう。ところが放し方が速いと、だんだん痛くなってくる。押さえるたびに痛みが増えるというように押さえるのがコツです。痛みに慣れてしまってはいけない。我慢しないうちに放す。そして次の処に移っていく。そうすると、だんだん弱く押さえても、相手は強く感じるようになる。そういう繰り返しが出来るようになれば本式である。

 

次は、疲労感を処理するための坐骨部の操法です。

お尻のへこんだところ、坐骨の筋肉の割れ目。坐骨神経痛で痛むのは、ここで、じっと押さえると痛みは止まる。坐骨神経痛は、腰椎五番の系統ですが、その痛みの神経は腰椎三番から出ている。足の痛いのは三番、足が動かないのは五番。

 

腰自体の異常で、腰が痛いのは一番、動けないのは三番。足の方に行っているのが五番。これらは二側です。一方、坐骨部の操法で腰椎三番の系統は三側なんです。

足の先のしびれとか痛みの場合の腰椎五番は二側です。神経の痛みなら腰椎一番でよさそうなのに、坐骨神経痛に限っては、二側か三側で操法するということになる。

二側なら腰椎五番、三側なら三番で、たいていこれを調整すると痛みはなくなってくる。それでなくならない時に、坐骨部を押さえる。

ヘルニアのいたもの場合は、腸骨を寄せるように上にあげる腸骨操法というのを併せてやっておくと経過が早い。

お尻というのはエネルギーを貯めているらしく、ここが弱ってくると体はくたびれてくる。お尻から坐骨にかけて非常に硬くなっている人は、エネルギーが非常にある人か、異常のある人である。正反対の場合がある。

歳をとると坐骨神経が一番先に柔らかになってくる。ここが楽につかめるようになっているのは、若くても年寄りといえる。つまめないのはエネルギーが余っていることが多い。歳とっているのにつまめない場合は、十二種的な傾向がある場合が多い。もっとも、歳をとっていても若い場合もあるから、一概には言えないが。

 

以上で今日は終わりにします。