野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶⅢ(69)整体操法の対象

われわれは、体のちょっとした変化にも不安を抱いてしまう弱い存在です。あの親鸞でさえ、弟子の唯円に、自分はちょっとした体の異常に接しただけで、すぐにでも死んでしまうのではないかと不安になってしまう、というようなことを『歎異抄』の中で語っていたというくだりがあったように記憶していますが、それほどに弱い心を誰しもが抱えて日常を送っているのではないか。そして不安は不安を呼びそれを増大させてしまう。人間の意識というものが、意識の中だけで不安というイメージを膨らませてしまう。しかし、意外にも体というものは、裡に積み重ねてきた何万年もの環境との悠久の時間の中から獲得してきた膨大な知恵で、いまあるその不安のもとになっている身体のさまざまな変調に、見事に対処しようと働きづけている。

こうした誰もの裡に息づくいのちの営みに、静かに向き合うことが出来れば、もう少し落ち着いてそうした変調を眺めることが出来る筈である。しかし、いつも意識はせっかちに、ときに焦りを伴って、マイナスイメージばかりを追っかける癖がある。

野口晴哉氏の言説には、こうしたせっかちで不安げな意識のありようを転換させうる、圧倒的な力が宿っている、とわたしには感じられる。

この整体ブログは、そうした私の感じを確かにさせてくれる野口氏の圧倒的なことばの冒険、実験的積み重ねで得た確信を確認できる、またとない経験である。

もちろん、このようなブログを読むよりも、直接氏の著作に接するか、整体協会主催の講習会や、近くの整体指導者から教えを受けた方がいい、というのは至極もっともなご意見ではある。ぜひそうしていただきたいと心より思う。

ただ私にとって、間接的にでもこういう野口氏の肉声にリアルに接する機会にはあまり恵まれてこなかった。直接、身近な指導者の方々に尋ねても、なかなか納得のいく答えをいただくことが少なかったというのが本当のところだ。

I先生とのご縁があって初めて、それまで感じていた「寄らしむべし、知らしむべからず」的な秘境的雰囲気から、かなり自由になれた気がしたのだった。

そうした私の感じに共感してくださる人はきっといるはずだし、同じように満たされない気持ちを持っている人にとっては、このブログも無駄にはならないに違いない。そう自分に言い聞かせながら、記録を進めていきます。唐突ですが、先日九十三歳でお亡くなりになった梅原猛氏のご冥福を祈りつつ。以前、講演会のあと、ホテルまでお送りするタクシーの中で、お孫さんの音楽会での姿について眼を細めながら楽しそうに語ってみえたお姿を想い出しながら・・・

 

I先生「前回練習した一側の読み方について、少しは前進しましたか。今日は、そういう指の感覚の鋭敏化に伴って見えてくるものを基礎として、整体操法がそもそも何を対象にして組み立てられているかについて、練習をまじえながら、さらに深めていけたらと思います。」

 

(<気>と運動系) 

 註:( ) 内の記述、及び< >、「 」の表記は、記録者による。文責も同じ。

 

我々が整体操法の対象としているのは、言うまでもなく「運動系」であり、その動きです。臓器が対象になっているのではない。一般に病気治療というと、臓器を対象にすることが多いわけですが、そういう場合、たとえば虫様突起炎を起したらそれを切り取ってしまう。虫様突起を手術で切り取った身体を調べてみると、どの身体も、腰椎の二番が右に曲がっている。そしてどれも右足が太く短くなっている。そういうことを考えると、入れ物の歪みが、そういう故障を引き起こしたと考えることも出来るのではないか。臓器そのものの故障だけしか見ていないと、腰や足などを含めた、入れ物としての身体の歪みというものを全く考えなくなってしまう。しかし我々は、普段使っている、生活と直接繋がっている「運動系」を対象として、それを整理することで、臓器の状況などを逆に支配できるのではないか、そういうふうに考えるのです。

臓器の現象も、みな「運動系」に知覚反射として現れているから、「運動系」の知覚過敏を確かめる方が、かえって実際の状況を知りうるのではないか。そういうことで、我々は「運動系」の動き具合というものを対象にして、人間の身体を追求してきたわけです。

そして、どういう「運動系」の動きが悪いと、どういう異常を起こす、こういう動きの異常は、こういう処と関連がある、というようなことを確かめてきました。

足を骨折すると、二十年ぐらい経つと、視神経の消耗症を起こす。特に、大腿骨を骨折した人にはそれが非常に多い。大腿骨を折った時に眼に愉気をして治すという、運動系の異常を臓器に愉気して治すということもあるが、普通は運動系の動き具合で臓器の異常を知って、そしてその運動系の動き具合を調整する。

だから、正常な運動系の確立というか、運動の正常性の確立というか、そういうような運動系の整理ということを主体に操法ということは行われています。

運動系には人間の要求が全部現れています。悔しくても、悲しくても、みんな動きに現れる。

運動系の動き具合というのは、意識して動かしている状態ではなくて、自然に動いてしまう状態ですから、その後ろにある要求というものを直接の対象として、操法を進めていく。

だからある要求によって動いている運動系の動きを対象にして、それが正常な状況に戻るように仕向けていく。これが操法の大雑把なやりかたです。

要求というものは具体的にはよく分からない。しかし悔しいか、悲しいか、快いのか、嫌な感じなのか、顔の表情やその動き具合で大体判る。後ろからでも、その手の動き具合、姿勢の動き具合によって、今食いたいのか食いたくないのかまで分かる。

だから運動系というものを丁寧に観れば、要求というものは分かるし、その要求の方向を変えるために、運動系を調整することも不可能なことではない。愉気という「気」を利用すると、そういうことはいよいよ可能になる。

「気」というものは、「人間の運動の原理」であり、気が集まると、興味を持つと疲れない、興味がなくなると疲れる、やる気になれば疲れないが、気が抜けると同じことをやってもくたびれてしまう。つまり、「気」という得体の知れないものが、人間を疲れないで動かしたり、何倍の力を出して動かしたり、何分の幾つかの力を出すのにでもくたびれてしまったりというように、「気」の集まり具合によって、運動系の動きに違いが出てくる。見えるものだけを見ていると見つからないが、少し丹念に観ようとすると、必ずこの「得体の知れない」<気>とか<要求>とかいうものが問題となる。

人間が<生きている>ということも、物を見るように見ているだけでは分からないが、<気>とか<要求>というものを観るようにすると、それが分かってくる。

我々はこの<気>とか<要求>という眼には見えないものを、「運動系の動き具合」というものに一旦置き換え観察することで、操法というものを進めていくわけです。そうやって、見えないはずのものを見えるようにしていこうとしているわけです。

 

(運動系の働き具合が<気>を表現している)

胃袋がこう働いているのだろうとか、肝臓がこう働いているのだろうというような、体のある部分の検査によってその働きを類推するよりも、われわれの観方のほうが余程合理的と言えるはずである。レントゲンで写った影をみて判断したり、臓器の一部を引っ張り出して分析したり、ある特定の臓器のある瞬間の運動だけを対象に研究したりするするよりは、よほど直接的で実際的である。普段の生きて働いている体を対象にする限りは、そう言っていいのではないか。

 

(運動系を通して<気>を現実的なものにしていく)

<気>とか<要求>という方が曖昧だ、と言う人もいるが、われわれはそういうものを「運動系の運動具合」という具体的なものを媒介にしてそれを観ていこうとしているのだから、曖昧だとは言えない。というか、今日「合理的」と言われていることよりも、よほど合理的であり、現実的であるし、そういう場合が沢山ある。

運動系を通さなければ曖昧なままのものが、それを通すと具体的、正確なものになる。

 

操法の方法は、相手の力の入れ抜きにする運動の間隙に、身体の外側からショックを与える。それだけのことです。あるいは相手の身体のある動きに、呼吸の間隙に変えていく。そういう呼吸の間隙とか、運動の間隙というものを利用して行うものであって、力づくでグイグイ押さえてやっていくものではない。この間隙というものは瞬間のことで、多くの場合あっという間に過ぎてしまう。だから操法の練習も、あまり時間をかける癖をつけてしまうと、速度感覚が育たず、間隙を観ることに鈍感になってしまう。

速度感覚は注意が集まると速くなる。注意を集めると、時間が長くなる。

注意の集注密度を訓練して高めていくと、「間隙」が観えてくる。

そういうことを意識しながら、練習を続けていって下さい。

今日はこれで終わりにします。