野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶⅢ(71)椎側の問題

この講義記録をブログに書き込んでいる私の心に、いつも去来しているのは、ある種の戸惑いです。野口整体の言葉が、現代を生きている私に何をもたらしてくれるものなのか。野口氏の言葉を、自分の人生のどこに位置付けていけばよいのか。上手く位置づけられないものがあるとすれば、それはどのようなことで、その理由は何なのか。野口氏が生きていた時代と、いまの私が生きている時代との違いはどこにあるのか。その違いは、私たちの「からだ」や「からだ」についての意識に対して、どのような変容を迫るものなのか。

野口氏の獲得した「からだ」についての認識が、私たちが現在の日常の中で断片的に理解している近代医学的「からだ」についての知識と異なったものであるとするなら、その違いはどのような理由から出てくるものなのか。

そうしたことを考え始めると、途方もなく高い壁の前に佇まざるをえない自分の姿ni

唖然としてしまう。

一般に信じられている「からだ」をめぐる認識も、他方で野口氏が提起する「からだ」についての知識も、ともに私には全き実感を伴ったものとして存在してはいないのだ。

この私の戸惑いは、おそらくどこまで行っても解消されないものであるに違いない。

しかし、そうした私の意識や心のありようとは異なった次元で、私という命は、「からだ」をたずさえて、たゆまず生を全うしようと日々その営みを続けている。そして一方では、自らの個的生を保持しようとしつつ、他方では種としての永遠をめざしている。

今夜の「月」は深々として、とても美しく輝いており、こころに染み渡ってくるものが感じられる。でも、昨夜見たその「月」と、今夜見上げている「月」とでは、同じ「月」のはずなのに、その趣が異なって感じられる。源氏物語の時代の「月」と、江戸の時代の「月」とでは随分異なった想いで見上げられていたに違いない。それは当然、こころの在りようの違いであり、感受性の移ろい方の違いである。

わたしたちにとって、「からだ」は意識の対象でありつつも、常に意識にとっての外部として存在し自立しているようにみえる、ちょうど見上げた「月」のように。だから、意識がどんなに頑張って「からだ」を感受し、それに「ことば」を付与し、認識し尽そうとして両手で掴み取ろうとしても、かならず指の間から零れ落ちていくものが残ってしまうのだ。

それは大海の無尽蔵ともいえる水を掬い取ろうとする行為に似ている。しかし、人間は意識を持つことの宿命として、こうした行為を抑えることもできない。

わたしの戸惑いも、その元にあるのは、意識のこうした宿命の故からなのに違いない。

私というものの成り立ちを、「身体的なもの」「心身的なもの」「心的なもの」と便宜的に三つに分けて考えた場合、私の対象として立ち現れてくるものの捉え方も、それに応じて三つの異なったものになる。つまりその対象を「身体的」に捉えるか、「心身的」に捉えるか、「心的」に捉えるかで、随分と様相が異なってくることがはっきりする。たとえば、上司から理不尽な叱責を受けた場合を考えてみる。そのことを「身体的」に捉えた場合は、彼の発する声の音量や、口角から飛び散る泡粒といった物理的なものの理解が主体となる。時には彼が殴りかかろうとすれば、身をかわそうと身構える、そんな領域の事となる。その正反対に、「心的」に彼の理不尽な説得を、その言葉の意味や、その言葉に対する私なりの解釈というレベルのみで考える領域もある。ところが問題となるのは、それを「心身的」に捉えた場合には、上司の言葉は時に私への憎悪と感受され、同時に私の側から上司に対してのむき出しの反感として裡から怒りが込み上げてくる。つまり、上司の情動に私の情動が即座に反応してしまうのだ。

ある事柄が、私の情動を刺戟し、私の生存を脅かすものとしてそれが立ち上がってくる時、わたしはそれを「心身的」に受け止めているということができる。

他者の苦しみが、あたかもわが苦しみのように感受されるというのは、私がそれを「心身的」に受容しているからである。ところが、世界中に日々起こっている様々な事件やそれによる苦悩や煩悶を抱く人々のことは、わたしにとっていつもわがことのようには感受できない。なぜなら、それはすぐさま私の生存に直接影響をもって立ち現れてこないと考えてしまっているからである。

苦悶や煩悶は、それが自分の事であっても、他者の事であっても、「心身的」に受け止めざるを得ない様な、生存にかかわる事や、他者との距離の近さに応じて異なってくる。単に感受性のみの違いによるのではない。

同じ個人においても、その感受性の発動は、時と場所や状況の違いによって意識的に使い分けられるものである。他者との距離の近さが、自身の生存を脅かすものと感じられるがゆえに距離をとったり、逆に我が子の苦しみ故に自身を顧みず身を呈したり、相手の苦しみを背負いきれないと自身の力量を考え身を引くということもある。

相手の苦しみに寄り添うことは出来ても、相手の苦しみを全く同様の苦しみとして感受し対応するということは、なかなかに難しい。だから多くは、一瞬だけ心を痛めるだけで、あとは「心的」なものへと意識の軸を移して、見て見ぬふりをする。「心身」的に受け止める余裕がないとも言えるし、人間的な力量が希薄だとか、情がないとも言えるが、そうやってやりすごしてしまう。それが言わば現実ではないか。

自分自身でさえうまく制御できないのに、なぜ他者の苦しみを我がことのように引き受けることができようか、そんな言い訳も用意してしまう。

野口氏が眼の前にいる一人ひとりに全身全霊で「心身」的に向き合っている姿は、真に感動的であるが、その野口氏の口からは決して「全ての人を」と言う表現がないのも、氏が眼の前の具体的な個々人に「心身的」に向き合うという覚悟があって初めて可能となるものであろう。野口氏は、「心的に」つまり、幻想的に個人という抽象化された対象を相手にはしていないということである。そんなことばかり考えてしまう、相変わらずの私がいます。

では、講座記録を続けます。

 

I先生「整体操法講座第六回目の今日は、椎側について、復習を兼ねて説明したいと思います。」

 

三側操法

椎骨の、本人の棘突起から指三本外側が三側です。三側は、胸椎部と腰椎部では、そのほとんどがお腹の臓器の反射です。三側の異常はお腹の臓器と直接関係している。そしてお腹の臓器の変動に対して、三側を調節すると、一応相手の感じている異常感を解消することが出来る。

お腹の臓器というのは、胃袋、肝臓、脾臓膵臓、腸といった消化器の関連です。臍から下には生殖器がある。その後ろに腎臓がある。腎臓も三側に異常が現れる。時に三側以外に現れる腎臓の異常もあるが、その場合は一側に現れる。それは生殖器関係の泌尿器といって、腎臓自体の異常ではない。

生殖器は一側にほとんど全部出ている。および仙椎部に現れる。生殖器の異常、構造的な異常は一側及び棘突起の上、または仙椎部にそれが反映している。

一方で生殖器の機能的な異常、働きの異常は、腰椎を主体としてその一側や棘突起に現れている。

たとえば腰椎から胸椎六番にかけて一側が緊張している場合は、性欲の食欲転換といって、性欲が生じないで無闇に食欲が生じている状態。だからもし三側に変動があっても、それは消化器の異常とはみないで生殖器の故障とみなすべき性質のものである。この場合、一側の変化が三側に対して優先している。

これが胸椎十番まで続いている場合は、泌尿器、特に腎臓に対する性エネルギーの腎臓昇華という状態になっている。この場合には性欲を感じだすと同時に無闇に小便に行きたくなる。性欲の代わりに小便がでる、そういうことがしばしば見られる。

特に十七、十八歳になっておこる寝小便は、そういう性倒錯という、性欲とが混同してしまっているというような現象で寝小便をしてしまう。そういう機構を知らないと、簡単な寝小便も治せないことになります。

また、同じ一側でも、大脳からくる十番の異常があります。下から上に上がってくるのではなく、上から下がってきている十番、こういうのは碁をやると小便がしたくなるとか、試験会場に入ると便所に行きたくなるとかいうように、尿意が頭の緊張を代用することがある。そうでなくても誰かが小便したくなると自分もしたくなる、連れしょんべいって、人間ならみなそういう傾向があるわけで、これは頭の中がフッと弛むとしたくなる。

ところが一側に緊張があるものは、全部、緊張すると尿意をもよおす。

同じ一側の十番でも、性欲が起こって小便がしたくなるのか、大脳が緊張して小便がしたくなったのかは、区別する必要がある。

腰椎の三番から出る一側の線が、二番の左だけで止まっている人は、性欲が起こると屁が出る。腰椎三番と二番の間に、ちょっと一側の線が上に上がっているというだけで、そういうようなことがある。それがもとで離縁したり、自殺する原因になっている人がいる。

少しの緊張が、命の問題になることがある。だから体を丁寧に観る、ということが必要になる。

ポリープのあった人が整体して、それがなくなったら、「不思議だ」と言う。そんなことは有得ないと言う。しかし、何もなかった処にポリープが出来ること自体が不思議ではないか。環境が変わってそれが出来た、それがまた環境が変わったことで無くなった。ともに不思議と言えば不思議だし、当たり前と言えば当たり前である。

出来たものを不思議と思わないで、治った方だけを不思議だというのは、いかにも考えかたがおかしい。

何でもなかった顔に疣(いぼ)が出てきて、それが引っ込んだ、という言い方もおかしい。そこだけを見ていて、身体というもの全体の中で考えるということが閑却されてしまっている。だから、出たものを切り取る、ということ以外考えられなくなる。

なぜそれが出てきたのか、ということを考えられない。黴菌か何かのせいにしてしまって、それを探そうとする。

癌についても同じです。今までなかったところに出てくる。体内の環境が変わったことによってそれが無くなっていく。出ることに不思議もなければ、治るのにも不思議はないのです。疣と何ら変わらない。体というものから出発して考えれば、そこに区別すべきものなどないのです。区別するのは、体の研究というものがまだ不徹底だということで、行き届いていないというだけのことです。

不徹底だから、今言った、寝小便が時に命に係わってくる場合がある、それは腰椎三番の一側に現れている、などとということは、夢にも思いつかないのです。

あちこちの病院で検査してもその寝小便が治らない、だけど離婚したその理由について、本人も語らないし、医師も気づかない。

腰椎二番は直腸と関連がある。そのため、性興奮が直腸に行く、直腸でないと快感がないというような性倒錯というのもあります。性欲が肛門あたりに振り替えられる場合には、異常性欲になることもある。それらは腰椎の二番、三番の一側の硬結に現れてくる。

 

一側の線というのは非常に重要で、三側と組み合わさっている場合は、三側が一側に優先することは殆どない。いつも一側が優先している。

腰椎部の三側も、胸椎部と同じで、腹腔内の臓器の問題です。

頸椎部の三側は、上頚、中頸、下頸の三か所があるだけです。

上頚は頭の中の血行異常の調節に使う処。頭痛、頭重、めまい、日射病、脳溢血、脳充血、エンボリー、船酔い、鼻づまりなどを治すのはみなここです。

中頸は、内分泌腺、ホルモンの分泌状態と関連している。特に甲状腺ホルモンと関係が深い。あるいはそれを通して副腎ホルモンなどとの関連も深い。

下頸は胸椎部の臓器の変動のほとんどが反射してくる。左側は心臓が多い。右は肝臓が多い。しかし、それ以外の臓器の異常もみな下頸に反映してくる。

面白いことに、骨盤内の臓器の変動も、下頸に影響がある。呼吸器の異常も下頸に影響がある。一側と三側に分かれているものが、下頸ではその両方が下頸に影響してくる。

自律神経失調症も下頸に影響している。このようにいろんな変動が下頸に関連してくるので、その見分けが非常に難しくなる。

肩が凝る、というのはそうした変動の総称みたいなもので、触ってみて下頸に異常があれば、本人の自覚はなくても、その関連した何処かに異常があることが推測できる。

 

三側系統の異常に対しては、腰部活点の操法でほとんど解決できる。腰部活点は、両側ともに問題になる事は少なくて、大抵は左右どちらかに異常がある。

場所の注意点は、腰部活点を、その近くの腰椎二番の二側のところと間違う人が多いので気を付けること。消化器に異常がある場合は、二側にではなく、三側が硬くなっている。

腰部活点は、それをうまく掴まえられれば、下頸ぶの硬直、つまり肩こりといわれるものが、いつの間にかなくなってしまう。

 

二側の問題

説明に入る前に、ちょっと立ち上がって、自分の骨盤の状況を確認してみましょう。

立って自分で触ってみると、左右の骨盤に大きさの違いが沢山ある人がいます。こういう人が、二側操法の練習の際にはわかりやすい。

立って、お尻の大きい方の側の足先を外側に開いてみます。体は真っ直ぐにしたまま。そうやって外側に開くと、お尻の大きさが左右揃って来ます。

まずそれを確認してください。

お尻の大きさに左右差があるのは、大きい方の側の足先が、無意識に内側に向いてしまっている。だから、今とは逆に、お尻の小さい方の側の足先を内側に向けてみると、同じように大きさの差がなくなって揃って来ます。

これは、骨盤の位置異常とその調整ということでもあります。

後ろ側から観察すると、お尻の大きい側の足先を外に向けさせると、体が捻れる。逆の方に捻れる人もいる。あるいは、お尻の小さい方の足先を内側に向けさせてみると、捻れていたものが取れてくる人がいる。そのとき、肩の上がり下がりがよりひどくなる人もいれば、逆に 両肩の高さが揃う人もいる。

この観察から、足先を内側に向けるとお尻の筋肉が弛み、足先を外側に向けると、お尻の筋肉が引き締まってくることは分かりますね。

今度は、骨盤の骨を観察してみて下さい。

骨盤が縮まってくるとお尻の筋肉が弛んできて大きくなります。骨盤が拡がるとお尻の筋肉が引き締まってき小さくなります。

これは見た目とは違っていることは分かりますね。

そこで、立った姿勢で、どちらかの足を内側に曲げるか、外側に開くかしてみる。両方外に向いているのは緊張姿勢。そういう時は両方のお尻が小さくなっている。それでも多少の大きい小さいはあります。大きい方の足は無意識に外に開いている。

このように、足の開き具合で、お尻に大きい小さいが生じるということを確かめてください。

そしてお尻が揃った時に、肩が捻れてくるという場合は、逆の足を使う。たとえば右足を開いたらお尻が小さくなって揃ったとします。その時に肩が前後に捻れたら、逆の左足を内側にしてみると、そちらのお尻が大きくなって揃います。その場合、肩の前後にも無理がないという状態であれば、それは左の骨盤の異常です。つまり、足の位置を変えて揃う方が異常である。

こういう場合、臨時の矯正法として、仰向けにして、足を内側か外側にして、フーっと引っ張る。そしてすぐ起きて、肩の位置とお尻を調べると揃う。

 

さて、二側についてですが、これは身体の形の面での調整に使うところです。だからまず骨盤の位置を見るということから始めます。

骨盤を揃えたら曲がってきた、狂ってきたというところが異常の箇所です。だから、二側の異常というのは、相手の動作から見ていきます。

二側は、骨格の狂いを矯正するために操法するのですが、その為にはその狂いのもとになる骨盤、つまり土台から見ていきます。

さらに言えば、その骨盤と一緒に動いている足や膝、股関節、足首などを見ていく。つまり、二側における観察は、下の方から上に順に見ていきます。

足首が狂っただけで、お尻の大きさが変わる。こういう場合、さっきやった足先の向きを変えるということとは違う問題になる。

よく、立っている時に、何か気にして片足を持ち上げたりしている人があるが、そういうのは足首か膝に異常がある。片方の踵を持ち上げて立ち、それから動き出すというのは足首や膝に故障がある。そういうように相手の動作を細かく観察していくと、それによって動いている背骨の状況もだんだん読めるようになる。初めのうちは、棘突起や横突起を触ってそこへの力のかかり具合などを一つ一つ見ていきましたが、だんだん判るようになる。

上体は真っ直ぐにしているのに、土台は狂っているということもあるが、その場合、真っ直ぐにしているために曲がった処が生じている。そういう癖が靭帯についてしまっているからいつも曲がっている。そのためにその骨を弛めてもうまくいかない。その代償として骨盤が狂っているということもある。全体のバランスをとるためにそうなってくる。

人間は立ち上がって動作をするために、腰や頸が彎曲して姿勢を保っている。だから腰では腰椎三番の処、頸では頸椎の七番の処に一番力がかかる為に、大きくなっている。

身体は、余計に力がかかるところは頑丈になっている。頑丈になっているというよりも、力がかかった為に頑丈になったといったほうがいい。犬や馬などは腰椎三番が特別大きくなっているということはない。

だから立っていることによる独特の姿勢、構造だといえる。

 

長い間かかって曲がるということでではなくて、一時的に臨時に曲がっている、その人一代で曲がっているというようなところは、構造的には丈夫に頑丈にならないので、そこに負担が重なってくる。その負担を調整しようとして、その調整の要求が働いて、病気をちょくちょくやるということである。

したがって、背骨の曲がりと、病気とに関係があるということになる。

曲がっているところには、負担がいつも過剰にかかっている。

背骨は、そこに力が加わると、それが刺戟となって次にそこと関連する臓器に反応を引き起こす。脊髄反射といって、マーシャルホールという人が見つけたものですが、背骨は背骨だけのことでなく、構造的にその背骨が支配している筋肉や神経に影響し、その神経や筋肉が緊張したり萎縮したりして、末端の筋肉や臓器の働きに影響してくる。そういう理由からも、背骨と病気は関係しているということになる。

 

呼吸器の悪い人は、みな前屈姿勢をしている。胃の悪い人はみな背中をまるくしている。腎臓の悪い人はみな体をねじっている、共通した姿勢をしている。

そういうことで、われわれは二側を見ていくきには、体の形による臓器の影響というものをまず意識することが出発になります。

お腹に水が溜まるという人がいる。そういう人は、踵の後ろに力を入れる癖がある。みな踵の後ろの部分が伸び縮みしなくなっている。だから腰椎一番に力が入り過ぎている。あるいは骨盤が開いて恥骨に力が入って、お相撲さんのような恰好をしている。そういう人は、お腹に水が溜まりやすい。

ところが踵の縮んでいるのを伸ばすと水が溜まらなくなって、その元になっている腎臓や腹膜や肝臓の異常も同時に治ってくる。

踵の後ろに力が入り、そこが縮んでいる場合、足を前に進めようとすると、必ず足の親指の根元に力を入れないと進められない。踵から土踏まずの処まで硬くなっている場合、腎臓が悪くなっている。そこで土踏まずのところをジーっと押さえていると、腎臓が働き出す。腰椎一番や五番に力がかかり、そこが捻れたりすると、足の前側や踵に力が入るようになる。それを腰椎三番に入るように矯正するというのが操法です。

いりいろな関連の問題は、沢山あります。腎臓の悪い人は体を捻じっています。

足の内側に力が入る人は、その部分が硬くなってくる。そうすると、喉や耳が悪くなってくる。その硬い処を押さえていると、そういう異常がなくなってくる。

足首の回転運動のできにくい人は、喉や耳や泌尿器を悪くする人が多い。

心悸亢進を起こした人の足の小指の爪の根元を強く押さえるとそれが治ってくる。腎臓は薬指に関係している。

手で言うと、心臓関係は薬指です。心臓の弱い人の左手親指の爪の根元に、過敏点がある。心臓が苦しいとか心悸亢進を起こしたという時に、親指の根元を押さえると良くなってくる。胸椎四番が狂っている場合は、同じ心臓でも小指側を押さえると治る。

 

二側というのは、そうした関連のあるところの経路にあたっているので、手足などを押さえないで、直接背骨を押さえて治す場合もある。

それから「側腹」の問題もある。側腹は、病気と言われる症状の殆どに対して、関係している。特に、操法した後で、それを保たせるために「側腹」をおさえておくと、繰り返さなくなる。その理由は分からないが、側腹が胸椎七番、八番の筋肉の末端にあることと何らかのつながりがあって、そこを摘まむと胸椎の七、八、九を刺戟することと同じで、病気の恢復ということに繋がっているようにも思われる。

まあ、二側の問題をやりだすと、運動系のすべてが調整の対象になってくる。体癖の問題を考えていくときには、二側の問題が非常に重要となってくる。

みなさんも、二側と体癖との関連や、体の形と健康状態の関係や、とりやすい姿勢と体力の発揮の関係などに興味をもって練習を続けていって下さい。

きょうはこれで終わります。