野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

「整体操法高等講座」を読む(4)相手の力の使い方(2)

どれほど最善を尽くし、完全を期したつもりでも、それが人間の意識によって行われている限り、必ず一定の限界を持つものである。

整体操法という人為による他者の身体や生命に働きかける技術というものも、その例外ではありえない。こうした事実に、謙虚に向き合い、さらなる完成に向けて思考していくという姿勢が、野口整体の思想や技術の裡に常に息づいている。

これは稀有なことではないか。

大抵の場合、その時点でこれ以上ないと思われる考え方や方法が見いだされれば、その結果が<自然>や<生命>にとって不都合な結果であろうと、止むを得ないことと考えられることの方が多いだろう。

意識による働きかけ、人為による<自然>の改変という行為が、結果として何をもたらすかという思考を、あらかじめその思想に孕んで進むことは、出来そうで出来ないものに違いないからだ。

整体操法を学ぶということの奥深さも、野口氏のそのような思想的態度によっていると、私には思えてならない。

本日の講義録にも、そのあたりのことが読み取れて、ますます深みにはまりそうな予感がするのである。

 

整体操法高等講座4」(1967.5.5)

 

相手の力の使い方(2)

操法する場合に大事なことは、相手の力をどのように使うか、相手の持っている力をどのように活かして使うかということであります。

これまでは、「呼吸の間隙」に処理することを練習してきました。

「呼吸の間隙」というのは、相手が<息を吸い切って、吐く一歩手前>であり、<吐き切って、吸う一歩手前>のことで、それぞれが、その前の吸ったり吐いたりする惰性を持っている状態です。そういう惰性が働いているために、急に体を弛めようとしても、あるいは急に引き締めようとしても、身動きできない状態なんです。

そういう状態が、たとえば柔道や相撲で技にかかる瞬間で、力を抜きさえすれば技に掛からないのに、力を抜くことが出来ない状態のまま掛かってしまうわけです。

息を吐いた惰性があるので、急に力が入らなくてつけ込まれる。

 

そういう「呼吸の間隙」を操法に使う練習をしてきたわけです。これは、相手の抵抗をすっかり封じてしまって骨を動かしていく方法でした。

「呼吸の間隙」などという技を使うので、あたかも高級な技術のように思われているのですが、その技術をやり慣れてくると、果たしてそうなのか、という思いもまたしてきます。というのは、<相手の抵抗を封じる>ということが、<相手の生きているということを無視するやり方>であることは、確かだからです。

あたかも人形を修繕するように操法するというのなら、その方法も便利なものですけれども、本来の操法というのはそういうものであってはいけない。

だから、相手の抵抗する力そのものを封じるのではなく、活用すべきものとして扱っていかなければならない。呼吸についても同様です。

そして、そういうことが出来て初めて、「呼吸の間隙」を活かすということの意味も判ってくるのです。

中等の技術としてそれを練習したのは、<呼吸>というものに注意を向けることを知らなかった人たちに、<呼吸>というものを意識させ、注意を向けさせたいがために、問題提起として出したのです。

<呼吸>は操法する際の邪魔者では決してないのです。「呼吸の間隙」を狙うということになると、それは邪魔なものに感じられるけれども、操法というものは、相手の<呼吸>を無視しては進めることが出来ないのです。

 

(弾むが如く相手を押さえる)

下手な人が押さえると、相手は息を止めてしまいます。息を止めるから、押しても撥ね返ってこないのです。そして押された方は、あとでそこが痛くなったりする。

その逆に、上手な人は、相手の<呼吸>のリズムに乗って操法するので、同じように押しても弾力がある。

相手の<呼吸>を使えるようになってくると、ある一か所を押しただけで、体じゅうに押した影響が拡がっていく。相手は、一か所を押されている筈なのに、体じゅうの変化を感じるのです。

そうなるのは、相手が息を一杯に吸いこんでいるか、少ししか吸いこんでいないかの違いによって生じてきています。

ちょうどゴムまりを押したときのように、空気が一杯入っていればよく弾むのです。

相手が息を吸いこみ切って、まだこらえていな状態の時に、つまり「呼吸の間隙」に押さえると、相手は息を吸ったり吐いたりはできる状態なので、押してもそれが固定されないので、弾力が出てくるのです。

ところが、相手が息を止めてしまうと、相手は動かない。

そのへんのことは、先回やった「腹部操法」でよく分かったと思いますが、相手が息を吸ってそのまま止めた状態の時は、指が中に入っていかない。また、その逆に息を吐き切ってしまった時に押しても、押したきりになって、そのあとに盛り上がりがうまく起こってこない。

腹部でやると、そういうことが判りやすいですが、そのことは、背中の操法の時も、手や脚の操法の時も、全く同じで、相手の<呼吸>する動きをうまく活用できないと、<リズムに乗って操法する>ことが出来ないのです。

 

相手は、押さえられた時に、そこが悪い処であった場合は、息をフッと止めるのです。急所の処を押さえられると、必ず息を止める。本人は意識して止めたのではない。それは体が持っている<本能>によるといえるが、余分にいじられて悪くなるような処を押されると、そこを守ろうとして息を止めてしまうのです。

体というのは、そういう時には、非常に敏感に反応し、自分を護ろうとします。だから気楽に押さえていって、相手がフッと息を止めた処で、「おやッ」と思えば、そこが急所なのです。

そうしたら、そこを改めて操法すればいい。

とにかく、相手の<呼吸>に乗っかって操法するということは、<操法による害>というものを防ぐことになるし、異常の処が明らかになってくるし、相手の弾力を誘引することやリズムを作り出すこともできることになる。

人間の生きているということは、呼吸しているということです。その呼吸を利用するとしないとでは、操法する人も、それを受ける人も疲れ方がずっと違ってくる。また、操法に対応して起こる体の動き方も違ってくる。

だから、呼吸を使うという立場に立つと、呼吸くらい便利なものはない。

 

人間には、固有の動きがあります。みな同じように動いている筈なのに、一人ひとり何故違うのかといえば、その動きのリズムがその人固有で独特のものだからです。

そのリズムを作っているのが呼吸です。

だから、相手のリズムに乗って操法すれば、スムーズにいく。

 

以前、「掌の操法」をやりました。どなたもそれが出来ないまま今日に至っているのですが、それは、<相手のリズムに乗る>ということが身についていないからです。

操法する場合は、相手が力を入れる時には弛め、抜く時には押さえる、というようになっていることが必要ですが、その時に相手の呼吸を使うという立場を得ていないと、それが判らないのです。

お腹の場合はすぐ判るのですが、背骨になるとつい忘れてしまう。手や脚になると注意を凝らしても判らない ということになる。けれども、いつも呼吸を感じているようにならないと操法は行えないのです。

背骨を押さえる時も、相手の呼吸の幅を知って押さえなければいけない。ある時は、相手に呼吸をさせないように押さえるために、息を吸いこむごとに押さえるということも出来なくてはいけない。そうやって押さえている時には、相手に弾力があるのです。そうやって相手の弾力を誘導していく。また、吐いているところ、吐いているところを押さえていって、相手の動きの幅を少なくしていって、それによってこちらの力を強く伝えるというような押さえ方も出来なくてはならない。「呼吸の間隙」に押さえることを覚えるだけでなく、そういう押さえ方も一緒に覚えていく。

相手に強い力を与える時は、吸いこんだ頂点で押さえていくようにしないと、強く出来ない。骨を動かす、といった場合には強い力が必要になります。

ただし、強い力を与えるのは目的とする一か所だけで、他の場所にまでその強い力を与えてはいけない。他の処が壊れてしまうからです。

そういう場合には、他の場所には息を吸わせておいてショックすればいい。

呼吸というのは、からだ全体で吸ったり吐いたりしていると考えられているが、実際にはどこか一か所に力を入れてしまっていると、そこだけは呼吸が出来ていない。

だから肩が凝って、そこだけ息が吐けないというようなものがあれば、そのこと自体を操法に利用することだってできる。

つまり、からだのある部分にそういう凝りといったものを作っておけば、そこだけは息が吐けない状態を作り出せるということです。そこだけが全体の呼吸から外れた別個のものとして扱えるのです。

このように、ある部分だけ息を吐かせ、他の部分は息を吸わせるということも、その逆に、ある部分だけ吸わせて、他の部分は吐かせる、ということも、架空の事ではなく、実際に可能だし、そういうことはいくらでもあることなのです。

 

ですから、必要のないところは吸わせておいて相手に防御をさせるとか、相手の防御する力である呼吸というものを、そのまま使うように、呼吸の頂点だけを押さえていくようにすれば、相手を息を吐かずに吸いこむ、吸いこむという状態にできる。

 

(回復力の訓練としての操法

そうやって、相手が普段吸いこまない処に吸いこむことが出来るようにすることは、相手の体力を呼び起こす上で非常に重要な方法であります。回復力の弱いところというのは、息が通らないのです。そこへ息を吸いこませ、吸いこませするように息を集めていきますと、急速に回復が行われるのです。

吸う息、吸う息で押さえる、という「吸う息の訓練」とでも言うべきことをやっていきますと、体の回復する力というものが、しないときよりも格段にあがってきます。

私は操法というものを「回復力の訓練」というように考えていますから、相手が息を「吸いこむごとの操法」というのを非常に大事にしています。

 

うつ伏せの相手の腰を押さえたとして、押さえた力をはね返すような力があれば回復力もあるといえるが、弱ってくるとそれが無い。操法は、そうした弱った回復力、反発力を引き出してくることがその最初の目標でして、それが出てこないうちは操法の効果も発揮できないのです。

相手の体力を呼び起こす方法として、息を吸い切った時に押さえていって、あいてのリズムに乗り、次には回復のリズムにそれを乗せていくのです。

ですから必ずしも或る急所を押さえなければ体は変わらないというのではなくて、どこを押さえたにしても、弾力が誘導され、弾力のある体になっていけば回復してくるのです。その上で急所の利用が活きてくる。

弾力のあるように急所を押さえるということ自体が、操法としての急所でもあるのです。

「呼吸の間隙」を押さえるというのは、相手を死んだ状態にしてしまって、こちらの都合でやることになるけれど、「呼吸の吸ってくるところを押さえる」というのは、生きている相手の力を誘導し、その力を誘い出す訓練としての方法になるのです。

操法の目標が<体力の喚起>にある以上、そうした方法を覚えなければなりません、

体力があり弾力がある人には、「呼吸の間隙」に相手の弾力を殺して押さえることも必要ではあるけれども、体力のない人には、弾力のあるように誘い出して押さえることはもっと重要なことになります。

 

練習 呼吸で操法をつないでいく

今日は、相手の弾力を誘導する方法を練習したいと思います。

お腹でやるのが判りやすいのですが、今日は背中でそれをやってみたい。

胸椎九番から十二番までは割に動きが大きいのです。特に十一番と十二番は肋骨が繋がっていないために動きの巾が大きいのです。逆に言えば、そこは構造的には弱いところです。だからガンとやれば狂ってしまう。そういう弱いところというのは、本能的に息を吸いこみやすいのです。壊されまいとして、ちょっと押されると、息を吸いこむというよりは止めてしまう。

弱いところを練習に使うのは物騒なことですが、弱いところの為に、すぐに息を吸って止める。それが非常に速く行われるのです。

そのため、息を吸って弾力あるように押さえられる人と、そうでない人が、つまり上手と下手の違いが非常にはっきりする。

大抵は止めてしまうのです。

吸った頭を押さえると、相手はなお吸って来ます。それでもその吸ったところ、吸ったところを押さえることが出来るようになれば、呼吸の頭を押さえたと言えるし、それが出来るようになれば、今度は相手のリズムに乗って操法するということが出来るようになる。

けれども、そうやって「吸った頭」だけを押さえているのでは、相手に変化は起きないのです。そこで、そうやって押さえることが出来るようになった上で、今度は「吐いた頭」も押さえられるようにならなければ技術にはならないのです。

吸った頭を<押さえ、押さえ>しながら、「吐いた頭」をちょっと押さえると、そこで変化が起こってくる。

 

まあ今日は、「吸った頭」を押さえることを練習したい。

胸椎十一番を対象にして、それを続けて三回から五回押さえる。これまでだと、それで相手に弾力があるからいいとか、弾力がないから悪いとか見ていただけですが、今日の練習では、自分のやる技術としてそれを得ようというわけです。だから弾力の有無を相手のせいには出来ません。弾力のない人にも、弾力があるように誘導していかなければならない。もちろん弾力のある人にはあるように押さえる。

すでに強張ってしまっていて弾力のない人に対して、<吸いこんだ頭、吸いこんだ頭>というように押さえていきながら、相手の吸いこむ状態を続けさせる。

ごく下手な人がやると、押さえてもなお自然に相手は吸いこんでいる。それは相手の呼吸の動きに乗っかっているだけで、ちょうど触手療法をしている人と同じで、技術として押していないのです。

もう少し上手になった人が押しているのを見ると、相手の弾力が無くなってしまうような押し方をしている。プロとしてそうやって押している人は、相手が信頼してまかせきっているので、ちょっと押されるとひとりでに吐いてしまうのです。相手が警戒しているうちは押しても吸って来ますが、信頼されたプロには、意外と弾力を持たせる吸わせ方が出来なくなってくる。

操法というのは、だから信頼され過ぎても難しいし、信頼されなくても難しいのです。

 

今やっている練習の時間というのは、そういう点でやるのが一番難しいのです。自分より上手に押さえられると癪に障る。そうすると押されたところが痛くなる。あの人に押さえられたら痛くなったという中には、体が実際に感じているもの以外に、多分に潜在意識的な問題も絡んでいる。あるいは自分より下手だとことさらに強く感じて、下手にやられたという感じが、体にかえってその部分だけの息を止めたりなどして、異常を起こしてくる。ですから練習で異常を起こしたという人の八割はそういう潜在意識的な問題が絡んできている。そうして、呼吸が外れがちになる。

ですから練習するということは一番難しいのです。けれども、その一番難しいところで練習しておけば、実際の場面で、無抵抗 な相手に対しては極めて上手に行えるようになる。

みなさんが上手になって、油断して押さえて相手を壊すようになったら、一応この練習を行わないといけない。

まず、胸椎十一番からやって下さい。

指を当てなくて腕橈骨で結構です。それが上手くいった人は九番を指で押さえる。そうして同じように弾力が出せたら、脚の上、股の三か所を押さえる。それから腕を押さえる。出来るだけ一番強張った処をつかまえて、そこが弾力あるように押せるかどうか、強張っているものを弛め得るかどうか、それを練習したいと思います。

ではどうぞ練習して頂きます。

 

(愛情を持って気楽に)

息を吸いこんでいる時に押さえるということは難しいことで、相手は瞬間にフッと息を止めてしまいます。それを止めさせない押さえ方というのは、<親しい人が愛情を持って気楽に押さえている>時の状態なのです。

触手療法をやっている人達が、愛情を込めて手を当てている時は、相手は自然の呼吸のままで任せています。そういうことが最初に要るのです。そうでない限り、もう相手の息は不自然になるのです。

ここでやるのは、人を操法するなんていうことを全然知らない人が、愛情を持って触ったときとか、抱きしめたとかいうような、相手の呼吸が自然に行われている状態で触るということを練習するのです。そうして相手に息を一定量吸わせておいて、呼吸が行われている段階で操法をやろうというのです。

 

相手が息を吐いたからといって、それは吐き切ったわけではない。吐いても吸った空気は体に残っているのです。その逆に、吸ったとしても漏らしているものはあるのです。

たとえば、ある場所に力を込めて息をつめている場合でも、息をつめきりには出来ないために、ほかの場所では呼吸して弛めているのです。

全身を硬くしている場合は、すぐに息を吐いてしまうほかない。

お腹で息をつめていれば、胸で呼吸している。そうやって、どこかで逃げているのです。

 

(残気の量を増やしていく)

息を吸わせて、その吸った空気の量を一定程度なくさないようにして、吸っている時、吐いている時のそれぞれにいろいろなショックを与えながら、呼吸を止めさせないで、その空気の量をだんだん増やしていく、というのが今日の練習の目標なのです。つまり、生理的に言うと、普通の呼吸をさせながら<残気の量を増やしていく>と言ったらいいでしょうか。

そういうことが出来ると、かなり過激だと思われるような操法をやったとしても、相手は衝撃を感じないし、異常も起こさない。与えた力が相手にそのままぶつからないで、和らげられるのです。<残気>がショック・アブソーバーのような働きをする。そしてショック・アブソーバーに吸収された衝撃が、徐々に相手の体に影響を及ぼしていくことになる。

この状態が、相手の体の弾力を増やすことに役に立つのです。

しかしこの要領は難しいですから、やはりもう一度<お腹>でやってみましょう。

 

(お腹で練習)

お腹でやると、吸う、吐くがよく判ります。肋骨の下に指を入れます。当然吐かなくては入れられませんから、吐いていくときに指を入れる。これで後、息を吸わせればいい。これで普通に呼吸していればいい。つまり普通に呼吸しているということは、相手が触わられているということに早めに慣れてしまって、特別な感じではなくなっているのです。ところがよく見ると、普通の呼吸よりも、この方が深く呼吸しているのです。触っているために普通よりも呼吸が深く大きく行われている。触って相手が大きく呼吸しているようだったならば、触り方が上手なのです。これがそれよりなお強く押さえても、同じように呼吸が深く大きく行われているようならば、非常に上手で信頼されている。息を止めてしまうようなら、下手なのです。

ただ、このままでは操法にならない。当てた指を動かして、肋骨を挙げなければならない。あげる時に、相手はどうしても息を止めてしまうのです。そこで、左手を使って、息を止めるはずの時に、<首を持ちあげる>と、そのまま吸ってくる。<首>でなく<頭>を持ち上げてしまうと、息を止めてしまいます。

そうやって普通の呼吸を続ける。

やり方は、まずみぞおちに右手を当てます。当て方は、相手の吐いている時に、その吐く速度で押さえていけば抵抗が起こらない。そしてそれよりも強く押さえると、相手は息を吸いこんで止める。そうやって<抵抗をつくる>。

この最初の力をそのままでちょっと保てば、相手は自然に押し返してくる。

吸いこんでくるそれに対して、押し返さないで一定の圧力を加えておくと、呼吸が深くなってくる。

一定の圧を加えないで、吸いこんできたら離し、吐いたら押さえるというようにしていると、呼吸は浅くなって、しまいには息を止めてしまう。

一定の圧を増やさず、減らさずに保つと、呼吸はだんだん深く大きく行われる。

そうなったら、吸った時に、首の下に手を入れて、ちょっと持ち上げる。

持ち上げた時に、右手の位置をちょっと変える。その変えたことが、相手の意識には分からないで、首を触っている左手に意識が向いていれば、呼吸は普通のまま変わらない。

今度は、首ではなく、肩とか手とかいった全然お腹と縁のないところを左手で押さえてみて、相手の意識がその押さえた肩や手に向いている限り、お腹に当てた右手の場所の変化は起きなくて、呼吸も変化しない。

そのように押さえることが出来れば、相手の<呼吸を止めないで押さえる>ということが出来る。

では練習して下さい。

 

「呼吸の間隙」に押さえるというのは、相手の抵抗を封じてしまう。それは抵抗を邪魔なものと考えていることと同じであり、生きている者に対する態度ではない。われわれの技術は、相手の抵抗を封じ切っていくのではなく、相手に抵抗する余地を残させておいて、そこでいろいろ抵抗を試みるようにさせると、その抵抗すること自体によって相手の体に力が出てくるのです。

相手の動く余地をそこに設ける、というのが生き物の力を働かせるうえには有利で、われわれは抵抗を邪魔にしたままでは操法はできないのです。その抵抗を活かして使う。相手の逆らっているものを、逆らっているように力としていく。病気があっても、病気を健康法にしていく。相手の抵抗するものをみんな吸収していくようにしなければならないのです。

呼吸したまま押さえるという状態は、ちょうど力のない赤ん坊が触わってきたときにわれわれがしている呼吸の状態と同じで、息をとめたりはしません。あるいは、押している相手を馬鹿にしているようなときも、自分の息を止めたりはしません。

そういう全くの技術のない、あるいはやろうという意志もない人が触っているのと同じように触れるようになるために、われわれは技術を会得しようとするのです。

そういうことの意味をまず憶えていただきたいのです。

 

抵抗できない隙に、サッとつけ入っていくのも技術には相違ない。上手な技術ではあります。けれども、<相手の抵抗を活かす>という立場から言えば、それは技術の一つではあっても、自然なものではない。

赤ん坊や何でもない人が触った時には、触られたひとは呼吸を変えない、普通の呼吸のままである。そういうところまで一旦技術を戻していく、そういうことをしないと本当の意味で技術を使うということは出来ないのです。

 

<呼吸の頭を押さえる>ということの意味がそこにあります。相手の抵抗を操法の一つとして使っていく。そして相手は、抵抗しながら生理的な働きが高まっていく。

 

以前、調律点をショックする時は、相手が吸った間隙を押さえるとその反応が大きくなるという話をしましたが、それを活かすためにも、<吸った頭、吸った頭>に押さえていく。

それに対して、<間隙、間隙>と押さえられた人というのは、操法に対して敏感になりながら、だんだん<気>が弱くなってくるのです。そして体の動きがだんだんおとなしくなってきます。

ちょうど子どもを教育する場合に、<間隙、間隙>をつかまえて叱言を言っていると、子どもはよく判るけれども、活き活きとしたところがなくなってくる、そんな感じになります。

ところが頭の悪いお母さんが、出鱈目にワイワイ叱言を言いながら、いざとなると真っ赤になってその子を庇う。そういうようなお母さんの子供には<勢い>がある。

それは、そのお母さんの叱言が、吸ったところ、吸ったところを押さえるというのと同じようになっているからなのです。

 

相手の<全体の力を活発にする>為には、息を吸っている時に操法するということが大事になるわけです。

それが技術として使えるようになる為には、<間隙>も自由に押さえ得、そのほかの難しい技術も会得した後でないと、技術を全く知らない人と同じように使うということが出来ないのです。

そういった<何でもないような技術>を技術として使う、ということが一番大事なことなのです。

愉気の場合は、触っても離しても効果は変わらない。ですが、触ってなお相手の呼吸を深く誘導できようになると、さらにその効果は大きくなる。

相手の呼吸を止めさせるほどの力を使って、なお呼吸を止めないでより深くさせる為の方法が、この<呼吸の頭、呼吸の頭>を押さえていくということなのです。

まあこれを表現するのは難しくて、説明が不十分だとは思いますが、要するにそういうことを技術として使う必要があるということをお伝えしたかったわけです。

 

このことは、難しい操法をする場合の前提となる問題ですが、そのことの他に、もう一つ<心の中の働き>を操法の技術として使っていく場合の前提となる問題でもあります。

 

「力を生(なま)のまま使わない」

今言った<呼吸の頭>を押さえる方法というのは、相手の<体の力>を高めるための主要な問題でしたが、そうやって押さえるというのは、それは一見すると下手な人が何気なくやっているのと同じように見える。下手で何気なしにするには技術など要らないのですが、上手になって、十分に気を配り抜いて、相手の一挙手一投足も見逃さないように注意が行き届く様な段階になると、そのことでかえって相手を封じてしまって、相手には無闇に注意を向けられているような感じを与えたり、普段の動作が出来なくなって強張ってしまう、というようになってしまう。

そうならないために、<何気なく操法する>ということを技術として使っていくことが必要になる。それが出来れば、使う技術が活きてくるのです。「呼吸の間隙」とか、「注意を四方八方に配る」ということが、害なく効果が上がるように使えるようになる。

それが出来ないと、相手の心がストップしてしまい、ノーマルに操法の方向に向いてこなくなってしまう。

だから普段からこのことを<嗜み(たしなみ)>として覚えていただきたい。

そうして、相手の本能的に抵抗するところも知っていなくてはならないし、その抵抗する度合いも知っていなくてはならないし、それらを知ることで相手に対する刺戟量というものが判ってくるのです。

そうして相手の中に抵抗する余地を与えながら操法を進めていく。西洋流のやり方ですと、油断なく隙なく全部がんじがらめにしてしまうのですけれども、それだけでは相手の力を呼び起こすには不十分です。もっと相手自身の動ける余地のあるように操法していく。それが相手を丈夫にするには重要なことです。

 

少し難しいとは思いますが、今日の練習はそういう目的でして頂いたのですが、しかしまだ皆さんの注意が<生(なま)>のまま出ている。力が生のまま出ている。

時に<間を抜く>というような操法も必要になります。機敏に隙なくサッと動ける人だけが必ずしも上手になるわけではないのです。

今の練習では、適当に間の抜けた人達は非常に上手に行っています。ただそれは無意識にそうやっているだけなので、そのままでは褒められませんが、隙なく機敏に動けるようになって、間を抜くことが必要な時に意識して間が抜けるように、せっせと技術を勉強していけば、ちょうど適当な処がつかめるようになるだろうと思います。

 

わたしは、操法ではそういうふうに間を抜くことをこの二十年間ズーとやってきているんですが、教えるという面ではまだそれを会得出来ていないんです。だから弟子のやっていることを、その隙ばかり見つけて、力をフルに発揮して「下手だ、下手だ」と睨みつけている。ですからみんな萎縮が早く起こってくる。それは私の教え方が下手なのです。

けれどもこれは私の習癖で、長い間ジーっと人のアラばかり見る生活を続けてきて、アラだけがさっと映る体癖を持っているためで、教えることについてはまだ会得出来ていないのです。

 

昭和十七年のことですが、私は操法をやっていて、お腹の中の子供の男と女とを間違えたのです。それまでは絶対に間違えたことはなかった。それがその時間違えた。そうしたら、全ての自信を持っているものがみんな崩れてしまって、何も出来なくなってしまった。それで私は操法をやめるという報告を出して、本当にやめるつもりでいました。

そうしたらみんな反対して、その中で浜田さんという人が、「こういうように大勢の人に頼られたらもう個人ではない、公器だ。それが個人の勝手で動いては困る。自信があろうが無かろうが、あなたを頼っている人達の自信を壊すようなことをしないでもらわないと困る。あなたの自信が壊れてもよい。我々の自信が壊れるようなことにしないで貰おう。」というように言いました。

けれども、まだその時はその意味に気がつかなかったのですが、それで「じゃあ後継ぎをつくればよかろう。つくってからやめよう。」というのがこの講習を始めた最初なのです。

そうしているうちに戦争がひどくなって、大勢の子供を連れて新潟へ疎開しました。ところが村では米を配給しないという。それで操法しようと思いました。操法するには村の情勢、どんな暮らしをしているかを知っていないと出来ないから、村をぶらぶら歩きました。そうしたら、屋根から落っこちた人がありました。落っこちて気絶して、ワイワイ騒いでいた。そこで「こうやるんだ、憶えておけ」と言って、ガっと脳活起神法をやったらすぐに生きました。「骨が折れているかどうか調べてやるから後で村へ来い」と言って帰りましたら、その人にくっついて「おらも診てくれ」と言う人が大勢くっついて参りました。みんな金を持ってきたので「金など要らん、米を持ってこい」と言いましたら、それからみんなで米を運んでくれて、東京へ帰る時には米も炭も二百何俵余るくらいでした。ですから操法はよかったのですが、その時を通して、自信というものは操法する者が持つものではなくて、受ける人が持つものだということに気がつきまして、浜田さんが「俺たちの自信を壊すな」と言った意味も急に判ってきた。

そうして東京に帰る日になって腰の曲がったおばあさんが来て、「どうしてもなおしてくれ」と言う。もう帰るんだからと言って断ったが、「やってくれるまでは帰らない」と言って座り込んでしまった。仕様がないから「ばあさん、うつ伏せになれや」と言って、みてやろうと背中を触ったら、とたんに「ありがとうございます」と言って、ピンと腰が伸びてしまった。

それからは、相手の人達の自信というものを中心に操法をするということを始めました。俺が自信を持たなくてもよい、操法する相手の力を呼び起こすことが大切tなんだ、というふうに考え方の転換が行われて、戦後はそういう立場で操法を致しました。

技術を尽くして一生懸命操法するというよりは、相手の中の動きを高めて、相手の力で治っていくようにするというように方向が変わりました。そうして自信を持たないままで操法をずーっと続けることが出来るようになりました。

これは自信を持って、自分の力をフルに使ってやるのとちがって、楽です。そして相手の力で経過する読みも楽に行える。

自分の技術をゼロとして計算するということが平気になってきている。自信でやっている時は、どんなことをやっても、ゼロとは思いたくないし、自分の努力の報酬である、自分の熱心の反映であると思いたい。それこそ、相手の為に命を削ってもいいというぐらいな真剣な気持ちで、死ぬ人があったら代わってやろうと思うくらいな一生懸命な心持でやっておりました。

今は、そういうことが可笑しくて、「一人で気張っている。そうして自分の持っている実力も発揮出来なくなっている」とうように、いつの間にか見るようになってなってしまった。

 

操法の行き着く一点>

そういう転換が、操法において「呼吸の頭を押さえる」ということになってきたのですが、最近は、私の考えている中では、これが<操法の行き着く一点>だと確信しています。

 

急所をピッタリ押えられないうちに、こういうことを言うのは本当は乱暴なことです。ですから、みなさんが二十年ぐらい経ってからこういう話をすべきなのです。押さえられないうちから<外す>なんてことを言ったら、初めから外れている方がいいように思ってしまう。けれども、私が教え方が下手なために、つい早く<種明かし>をしてしまうのです。

しかも講習というシステムの中でやらないといけない。特に高等講習は、今後二十年ほど技術を使っていって、初めて要領を得て、身についてくることだと思うのですが、それを十年間で要領を得られるように出来、さらに三年で要領が得られるようにできれば、この講習としては成功だと言えると思うのです。

どうぞ普段の操法を、そういう心構えで行い、それを充分に活かしてお使い願いたいと思います。(終)