野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

「整体操法高等講座」を読む(5)相手の力の使い方(3)

前回の講義録を読んでいる途中から、急に永沢哲氏の大著『野生の哲学野口晴哉の生命宇宙ー』(ちくま文庫 2008)が読みたくなり、書棚から取り出して改めて読んでみました。その書き出しは<天使>ということばで始まっています。そしてずっとキーワードとして使われていきます。わたしは永沢氏のこの<天使>という西欧キリスト教的なことば使いにずっと違和感を持ち続けてきたのです。私のイメージしている野口晴哉像にとって、これほど馴染めない響きはない、そう勝手に決めつけていたからですし、ポスト構造主義的な文脈を象徴するような<天使>という用語に野口氏を置き重ねてほしくないという、理由のよくわからないままの距離感が、そうさせているのだと思っています。

こうした私の勝手な違和感や距離感については、もっときちんと考えてみなければならないのでしょうが、このツルツルピカピカした私のなかの<天使>というイメージや言葉遣いは、永沢氏がこの著から十年後に著した『野生のブッダ』(法蔵館1988)に収められた野口晴哉論のなかに同様な響きをもって<天使>が登場してきます。

それは密教マンダラに言及する中沢新一氏の文体とも共通する、何とも言えない<のっぺらぼう>の<天使>がダンスしているイメージで彩られており、それゆえに今回読み直してみても、それまでの私の<天使>のイメージが少しも変わらないばかりか、ますます強くなるばかりなのです。

なぜそう感じてしまうのか。その理由の一つは、恐らくこういことではないか。

前回の野口氏の口述記録からも浮かび上がってくる、私にとっての野口氏のイメージというのは、痛みや苦しみを抱えてやってきた、今現にここに生きている個人に対して真正面から向き合い、共感し同調し、時に反撥する、熱き思いを持って悩み抜く、極めて人間的な存在としての野口氏です。そこにいるのは、血と肉と心をもった一つの個性であって、どこにも無表情な、ツルツルとした感じや、空無の底から照らし出されてくるキラキラとした光と共に<天使>のダンスを踊る野口氏の像などではない。それは<天使>という形容ではとても表現し得ない、もっと湿度に満ちた、人間的過ぎるともいうべき姿をした野口氏だからです。

人間でありつつ人間を超え出てしまった<天使>としての野口晴哉。そんな超越者に仕立て上げられた野口氏などというものは、私の興味を引くものではないし、もっと人間的に苦悩する生身の野口氏を身近に感じたいのです。

野口氏の発したことばのほとんどは、超越者のことばではないし、その言葉は宗教家然とした姿かたちを持ったものではない。

むしろそこには、自然的身体や生命、総じて<肉>体が有する神秘的魅力のまえで踏みとどまり、格闘している生身の野口氏が存在しているだけだ。私の実感を伴った印象から言えばそう感じられてならないのです。

私にとっての野口晴哉像というのは、あくまで人間の出来事としてのことであって、そこから超越し、至高の境涯から現世を取り結ぼうとする存在のことなどではないからです。

人間として生きて死んだ仏陀が、死後のことについて<無記>と表現したことに深く共感する私にとっては、まるで見てきたように死後の世界を語ることばを、容易に信用することができないのです。あくまで生きている身体に意識で向き合い思考を重ねるという姿にこそ、野口氏の真の姿があるはずだし、<気>とか<意識>といったものも、<肉>に宿っているからこそ、人間的な豊饒さを獲得できるものだと信じるからです。

 もちろん、永沢氏の功績と私のこういう印象とは、本来何の関係もないものであり、それは私の勝手な読み違いから来ているかも知れないのですが、一応、こうした感想をこのブログにメモとして書きとめておくことはお許しいただきたい。

 

整体操法高等講座 5」(1967.5.15)

(以下の引用は、これまでと同様、原文からかなりの変更を加えて、私なりに編集し直したものであり、小見出しや<>等やそこでの表記、あるいは句読点も、原文にはないものとなっています。その為に原文の意味のとり間違いや、誤った省略、ニュアンスを正確に伝えきれていなことなども多々あると思います。それらは、全て引用者・要約者である私の責任ですので、お気づきの点など是非ご指摘下さい。直ちに訂正させていただきます。)

 

 「相手の力の使い方」(3)

前回は「一点の手抜き」、つまり<急所を外す>とか<一瞬息を遅くする>といったことでした。吐き切ったところをショックするそれを、吐き切って吸ってきたところを、一つ吸いを残す。それは急所の刺戟法として効果を遅くするのです、下手な時は。

これを徹底的に鍛錬して、その急所にピタッと、呼吸の間隙に押さえていくというようにしなければならない。

中等講習ではもっぱらそれをやりましたが、急所を間隙にピタッと押さえていくということは、料理で言えばレストランの料理である。普段に常用する技術ではない。

 

<一瞬手抜きをする>、<一瞬遅くする>、<一瞬、ちょっと急所を外す>。上手になってきたら、そういうように力を使うものです。

そうしないと、まず<反動>が大きい。また、相手の力をいつもフルに使うということになる。それでは相手の力に<余裕>がない。それをあっちもこっちもキチっと押さえてしまうと、相手の力を発揮する余地がなくなってくる。

この<一瞬の手抜き>、<ちょっとした急所の外し>をしていながら、なお急所をピタッと押さえたのと同じ効果をあげられるようになれば、そこには相手の力が何らかの形で働いていたということになる。

 

<勢い>

相手の力、というときに一番大事なのは<勢い>というものです。以前にも説明しましたが、同じ三の力でも、一、二、三という時の三には力がありますが、五、四、三の三には力が抜けています。加えているときの力と、抜いていくときの力とでは同じ三とは数えられない。行きと帰りでは違う。

 

人間というのは、全部<勢い>で行動している。

スタートの時だけではない。<勢い>でズーっと生きている。その<勢い>というものを使うことを考えるようになると、<一瞬手を抜く>ことをすることで、相手の<勢い>によって、抜いたところを埋めていく、そういうことが出来るのです。

 

私達のやりかたの殆どが、そういう<勢い>の使い方に尽きていると言っていいぐらいで、抜いたり外したりしたところを相手の<勢い>で補っていく。

急所をピタッと押えることが出来るがゆえに、それが外せるわけで、そのことがこちらの<余裕>になってくる。言い換えると、それが出来ることで、<技術の幅>が厚くなったと言える。

 

叱言でも<含み>と言いますか、相手の逃げ道を一つ作っておくと、そこに相手の力が逃げ込んでいく。知っていて知らない顔をしている。相手の弁解できる余地を残しておく。そうすると、言った叱言の力は残ったまま、相手を方向づけることが出来る。完全に囲い込んでしまうと、強く反発して、言った叱言の力まで無くなってしまう。

 

操法でも同じことが言えるのであって、ちょっと外して逃げ道を作り、相手の逃げる方向を決めて、それによって相手の全体の動き、力の方向を決めていくのです。

 

私も昔は、相手が病気だというと、完璧に相手に付き添っていないと<不安>でした。

今は相手の様子を聞くぐらいで、あとは殆どその人の体の力に任せている。その人の体の力がずれている時には、ほんのわずかな力でそれを正すことをする。むしろ急所は使わないで、出来るだけ相手の力で治っていく方向に向ける。

できれば相手自身が、自分自身で気づいて、力を発揮できるように、相手に決める余地を与える。そうすると、治った後に無理が無くて、再発するとか毀すということは滅多に起きない。つまり、相手の力で治るというのが一番自然なので、操法というもので完璧に治すというようなことは、やってはいけない、ということです。

もちろん、このことは高等技術としてそう言っているので、間隙をピタッと押さえられないうちにそういうことは出来ない。技術に幅がでてきて初めてできることで、そうでなければ役には立たないと思います。

呼吸は外していい、などと思いこまれては困りますが、ピタッと掴まえてそうして外す、これが出来ないと、相手の体を本当に丈夫にすることが出来ない。

 

満腹になるとそれ以降は味がなくなってしまう。そして満腹の不快だけが残る。満腹になる手前で、一口慎んでおけば、次の空腹時まで美味しさが続いていく。

全ての中にある<勢い>というものを使っていこうとする場合には、この<一瞬の手抜き>ということが大事であって、それは手が抜けてしまうのではない。敢えて抜く。自分からわざと外す。この外す度合いが操法する時の急所といえるもので、そこに<技術>というものがある。

 

相手の<力>というものを考える場合に、一番大切なものはもちろん相手の体の持っている<体力>ですが、それだけではなく、<気力>とか、相手がそれまでに積み重ねてきた<教養>とか、<記憶>とか<知識>、<観念>などあります。

われわれが目標とするのは、相手の持っているそうしたいろんな力を、さっと体の力が発揮できる方向に向けられるようにする、ということですから、相手の心の中にあるそれらのものを知って、その人がどういう心の状態になった時、サッと心がまとまって、体の方向を変化させるかを知っていくことが必要になる。

毀誉褒貶がそういう体の力になる人もいれば、好き嫌いというものがその力になる人もいる、あるいは利害得失がその力になる人など、人によって随分違うし、時代によってもそれが異なります。お国の為などという表現で自分を満足させる人が多い時代には、そういった表現を上手く使うと、力がさっと取り出せるということもあった。戦後は利害得失に敏感に反応するということも多い。いまは大分種族保存的になって次世代の為にと言う人も増えてきた。他人の為、大勢のためということにサッと体の向きが変わるという人が増えてきた。まだ皆がそうなっているわけではないし、自分の体まですっとその方向に向くというまでは行っていないが、これからは自分や自分の家族の為だけでなく、もっと多くに人の幸福の為にと、さっと体が動くようになっていくかも知れない。もっとも、そういうものも、ある意味では利害得失の一種であるといえるわけで、時代の中にまだ利害得失が働いているわけですが、これからの時代が、種族保存的なもの代わるかもしれない。

 

いま、私たちは、それまでおこなわれてきた<養生>という一般の考え方を否定するということをしています。毀れた体に合うような生活を奨励するなどというのは、裡にある回復要求を殺すようなものだ、だから「不摂生しろ」、その方がはるかに力を呼び起こすのに効果があるのではないか、と言って。

それは、過去に蓄積されてきた<養生>というものへの愛着、薬への愛着、他人に寄りかかる事の喜び、そういうものを利用して、それを壊すことをもって、新しい自分というものによって治っていこうとする<勢い>を引き出していこうとしてやっているわけです。

それは過去に「安静が養生だ」、「他人より余分に栄養を摂ればばいい」、といった考え方があるからであって、そういう考えを持たない人にいくらそんなことを言ったって意味をなさない。問題はそういう考え方を身につけて、それを実行していくことが、やがてやり過ぎるようになり、そのために害が生じてくる、そうなった時にわれわれの言っている<否定>が使えるということです。

文明化していないところの人には、整体操法をやるよりは、ピカピカした金の針を打つ方が効果があるかも知れない。一人ひとり押さえるなどということも野暮なことなのかも知れない。問題は、その人が心の中に蓄積してきたもの、そういうものを、どういう角度でつかまえることができれば、相手の体を一瞬にして動かす力に方向づけ出来るか、ということにあるわけです。

どういう角度で刺戟を与えれば、相手の持っている<心>の方向を、サッと体の力を発揮できる方向とか行動に向けさせることが出来るのか。それは<心の力>というものではなくて、相手の心に過去から蓄積し溜めてきたもの、それを引っ張っていく。<心>が体を動かす方向に引っ張っていく。

 

誰でも、元気であろうとして、病気を治そうとして、あるいは失敗から立ち直ろうとして気張ります。しかし、気ばかり焦って、実が伴わないというのは、<気力>が無いと言える。ある方向に向かっていて、それが一体どこまで続くか分からないで、結果を出すまで同じ力で進んでいく、そういうのは<気力>があると言える。

こういうものも、相手の力として使っていく。使う時には、やはり<一瞬外す>という技術を使うと、足りない処に相手の力が集まってきて、自分の力でそれを補おうとするのです。

前回説明したのは、そういうことですが、どうもうまく伝わらなかったようです。<一瞬の手抜き>とか<一瞬外す>という技術が出来るようになって初めて、相手に害を与えることなく、相手の力を引き出せるようになる。その前提になるのは、急所をピタッと押えることが出来るということなのですが、それで足れりとしてはいけない。そこが高等の技術の入り口であって、相手が自分の力で自分を動かしていけるように指導するということがわれわれの目標であって、整体指導の基本もそこから始まるのです。

 

それが出来ないと、全部を自分の技術で果たしていこうとして、相手に技術を押しつけるということになる。そうなると、どこまでいっても相手の異常との戦いになってしまう。われわれは、相手の異常に敵対関係で臨むのではない。相手の力を呼び起こそうというのですから、友好関係でなくてはならない。

相手の力を使う、ということを解さないうちは、相手は意外にも、悪くなろうという方向をこちらに指示してくるのです。養生はしない、肝心なところで不摂生をする。こちらの言うことは聞かない、そして同情だけを求めようとする。病気をもっと重く見られたいという要求が強くなってくる。口では丈夫になりたいと言いながらである。

そうなると、こちらもムキになって、相手を屈服させるつもりで押さえるようになる。だから<戦い>になってくる。

私もそういう時期があって、操法は真剣勝負だと心得て、自分の隙を全く見せず、相手のどんな隙も見逃さないで、戦争をみずから望んでいるような気分で操法していた。いまは、友好関係でやっています。

こちらに余裕があると、相手にも余裕が出てくる。余裕なく、相手の力を使い切り、自分の技術も使い切る気持ちでやっていると、相手は早く治ろうと焦り出してくる。

 

前回やったのは、相手の力を使おうとする時に<手抜きをする>、<呼吸を一つ遅くする>ことが、相手の<気力>を強くしたり、体を丈夫にするうえで大事なことだと言った意味なのです。体や心に働きかけるときに、一つの余裕を持ち、一つの<間延び>があるために、相手の体がそれを埋めようと自ら動いてくる、つまり、相手の勢いとか力といったものを呼び起こす手段としてそれをやっているのです。

 

今日は、そういう問題をさらに一歩進めて考えてみましょう。

 

(体力とは何か)

相手の体力を使いこなす場合に、相手の体力がどういうものか判らないのでは困る。<体力>というのは<加えられた刺戟に対して反応する力>のことです。

加えた力が、刺戟として相手の中の反応や<気力>を呼び起こさないようなものは、<体力>を使ったとは言えない。

相手の<体力>を構成しているのは、<刺戟に反応する速度>や、<刺戟に反応する度合い>や、<刺戟への反応が持続する状態>であって、<体力>に働きかけるということは、それら<体力>を構成する速度、度合い、持続状態を変化させることを意味している。

<体力>というのは、それを本人も、操法する側も、相手がそれを使いこなせないうちは、<体力>とは呼べないのです。

大きな体をしていても、小さなものを運んですぐに疲れるというのは、大きい体格であっても<体力>はないと言っていい。<体格>では<体力>は測れないということです。

何らかで取り出せる、そういうものが<体力>です。

取り出すための手段は、その人のもっている技能とか、教養とか、気力とか、心の働きとか、心の中に溜まっているものとかいろいろですが、「取り出せる力だけを<体力>と呼ぶ」のです。

刺戟に対して反応できる力、反応できる働き、それを<体力>と考えるのです。

 

或る一点に加えた刺戟によってどういう変化が生じるか、その変化の現れる状態によって<体力>を見るということが正当な見方です。

<体力>がある状態だと、外界からの刺戟に敏感に反応している。胃が悪ければ胸椎の六番に硬結が現れる。胃潰瘍なら八番か十番に圧痛点が現れる。十二指腸潰瘍なら五番に硬結が現れる。

ところが癌の場合は、そういう反応が非常に弱いのです。異常というものが背中にハッキリと現れていない。いくら探しても硬結が見つからないのに、実際は悪いというのは、<治りにくい体の変動>を背負っているとも言えるわけです。

だから、相手の<体力>の状態を見る時には、一定の処に刺戟を加えてその反応を見るとか、自然に加わった刺戟に対する反応が、背中にどのように表現されているか、ということを見れば判る。

<体力>の有無を知る指標は、まず<筋肉の弾力>と<椎骨の弾力>です。弾む力、動いているものは全部弾力を持っている。それらの<弾力>は、相手の体の<勢い> を現しています。弾力があるというのは、刺戟に対して敏感に動いて、すぐに元の状態に戻ってくる、中心に帰ってくるという力のことである。これは、人間の体で言うと、「人間の中心を保つ力」とでも言えるもので、最終的には<お腹の力>によっています。

 

(体力の象徴としての腹部)

腹部の弾力の有無を調べる時は、まず<頸>を刺戟します。<頸>を刺戟すると、<鳩尾(みぞおち)>に変化(硬直)を起こす。次いでその変化が<臍の周り>に移ります。この一連の変化は生理的なもので、普通の変化です。体力の有無には関係がない。

<鳩尾>(腹部第一)に移ってきた硬直は、腹部第二を押さえていると、腹部第三に移っていきます。

この一連の経過が、二呼吸以内に行われれば、弾力のある状態である。それが三呼吸以上しても移ってこない場合は、刺戟に対する感受性はあるけれども、弾力というものが無い状態で、体に異常を抱えている人は、第一までは早く移行するけれども、その先の第三に移っていかない。

このようにして、相手の体の<刺戟に対する感受性>の状態を観察します。

 

その次に、<臍の周り>を押さえて刺戟します。すると<首>が変化してきます。<首>の変化は、<頭皮>の変化を引き起こします。これは生理的な普通の変化です。ただ、首の変化が<頭皮>の変化を引き起こすということは、外から与えられた刺戟を、自らの力として受け入れた、つまり吸収したということでもあるのです。

<臍の周り>の刺戟に対して、<同調>したということです。

そういうことを見ることで、外からの刺戟に対して、相手がどのように反応し<同調>するかということを検査する指標となるのです。

 

練習

まず最初に<膏肓(こうこう)>の<湿気>の状態を見ます。体力が無くなると<膏肓>が乾いてくる。これが乾いている人は、<臍の周り>の力も無くなっている。

湿気を見る時は、直接肌に触れないと判らない。しかし、直接触れると汗ばんでいることは分かっても、すぐに空気で乾いてくるので判りにくい。だから少し離して湿気を確かめます。

普通は<臍の周り>が硬いのはよくない。何処かに体力が働いていないところがある。その硬いところを刺戟して柔らかくなってくると、体力が働いてくる。それまで体力があっても遊んでいたのです。体力があって、それが頭の働きになっているような時は、<臍の周り>には弾力があります。こういう場合は頭部第二を刺戟すれば硬いところも柔らかくなってきて、体力も復活してきます。

ところが、第一が柔らかいのに弾力が無い状態で、そこが乾いている、湿気が無い。そしてそこに<無気力な(硬い)処>が、一、二か所あるというのは、それが現在の異常で苦しんでいるところなんです。そして、その<無気力な処>が消えれば、もう死ぬのです。だから<膏肓>が乾いてきて、その硬い処(禁点の硬結)が消えるまでは、生きていて、いまの苦しみが続くと言えるのです。

 

<膏肓>を調べたら、次は第二を押さえているうちに、第三に硬直が移行し転換していくかどうかを確かめます。

お腹を見る時に、まず第一を右手で押さえます。その時、左手は相手の首を持ち上げます。動くのは頸椎の七番です。それを可動範囲でちょっと上に挙げます。そして放す。次いで第二を押さえ、放す。そうしながら、変化が移行していく状態を確かめる。変化が早く起こってくれば体力ありとみる。首の上げ下ろしの前と後の第一の変化をそうやって確認する。

 

お腹は、そういうように相手の体の力が働けるようになっているかどうか、働けるはずなのに、どこかで閊えて働けなくなっているか、というようなことを見ていく場所なのです。難しいですが、今の段階からそういうことに慣れていく。三年くらい練習して判れば、それが標準です。練習ではなかなか判らないが、実際の場面で触ると、病気が重い人ほどそういう変化が判りやすい。練習している人同士で湿気があるかないか調べても、それはあるに決まっている。帰りに電車にぶつかって死ぬという人は別ですよ。しかし、そういう場合は湿気が薄れています。病気で死ぬという場合は、完全に湿気がなくなっています。

まあ、どんな場合でも、一応相手の体に変動があったというときは、お腹を確かめる、第一の湿気の有無を確認するということをやってみて下さい。

では、今日はこれだけで終わります。(終)