野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

「整体操法高等講座」を読む(12)質問に答えて 

いつも思うことなのですが、野口晴哉氏による整体操法の口述記録は、野口氏のリアルさを体験できる貴重な資料です。そこには、氏の語録や全生訓などとは趣の異なる、生身の息づかいが感じられる。その語り、そのことばの持つ射程は、語られている野口氏の<今>を表現している。なによりも氏の感情が脈打っている。永沢哲氏が『野生の哲学』で形容していた<天使>といったようなものは、少しも感じることは出来ない。ごく普通の、といっていいような人間的眼差しや、私たちにもなじみのある苦悩と同質のものしか感じられない。だからこそ、魅力的なのだと思う。野口氏をあまりに性急に<天才>呼ばわりしたり、<超人>扱いしたりすることは、野口氏自身が最も嫌うことではなかったか。これら口述記録は、そういうことを私たちに伝えてくれているのだと思う。整体操法の思想や技術が、卓越したものであり、誰によっても首尾よくそこに到達できるものではないとしても、それは異次元の世界ではなく、われわれと陸続きの世界であり、きわめて人間的な世界のことがらである。そういう<読み方>、<愉しみ方>が大事なのだと、しみじみ思います。

 

整体操法高等講座」(12)(1967.7.25)

 

質 問:「頸椎ムチウチの時、C6、7、D1,2に異常が来た時、頸が腫れてきますが、どうしても後までたびたび腫れてきます。その調整法をお教えください」

野口氏:「要するにその異常が治っていないのです。だからたびたび腫れてくる。・・・そこで頸椎を治すという問題、C6,7、D1,2の調節の方法をまず会得しなくてはならない。

・・・頸は60度しか動かないのに、70度あるいはそれ以上前後すると、C6.7の位置が動くほかに椎骨自体が毀れる。追突された速度によって毀れ方は違います。なかには、髄体が飛び出しヘルニア症状を呈するものもある。ムチウチ症状の多くはヘルニアを起こして髄体がでて引っ込まない状態。たんに頸椎の位置異常というのではない。

位置異常というのは16キロから20キロの速度で追突された時に起こる。40キロ以上だと椎骨自体を毀す。同時にヘルニアも起こす。頸椎にひびがはいったり、頸椎の中の神経を押しつぶすような状態を起こす。

だから、頸椎の位置異常を治しても腫れるというのは、神経の圧迫や、切断、あるいはそのなかのリンパとか血管がつぶれた状態になっている。

リンパや血管といった体液的な流れを阻害されてしまった場合は、腫れが何度でも起きる。そういう状態で位置異常を正しても、一旦腫れが引いても、また位置が狂ってくる。位置を保つ力がなくなっているのです。時間が経過するほどに、自分で回復する力がなくなる傾向が強くなるのです。そして頸にコルセットをはめたとか、骨の位置を他動的に整えたとかいうような場合には自分で治るという傾向が鈍くなっていく。・・・

痛くなって、苦しくなって、その最高点になったという時にはあまり何もしないで治ってしまう。そういう時期にちょっといじる。だから手際よく治るのです。

何でもないうちにせっせとやると、やるたびに痛くなって痺れてきて、後遺症的な症状が多くなるんです。だから、よそでいじくってきたものは、一応何もしない時間をおいて、そして痛みがひどくなってから手をつける。そうするととても楽なんです。いじらないでほおっておけば、悪くなるよりは、回復的な動きが起こるのです。

ところが、そういう過敏な状態を、悪くなった状態と考えて、それを何とかしようとする為に、いろいろな治療法が行われております。だから回復し出しても、また鈍くなってしまう。固定して動きを悪くしてしまう。そういうふうにして、何かしていくうちに、次の<萎縮>が生じてくる。頸がいきなり縮んでくる。こうなると鈍り出しで、動きの幅も狭くなる。痛みはないが動かなくなる、という状態が起こってくる。・・・

痛いとか痺れるとかいうことを除こうという為だけにやっているからそうなってしまう。・・・そういう過敏症状は<回復の経路>だと、それをなくすように操法しようと思うことは逆効果なのだと、むしろそれを亢めるように操法して、それをなくしていくことが望ましい。

こういう<回復の経路>というのは頸に限らない。たとえばD6が曲がれば、その影響は胃袋にも現れ、十二指腸にも出てくるというように、D6の変動は消化器を中心に、あっちこっちに出て参ります。感情も過敏になり、しょっちゅう片腹立ちしているという状態が起こっております。そういう場合に、D6を治せばそれらも治る。

このことは、胃腸病だからD6を治すのだ、と思いがちだが、本当のところは、そういう症状が<D6番症状>だ、ということなのです。

手が痺れる、指が痺れる、頭がクラクラする、頭痛がする、どうしても落ち着けないといった症状は<D6番症状>とでも言うべきもので、胃潰瘍だ、胃酸過多だといろいろ名前をつけているだけのことで、それは脊椎の異常状態だと考えるのが本当だと思うのです。

昔私たちは、「整体操法読本」という本を出しました。そこでは、病気を治す為には、<硬結>だけをを見るのではなくて、骨が曲がり硬直した影響から、いろいろな症状がでる、そういう変動を見ていくのだということを、<硬結>を中心にして説明して書いたのです。

最近は、腰椎ヘルニアやムチウチ症などを通して、西洋医学でもこういう考え方がぼつぼつ起こってきたわけですが、いかんせん治す経験がない為に、症状を治すことばかり考えてしまって、<頸自体の力を回復する>という問題に行かない。

胃が痛いと言えば痛みを止める薬を、縮んだといえば引っ張り伸ばしてコルセットを、というように、我々で言えば初等の人が考えるようなことになっている。

われわれは治す経験を重ねてきているので、頸が右に曲がったという人を見ても、単純に右から押せばいいなどとは考えない。体力のある人だったら、右に曲がった骨を、左からもっと右に曲がるように押すと、元に戻ってくる。右に曲がっているのを左に押すとかえって戻らないということがあるし、体力のない人には、左に押さえないと治らない。しかし、左に押して戻ったという場合には、また右に曲がってきてしまう。

やはり、右へ押しながら戻すというように治っていくように仕向けなければならない、ということを段々知っていって、そして整体操法を作り上げてきています。

 

曲がったから無理に戻す、折れたら真っ直ぐにして棒やギブスで固定する。そんなのは小学生の算術のようなもので、<人間の体の特性>を活かすというやり方とは言えません。われわれはそういう段階を卒業して、<体の特性を活かして治していく>、特性を利用していく。そのために、痛くなるとか痺れるという状態が強くなる時機を経過させることが必要であるという認識に立って、その時機に、もっと痛くなる方向、もっと痺れてくる方向に一旦誘導し、それから調整していくということを考える段階に至っているのです。

痛いことそのもの、痺れることそのものを利用していく。われわれは、経験から、技術で無理矢理治したものは<保たない>、その人の体の力で治らない限り<保たない>ということをよく知っています。だから、<相手の体の力をどう呼び起こすか>というところに主力を置くようになった訳です。

 

ところが、ご質問の「異常が出た時頸が腫れてきます・・・」というのをみると、腫れることが、相手の自己調整の一つの経路である、回復過程である、ということに気がついていない。今言った現代医学的なというか、あるいは操法の初等講座以前のレベルというそれでご質問されている。

腫れるということは体の回復的な手段であって、腫れるということがなければ、骨の異常は治って参りません。位置が狂っているから腫れると考えているが、それではいくら位置を治しても、腫れるということはなくなりません。位置を治すと腫れはひどくなります。腫れは、多く腫れるほど、椎骨異常は自分の力で治っていきます。だから腫れを治す方法などという事を考えてはいけないわけです。

操法が上手に行われますと、一旦ドッと腫れます。腫れてる間は、後遺症的な症状は激しくなります。その激しくなる状態を経過することで、神経なりリンパ腺なりの異常が回復してくる、回復の方向に向かっていくのだと考えるべきであります。

幸いなことに、他の異常と違って、つまりある異常を起こすような体の状態になってそういう異常が起こったというのではなくて、臨時に車の衝突やそれに類似した頭のショックといったもので何でもない体に生じたわけですから、回復力は鈍ってはいない

のですから、回復できる可能性がある。

追突されて70度曲がっても、何ともない頸もあれば、すぐ毀れる頸もある。十二種とか八種は感じません。上下や、十一種はちょっとぶつかっただけでも頸に変動を感じる。感受性が過敏になる傾向のある人は、ムチウチ症の話を聞くと、たちまちそういう症状を起こしてくる。頸に異常がないのにそういう症状を呈してくる。こういう場合は、また別個の技術を用いないとそれが治らない。

人間はどういう症状でも作れる力を持っているのです。

ヘルニアというとC6、C7だと考えるのですが、架空に作り出したヘルニア症状というのは、C2、C3の変動によって、同じような症状が現れるのです。だからそこを調整すればなくなる。

八種や十二種の体が鈍い傾向の人、ときに六種もありますが、そういう人は、感じていないだけで、少し時間が経ってくると、突然頸が曲がって来たり、脱肛したり、急に耳が聞こえなくなったり、鼻が臭わなくなったり、視力が突然なくなったりというように、三カ月ほどしてそういう変化を起こします。だから異常はあるのです。

そういう場合、私はC4を調べます。そこに異常があれば、三カ月ぐらいするとそういう症状を起こす。そこでそういう症状が起こったときにC4を治すとそれが治ってくる。

症状が起こっていないうちにC4を治しても、一時的に曲がりが治るけれど、また繰り返します。だからそういう症状は、回復時期の行程だといえる。その時機が操法の急所である、と考えるべきである。

症状がある時を機会に調節する。・・・腫れたらその時に処置を行なえばいい。

調節方法は、C2、C3の場合、C4、5の場合、C6、C7の場合があります。

C2、3は狂っていなくても狂った徴候を感じる。C4、5はずっと後にならないとその狂いを感じない。C6,7は普通のムチウチ症状といわれる後遺症を残す、そういう異常感を感じ出す。

一番多いのはC6、7の場合で、それを調節すると腫れてきます。腫れるのは中に傷があった場合です。位置異常だけの場合は腫れずに、大抵そのまま治ってしまいます。

ところが位置異常だけでも、コルセットをはめたりしていると毀すらしく、そういう人達は一応腫れますから、そういう人は時間をおいて、何もしないで、腫れた時にやると楽です。腫れた時機に着手する。痛みが激しい、指が激しく痺れるという症状の濃い時にスタートする。

スタートする時には、四番組か二番組かを確認してスタートする。そうでなければ六番組なんです。

四番組は、まだそれだけではスタートしにくい。二番組はそういう異常の有無にかかわらず別個の角度でスタートしなければならない。

症状が同じだからといって、二番と四番と六番とでは違う。特に、二番と六番は混同しやすいのです。それは長い間二番症状を続けていますと、六番も曲がってくるのです。六番に異常があるからここだとやっていると、六番も曲がってくる。二番、六番が曲がってっている人がよくあります。そういうのは調節するといよいよこういう徴候がを激しく感じます。そういう場合は六番を直接調節しないで、二番を調節しるというのがその要点です。

四番、六番が曲がっている場合は、四番が変動を起こした時に六番を治すというのがその要点です。 

 圧倒的に多いのは六番の狂いですから、六番の狂いの治し方を一応練習で覚えておいて頂きましょう。

手が痺れているものは、手の力を利用すると治りやすい。これは扁桃腺を治す手の引っ張り方ですが、手を持って今の角度に引っ張る。そしてうまくC6が変わればD2が下がってくるんです。D2とD3がくっつくわけです。その二番を上に持ち上げます。あるいは場合によっては、D1が下がっている場合もあります。D1かD2の下がっている方を上げる。それが割に簡単な方法です。

 

実演

坐姿。

ちょっと二宮さん来てください。二番ですね。六番が右下に行っていますね。右の手を持つ、捻るように持つ。そして六番をみていると力が右に来ます。右へ来る位置に持ってきて後ろに少し廻す。そこでポッと引っ張る。ただ子供の頸と違って、筋肉が硬直しています。その前に、六番、七番をよく押さえ、調節し、愉気しておいてやるのが順序です。今の要領で、一応六番の調節方法を覚えて頂きましょう。狂ってなくとも捻ると六番が動きますから、どうぞお互いにやりあってみて下さい。動いてきて一番多く動いた角度のところで引っ張ればいいのです。

引っ張るのは、相手が息を吐き切った時に、ちょっと引っ張ればいいのです。呼吸を無視すると全然だめです。やってみると、相手の体が一緒に来た場合は駄目なんです。腕にだけ来て、体にはあまり響かないという時はうまく治ったときです。これはあまり上手にやると毀しますから真似事にしてください。

これで六番を治す為には、あらかじめ上肢第七調律点を二、三回上げておいてください。そうすると楽に六番が調節されます。

今、練習の前にそれを説明しなかったのは、毀される恐れがあるのでやめたのです。

七番を治すには、鎖骨を持って上に引っ張り上げます。あるいは鎖骨の腕に響く処にじいーっと愉気して、鎖骨を上げるように何回か操法を致しますと、それから今の方法をやりますと、同じやり方で七番が調節されます。

肩甲骨はがしの操法をしてmそれから同じようにして指の当てる場所を下にしてやれば、一番を治します。D2の場合は、D1と同じように、はじめ操法して角度を上にとって、後ろに引きます。肩甲骨の間の胸椎というのは、腕を使うと割に楽に矯正が出来ます。

ともかく、ムチウチ症は今後多くなると思いますので、どうぞお覚えになって、ただムチウチ症だからやってみるというやりかたではなくて、どういう性質の自覚症状か、二番、四番か六番か、それを確かめておやりになって下さい。

 

質 問:「昨夕、七十九歳の母が畳の上で転び、右手人差指と中指を曲げたと申します。短くなっておりました。突き指か捻挫でしょうか。処置をお教えください。私は、L5と仙椎を操法して、お腹に愉気、足指に愉気をしました。十時ごろになって内出血して、今朝は大分それも引いて、楽になったそうです。」

野口氏:「大体判らない処は愉気と、こういけばよろしゅうございます。老人の場合には骨を折ったりするとなかなかつながりません。だから愉気が一番いいと思いますが、内出血している場合には翌日になって拡がります。翌日になって拡がれば、吸収されやすくなるのです。

指が短くなっているというから、関節が食い込んでしまっている。何番目の関節かを調べると、そこは腫れていますから、すぐに判ります。腫れている指をつかまえて、裏側を引っ張っている状態でやればすぐに動いてきます。そしてはまります。裏側を引っ張らないと、いくら引っ張っても出てこないのです。

そういうので古くなったものは、その関節よりもっと根元の関節一つ先の関節を押さえると、硬直しております。そこをよく愉気してからやると、わりに簡単に変わっていきます。子どもなどは調べなくても、急に引っ張れば大抵治ってしまいます。

要領は、下を引っ張る。ただ、手首を毀した時は大変で、この場合人差指だから簡単だと思うのですが、一般的に細かい処ほど治しにくいのです。やり難いのです。ただ、その影響は、手首なら生殖器に影響するくらいのものですけれども、人差指だと

喉から腎臓から、みな影響します。影響の度合いというのは、先にいくほど激しくなるのです。特に老人の場合の人差指が短くなったというような場合には、腎臓に関連がありますから、先になって健康生活に相当影響があると思います。ですから人差指によく愉気をすると一緒に、D10番と腰の両側に愉気をして、腎臓機能が正常な状態を保つように準備した方がよろしいと思います。」

 

質 問:「汗の内攻現象とその処理についてお教えください」

野口氏:「冷たい風で汗が引っ込みますと、一番多いのは下痢です。それから神経痛、時にリュウマチ、それから急な腹痛がおこることがあります。肋間神経痛、坐骨神経痛、それから腰や足という順になります。それから風邪(喉、気管)、体が重い、だるい、それらはみな汗の変化です。風邪で咳になる事がありますが、共通して痰が濃くなる。

体癖によっていろいろな現象を起こします。

下痢は汗が腸から出るだけで、それは下痢じゃなくて大便が汗混じりで出ただけですから、それはそのままで一向構わない。変に病気扱いすると、病気になる。いろいろ処置をしますと、そのまま続くようになります。

内攻した汗が、下痢にならない場合は、体が強張って、立ち眩みや動機といった心臓現象を起こします。人によっては、心筋梗塞で死ぬこともございます。

冷房から出た時、冷房に入った時によくやられます。冷房病といわれるものは、我々から言うと、坐骨が縮んできている状態なのです。ぉれを伸ばすと治って参ります。内攻したために下痢をした場合でも、もう一回汗を誘導すればいい。D5番が発汗の中枢です。D5を刺戟しておいて、足をちょっと伸ばせばいい。

肋間神経痛は痛みの根元を押さえればいい。リュウマチの痛みもその根元の筋肉を押さえれば止まります。 腹痛も、足の第二指と第三指の間を押さえるか、そのお腹の痛いところの根元を押さえれば止まります。ただ、痛みが止まっただけでは駄目で、汗がもう一回出るようにしなければいけない。

汗が内攻していると、生殖器に異常がないのに、堅田活点に硬結が生じます。

急性病の場合の多くは、汗の内攻と関連がありますが、特別鈍い人は背骨を操法し、あるいは頭部第四を操法しなければなりませんが、大抵はD5をショックして足を伸ばすだけでみな汗が出てきます。

 踵で大股に二十歩ほど歩くという方法も、汗を誘導します。

夏の変動というのは、そういう汗の内攻によるのではないかと、一応考えてみる。汗はどんどん出したほうが良い。汗を出さない工夫は、体に悪い。汗の内攻による神経痛でもリュウマチでも痛いところに汗が出てくると治る。

腰の汗を引っ込めてしまうと、腰が鈍くなって、異常感がなくなってしまう。そしてただ体が重くだるくなる。体のどこかがむくんでくる。そういうことから腎臓病になってくる人もいますが、汗をドカッと出すと、それっきり治ってしまう。

汗の内攻により、インポテントや月経痛になることもある。」

 

質 問:「アキレス腱を切った場合の処置についてお教えください。」

野口氏:「アキレス腱は切ると繋がらないのです。縮んでしまうのです。D11を刺戟するとそれが伸びてきます。そこで愉気をします。そうすると大抵の人はつながります。最初の愉気が大事です。とにかくじゃんじゃん、じゃんじゃん愉気をする。愉気する人を交代してでもいいので、愉気をし続ける。

漢方の<経絡>を万能のように考えて、<経絡>を頼って治そうとする人がいますが、私も昔、<経絡>とか<神経系統>に沿って治療技術を用いるというようなことをキチンとやってきたのですが、やってきて駄目な面が多かったのです。たしかに活用できる面や、利用できる面もあるのですが、それを万能として信じ込むことはおかしいのです。こうした傾向は中山氏の『漢方医学の復興』という本の魅力によるもので、それでうまく勿体がついちゃったのだと思うのです。かといって、漢方を否定して、生理解剖学による神経系統や筋肉の構造を用いればいいのかといえば、それでは出来ない。

十五、六年前に整体操法の本を作る際に、調律点を図示するとき、その調律点の場所のちょっとずらした場所が神経の急所と一致するのだから、そっちへ変えてくれと頼まれましたが、実際に効く場所でなければ意味がないのでそうしなかった。神経の急所とは違うのです。

私は、はじめは神経系統の知識をいろいろ研究し、工夫してきました。<経絡>の研究もして来ました。当時私は心理療法をやっていたので、整体操法委員会の委員長になってからそういう研究をやりだしたのです。ところが集まった十数人の手技療術専門の委員の知識はといえば、彼らの知識を全部集めても、私の十分の一もないのです。私はそれくらいせっせと知識を集めました。「ああ、みんな知っていないのだな」と思いました。・・・手技療術の面だけでいっても、他の人の勉強態度と比べると、私は大分熱心にやりました。神経系統の問題も、<経絡>の問題も、実に細かく研究しました。

しかし、その結果、そういう知識を全部捨てて、<体の動き>を自分で確かめていこうと決心しました。なぜかと言うと、そういう知識によってでは、効いたり効かなかったりするからです。人によってそれが違うのです。

効くときは気分がいいものですが、効かなかったら実に体裁が悪くてしようがない。それで、一人ひとりの個性をはっきりさせることが先決で、一人ひとりの急所をつかまえることが大事だと、そう考えた。だから、直接、相手に手で触って確かめる、という方法をとりだしたのです。

いまでも私は、それを自分の楽しみとしてやっております。・・・人の体を丁寧に見ていくことは、やはり楽しいのです。変化をみていくことは楽しいんです。

知識や先入観があると、相手の状態が見えなくなってしまうことがある。寝小便や、屁の問題が、相手にとって死活問題になることだってあるのに、解剖学の知識や、漢方の<経絡>の知識に捉われてしまっていると、なぜそれがその人の死活問題にまでなるのかの見当つかない。常識で考えればすぐに判ることも、それらの知識に偏してしまうと時にそれが素直に見えなくなる。

 失恋した人をみて、顔色が良くない、食欲がない、だから<経絡>のどこどこが閊えている、頸椎のどこどこが故障だ、なんていうことになってしまうことだってある。

 

先入観を持つという事は危険なことで、私はそういう先入観を捨てました。素直に相手の体の動きだけを見るようにしてきました。そうなるためには、随分骨を折りましたけれども。

相手の調節も、<体運動を正常に戻す>という一点に絞って一切を処置してきました。それが今日の整体操法です。

こういう病気の為にここを治す、なんていうのは嘘です。確かにD6が曲がればその影響で胃袋がわるくなったり、大便が固まらなくなったりはします。D7が悪くなれば、白血球の数が少なくなったり、多くなったり、あるいは糖尿病を起こしたりという症状はあるけれども、病気の為にそういう変化を起こすわけではない。やはり、<運動系の異常>とみて、処理をする方が本当と思われる。

それで私はそういう考え、立場に立てるところまで、<運動系の変化>を見て、<経絡>とかいう過去の迷信や古い知識、あるいは人間が得てきた知識というものを捨てるようにしてきたのです。

<運動系>を見るというのは、人間の裡にある<原始の力>、あるいは<生命>というものを見るという事です。・・・<原始の力>が一番本当で、生きるのも、成長するのも、繁殖するのも、そういう<原始の力>で、それ以外のものではどうにもなるものではない。その<原始の力>だけ見て、そして<要求と運動>、<運動と潜在意識>そして<体の構造>をじっと見て、ぐるぐる動かしていって、<変化>を見ていくことをやってくるようになったのです。

 それが今日の整体操法です。

整体操法は、解剖学的な構造に入っての問題、たとえばここに胃袋があるとか、腸があるとかいう問題から、神経系統の問題とか、漢方の<経絡>の問題とかいうものをすべて捨ててしまって、ただ<見える処の動きだけを見る>ということおこない、その<見える処の悪い処>だけを調節する、ということだけをやって参りました。

それは見ようによっては、非常に非進化的なやりかたと映るでしょう。「これは解剖学的構造によってそうなっている」とか、「<経絡>によればそうなっている」とか、いろいろな説明を勿体をつけながらすることはできるでしょうが、いざ実際に技術を運用してみると、それらの説明や、それらの知識が先入観となってしまい、てんでおかしな結果を引き寄せてしまいかねないのです。

過去の知識にしばられると、先入観が働いて、見えるものも見えなくなることが起こるのです。それだけでは、過去に行われたこと以上のことは出来ませんし、過去の専門家を超えることも出来ません。同じ出発点では駄目なんです。

そこで私たちは、<運動の失調状態を正常に戻す>という、これまで誰もやってこなかったことをやり始めたわけです。そして実際にやってみると、今まで治らないとされていたものが治ったり、それまで出来なかったことが出来るようになった。

 

鍼灸がドイツに渡って、有名になったというが、たとえば脳溢血は昔から難病だったし、今でもそれは変わらない。いくら<経絡>の論理で針を打っても、治すことが出来るのは稀である。それ以外の病気についても、みな同じようなもので、<神経衰弱>ひとつ治せない。

最近よくいわれるヘルニアも、昔は<仙気>と言われていましたが、これも難病の一つとして、うまく治らないものでした。ただ、たまたまこの<仙気>が生殖器の異常と関係があるということで、仙椎部に針を打つと治る。しかし、それ以外の場合には治らない。今も昔も治らないんです。

そういうように、<経絡>理論というような過去のものを再び持ち出そうとしてみても、何も始まらないのです。

やる以上は、<新しい原理>をつかまえ出してやらなければならない。

私は、そういう<新しい原理で見る>ということをやり出してからは、人間の体の動きや変化を見ることが楽しくなってきて、丁寧に、綿密に、細かく見ることが出来るようになってきました。

 

私は手足根本療法という<経絡>治療をやっている柴田和道君に、「経絡は捨てろ、そんなものがあるから全体が読めないんだ。足の親指が狂っているから経絡によって肝臓が悪い、などというこじつけは止めろ。」と言いました。そして「親指が狂っている人の中に肝臓が悪い人が何人いるのか、小指の狂っている人の場合に何人肝臓が悪い人がいるのか、というように確かめていけばいい。実際に足の親指の狂った人が多ければ、その親指の運動状況、足親指に体重がかかる時の姿勢と肝臓の異常とにどういう関係があるのか、それを調べていけばいい。そうすれば<経絡>よりももっと多くのことが、足の指の研究につながるはずだ」と言った。

ところが彼は、「それじゃあ講習の内容が難しくなってしようがない。やはり<経絡>を説いて、その関係があるからこうやるのだ、と言えば人は信じる。」と。

これでは目先の商売の為に真理を見失っているということになる。せっかくの<真理>を得る機会を失ってしまっている。だから彼は早く死んだし、そしてとうとう本当の事を究め得なかったんです。そういう先入主があった、あれは惜しいと思う。

野中豪策君はそれに対して、先入主を全然持たないで、直接研究していた。それまで誰も体の中心部分を恥骨を押してで治すということを考えたことがない、しかし前歯の痛い時に恥骨を押さえると止まる、喉の悪い時に恥骨を押さえると声が出てくる、恥骨を押さえると皮膚病が治る、これらのことは皆さんも経験済みのことと思いますが、生理解剖や<経絡>を研究していたら、こんなことは出来やしません。

そういう点で、私は柴田君より野中君の方を百倍ほど高く買っております。それは人間を見ることにおいて優れており、独特の視点で見ていた。

後で知ったのですが、柴田君の師匠は漢方の<経絡>をやっている人だったということで、一度身につけたものを捨てるということが、いかに難しいものであるかがわかる。  私はどうやらそういうものを捨てることが出来たので、割に素直に<体の動き>を見ることが出来るようになった。

まあ、そんなこんなで、余分な知識で体を見るということは警戒すべきことなのです。知識を得ることが悪いという事ではない、悪いという場合があるということです。

 

(終)