野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

「整体操法高等講座」を読む(17)子供の操法(5)

私たちは日々の生活の中で、<病気>という現象にどのような意味を与えているのだろうか。<病気>が、日常のありふれた社会生活を停滞させ、阻害するという面があることから、それから一刻も早く逃れたいと考え、その現象をなくしてしまいたいと焦ることはよくあることである。それはそれまでのありふれた日常に生じた裂け目のように感じられ、非日常の出来事、自分にとってあってほしくない非日常のことと思い込むことに慣れ親しんだ結果だと言えるかもしれない。

しかもこの<病気>という現象は、<死>という日常生活とは対岸にある究極の<非日常>についての観念と容易に結びつき、不安を煽ってやまないものだから、なおさらといっていいだろう。

メディアにあふれ返る健康法への飽くなき渇望は、いかに人間が深く<健康不安>に陥っているかの証左でもある。これは今日のことに限ったことではなく、古今東西遍く続いて来た意識をもった人間の、本質的な不安であり課題だと言えよう。

この課題解決の為に、人類は膨大な知識を獲得してきたのだが、しかしなお<病気>といわれる現象は存在し続けており、一つの解決がまた新たな課題を投げかけてくるという状況に変わりはない。

考えてみれば、<病気>とよばれる現象は、生命として生きる存在にとって不可避の現象であり、降ってわいたような災難というものとは異なった、ある必然的な過程として捉えられるべきものであって、忌避すべき禍々しい出来事だとする理由は本当はないのかもしれない。

われわれはいつも、遭遇する諸現象の<意味>を求め、その現象に一定の観念を付与することで、それなりの安定を得ようとする。それが日常性を否定するような現象だから、早く見つけ出しそれを根絶やしに排除することが正当だとする観念も、それなりの価値を持つものであることは判るのだが、それがその生体にとって最も自然であり合理的なものであると言い切れるほど、人間の知識や理解が完全なものであるはずもなく、結局のところは中途半端なものになっていることは否めないだろう。

これは、<病気>といわれる現象に、どのような意味付け、観念化をなしうるか、という人間の意識の問題とも深くかかわってくるものである。

近代医科学による<病気>観も、東洋医学と言われる<病気>観も、あるいは今われわれが読み進めている野口整体の<病気>観も、ともに意識による意味付けであるという点では、いずれも<過渡的なもの>であることだけは間違いがない。

対象である<生命>現象の本質を意識によって捉えようとする人間的行為であるという面では、<過渡的>にならざるをえないからである。

日常性の中断、死をも連想させる恐るべき対象としての病。しかし、人間の個体としての生命は、百年に至らぬうちにその幕を閉じるのは例外のない不可避の事実である。なぜ人間はこの不可避の事実をこんなにも怖れるのか。それは日常性が永遠に続くものと想定し、その想定の中では、一時たりともその継続を停滞させたくないとする願望によるとともに、その日常性の中で作り上げてきた他者との関係性を喪いたくないという見果てぬ夢に生きるのが人間だからだ、というよりほかにないものだろう。

生命としての個体は、その生の永続を願って子をもうけ、種を存続させる。しかし、個体は、とりわけ意識を持った人間の個体は、自らの永続を観念として夢見る存在であって、それ故に不老不死の幻想を手放さない。それは観念として<死>を無化しようとしていることであり、それは常に事実によって裏切られる。

不死の幻想から自由になり、みずからの<生>の姿を静かに観察する視点を獲得できるなら、もう少し落ち着いた生き方も出来ようものだが、もっと早く、もっと遠くまで行きたいとする人間の意識が、いつもそれを躊躇わせる。

 

<視覚>や<聴覚>というのは、意識を構成するものとしては優等生である。ところが<触覚>というのは意識を構成する要素の中では劣等生とみなされがちだ。そこでは明確な時間性や、空間性が希薄であり、対象に溶け込んでそこでまどろもうとさえする性向を持つために、怠け者のように思われている。

どの親も、もっと早く、もっと遠くへ羽ばたくことをその子どもに求めるが、対象に触れ、その肌理(きめ)の豊かさを味わいなさいと教える親はそう多くはいない。それはわれわれの生きている現代社会が、<視覚>や<聴覚>を重要視して、より早く、より遠くへという性向に価値を置くのに対して、<触覚>にはそれほどの価値を置かない社会だからだと思われる。

じっくりと対象に向き合い、対象に触れながら、対象からの声なき声を聴くといった悠長なことを近代というものは奪い去ってしまったのではないか。<兵器>というものを考えれば明らかなように、より早く、より遠くの敵を見つけ殲滅することができるものほど有能だとされるように、科学は<視覚>と<聴覚>の要件を最大限に引き出すことに専念して自己と他者を選別し、その優劣を競ってきた。

対象と同化し、内部感覚を豊かにして、そのぬくもりを感じとる、というような悠長なことは、戦争という場面では邪魔なものでしかない。だからと言うべきか、近代科学を根拠とする近代医学・医療の言説は、不思議と戦争の用語に満ちている。より早く敵を発見しそれを殲滅排除する。病気は人間の<敵>とみなされる。<敵>には<敵>の意味がある、などと悠長なことを言っていたら、逆にやられてしまうと。

微細なものをより微細に見ようとすることは<視覚>にとってお手の物だ。顕微鏡も天体望遠鏡もおそろしく遠くのものを見られるようになった。科学のすばらしい進歩とはそういうものだ。ブラックホールさえ映像化できたと昨日のニュースが伝えている。

われわれのネット環境も、その実は<視覚>と<聴覚>が地球規模に拡大された成果であって、そこには<嗅覚>も<味覚>も<触覚>も放置されたままである。はてさて、劣等生と刻印される<触覚>は今後どうなっていくのか。<触覚>が視・聴覚と同様のレベルで延長され発展するという事はどこまで可能となるのか。AIによってそれは可能になるのか。<生命>による<生命>の感応とか同調とかいうことが、人工知能で理解出来るようになるのだろうか。

 

われわれは、整体法という極めて<触覚>領域を重要視する世界を学ぼうとしている。それは<視覚>や<聴覚>では判ってこない生命の別の側面に向き合おうとしていることと言っていいだろう。整体操法の理解の困難さも、視覚・聴覚が優位の世界に慣れ親しんできた我々には、なかなかに難しい世界であり、口で言うほど<触覚>世界が身近であるわけでもない。

このブログが、そうした困難な<触覚>世界に分け入る、一つの手がかりになるはずだと感じつつ、作業を続けることにします。

 

整体操法高等講座」(17)子供の操法 (1967.10.15)

 

子どもの体は<敏感なため>に変化しやすい。子どもが変化しやすい第一の理由は、敏感なためで、それは<成長過程にあるため>である。けっして弱い為ではない。大人は

ともすると弱いから変化しやすいのだと考えがちだが、そうではない。赤ん坊を除けば、子どもは、外界の変動に対して、むしろ<強い>という傾向を持っている。

 

(子供の発熱)

子どもは大人に比べて、発熱しやすい。発熱して、そのつど問題を解決している。発熱そのものが、体の欠点の修理や、成長のつかえを通していく。だから熱が出たから病気だというのではなく、そういう経過として見ていく。そういう面が多いのです。

 

子どもが病気になると、それを治るものと考えないで、ここが毀れたのではないか、余病を併発するのではないか、などと心配することばかり考えてしまう。その次には、不吉なことまで考えて、慌てて余分に子どもをかばってしまう。発熱した子供を心配して、朝から夜中まで冷やしている母親がいましたが、「もし肺炎になって死んでしまったら大変だ」といいましたので、「そういうことをしていると死ぬのだ。あなたは気持ちの中では、死んだことを予想している。それはおやめなさい。」と言ったら、冷やすのをやめましたが、病気にだけ追いかけられて、病気をしている意味とか、病気をしている子どもの体の状態とか、子ども自身の気持ちとかを客観的に観察できないで、ただ苦しそうとか、痛そうだとか、可哀そうだとかいうことだけで見ようとしている。

病気は治るものなのだ、という確信がなく、どこかでふわふわしているんです。

私は、子どもは育っていくものだという確信を持っておりますので、病気を治そうとか、病気の時は可哀想だとか何とか考える前に、<病気の意義>を考えます。そうして、その子ども達には、<苦しみの耐え方>とか、<病気とはこういうものだ>ということを教えます。早く楽にしてやろうとは思わない。

「今度はここが痛くなるが、頑張れるか」「こうなって、こうなってよくなる。我慢できるか」と訊く。そうして、なるべくなら手伝わないで通りたい。そうすると、後になってみると、手伝ったよりもずっと結果が良かったことが判る。

そういうやり方は、多くの病気の経過し回復した経験を積まないと、そういう確信を持つことが難しいかもしれないが、普段からそういうことを考えておくという事はそう難しいことではない。

今日はそういう<病気の経過の意味>を一緒に考えようというものであります。

 

子どもの発熱という現象の背後には、<体のどこかの閊えを具体的に動かしていこうとする動き>が存在している。だから発熱のあと、そのつかえが通って発育がよくなったりします。

だから私は、病気は体が悪くなったから起こるという考え方ではなく、<回復の経過>として起こると考えています。

 

先日、子どもが発熱して、お腹が痛いと言い続けているといってきた親がいました。子どもの背中を調べてみると、一側が硬直している。子どもの一側が緊張しているのは、大脳運動が臓器に影響していることが殆どです。一側の緊張が上から下に来ているものが多い。だから胃腸の問題というよりは、大脳の問題である。親が、何か無理なことを叱ったことが要因ではないか。

親の無理な叱言というものは、子どもが反撥出来ないことで萎縮を来たして、そのために病気になるということがしばしばあります。

子どもの要求を抑えるということは、簡単なことで熱を出したり、痛みがおこったりすることがよくあります。友達にいじめられたという場合でも、お山の大将だったものがもっと強い相手が出てきたなんて言うことのショックが病気になることもある。テレビで怖い場面を見て、それから熱が出たということだってあります。あるいは、自分の臆病さを知られたくないと思って病気になる事もある。忙しい親の注意を集める為に病気になったり。だから子どもの病気を見る場合には、そういう事も考えておくべきだと思います。ただ、これらは、成長の過程の現象というよりは、大人と同じで、他人の注意を集めたいという、外部的な理由によっているわけですが、発熱という事に限ってもいろいろ考えるべきことがあるわけです。

 

それ以外に、<打撲>による影響にも注意する必要がある。とくに調律点、という体の急所の打撲は注意を要する。D5を打つと胃袋が毀れます。足の甲を打つと肝臓を毀します。<打撲>が病気を引き起こすことは少なくない。

ただ、子どもの発達という視点で言うと、この閊えた処は、そこを打撲しなければならない、といった面もあります。何かの拍子にそこを打撲する。すると閊えが通ってくるという事もあります。偶然に転んだように見えて、実はその転んだことによってもちろんいろんな変動はおこすけれども、それによって成長の閊えが除かれるという事を多く経験してきました。まったく妙だ、と思いながら、観察が拡がっていって、こういう場合にはここを打撲しなくてはいけないのでは、という角度で見ていくと、転んだ時にその子どもがどういう転び方をするのかというと、必要な処を刺戟するような方向で転ぶのです。だから偶然とは思えない。

体の鈍いところ、打った影響ではなくて、そこを打たなくてはならなくなったような体の伸び縮みの悪い処はどこかをつかまえるように観察してきました。

 

子どもの病気の中で、一番重要なことは、熱の出る前に愉気を集注するということですから、<発熱の経路>をよく掴まえることが必要になります。

呼吸に比べて脈が多くなって来たならば、熱が出る前です。二つごとに打つ脈になってきたら熱が出る前です。

また、D8が硬直して、鳩尾がそれでも胃袋にあまり異常が無いような場合も熱が出る前です。C2、3が余分に硬直してきたら熱の出る前。子どもの一側に変化が起こった場合も熱の出る前。

こうした場合に愉気を集注する。熱が出る前に愉気をする。

熱が出ている時は非常に愉気がよく効きますが、熱の出る前というのは、なかなか愉気が効かないんです。余程上手に愉気をしないと、蓋をしたようにしてなかなか気が入っていかない。そういう場合に、後頭部を温めながら愉気をすると、割に楽に入っていきます。入るとじきに熱が出だす。予防注射をしても丈夫な子どもは高い熱がでます。早く通ってしまいます。弱い子供は余り高い熱が出ないで、それが何度も繰り返しています。

高く出る方が早く経過する。子どもの状態が重いとか軽いというのは、<平熱以下が長いか短いか>によっている。長く続くのは体が体がくたびれたんです。短いのはあまり疲れなかったんです。だから短いのは重くなかったということです。

重い軽いは熱の出方ではなく、平熱以下の状態が続く度合いによって決めるべきです。ただし、高熱が出る方が丈夫であることは言い切れます。・・・

 

子どもの発熱についての理解をまず頭においておく。四歳から六歳までを子どもと見て、それ以降は男と女では病気の経過が異なってくるので、対処の仕方も異なってきます。

子どもの体は、部分部分伸びるんです。ある時は眼が発達する。顔の右が発達する、左が発達する。前が伸びる。しょっちゅう変わっていきます。その変化が一回つかえると、一回伸びる分が伸びないで、そのつかえている部分が伸びる時期が来ますと、そこで病気になりやすい。熱を出しやすい。熱を出してしまうと、二回分すっと伸びてしまう。部分部分の発達が、循環的に来るんです。丁寧に見ていると、そういうことが判ってきて、その子どもの何処が閊えているかが判る。

私の言う閊えというのは、観念的なものでなくて具体的なものなんです。その体の何処が以前のままなのか、どこが変わったのかを丁寧に観察してみて下さい。

お喋りになったと思うと、今度は無口になる。運動が激しくなったと思うと、運動しなくなる。遊び方までみんな違ってきます。閊えた場合に、その閊えた時から何週目に変化が起こるかを見ていけば、次に熱が出る時期も予想が出来るようになる。

一般的に言えば、一回の周期は四週、または六週。時間でいえば、四時間か六時間。時に八時間というものもある。・・・

大人でも、歳をとるのにぐるぐる循環的に廻りながら部分部分が衰えていくんです。それがばたばたとまとまってくるような時は、尾骨に脂が溜まっています。尾骨に脂が溜まると、そういう循環が乱れる。病気の経過が緩慢で遅くなる。・・・

一応、この尾骨の脂をお互いに調べ合ってみて下さい。

私は自分で触るんですが、何かあると、これは長引くぞとか早いぞと見当をつけて待っています。ちょっと尾骨を触ってみて、何週目だろうな、週で変化しますから、一週目はこうで、二週目はこうで、というように数えていきます。漫然と待っていてはつまらないのでそうしています。尾骨の先から順々に。

子どもは尾骨と仙椎のつながり目の処ですが、大人はそこから先まで見ていく必要があります。

子どもの病気の経過の早い遅いは、この尾骨を読めると判ります。

 

次回も、そういう大人にない場合のやり方をもう一回お話しようと思います。今日はこれだけにします。

(終)