野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

「整体操法高等講座」を読む(18) 子供の操法(6) 潜在意識指導

野口氏の方法の際立った特徴の一つは、目の前の実際の人間の運動系を丁寧に観察するところにある。その観察は、まず相手の体に触れ、その体から得られる情報(筋の硬直状態、硬結の位置、体の他の部分の硬直との関係、呼吸や脈、体周期など)を基礎にして、相手の固有の感受性傾向を把握し、体運動の円滑な発現を導くための操法技術を抽出、設計する。それはある部分の変動がその部分だけの問題ではなく、一個の生きる全体のなかの相対的な部分でしかないという認識から、個々の変調の多様な関係性を見出だしていく作業にほかならない。こうした作業は、身体の変調や病気といわれる現象が、ある特定の部位の特異な身体的現象ではなく、感受性や心的な領域をも視野に入れた、総体的な視点からとらえようとする作業だと言える。だから整体操法は、難しい。

この病気や異常にはここを押さえれば治る、というA=Bといった一対一の対応、原因と結果が単一の物理的論理で完結するなら、それほど困難であることもないだろう。しかし整体操法の観察の対象は、その地点を出発点として、心と体の両面に及び、しかも心と体を結び付ける<気>をも運用して、重層的な構造の課題を解決しようとするものであるのだから、並大抵のものではない。

少し前のこの高等講座で、野口氏は、鍼灸理論の<経穴・経絡>に言及し、いわゆるツボ(経穴)というものの持つ治効的有効性を認めつつも、そのツボ(経穴)を線状に結び付け整理した<経絡>という道すじが、自身の経験からは実体のないものではないのか(野口氏はこういう言い方をしてはいないのですが)と疑問を呈するくだりがあった。野口氏のこの提示は、ひとたび<経絡>というものの存在を信じ、それを先入観とすることからもたらされる危険性を踏まえてのものだった。だから極論すればそれは<経絡>思想解体の試みとさえ言える提言だと思う。重要なのは、理論から出発することではなく、事実から出発すべきなのではないかということである。そう考えると、野口氏がなぜ<ツボ>(<経穴>)という表現を用いないで、<調律点>とか<処>と表現したのかも理解出来るのではないか。また、<経絡>に沿って<気>が流れるという考え方に拠るのではなく、<運動系>の働きに中に<気>を見ていくという方法に拠った理由も理解できるはずだと思えるのだ。

ところで今日の野口氏の講義は、<感受性>とか<潜在意識>といった、我々にはなかなか容易には見透かすことの難しい領域に触れられている。他者を理解することの困難さに直面したとき、われわれは往々にして、所詮人間は理解し合えないものだ、それを理解しようと力むから却って人間関係がおかしくなってしまうのだ、といったように達観して、その場を立ち去ることが大人の態度だと考えてしまいがちだ。

しかし、野口氏はそうではない。理解することは困難だが、出来ないことではない、として、<感受性>や<潜在意識>のありようをわれわれに説こうとしているのだ。まさに<精神療法家>としての野口氏の面目躍如たる姿に触れることが出来る。

では講義の要約に入ります。

 

整体操法高等講座」(18) 子供の操法 (1967.10.25)

だいぶ子どもの操法が続きましたので、要領を得たと思うのですが、子どもというのは自分で喋らないのです。自分で感じたことをうまく説明できない。だから容態を聞くとか、経過を聞くということが難しい。・・・

 

(着手の手順 無意動作の観察)

もっとも大人でも、見栄を張ったり嘘をついたりいろいろで、聞いたからと言ってそれがその通りとは限らない。だから、私は大人でも子どもでも、先入観を持たないで、相手が意識していない<無意動作>を丁寧に観察します。

そしてその<無意動作>から、相手の体のなかにある要求、相手が実際に感じている状況をみます。

それから自分の得てきた体癖の知識や病気についての知識などをつなぎあわせながら、相手の体の硬直状態、硬結状態、筋肉の弾力状態などを通して、相手の無意運動の起こる場所と体癖的知識とを綜合して、次の変化を予測します。

その予測が実現するのを待って、その実現度合いに応じて、さらに観察を進めます。

そして、相手が感じている痛みがどういう性質のものか、その痛みをどう感じ、いつまでそれが続くのかという、苦痛の度合い、その人固有の感受性の状態を判断していきます。

そして、相手の体全体の構造、体癖、生活状況などから、もう一度それまでしてきた相手の病気の経過を分析し直して、自分の見識のどれに該当するのかを確認し、はじめて相手への対応を決めていくわけです。

相手の訴えについては、相手がどれぐらい本当のことを感じるか、本当のことが判るか、本当のことをどれくらい色づけ誇張しているか 。あるいは相手の痛みに対する予想や想像、連想がどういうものか、それらがどれくらい続くものか、ということを無意位動作から判断して、相手の苦痛の度合いを判断していきます。

だから、痛いと言って顔をしかめている、そのしかめているのがどれくらいかかって取れていくかというのを判断するために、<訴えの中にある心の残存状況>や<知覚の残存状況>や<空想、連想の敏感さの度合い>、<その連想が痛みに変化する状態>、<その空想が体の働きに変化する状況>といったものを観察します。

 

連想力が強いとか敏感というのは、頭の良し悪しに関係している。無意識の連想がさっと続いて起こるようなのを<敏感>という。運動神経が良いとか悪いとかいう評価をしますが、<知覚能力>にもそういう良し悪しがあって、<連想>が敏感なものは、どんどん変化してくる。

頭が良いというのは、<連想が敏感>なことだと、私は思っている。それと<勘が良い>というのも頭が良いということの条件の一つです。

 知識を丁寧に記憶したなどというのは、頭の良さには数えておりません。

 

なかには自分の空想で、体に変調を来たす人もいる。自分の空想で作った食道の狭窄をレントゲンを撮ってもらって、癌ではないだろうかと空想をたくましくして、癌症状を起こしたというのは、独創的な才能といってもおかしくない。そういう才能を他の場面で使えば頭がが良いということですが、病気と相撲をとるというのでは、それは駄目なんです。私はそういう受け止め方が体にどういう変化を起こすか、こういうように攻め込めば潜在意識がそれをどう受け止めるかがわかっていますから、食道が詰まるような状況を取り除く詰めをおこないます。それは世間話をするように、私の潜在意識指導の場では普段に行っています。相手の訴えに返事をするだけでいいのです。

 

潜在意識がどういうとき、どのように動くかを知っていればそれが出来る。

たとえば、食欲がない、という場合、何か嫌なことがあって食欲がないのか、生理的に迷走神経の異常でそうなっているのか。生理的な場合には、少し感情を抑えれば迷走神経は働き出します。不愉快なことがあってそうなっているなら、その不愉快さの中に、不愉快でないものを感じさせるような方向にもっていって、その不愉快さを取り除けばいい。

 

(潜在意識の指導)

亭主が喧嘩を売ってきた、不愉快が続き食欲が出ないと。私は、「本当に嫌いになった亭主というものは喧嘩を売らないものだ、喧嘩に厭きたら亭主は黙る。」「亭主が喧嘩を売る間は、あなたに多少でも自分の存在を認められたいだけだ。」「まあ喧嘩をあなたから売ればいい」と言いましたら、食欲が出てきた。

亭主に喧嘩を売らないうちに食欲が出てきた。自分の中にあった何かが、ひょっと変わると、もうそれで食欲が出てきて変わる。

「喧嘩をしましたね」「いえ、喧嘩はしていません」「それは結構」

こういう<何気ない会話>をすると、何でもない時の会話と違って、喧嘩をしたという空想が起こって、喧嘩をしなかったことで却って亭主に勝ったような清々しい感じになって、それで食欲が出てきた、そんなことがよくあります。

私の潜在意識指導はそんあ普段の会話をとおして行っていますので、誰にもそれときづかないんです。

「何時に起きましたか」「はい、何時に起きました」「寝坊ですな」

それだけで話は通るが、それだけで体が変わってくる。

子どもの場合は、そういう変化が非常に早いのです。大人の場合より不平の根っこは浅いのに、変化は大きくて早いのです。

だから、その子どもの不平をちょっと聞くだけで、一回の喘息の発作はなくなる。

たとえば喧嘩をして負けたことで小便が出なくなっている子どもがいましたが、親は喧嘩に負けた事だとは考えない。私は、子どもが「喧嘩した」と言っている子どもの呼吸の止め方をみて、本当に喧嘩をしたんだなと思った。そこで「誰と喧嘩したの」と聞くと、「誰ともしていない」と言う。そこで「どっちが先に手をだしたの」と聞くと、「向こうだよ」と言う。だから喧嘩をしたことは確かなんだけれど、そばに喧嘩をしてはいけませんと睨んでいるお母さんがいるから、その子どもは反射的に「喧嘩なんかしてないよ」とつい答えてしまう。

仕方がないので「どっちが先に手を出したのかな」と聞いたわけですが、そうすると反射的に「向こうだよ」と答えた。

そこで「負けた方が先に手を出すんだよ。お父さんとお母さんの喧嘩だって、負けた方が手を出す。君が先に手を出したんでなければいいよ」と言いました。

そうしたらしばらくしてお母さんが、小便がどんどん出るようになったと言ってきた。「先生の操法はとてもよく効く」と言っていましたが、お母さんはそれが何故だか判らない。みんなそんなふうに、自分で病気を作って、自分で治っていく。ただみな、その道筋が判らないんです。

喧嘩をして負けたことが悔しくて残念がっていれば、D10に捻れが出ています。捻れが出て、その影響で喧嘩をしたために小便がでなくなったという順序ではない。

そういう証拠固めをして、そのうえで相手の心の角度を変えながらショックする。

 

(心のしこり・結ぼれ)

私の見つけてきた操法というのはそういうもので、体だけにショックを与えたり、心専門にショックを与えたりというのではなく、身体も心も両面を見て、証拠立てして、自分の推測を固め、さらに推測を作りながら、その仮説に沿ってテストしていって、いろいろ予備的な打診も行って、そうして<結ぼれ>をほどいたり、新しい刺戟を作ったりいたします。

そして、そういうことを<暗示>としてとか、あるいは治療の形式としては行わないで、<普段の会話>、<雑談>を通して、方法をそのつど選択していくというのが、私の見つけてきた技術であります。

こういうことは、子どもが一番早く変化する。大人でももちろん変化する。大人は変化が複雑で、調べていくのは面白いのですけれども、子どもは悔しい、癪に触る、恐い、困ったといったような割に単純な理由です。我々のやり方の段階で言うと、<第一次現象>だけなんです。慢性の喘息を持っているような子ども達に<第二次現象>があるくらいで、第二次現象のような、ある心の働きが、反射によって次の働きに変化し、この反射による投射状態として体の異常が生じているといったものは割に少ないんです。

 

<第三次現象>になると、そういう変化、異常のなかに、<自己弁明>が存在したりする。この<自己弁明>が、自分に言って聞かせる為のものか、芝居として他人に見せる為なのかで、少し違いがあるが、子どもの場合は簡単に見破りやすいのです。

 

子どもは「痛くないよ」と言うから、痛くないと思っていたと言うお母さんがいましたが、「触ってごらんなさい。痛いと脈が早いんです。」と言って触らせると、早い脈がドンドンと打っているのです。けれどもそこにあるアイスクリームが食べたいから、「痛くないよ」と言っているんだと。アイスクリームを持ってきて、「痛いの?痛くないの?」と子どもに嘘をつかせるように聞いている。痛いと言えばもらえないに決まっているから「痛くないよ」と言う。そして後になって、嘘をついたなんて言って叱る。

お腹を触ってみれば痛いかどうかは判る。相手の訴えでなくて、こちらの手でそれを聞く。ただそれだけでなくて、痛いのを痛くないと言う時の、その子どもの心理を観察します。

痛いという場合に、「どれくらい痛い?」「これぐらいだ」と。「そうかな。こっち側が痛いのではないか。こっち側は痛くないのではないか。これ位だと、その上だって痛くない。痛いのはここだけではないか。」と。悪い時は、初めのうちは方々が痛いんです。ところが良くなってくると、悪い処は一か所に決まってくるんです。蚊に刺されても、方々が痒いが、だんだん一か所が痒くなってくるでしょ。そういうように、治ってくるとだんだん範囲が縮んでくる。痛がっている最中でも、注意をだんだん痛みに集めて、本当の痛いところを感じさせるように誘導すると、本当の痛いところだけしか感じなくなる。本当は、本当に痛いところだけが痛みを強く感じるのですから、強く感じたそこをギュッと押さえて、「痛いのはここだけではないか」と言うと、それまで方々痛かった感じがなくなってしまう。「そこだけ痛い、そこだそこだ」と言う。「ここですね」と言う。そうなればこれを押さえれば治ってしまう。「痛いなんてこの場所だけじゃないか?そうでしょ?」「そうだ」で打ち切る。

そうすると、方々痛いような感じがしていたのが、ここの一か所だけ痛いのが残って、そのうちにその痛いのも止まったような気がする。「もう二十分経ったらアイスクリームが食べられるな」と言うと、どんどん回復してくる。痛い最中でも、それを与える時間を決めるだけで、その間に治すことが出来る。

子どもの心をそういうように<焦点をつけて使っていく>ことが、私等の技術なんですけれども、こういう事は、子どもで練習すると非常に早く身についてくる。

 

石をぶつけられて痛いとワイワイ泣いている子どもを連れてきた親がいました。触ってみるとそんなに酷くない。これは石をぶつけられたということの悔しさと、相手に食ってかかれなかったという自分の弱さに対する弁解が、その痛みを大きく感じさせてしまっている。大体<感じる>ということは<潜在意識的なもの>で、十の痛みを必ず十に感じるかと言えばそうではない。裡にあった潜在意識的な感じ方によって、同じものでも強く感じたり、弱く感じたりする。子どもは嘘をついているわけではない。誇張しているわけでもない。自分の感じたとおり正直に言っているだけで、本当に痛く感じているのです。大人はそれを聞いて、物理的に強い力でぶつけられたと錯覚して、青くなってここへ担ぎ込んでくるのです。

痛いと訴えられたら、まず「これは本当の痛みだろうか」「実際はどれぐらいの程度の痛みだろうか」と考えてみる。誇張していたとすれば、なぜ誇張するのかを考える。

大体<感受性が歪んでいる>ことが多い。

だから意識して誇張しているのではなく<無意識による誇張>、<無意動作>なんです。

 

強い打ち身というのは、だいたい痛みを感じなくなる。だから、強い打撲なのに痛くないという場合は危険なことが多い。ちっとも痛くなかった、なんていう場合にくらべて、痛かったとか出血したとか、こぶが出来たという事の方がずっと軽い。

ただ、相手の痛みが、そう感じているとおりのものか、それ以上に感じているかを確かめることが必要で、そこに誇張があるのかないのか、先ほどみてきた子供には誇張があった。相手が自分よりも強い。食ってかかれない。そういう相手だった。そうするとその不満が、全部「痛い」という言葉で表現される。

「誰がぶつけたんだ、どんなやつだ?」と聞く。名前を言ってもこちらには判らないが、「どんなやつだ?腕力の強いやつか、意地の悪いやつか、成績の悪いやつか」と聞いたら、「ずっと僕より下なんだ。先生にいつも叱られているんだ」。「どうだ痛みは?」「あまり痛くなくなった」と言う。それはそういう潜在意識が感受性に作用していたのだという事が判る。だから腕力では負けるが、成績では勝てるから「腕力があるんだ。どんな顔をしているか」「こんな顔をしている」という会話では痛みは減らないが、「成績は悪いやつか?」と聞いたら、さっと変化してきた。

「数学が悪いんだろうな」「数学はあいつは駄目だ」「体操は?」「体操はいいんだよ」「唱歌は?」「駄目だ、音楽なんか判らない」「先生にその子は叱られたことがあるか?叱られた時どんな態度をする子だ?」と聞いたら、それを説明した。

説明が終わった頃には、痛みはなくなっている。打たれた正味の痛みだけになってしまう。

 

(感受性の方向、歪み)

そんなように、子どもなりの複雑な心理行程があって感受性が変わってくる。

私は、こうやってその子どもを押さえて、会話をしているなかで、そういう子どもの<心の掃除>や<感受性の歪み>を取り除いているのです。

こういうことが、子どもの操法の際の一番大事なところで、親が気づかないような子どもの<心のしこり>を処理するということが大事であります。

 

だからといって、そういう心理的な過程だけで病気になるのではないんです。成長の過程の過渡的な現象として起こる場合もあります。子どもは寒暑風湿には強いとは言えないんです。寒暑風湿気に侵されて起きる場合もあります。細菌に侵される場合もあります。

けれども、子どもが疫痢になったという場合でも、疫痢は細菌によるものですけれども、足を極端に冷やして、気が上に上がった状態が長く続いたあとに起こる。昔は、潮干狩りに行って疫痢になったということが圧倒的に多かったが、何らかの条件に合致したというわけです。

あるいは、やりきれないほど沢山の宿題があったとか、やりたくないことを何度も繰り返さなくてはならないというのも、潮干狩りと同様に、足が冷たくなり、頭が熱くなるという条件です。

 

相手の感受性をリードし、感受性を高めて操法するという、整体操法の行き方から言えば、子どもに対してひたすら愉気をするだけというのは、頭の悪い人のやることで、子どもは一次反射、二次反射でいろんな現象を起こしている場合が多いから、今言ったようなポイントさえつかめば簡単に効果を収めることが事が出来る。

 

子どもの操法というのは、その子どもの感受性に副って、感受性を歪めているものを取り除いて、素直な状態にしてから愉気をするという考えが要ると思うのです。

その一番はっきりするのは、子どもが怪我をした時です。

 

(子どもの怪我)

子どもはその切り傷が深いのか浅いのか判らない。親は深い切り傷だと余分に痛いと思い込んでいる。ところが、生理学を知っていれば、浅いケガは痛いが、深いケガはそんなに痛いものではない。トゲが刺さった時でも、深く刺さったトゲはたいして痛くないのに、浅い方が痛い。また、傷の範囲が広いためにより痛みが拡がるかといえばそうでもない。

あっちもこっちも怪我をしたという場合には、その中の一か所の痛みだけが痛い。何か所も痛いというのは、中のどれかに痛みを誘導するだけの余分な怪我がある、他と比べて度合いの強い場所があるということです。それを丁寧に見つけ出して、「ここか?」と言って押さえると、他は痛くないことが判るんです。

ここを押さえちゃって、他を自分で押さえて、そこが痛いか、痛くないかと押さえていくと、痛くなくて、私の押さえている周囲に行って初めて痛いのが判る。「では痛いのはここだけかな?」と念を押して、「そこだけ」と言ったら放す、そうすると痛いのがそこだけになってしまう。

 

だから、痛みの範囲を、広い痛みのときはそれを狭くしていく。痛みの範囲が狭い場所

 であるなら、その痛みを感覚する感受性の歪みを調節していく。

「転んで打ったんだね」「そのときどんな格好してたんだ」「誰か見いている人はいなかったか」「みっともなかったろうな」と言うと、<痛みを余分に宣伝しようとする>感受性の歪みが、<転んでなんかいない、痛みなんか気にしてない>と言いたい気持ちに変化してきて、その痛みがなくなってしまう。

子どもの痛みというのは、そういうのが多いんです。

それから、大した痛みでもないのに包帯を巻いて痛がっている、そうしないと気持ちがおさまらないというような子どもがいたら、われわれはそう言っている子どもの裡にある独創的な才能とか芝居本能が発達してきたのだな、と見るべきなんです。

自分では信じていないが、他人には信じさせたいという<芝居本能>は、大人にだって働いている。でも、包帯をぐるぐるに巻いて自慢げに歩く子がいたら、その子どもの中にある<不安>を見ていく。何を不安に感じているのか。自分の身を自分で守ろうとしているけれども、自分では守り切れないものがある。そうすると、あえて自分の弱いところをさらけ出して、他人の同情を買って、その不安を補おうとする。言ってみれば、それは<不満>の表明なんです。<不満>があるから包帯をぐるぐる大きく巻くという事ではないんです。<不安>があるから、そうするのです。<不安>を満たすために、その独創的な才能を利用している。

 

大人でも同じですよ。ちょっとした病気で「痛い、痛い」と、血圧がちょっと上がったというだけで「脳溢血になるんじゃないか」と言って奥さんを驚かすなんていうのは、その後ろにはやっぱり<不安>がある。いつも奥さんは自分にそっぽをむいている。「おい、おい、俺はここにいるよ」と呼び掛けたい。

そういうように、<不安>がある時は、異常状態を誇張する。

「飯がどうも旨くない、癌だろうか」と。これ飛躍していますでしょ。でも本人は本気でそう感じている。そこには、<潜在意識的な不安>がある、と見るべきなんです。

 

 こうした独創的才能の使い方の方向、角度を変えることが出来れば、そういうことは無くなってくる。ただ、その方法は、その時のその人の状況に応じたぴったりとしたかたちでないとうまくいきませんので、ここで予めああする、こうするということを説明するのは難しいですが、わたしは普段からそれをやってしまっている。

 

感受性の歪みを正していくという方法は、やはり子どもで練習していくといい。子どもならきっと判る。でも、自分の子どもは判らないんですよ。自分の子どもが判るようなら整体指導者です。自分の子どもとか女房とか亭主ということになるとなかなか判りにくくなる。面倒になるのは当然です。家族の病気というのは実に面倒で億劫でつまらないものです。それは構わないが、それが判らなくなるようではいけない。どこかでちゃんと冷静に見ているものを持っていなければならない。

 

あの痛がり様は純粋だ。あのうめき声は宣伝がないか、それを聞き分けなければならない。唸り方を聞いて誇張何分、芝居何分、同情を求めているもの何分、快感何分、残り何分と、本物の苦痛の声とを聞き分けなければならない。その顔の動かし方で、痛いそれを拾い分けなくてはならない。・・・

 

親切を押し付けるように操法していると、やっている方はいいけれども、子どもは嫌がってしまう。しかし、子どもならなんでも機嫌をとって泣かさないようにしてやればいいというのは本当ではなくて、時には泣いても強行する場合もある。ある時期にはそれをします。ある時期以外にはそういうことはしませんが、それをすると、その子どもは泣いた分だけ後、信頼を重ねることがある。

大人にも時々、強引に一番嫌な処をつついてそれで押します。

 

痛がっている子どもに<不満>がある時は、鳩尾が硬くなっている。<不安>がある時は胸が硬くなっている。母親の小言の言い訳を考えたり、芝居を考えたりといった意識的な要素がある場合には首が硬くなっている。意識的な作為のばあいは相手にしないで、ただエネルギーの集中度合いだけをみます。エネルギーの偏りは、お臍の両側の硬直度合いをみてその処の処理がききます。気が散るという場合は鳩尾が硬い時です。根気が続かない子どもは、胸が硬い。弱い者いじめをするのは、胸と鳩尾が硬いものがします。臆病は腰の四、五番に力が無い状態。強情は気の弱さで、新しいことをやるのが恐い、これは不決断の別の現象といえる。この場合は腰が強張っている状態とみていい。頸が硬くて、腕のつけ根が硬い場合は、行動することが億劫になる。そして行動自体が遅くなり、理解力も遅くなる。頭で理解していても行動になるのが遅い体の状態を現わしている。これらの状態が残っているようなら、やるべきことをやらないために感受性が歪んでいると考えればいい。

子どもはすぐにそういった状態を体で表現しています。だから、体をめれば、どういう閊えがあるかが判ります。それを除くと、故障はなくなります。

だから、子どもの操法で、そういう潜在意識教育というものを練習すると、大人にも使えるようになってきます。

 

なお、子どもの操法には、今言ったこと以外に、<足の操法>というのが非常に大事になります。子どもの体を他の動物と違った方向に発展させているのは、<足の力>です。足にいろいろ力が加わることによって、体がそれに応じて変化していくわけですから、足の力が均等に入らない処に力が入るように、あるいは積極的に普段力が入り過ぎているところにもっと力が入るように調節すると、体の発達がもっと平均的に、もっとノーマルに、もっと速やかに行われるようになります。

単に足の裏を毎日押したというだけでも、逞しい腰が出来てきます。子どもの場合は、特に<足の関節>、とりわけ<股関節>の操法が重要さを持ってきます。

股関節に異常がなくても、そこへ刺戟を加えていくのがいい。

腸の変動は膝です。大脳的な面は足首です。特に、外踝が下がっている場合は、頭の働きがノーマルでない。目の働きも、鼻の働きも、耳の働きも、それらの感覚器も鈍ってくる。

足の中でも、病気の異常の時に操法する急所は<内股>です。体液の流れを良くする<内股の操法>は、子どものいろんな病気の場合に、注意して調べ、そこに硬直がないかどうかを確かめてから操法を進めます。栄養が足りていない場合、内股の弾力がありません。栄養の度合いは、大人の場合も<内股の弾力>で確認します。大人は過剰栄養ですが、過剰だと<内股>は硬直してきて、いろいろな病気が起こってきます。

子どもの心理的な病気も、細菌による病気も、からだの中のそういう停滞した処を押さえると治ってきます。つまり濁った水が腐った処に異常が起こるんです。そういう意味で、<内股>、<脇の下>、<肩甲骨の下>が急所となります。内股は、上から下に押さえる。ここは体の能力を発揮する一番重要な場所ですから、そこへの愉気は怠らないように行う。たえずここの停滞を警戒しておく。内股の停滞が起これば、間もなく体に異常を起こしてきます。

 

まあ、そんな事で子どもの操法を大雑把ですけれどもお話致しました。今日はこれで終わります。

(終)