野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

「整体操法高等講座」を読む<25> 婦人の操法(5)

整体操法高等講座」<25> 婦人の操法(5) (1968.2.5)

 

前回は月経と骨盤、或いは女独特の骨盤の操法について説明致しましたが、女の場合の骨盤操法は、男のそれと違って変化の幅が非常に広いんです。それを意識していることが大事であって、特に月経時の操法は、普段の操法とは違わなければならない。

それを具体的にやっていくべきですが、まだ今の段階は、骨盤操法のやりかけの段階ですから、今日はその続きを説明致します。

たとえば腹部の操法の場合でも、男と女では大分違います。女の腹部の筋肉は、一度お産をした人達は、一種の弛緩状態になっている。筋肉が弛んでしまっている。だから、慣れますとちょっとお腹を触っただけで、お産したかどうか容易に判るぐらい筋肉が変形している。お産で荷重に負担があったのですから、しばらくはそういう変形があって当然ですが、半年も経てば元通りになる方が、体の回復する傾向としては自然です。それが一年経っても二年経ってもそういう傾向が残っているというのは、骨盤が正常な位置に戻っていない為だといえます。

だから、腹部の弛緩の原因は、大部分が骨盤の拡がりで、それが正規の位置に骨盤を治すと、普通の状態と見分けがつかないような状態に戻ってくる。

腹部の筋肉が弛緩していると、臓器も下垂しやすい。下垂していると、お腹の方に血が溜まるのでしょうか、そういう系統のいろんな異常が続いて起こるようになる。

骨盤が拡がったままでいますと、骨盤のつなぎ目の処が、特別に冷える感じ、そこだけ冷たい風が当たっているような感じというものが濃くなってきます。そのうちに、膝が冷えてくる。そして膝蓋骨がだんだん前に出て来たり、下がったりしてくる。

膝が変形するにしたがって、タコが出来たり、足首の形自体が変化して、膝の位置が下がってきたりもする。

だから、足首を見て骨盤の状況を推測することも出来るわけです。

 

月経は、正常な場合は四日ないし五日で、四日を中心として三日なら短い、四日なら長い、二日なら量が少ない、六日で終われば生殖能力自体の弱り、というように考えることが出来る。長いから多いかといえばそうではない。短い場合も弱っている。

三日で終わった、二日で終わった、あるいは一週間かかった、という場合は、一応骨盤の拡がりではないかという角度で観察し直すといいと思います。

骨盤を矯正して、締まる状態になると、不思議なことに股関節の異常がなくなってくる。体の捻れる傾向がなくなってくる。だから、月経痛や、月経困難というものがいつのまにかなくなってしまう。

捻れ傾向の殆どは、股関節の異常です。最近は、股関節異常を、骨盤操法を使って治しています。

このことは、ここ三、四年で見つけたことですが、非常に面白いと思うのです。まあともかく、骨盤の矯正が、いろんな面に及ぶことが判ってきました。

拡がった骨盤を締める方法は、お腹の方から腸骨の縁を刺戟すればよい。意外に簡単なんです。それで弛緩した腹筋も締まってくるし、太り過ぎている人は痩せてきますし、何よりお腹の脂がとれてくる。この脂は普通はお腹の方からはとれないんですが、骨盤操法を行なうと、お腹とお尻から痩せてきます。

何回かお産をすると、膝のすぐ下がきたなくなる。その原因の殆どは骨盤の拡がりのためです。骨盤が拡がって下がっているのを、持ち上げると、それがきれいになってくる。また、顔が小さくなってくる。体以上に顔が太っているという場合には、骨盤の拡がりを締めることによって、ある程度矯正できる。特に、鼻の短い、ここが抉れているような、ここが短いような場合に骨盤操法をやると、そこから変わってくる、それがかなり明瞭に変わる。

このように、骨盤操法は月経や、妊娠の問題以外にもかなり広い面での応用が利くという事であります。

 

(実技)

どなたか一人、ここの台に乗ってくれませんか。はい、仰向けになって下さい。腸骨の位置をみます。これが下がっている方を対象にします。下がっている腸骨をこう押さえまして、左手中指は胸椎一番と頸椎の七番の間に入れる、こう持って。こうやって押さえますと、これが第一回。その次は、頸椎の六番と七番の間にあてまして、外に開く。そして又七番と一番の間に行って、また同じ最初のをやる。一、二、開く、三。こちら側は向こうへ廻ってやったらよろしい。これが骨盤を上げる、引き締める方法であります。それからもう一つ行います。こう曲げて、この角度をとって、これをだんだん拡げながらこう行き、これをこう、こう膝を曲げて、このまま引っ張るんです。そしてここの部分と、それが拡がる程踵がうしろに行くんです。だからこうなっている足が、だんだん外になってくるんです。これが外側に行くんです。だからこう歩く方が楽なのに、こうやって歩くから妙な恰好で、お尻を余分に振らなければならなくなる。これを今の引っ張った後で、外側に行っているものを、内に寄せるように二、三回刺戟して、それを持ったまま真っ直ぐもう一回引っ張る。今度は、二度目は曲げないんです。これをやって。中にはここが狂ってしまって、太くなって(だんだん太くなりますね、あれは骨盤の関係なんです。)これをこう内側に寄せて、これを上げる。そのあとでこれを寄せて、それからこう引っ張ってくる。そうすると簡単に動かすだけで、骨盤の拡がっていた人は、これをやりますと足首の狂いが治ります。そういう場合には、骨盤の矯正が割にうまくいっていた。こうやっても動かない場合には、骨盤もあまり上手に動いていなかったと、そうみていいのです。

まあ、あと三十分位してから調べると、縮んでいることがよく判りますけれども、私はその調べを略していますが、その次に来た時にみると、大抵はきちんとしています。

いつでも骨盤を動かすのは四番が標準です。

これをやりますと、いろんな種類の痔がなくなります。痔ではないがしょっちゅう肛門が妙だというのも一緒になくなります。そういうものは骨盤の拡がる余波で、骨盤を動かすといろんな面にいくのだと思います。

その次は尾骨のつながり目の処、一番ですね。その一番の根元のところをちょっとショックしておく。そこを軽く叩きます。(ちょっとやってみましょう。はい、よろしいです。)

これだけやっておくと、大体拡がる傾向は変わります。大分この中にも拡がっている人がいると思いますので、その人たちを対象にして一回練習してみて下さい。

両方やるとご破算になる。右でも左でもどっちでもいいんです。これをやると、コメカミの皺が変わってきます。締まるとこの皺がなくなってくる。

同じことを男にやってみると、眉が変わるんです。長寿眉なんていうのがありますね。あれが骨盤を下げると無くなってしまう。長いのが出なくなってしまう。だから垂れ下がっていたものが、ピンと上がってきてしまう。意地悪そうになってくる。

 

つづく

 

 

 

 

 

「整体操法高等講座」を読む(24) 婦人の操法(4)

野口晴哉氏の思想や技法を、手元の資料を手掛かりにブログとして記述していくことが、思いのほか難しいことであることを日々実感する毎日です。この困難さを感じる理由は、資料を右から左に書き写すだけでも難しいことなのに、<私なりの要約として記述する>という身に余る作業をまじえたりしているために生じていると思います。つまり、その困難さの感じは、私の認識能力を越えた領域を、判りもしないまま、判ったふりをしなければ先に進めないといった、ためらいの痕跡からくる重苦しさといったものだと言い換えることもできます。まあしかし、このブログの読者の方からの励ましに支えられながら、遅々とした歩みで、野口晴哉ワールドの、せめてその輪郭を描けるようになりたいものだと考えながら、今日も始めてみたいと思います。

 

整体操法高等講座」を読む(24)婦人の操法 (1968.1.25)

前回、婦人における骨盤のを、重要性について説明いたしました。

アイラブユウなどと言って、女がにっこりするから、いつもそうかと思うと、かえってぶすっとしてしまう時がある。どうしてぶすっとしたのかと調べると、骨盤が落っこちているということがある。つまり月経の始まった時である。普段なら怒らないことにまで腹を立てたりする。気が短くなる。それだけでなく、月経は頭で考えている以上にその行動を左右してしまう。その影響は、意外に広範にわたる。食事が不味い、吐き気がする、食欲がない。だから胃が悪いのかと思うと、そうではなくて月経がはじまった事による場合も沢山にある。右側の骨盤の動きの大きい人たちは、月経と食欲が非常に関連が強い。その逆の左の骨盤の動きの大きい人たちは、血行、とりわけ心臓の動きとの

関連が強い。

そのように、女の体を見ていく場合には月経や、月経に関連する骨盤の開閉状態、骨盤の上がり下がりの状態を無視することは出来ないのです。

骨盤が開くということのなかに、<痔>という問題がある。男にもあるが、特に女性には多い。女性の<痔>は、今言った骨盤の左側の変動、つまり血行や心臓の関係の変動が<痔>として現れることがとても多いんです。そうなるのは、分娩の際の助産のありかたの問題がある。体に無理がないように産ませるという方法が影をひそめて、予定日に産ませるような方法をとったりする。本来は自然に産まれるものなのだから、手伝う必要があるのは最後の気張るときぐらいで、そのときお尻の穴を押ささえすれば、<痔>にはならないのですが、そういうことがだんだんされなくなってきた。

 

<痔>というのはすべて体の左側の故障で、血行と関係している。

我々は野中君が提唱した<左足の小指>を押さえると効果があるという方法を良しとして、正式な操法として採用していますが、この一点に限らず、足の小指の系統のいろんな部分というのは、<痔>に関連している。L2の左、D4の左、D8・9・10の左というようにみな<痔>に関連している。<痔>にもいろんな種類があるが、これら全部をやっても残るのは脱肛ぐらいです。それは頭の真上を押さえます。最後にのこるのは<痔瘻>ですが、これは身体全体を改善しないと治らない。呼吸の病気が治ってくる段階で<痔瘻>になる場合があるが、そうなればもう安心だと、昔は言ったりしていた。あるいは、脳溢血を起しそうな場合に、<痔>が出血することがある。これは<痔>がうまい具合に血行を塩梅しているという意味で、<痔>というものはいいものも悪いものもあって、体の安全弁ということも結構あるんです。

しかし、いちいち痛むのではかなわないから、その場合にはL2の左を上にあげるように愉気すると割に簡単に治る。L2の愉気よりも、相手を坐らせて、手を突っ込んで愉気すれば一番簡単に治る。ただ、L2が硬直していると、愉気の効きがすこぶる悪いので、やはりその場合はL2をやるほうが早く治る。

 

昔は私は癌というのは<やきもちの塊>だと思っていました。或る人は、よくやきもちをやくのですが、わいわいとやいたことを口に出して言わせるようにすると、その癌が小さくなる。そういうようなことを随分見てきましたので、そう思っていた時期がありました。

まあ、いずれにしても<心と体を一緒のものとしてみていく>と、従来からあるものと少し違った<病理観>が出来上がってくる。

<体>に即して考えれば、癌というのは恐い病気であろうし、<痔>はお尻の穴の病気ということになるだろうけれど、視野をもう少し拡げて、<人間の全部>から見た場合には、頭の異常がお尻に出て来たり、腰の二番の異常がお尻に出て来たり、性欲の転換したものが癌だったりということが、いろいろ見えて来たりする。

そうして、それらの異常というものは、解決のつかないものではなくて、広い視野から見て、いろんな面を揺すぶっていくと無くなってしまう。私はこのことを、自分の体験としてやってきて、そう思うのでして、<やって治る>からそうだと考えてきた。求心的に、治してきた経過によってその病気の経過とか、性質とかいうものを知っていくという方向ですので、従来からある病気の見方とは随分違っている。

だから、癌といってもそう恐いものであではなくて、これも骨盤操法をするとすぐ治るが、それが胃の癌であっても腸の癌であっても、骨盤の操法をすると変わってくるのです。男の骨盤の操法というのはあまり変化がないのですが、女の骨盤の操法は、たとえ月経が無くなってからでも、明瞭に影響を起こしている。男と違った変化を起こしている。まあ、そういうように骨盤操法は女にとって一番重要なものなんです。

 

最近は、骨盤内の鬱血が<痔>の原因とされてきたので、骨盤で<痔>を治すということも、最近の医学常識に適う面があると言えるかもしれませんが、乳癌や胃癌や食道癌と言われた人がこの骨盤操法で変わってきたりすると、ちょっと妙な感じがしますが、それはこれまでの癌に対する対処の仕方や考え方を変えなければならない問題だと思うのです。

そんなわけで、私自身は、癌というものは、風邪を予防したり、風邪を治したり、結核を治したりしたことの結果として出てきた産物だと考えているのです。だから、癌だという人が風邪をひいたりすれば、もう大丈夫だと思うのです。

風邪を無理に治したり、風邪を予防したりということが、癌の生じる原因にあるのではないかと考えています。また、いろんな細菌をみな殺してしまい、その結果カビが増えてきたというのももう一つの原因ではないかと考えています。

ではどうすればいいのか、といえば骨盤の処理をする。

骨盤の変動は月経の前後、排卵日の前後かその当日が一番変化して、月経の最中は存外変化しない。月経の始まる前、終わった後、特に終わった後が一番変化する。

上手になればいつでも動かせますが、初めのうちはそういう時期を選んだ方がいいようです。

骨盤を締めて痩せさせる操法の場合でも、その時期に行うと、急速に痩せていく。それ以外の時期にはかなり無駄玉になる事が多い。操法が非常に上手になれば、効果はあげられるのですが、そういう骨盤が自然に動く時期以外のときにも自由に動かせるようになってそういうことをするのは、邪道なんです。そこまで巧妙な技術というのは、人間の体を修繕するというよりも、逆に体を毀してしまうという面が多いので、やはり自然の動きに沿って技術を使うというのが本来なんです。

ただ、月経が閊えたというような場合に、骨盤をトンと叩くという事をする。それはある意味で相手の体の自然の動きを破るものではあります。そういう体の自然の動きを破る必要のある時には、上手な技術がないと効かないが、骨盤操法というものはそれほど上手でなくてもいいのです。

 

(骨盤操法の実習)

ちょっと体を貸してください。うつ伏せになって下さい。骨盤操法を行なう前に、骨盤を弛めておかないと効果が上げにくいです。妊娠している人以外は、俯せにしてください。

これを持って、この脇にくっつけて、足をこう反らします。これをやりますと、骨盤は弛んできます。

これだけではフッと放したときに骨盤が逆に締まってしまうような人は、かえって緊張して動かなくなってしまいますので、そういう人にはこれをこう持ってくる。できるだけくっつけて、お尻が上がるところ迄持っていきまして、これをこう開くと、これをこう膝につけながらこう開くと、ちょっと拡げてもかなり強く響いてきます。それから戻す。戻す時は一緒に戻すようにする。これが骨盤操法の準備であります。

しかし拡げるのは、これ。片側に拡げるのは、これ。片側を叩けばいい。その方が拡がる。今のは拡げたり、落としたりする方、化月操法。骨盤を上げる場合には、L4が硬直していると動かない。いまの操法をやると、大体はL4が弛んできます。

L4が下がっている方の側に出ている場合には、これをちょっと上げるだけで多くは上がってきます。しかし、下がっている方へ逆に飛び出している場合、左が下がっているのに右が出ている、あるいは右に硬直があるというような場合には、非常に治りにくい。L4自体を押しても効果は鈍い。そういう時には、(仰向けになって下さい。)下がっている方の足をこう持ち上げる。これを折って、そとにこう廻して、足をこう内に踏んでいく。ゆっくりとこう引っ張る。曲げて、曲げたまま引っ張る。そうすると逆に引っ込んでいる場合のL4が出てくる。だから最近私は、腰椎のヘルニアでL4が狂っていることが多いので、みなこれで治しております。簡単でいい。お尻を押すより、足を引っ張って、放して治ったと。これでいいのですから、簡単でいいのでやっていますが、これはL4に直接影響があります。L4が特別に下がっている方の逆に出ている場合には、この方法をとる。

(俯せになって下さい。)多くの場合、腸骨が下がると、L4が引っ込んでいるか、極端に飛び出しているかします。

引っ込んでいるものは仙椎二番を軽く叩いているだけで上がってきます。L4がL3やL5に対して特別に引っ込んでしまっている時には、いろんな骨盤操法をしないでいい。これをこう叩いているとL4が出てきます。そして腸骨が上がってきます。叩くか、そうでなければ腸骨を下に下げます。何回か。そうすると下げるたびに上がってきます。どちらの方法でもいい。

問題は、L4が飛び出してしまって、腸骨が下がってしまっている場合、生理的に弱ってしまっている状態なんです。だから下がっている方が自然なんです。こういうのを上げると、方々に異常を起こします。しかし、異常を起こすけれども、それと同時に、腸骨が下がったことによる異常はなくなってくる。そんなことで、下がる度合いがごく簡単なうちは、こういう上げる操法を講じます。

この上げる方法は、足を開きまして、上げようと思う分だけ余分に開きまして、腸骨のこの部分をこう斜め上に、この腸骨櫛に向けてこう押さえます。ちょっと触ると、そういう時は痛いんです。自分でも判るんです。お尻のこの部分だけ冷たいんです。こう触ると。それは腸骨が下がっている人。だから歳をとってくるとそこだけが冷える。

よくそれを自覚する人がいますが、その部分を斜めにやると、自覚している人は痛い。痛く感じない人は、この方法では上がらないか、上げても保たないですから、無理に上げない方がいい。もう少しL4を中心に操法して、そして上がる時期になってから上げたほうが良い。

普通はこれでいい。向こうへ押します。それから仙椎の二番と四番の穴に、こことここを入れるようにして、こちらからの場合にジッと真下に押さえる。真下に押さえるのには手はこうずれますから、こっちをこう、これを押したのにこれをこうやる。そうすると腸骨は上がって参ります。非常に硬直している場合は駄目ですけれども、そういうのは頭の方を処理しなければ駄目ですが、これは寝小便を治すのにも時々使います。腰椎のヘルニアのなかに、L5が狂っていて仙椎部を押さないと治らないのがよくありますが、S2をパッと刺戟するとボソッと治る。L5そのものをいくら押しても治らないというのがありますが、そういう場合でもこれを行なって、腸骨が上がる時にS2をパッと押せば、すぐにボキっと治ります。これが一番易しい骨盤の操法です。

まだ骨盤操法は沢山ございますので、一応準備の方法とやり方を練習して頂こうと思います。これが操法の一番基本ですから、練習で覚えていただきましょう。

(練習)

はい、練習をやめてください。

腸骨櫛がL4の位置にあれば正規です。L4より下に行ってれば、下がったといたします。

どちらが下がっているか、それを確かめてみて下さい。

月経の直後の人は上がっていることがあります。あるいはエネルギーが余っている場合には上がっていることがございます。男で下がっているのは、神経衰弱で、それは神経系統に影響があります。男でも少しは下がります。ただ男は操法しても、女のようにはサッと変わらない。

下がりを見る場合に、その大きさが同じように下がっている時は下がりなのです。ところが、片方が大きくて、片方が下がりが小さく感じる時は、下がりではなくて、つまりこっちが下がっているのではなくて、これが前に行っているんです。前に行っているか、こっちが開いている。これが開き。これが下がりなんです。この部分のこれが下がりなんです。だかにらこれは開きとか前とかいうような面で見て、こちらは今の操法の準備も操法の対象になりません。こちら側の方が、今やっている部分です。

間違ってやりますと、これは練習で型ですから、あまり一生懸命に真剣にやると、体が狂います。狂いますと、狂った方の足首が硬くなります。そこで硬い方の足首を回転させてやわらげておきますと元に戻ります。だから、一応やったらば足首の回転をやって下さい。

それから、骨盤が前に行ってしまったり、巻き込んでいる時には、巻き込んでいる側の足を外側に開くと揃います。開く度合いは、その実際によって決める。

俯せになった場合に、足をこう揃えている人は、大体骨盤が正規の人ですが、外にこう向けている人は、こう向けてやっている時は骨盤が縮んでいる。つまり腰が緊張してしまった、あるいは腸骨が下がり過ぎた時に、外にやります。

だから俯せになってこう寝た時に、こうやっている人は、腰に力がつかえているんです。こうやっている人は、素直にいって弛んでいる。逆にこうなってしまっている人は、もう緊張し過ぎてしまっている。力が抜けないんです。

男の体を治す場合に、足をこう外側にして俯せにして腰椎の三番の一側を、硬結があればそれを押さえていると回春操法になるんです。開いたまま持ち上げるんです、お尻を。こうなっているのを、こう持ち上げていくんです。こう持ち上げる時に、L3の一側の硬結をギュウと押さえて、ポッと放すと、放す時機がよければ、それで変わってくるのです。これは骨盤を開く型の現れですけれども、意識してやると締める方法になるのです。だからそれを意識してやったものと、自然にやったものとは、アベコベなのです。開いているのと、締める方法としてやっているのとではアベコベなのです。

だからそれを区分して見ることは重要です。まあこの操法を受ける人は、大抵開いている場合が多いです。

それから、上がり下がりの中で、型が小さい時には、あるいは前に行っている時には、前に行っているのを少し開くようにすると平均します。これが次の、前に行っているのを正す操法になるのですが、共に足首の硬い人は治りにくいのです。だから足首の操法というのは、骨盤操法の準備というか、それとしてやる必要がある。

同時にやった後にこれを弛めるようにすると大抵元に戻るんです。だから骨盤操法をやった後で、ぐるぐる回転したらば、ご破算ということになる。そうするとやらない方がよかったということになる。今日のは、そのご破算にしておくんです。上手くいっている人は構いません、そのままで。しかし女の場合、あと始末をやって頂かないと、すぐその月から月経に変動を起こします。特にこれを押さえますと、これは股関節の狂いを治す準備の場所なんですが、これをやりますと月経は確実に狂って来ます。それも多くなるのが普通です。中にはあべこべに出なくなってしまうものもある。そんなのは、これをいじった場合には必ず足首をやって調節しておいて頂かないと、すぐ毀れてしまう。此処へ来ている人が皆毀れてしまったら整体協会は形無しですからね。

(練習)

どうぞおやめ願います。

月経の前後は、骨盤が開閉します。排卵日の当日は、少しの刺戟で骨盤が大きく動きます。もっと大きく動く時期は、分娩の後であります。分娩のあとの体の調節というのは非常に大事であって、その時期がむしろ骨盤操法の中心点であると考えていいでしょう。だから分娩の後さえ上手にやれば、その人の健康状態はかなり高度に導くことが出来ます。その逆に、この時期に不始末があると、ずうっと狂ってしまうことがよくあります。・・・

分娩後、腸骨が締まらないうちに起きてしまうと、太ってしまう。寝すぎてもいけない。太るという事以上に、それは見えない処、つまり膣内の筋肉の収縮力に影響する。収縮力が皆弱ってしまう。

骨盤が巻いたり、開いたりする開閉動作が不明瞭になって、上がり下がりの動作ばかりになる。下がりはたるんでしまったということなのですが、分娩後これが下がるようだったら、膣内筋肉がたるんでいるといっていい。

私が指導している人達に、分娩後の<起きる時期>を指導しますと、そういうことがなく、人によっては内部の収縮力が却って増えてきたというような場合が多い。

つまり骨盤の締まりがよくなる。

ただ足を「く」の字に曲げてトンと開くだけでも収縮する力は増えてきます。今のように、足首を外に行くのを内に矯正するようにすると、それだけで膣内の筋肉の縮む度合いが増えて参ります。

肛門を締めるようにすると、それがなお増えてくる。だから肛門を締めてそれを保つような訓練は、どなたもやったほうがいいと思うし、それは若返りにも通じる。

それだけではできないものを、骨盤操法でやるのですが、今日やったのは、骨盤操法というよりは、その操法をするための準備の問題といえる。・・・

今日は準備の方法だけを説明したんですが、こういう大袈裟なことは、普段はあまり使いません。何故かというと、骨盤が自然に動く時期にやるというのが建て前で、準備してやっとのこと動かすというようなそういう時期は、本来動かさないというのが我々の流儀だからです。だから準備をしてやるようなことは避けるようにしております。

自然にその月の月経時に、全部が弛まなかったならば、次の月経の後には全部弛むように操法する。

腰椎の四番を治す場合には、ここを押さえるとか足を曲げて引っ張るという程度の準備をすることはありますが、それはL4を治すにはそのほうが早いからです。

 

ところで、骨盤の矯正法とか、股関節の矯正法というのは、技術的には極めて難しいもので、相手の力だけを使って操法出来るようにならないと、出来ないんです。

やる側の力で、自分の力で力づくで押しているうちは、なかなかできない。

そういう点で、もうちょっと操法の、押すといいますか、呼吸で相手の体を動かす方法といいますか、力を使わない技術を進めないと、それらを行なえない。

中等でやった技術を自分で鍛錬して、身につけていないと骨盤操法は実効を上げることができません。みな、つい力を入れてしまうという習慣がついてしまっている。

中等では相手の力を利用してこちらの力を高めるということをやったのですが、この高等講座の場合は、<全部相手の力でやっていく>というつもりでやる。操法というものは、そうやって出来るものなのです。こちらの力で押さなくてはならないと考えているうちは、初等のレベルです。

 

(実技)

出来るだけそーっと触るだけで、こう触れば戻ってくる力があるんです。こう戻ってくる力を、戻る途中で、ちょっとこう受ける。こちらから押さなくても、戻ってくる力を受けるだけで、何倍かのショックになるのです。

だから、ただ押すだけでは駄目で、押す時にこれを絞っていかなくてはならない。こう押したのと、反動をつけてちょっと押さえる。反動を利用するということが大事なんです。反動をつけませんと、弱る。

今やりましたのは、手のここを押さえます。ここを押さえまして、これをこう引っ張る。これだけの操法なのです。<型>で押さえる。

力をちっとも使わないのに、相手が強く感じる。そういうことを会得しますと、骨盤は簡単に動かせるようになります。

一回揺すぶっても動かないものまでも、何度かこう揺すぶっていくとだんだん動くようになる。動くようになったものがフッと止まる。その勢いで形が変わるのです。

大きな石をこうやっても、動かないけれども、何回かゴロゴロ、ゴロゴロこうやって段々動きが大きくなった時に、トンと放すとゴロゴロ転がるのと同じように、最後の放す時、繰り返しやっているのをやめる時、その時が動かす時期なんです。

骨盤はそのようにやらないと動かない様な骨なんです。股関節も同じです。

だから、殊更にそういう技術を会得して頂かないと、力だけでは動かせない。

だからこの<型で押さえる>ということに特に留意してご練習願いたいと思います。

今日はこれで終わります。

 

 

「整体操法高等講座」を読む(23)婦人操法(3)

私たちの生活の中で生起する様々な身体の不調や、他者との人間関係で生起する葛藤などを、どのように理解すればよいのか。或る事象や現象は、それを<どのような文脈において理解するか>によって、まるで正反対の意味付けを与えることが出来てしまう為に、非常に難しい問題であると言える。

だから、<ものは考えよう>という言葉も、一定の真理を示唆しているわけだ。

たとえば、<風邪は万病のもと>という表現と、<風邪の効用>(風邪には効用がある)という表現とは、<風邪>という現象を、異なった<文脈>で、異なった意味として表現したものだが、そのどちらにも一定の真理が込められていて、必ずしも矛盾したものとは言えない。だから私たちは、或る現象を前にして、その現象にどのような意味を見出だし、どのように対処しようとするのかは、それぞれの人や、それぞれの状況に応じて異なったものになる事は、いつだって起こりうる。つまりそれは、解釈の問題であり、文脈の問題であり、視点の違いであって、決して優劣の問題ではない。

 

いま私たちは、「野口整体法」というそれ自体それほど一般化されてはいない世界の、ものの見方や考え方、あるいはそれによる対処の仕方などを学んでいるわけだが、そこに示されている人間の<身体>や、いわゆる<病気>というもの、あるいは<痛み>や<苦しみ>などといったものの理解について、野口晴哉氏という人間の固有の資質や経験や視点から導き出されたものであることを、いつも忘れるべきではないだろう。

「絶対的な真理」などというものは、存在しない。少なくとも、それが人間による、言語によって表現されたものである限り、どのような言説も、それは常に相対的なものでしかない以上、それは当然のことであると言わざるを得ない。

私たちが何かを学ぼうとする時、そこに示された言葉をただ単に受容し、生き方の指針にすることは、<真似び>であって、真の意味での<学び>とは言えないだろう。大切なことは、真似をすることではなく、その言説が<相対的なもの>であることを常に意識の中で忘れないようにしながらその本質を学び続けることだと、私には思われる。

意識にとって、全ての事象はどこまでも<未知>のままで生起し続けている。追えば追うほどに遠ざかるようにみえるのが対象の在り方である。しかし、どこまでも対象を追いかけ意味を見出だそうとするのも人間の意識であり、そこにこそ人間の人間たる所以もあるのであって、けっしてそれは無意味なことではないと思える。

まあ、こんな私的な思いを長々と書いていては、読者の方たちに呆れられると思うのでこれくらいにして、そろそろ講座に入ろうと思います。

 

整体操法高等講座」(23)婦人操法(1967.12.15)

前回は婦人の操法として骨盤の操法について説明しましたが、男と女を区分するのはそこだけしかないんです。あとは殆ど差はございません。差があるように見えますものはみな骨盤や腸骨の相違による影響でして、そういう影響を差し引けば、区分はありません。・・・

骨盤運動は、骨盤内の臓器の機能との関係が深く、月経があった場合には拡がる、終わる時には縮まる。分娩の時には拡がる、終わると縮まる、というように中の臓器の状況によって収縮・拡張の変化をしている。それ以外でも、生殖器を用いた時や、激しくヒステリックな動作をした時、激しい下痢をした時にも、骨盤に大きな動きがある。

・・・

更年期は一生のうちで一番弱くなる時期です。筋腫とか癌、あるいは更年期独特の生殖器の変動が起こる。たえずおりものがあったり、出血したり、頭痛やめまい、神経痛を起こしたりする。

そういう更年期の病気を丈夫にするためには、更年期を素早く越えてしまうと、ガーッと変わって丈夫になる。だから、そのための整体操法をすることは、自然であって、適切なことだと思うのです。

・・・

骨盤の開いているのを縮める操法を<回春>操法、縮んでいるのを拡げる操法を<化月>操法と呼んでいますが、男も女も<回春>操法で若返りたい、と皆言います。しかし、<回春>操法で若返ると思っていたのですが、更年期の変動、病気の場合に、この<回春>処置をすると、出血がもっと増える。足掻いてばかりいる期間が長く続く。

逆に<化月>操法すると、出来かけた筋腫も癌もフーっとなくなってしまうことがわかってきた。

だから、更年期の病気のひとには、それを早く治そうとして<化月>操法、昔はこれを<老衰操法>と呼んでいましたが、それを<異常を早く抜くためだ>というように自分で自分に言って聞かせるようにしてやってきました。

 

昔は、<回春>するということが、健康を保つうえで必要なことだと思って、男だけでなく女の体にもやっていました。少なくとも若さを保つという方法は、健康法として当然だと錯覚しておったのであります。

ところが、長い経験を経てわかったのは、更年期を素早く越えて安定したほうが、体も丈夫になり、気持ちも穏やかになる。そうして肌も一時ザラザラしていたのが、そこから急に立ち直って、急に奇麗になる。

いまでは、<化月>処置を施した方が、若さをいつまでも保てるようになるんだと考えています。

だから、男と女の操法の第一番目の区別はそこにあると思いまして、ここ十年ほどはやっていて、やっと<回春>という妄想から解き放たれて、<化月>処理が、自分への言い聞かせなしに行えるようになりました。良心が咎めることもなくなってきた。

女は、力のあるうちに、そういう<化月>をしたほうが良い。男は七十でも八十でも<回春>処置はすべきだと思いますが、女は若さが残っているうち、まあ五十になったらそういう事(化月)をとったほうが、その後ずーっと長生きする、丈夫になる。

そうは言っても、それを理解するのは大変なんですよ。みんな若いほうがいいと思っている。だけどもその時の姿をそのまま後に残すということになると、それはその方がいい。月経が早く終わったという人ほど、若いです。五十、六十になっても若い人に、月経がいつ終わったかと聞くと、みな意外に早いのです。

回春操法は男の操法であり、化月操法は女の操法だ、というふうに分けるべきだと今は思っています。同じように操法していたのは、私が余分なことを考えていた時代の妄想に過ぎません。その妄想の時代の考え方を取り消して、化月を<女の操法>としてやっていくことをお勧めします。そうすると、古びないうちにやる程、新しい状態を保って、それを後々までもっていける。

こういうことに気づくまでに、三十数年もかかりました。それまでは、女の人に若返りの操法をやって、かえって筋腫が大きくなったり、変動が大きくなったりしてどうしようかと考え、その対応を操法でしていた。そして一方では若返らそうともしていた。両立するつもりでやっていたんです。今となれば、そういうやり方が非常におかしいと思う。

そんなわけで、女の操法として、骨盤を拡げることのほうが、縮める操法よりも多くなりました。

ただ、あきらかに余分にあぶらがくっついて太っている場合には縮めることもします。それは骨盤の動きをスムーズにする為に行うのですが、そういう状態の時は、骨盤が拡がり切る七割か八割の段階でストップしてしまって動かない状態なんです。そうなっている時に太る。それ以上開くことも締まることも出来ない状態。そして自分の体が重く感じられ、身動きが苦しくなる。

この開くのも締まるのも出来なくなった状態で拡げようとしても難しいのですが、その逆に、<一旦締める>ということをすると、動き出すんです。そうすると骨盤がスムーズに動き出してくる。

 

人間の体は、流動してずっと動き続けるのが本来ですが、その動きが閊えると<異常>が生じてくる。これは心の動きが閊えた場合でも同じで、異常の元になるんです。動いてやまないのが人間の生きている特色でありますから、そうした<動きの閊え>を除いたり防いだりすることが唯一無二の整体操法なんですが、骨盤の拡がりが閊えてストップした場合には、<一旦締める>ということを何度か行なっていくと閊えがなくなって、自然に拡がるようになるのです。そういう技術が必要なんです。・・・

 

女の体の独特の故障は、骨盤を拡げると良くなってくる。逆に、縮めると故障の兆候が濃くなってくる。

拡げると、反発力が鈍くなってそういう徴候が薄くなるのかというと、そうではなくて、何か栄養が足りなくなった樹木が枯れていくような、そんな具合で良くなってくる。そして故障が治ってしまう。

 

閊えているものに対して、もう一回骨盤を締めて、自然に開くようにしていく。閊えたらまた締めて開くようにしていく。そういう技術によって、一連の経過のなかで、体が痩せてくる時期が生じるのです。そのことを、みんなは<痩せる方法だ>と思って、その方法を求めてくる人が多くなってしまったのですが、私としては、活きのいいうちに止める、その活きのいい体の状態を温存するために、自然に開くようにするために縮めるということをしているのです。

これをやった人は、月経が早く切りあがる。スパッと止まる。いつまでもダラダラやっていない。だから締まった状態が保てる。いつまでもやっている人は、太っている状態が続いて、月経が終わっても太ったままでいる。

月経を終えちゃって太っている人の中に、骨盤を締める操法をすると、また月経が回復することがあるのですが、それが半年、あるいは一年半にわたることがある。それは締めた効果であって、閊えていたものが出る為に月経が回復するのですが、そうでない月経があるうちの場合は、月経のあがりが早くなる。

だから、月経のあるうちに締める操法をすべきだと思うのです。月経がなくなってからやると、一応もう一回月経がある段階がある。そうして痩せ始める。そんなときは皆若返ったことを実感し、顔色まで元気になってくる。

ところが、その後、体が締まり、月経もなくなった頃、一旦女らしさを失ったような殺風景な状態になります。その時に、再度<骨盤引締めの操法>をいたしますと、以前のような若々しい感じが出て参りまして、体の故障も無くなっていく。

 

だから、健康を維持するという面からいえば、早く<化石操法>を行なうべきだ、ということが判ったわけです。<化石>というような名称がついてしまったために、随分躊躇してしまっていた。私はこの操法が、男の喜ぶ<回春>操法と同様のものだとずっと混同していたために、三十年も気づけなかったのです。

<化月操法>を女の操法、<回春操法>を男の操法と区別した理由の焦点は、以上のことにあるのです。

 

だから骨盤を拡げる操法を行ないますと、激しい月経痛であるとか、不感症であるとか、癌であるとか、筋腫であるとかいうのは無くなってしまうのです。不感症はまあ別の問題ですが、そういう女の体の独特の故障は、骨盤を拡げればなくなってくる。

 

(栄養の問題)

私は昔から、健康を保つためには栄養のいい状態を続けることだ、と確信を持っていました。ところが、必ずしも栄養が充実しておればいいのではなく、栄養を摂らないでいることが必要な時期というものがあることが判ってきました。栄養を余りとりすぎると、かえって体の素直な適応が行われない時がある。

体の要求で食べている人は、そういう時期には食べることに淡白になるが、何でもかんでも食べて栄養を摂らなければと、頭で食べている人は、たえず病気をつくっている。

更年期の、子宮がんとか子宮筋腫とか卵巣嚢腫とかいった婦人の病気を見ていますと、どうも頭で食事をしているような人が多いように思われる。

私自身、栄養の維持が必要と、ずっと考えてきて、どうもそうではない場合があるということは、多くの経験から最近になってやっと判ってきたに過ぎないのですから、あまり他人にそういうことを強要するのはおかしいことなのですが、どうもそういうことがある。

今の生理的な身体だけを主にした医学の段階では、<栄養が必要でない時期がある>というような考えかたは受け入れられないかも知れないが、やがて<生活している人間>という視点から医学が新しく組み立てられるようになれば、そういう事も問題にされるようになってくるはずで、五十年も経てば、そのことが判るようになると思います。

 

私は、三十年ほど前は、<肝臓操法>が私の治療法の中心でしたが、当時は肝臓の異常というものは殆ど問題にされていなかった、それがやがて多くの医者がその重要性について言うようになってきました。戦後は、副腎が問題になると言って、やっていましたが、最近は大分それがにぎやかになって来ている。

同じように、栄養の問題も、それが必要とされる時期とそうでない時期があるということは、だんだん判ってくると思います。

 

栄養が必要でない時期というのは、子どもにも大人にもあります。一生の間でいうと、一番栄養が必要な時期は生後十三か月。一番要らないのは、更年期の前後。それ以外だと、栄養が余分に必要な時期と、要らない時期とは交互にやってきます。そういう<波>がある。

そういう<波>に乗っていれば無理なく病気は経過出来るのですが、そういう<波>を無視して、自然の食欲というものを見失って、観念で食欲を引きずって、何でもかんでも栄養を充たそうとすると、健康になれない。

<空腹の快感>を知ると、自然の食欲というものが判ってくるのですが、始終満腹にしようと頭で食べているのは、食欲ではなくて惰性でそうしているのです。

食事の量を減らすという事への恐怖をなくすためには、<空腹の快感>を知る訓練も必要だと思うのです。本当の食欲というものを知る為に、特に更年期の前後の人には、そういう訓練が必要です。栄養が落ちることを不安に思わないようにする。余分に栄養があるために筋腫や肉腫ができるということがあるということを、知っておく必要があるのではないか。

そういことがうまくできるようになれば、更年期のいろいろな難しい病気は、大抵自然に根が切れるようになっていきます。ただし、減食というものは、病気を治す方法ではなくて、余分な栄養によって余分な病気を作らないようにするための方法です。

 

整体操法の立処)

昨日、糖尿病の人に減食を奨めた、と言っている指導者がいましたが、私は彼に「糖尿病を治す為に減食を奨めるとは奇怪だ」と言いました。というのは、我々の立場は、インシュリンを分泌せざるを得ない様な状況にその体を追いつめることで、その体自身のインシュリンの分泌を促すことである。減食したり、食養生したりして糖尿病を治すというような立場にはないはずです。これは栄養がある、これには何々がたくさん含まれていて体にいい、とかいうのは薬を飲んでいるのと同じ考え方なんです。食べ物を選りどるということの究極は薬の服用です。欲するから食べる、旨いから食べるのが本来で、糖尿病のような場合には、インシュリンを分泌するように、悪いと言われたものをせっせと食べればいいんです。そうして体がインシュリンを分泌するような状態に向けていく。そして整体操法をした結果、少しの食事で栄養が充ちるようになり、沢山睡眠をとっていたものが少しの眠りで疲れが抜けるようになる、というようにしていくことが我々のなすべきことなんです。

しかし、更年期の場合には、<栄養の充実が健康にとって必要だ>、という考えでは駄目なんです。その場合は<栄養を減らす>という考えが必要なんですこの時期は、体の中に、少しでも多くものを貯えたいといった要求が激しくて、食事でもせっせと食べるようになるのです。これは普通の食欲ではなくほとんど本能に近い。執念に似ている。それをあえてやめさせることが大事になるのです。

これは、左の腸骨をちょっと拡げるようにすると食欲がなくなってくる。

更年期に肝臓の悪い人がいまして、子宮出血している。肝臓の異常で子宮出血する人は少なくないんですが、これは過剰栄養によって出血をつくっている。さっき、余分な栄養の為に癌や子宮筋腫をつくると言いましたが、肝臓異常による子宮出血もそういうもので、それでいてせっせと食べることをやめないんです。そこで左の腸骨をちょっと拡げましたら、治ってしまった。

もちろん、腸骨をやらなくて、正規の食欲が動き出すのが本来で、そのほうが治りがいいのですが、それが判らないために臨時のブレーキが必要な場合もある。簡単にできるからといって濫用はなさらないでください。

右の足首も食欲に関係しています。・・・

今日はこれで終わります。

 

 

 

「整体操法高等講座」を読む(22)婦人操法(2)

今日は婦人操法の第二回目です。私はちょっと脇道にそれて、三木成夫(しげお)氏の『胎児の世界 ー人類の生命記憶ー』(中公新書1983.5.25)と、最相葉月(さいしょうはづき)氏と増崎英明氏の対談本『胎児のはなし』(ミシマ社2019.2.4)の二冊を同時並行で読みました。前著書はその帯に、養老孟司氏が「三木さんは、今まで出会ったなかでいちばん破天荒でスケールの大きな先輩だった」と推薦の言葉を寄せています。

後の本には、増崎氏の序文冒頭に、三木氏の『胎児の世界』に感銘を受けたとして次のように書いています。「子宮という「見てはならぬもの」の扉を開けて、胎児の変身に生命進化の記憶をたどった、解剖学者・三木成夫(1925-1987)のロングセラーです。私はこれを二十代の頃に読んで、深い感銘を受けました。生命の太古の記憶から書き起こされた詩的な内容なのですが、人間の胎児の標本を入手してその相貌に迫っていく過程は、ミステリーの謎解きに伴走しているようで、心臓をばくばくさせながら読んだことを覚えています。」と。

両著ともに<胎児>をめぐる人間の生命の不思議が、三木氏繋がりで語られていて、とても興味深いものでした。<男>である私が、少しでも<女>を理解できるようにならないと、当然のこととして野口氏の<婦人操法>の理解も浅いものになってしまうに違いありません。

 

整体操法高等講座」(22)婦人操法(2)(1967.2.5)

最近、人間の体の変化が早くなってきている。十七歳で初潮があるという時代が、私の一番覚えている時期であります。それが十五、六歳にあるようになった。一般に月経が始まる時期は、北の国よりも南の国のほうが早い。

・・

歴史を見ると、北の民族がだんだん南へ行って、南でぼける。つまり人間的な能力が欠けてきて、動物的な傾向だけ 強くなってきてそして亡んでいくということを昔からやってきている。気候の良いところに居を構えて、暮らしも自由で、田畑も豊かなので動かなくなり亡んでいく。日本にいながら南国に近づくことが良い事か悪い事か判りませんが、警戒を要することがないとは言えないと思います。

・・・

ところで、女の場合は、男と比べて感じたことと行動とがくっついていることが多い。

男は仕事とか、観念とか、知識とかいうもので別の角度になっている。しかし女は、女である時期の影響を受けやすい。性になるエネルギーが頭に行かないで、感情に行くような場合は喜怒哀楽が激しくなる。子ともに向かって本気で腹を立ててしまうというのは、エネルギーが閊えた状態です。分散しないでみんな鳩尾に来てしまう。

そういう場合には、<一側>の線がズーっと緊張して、胸椎の六番に、あるいは八番に行く。頭に行けば理屈っぽくなる。腰椎三番に行けば我慢ばかりするようになる。

そういうように、体を丁寧に読んでいきますと、捨てきれなかった性がどこ転換しているかという事が判るようになる。

男の場合は、それが一旦頭の働きになって、そのあと腰に帰って行けば正常なんですが、腰に帰りそびれて感情になったり、運動になったり、いろいろしたくなったり、喧嘩したくなったりというような転換をする。それも同様に<一側>に現れてきます。

 

そこで、そのエネルギーの行き来、転換する場所を知っておきませんと、体の観察としては不備があるということになる。

 

この<一側>の変化を見ることが出来ないと、これからお話しすることが全部出来ないことになってしまいます。

この間から指導者の人達にテストしてみますと、的確に<一側>を掴まえている人が少ないのです。

一側のすぐ脇に筋肉の硬直したのがありますが、それを一側だと思い込んでいる人がとても多い。

もっとも、その脇の筋肉を一側とみて操法しても、効果は同様にあるんです。だから技術としては思い違いで操法してもそれほど問題はないが、観察という面では判る判らないが決定的になってくる。

そこで、本物の<一側>の触り方を、改めてここで練習して頂こうと思います。

<一側>がちゃんと触れるようになると、観察の道も開いてくると思います。

 

骨盤が右屈したり左屈したり狂いがありますと、仙骨と腸骨の境が異常を起こしてくる。それは仙骨をおさえている腸骨の圧力が、左右違うという事です。

片方がくっついちゃったり、落ちちゃっている。

ここの調整を行うと、<一側>は明瞭になってくるのです。これをこのままにしておくと一側の全体が筋肉のように硬くなってしまって一側が読みにくいのです。

それから、頭の、頸上の一、二、三という場所が硬くなっていますと、やはり一側が読みにくいのです。一本になってしまっている。

ですから、<仙骨部>の周辺の操法、<腸骨>の周辺の操法、<頸上あるいは後頭部>の操法というものが、一側を調べるに先立って重要になってきます。それらを操法すると<一側>の線が浮かび出してくる。

上からくる方は男、女の場合は下から上に行く<一側>がどこで途切れているかを見れば観察ができる。

 

女の病気にもいろいろありますが、その九割五分くらいは、生殖器の能力の問題です。一つは発育不全の場合、一つは無知による自発的要求に拠らない行為によって生じる場合、一つは妊娠に対する恐怖がある場合、一つは性欲を解決して妊娠しまいとする行為によって起こる場合。この四つの面から見ていかないと解決がつかない。それ以外の病気は<これら四つを原因としていないもの>というふうに一括りにみれば形はつくので、これら五つを会得すれば、大体女の体の観察は出来るわけです。

前の四つは<一側>によって読んでいくものですから、一側の問題をまずキチンと仕上げておこうと思うのです。

 

(観察)

やり方を説明いたします。ちょっと坐って下さい。こっちでいいです。ちょっとお辞儀をしてくれませんか。はい、結構です。

判りますか?右と左と差があり、左が平らであり、右が上に行っている。右の腸骨の方は生きているが、左の腸骨の方はもう平らになっちゃっている。乾いてきている。だから、両方が左のようになったら、もう卒業時期なのです。ところが女というのは死ぬまで卒業しません。男はいい加減で卒業するのに、女は死ぬまで女です。・・・

今話をしているうちに、だんだん体が左に曲がって傾いてきたでしょ?だからときどき右に体を動かさないと、長い間には曲がってしまう。左右のバランスはそんなような処から起こってきます。

平らになっている方は、前屈傾向を持っています。だからこういう場合には、左が前に行く。前に行く度合いが、左の方が強い。そこで体が右へ、右へと捻れる傾向になってくる、動作すると。

腰椎から上でそういった右屈や左屈が出ても、一向に構わないのです。それはまあ普通なんです。ところが仙椎部から歪みが起こってくると、そういうような女の機能と直接関連しているとみなければならないので、右屈や左屈といっても、それが腰なのか腸骨なのか、仙椎なのか、股関節なのかといった区別が必要になります。

誰でも初めは腰椎で調節しようとするのですが、それがだんだん下の方で調節しようとしてくるのです。終いには恥骨を前に出してこんな格好で歩いてくる。これは全部ここへ集めたのでして、本人は腰が曲がったのでこんな格好をするのだと思っている。

 

はい、うつ伏せになって下さい。そこで仙椎部をみます。仙椎が下がっている平らな方を操法いたします。寝るとあべこべになりますね、平らな方の骨が小さいんです。さっき小さく見えた方が、伏せになると大きくみえる。下がっているのが右だと、結論がでるのです。緊張しているとこっちが下がっている。そういう差のあるうちは、まだ正常なのです。

腸骨の周辺のこれを下に下げる方法、あるいはこの中に指を突っ込んで、腸骨をはがす方法というのが、この場合第一の方法なんです。

それからこの仙椎と腸骨の境の処、仙骨に孔があいている処があります。孔のすぐ外側、ちょっと痛いところを押さえますと、それを仙骨に沿ってこう押さえていくんです。こちらはあまり痛くないけれども、こちらは痛いですね。悪い方が痛い場合には、まだ回復する可能性があるということですが、この部分を尾骨迄押さえていきます。痛いところがある。それはいろいろ意味がありまして、後で説明いたします。

ともかく、操法としては、これをこう押さえる。尾骨のつながり目の処まで押さえる。だいたい片側、悪い方だけでいいです。Tさんの場合は、左側がみんな痛い。痛いが快痛でしょ?。ここを押さえる。ここは特に生殖器お能力に一番関連のある場所で、それはそのまま一側の変化に連なってくるんです。

一側が硬くて触れないという場合には、仙椎のこの部分に特別痛いところがある。骨が膿んでいるように感じる痛いところがある。そこを押さえる。これを何回か押さえていると、すっかり弛んできます。若い人の一側は探しやすいのですが、歳をとってくると判りにくい。

仙骨と腸骨の間にある、このハート形の部分をまず押さえることをやってみて下さい。押さえる前に、一側を調べておいて、やる前と後とではどう変わるかを確かめて頂きます。

これは発育不全を治すのにも、早漏を回春させるのにも重要な場所ですが、今日は一側の変化をはっきりさせる処とお考えになってやってください。

 

ここに腸骨の模型がありましたので、これで覚えて頂くと、この縁(ふち)のこれではないんです。ここに筋肉がありますから、この縁の内側をこう押さえていく。この縁にこう押さえていくと、この筋肉の内側に触っていく。ただ、ここに異常があるのは、この骨を触ると、それが膿んだような痛みがあります。だから、そういう意味では<硬結>ではないんで、相手の痛みの感じを主体にしてこの縁を内側へ、内側へと押していって、それを続けていく。これを外から押すのではないんです。内側に押す。

それから、<一側>と申しますのは、腰椎の場合ですと、この骨のすぐ縁の筋肉に線があるんです。麻の紐のような、アキレス腱のように何本もの線が一緒になっている。それが筋肉にくっついているんです。その筋肉を一側と勘違いする人が多い。筋肉は一つになっていてバラバラにはならないのですが、<一側>はその内側にあって、はじくとバラバラになるんです。それを観察する。<一側>をずーっと押していって、ちょっとえぐるようにするとバラバラっとなっているのが判ります。そこに指を当てて、ちょっと引くと見つかります。見つけてしまえばこうやるだけでも触れるのですが、それまでは相手にまたがって、重さをかけて、かけたままで骨に沿ってえぐるようにこうやると、触れます。私は椎骨の縁をバラバラと触るだけで、一側の何処に異常があるか見つけてしまいますが、なれればそうやって触れるようになります。

ただ、バラバラになる処は異常のないところです。異常のある処は、一つに固まってしまっていて、その外側の筋肉と一緒になってしまっている。力が余ってしまっている場合も<一側>は固まっています。

もう時間が参りましたので、今日はこれで終えましょう。次回までに、皆さんで練習しあって、今年中に一側の問題は片づけてしまいたいと思います。見方だけでなく、発育の遅れをどうやって促進するのか等の面を具体的に覚えて頂かないと、女の操法になりませんから、その面で少し急ぎたいと思います。一月の計画は先にいって立てますが、もう余り日がないので、少し急ごうと思います。どうぞなるべくお家で練習して、高等講習を終えたが一側がどれだか判らないというのでは困りますから、どうぞそれをはっきり確かめておいていただきたいと思います。ではこれだけに致します。

(終)

 

 

「整体操法高等講座」を読む(21)婦人操法(1)

個人は、他のどの人とも異なっている。その差異を正確につかむことに、これほど厳密な方法を徹底した人間はそう多くはいないだろう。整体操法講座を読み進めていくと、そのことが朧気ながらも理解できるような気がしてきて愉しくなる。野口氏が語ろうとしていることは、一人ひとりを真に<個>として理解するにはどういう方法が可能なのかという、観察実験の記録のように思えてくる。

<ここを押せば、こうなる>というような直線的な因果関係の一般的理論から、どんどん遠く深くへ突き進んでいくその後ろ姿を、われわれは必死になって追いかけなければならない。それが整体操法を学ぶということだと思うからだ。

ただ、このブログで、<読む>シリーズを続けていて思うことは、私の行為が、極めてヴァーチャルな世界に入り込んでいくものだということだ。野口氏の口述記録を<読む>際に、私は記録された文字の向こう側に、野口氏が今、ここで呼吸し、聴講する人たちにちらっと鋭い眼光をむけたり、ため息をついたり、言外に滲ませる熱い思いに触発されたりといった、リアルな体験として、何とか味わいたいものだと感じている自分がいる一方で、しかしこの体験は所詮仮想の空間にすぎないのではないか、という不安をも同時に感じたりしているわけだ。

私のリアルな、現実の時空間と、野口氏の語っていたあの過去の時空間を辛うじてつないでくれるのは、私のこの<生身のからだ>でしかない。このからだが、十数億年を経てきた人間の身体や遺伝子の共通性があって初めて成立する、共通の時空間や認識空間を恃んでの<読む>行為となる。つまり、野口氏の厳密で徹底した生き様から導き出されたことばの一つひとつを<わたしのなかでリアルに再現する>ことが、野口氏の後ろ姿を追いかけるという事であってみれば、容易ではないながら、不可能ではないはずである。ただし、<わたしのなかでリアルに再現する>という事の意味は、もう一方で、私自身のそれまでの知の枠組みを解体し、組み替えていくという作業をも伴うことは忘れないでいたい。

そのことの備忘として、次の内田氏の文章をコピペさせていただきます。

内田樹氏がそのブログ「言葉の生成について」(2018.3.28)で、次のように書いています。

・・・読解力というのは目の前にある文章に一意的な解釈を下すことを自制する、解釈を手控えて、一時的に「宙吊りにできる」能力のことではないかと僕には思えるからです。 難解な文章を前にしている時、それが「難解である」と感じるのは、要するに、それがこちらの知的スケールを越えているからです。それなら、それを理解するためには自分を閉じ込めている知的な枠組みを壊さないといけない。これまでの枠組みをいったん捨てて、もっと汎用性の高い、包容力のある枠組みを採用しなければならない。
読解力が高まるとはそういうことです。大人の叡智に満ちた言葉は、子どもには理解できません。経験も知恵も足りないから、理解できるはずがないんです。ということは、子どもが読解力を高めるには「成熟する」ということ以外にない。ショートカットはない。・・・ 以前、ある精神科医の先生から「治療家として一番必要なことは、軽々しく診断を下さないことだ」という話を伺ったことがあります。それを、その先生は「中腰を保つ」と表現していました。この「中腰」です。立たず、座らず、「中腰」のままでいる。急いでシンプルな解を求めない。これはもちろんきついです。でも、それにある程度の時間耐えないと、適切な診断は下せない。適切な診断力を持った医療人になれない。 今の日本社会は、自分自身の知的な枠組みをどうやって乗り越えていくのか、という実践的課題の重要性に対する意識があまりに低い。低いどころか、そういう言葉づかいで教育を論ずる人そのものがほとんどいない。むしろ、どうやって子どもたちを閉じ込めている知的な枠組みを強化するか、どうやって子どもたちを入れている「檻」を強化するかということばかり論じている。しかし、考えればわかるはずですが、子どもたちを閉じ込めている枠組みを強化して行けば、子どもたちは幼児段階から脱却することができない。成長できなくなる。でも、現代日本人はまさにそのようなものになりつつある。けっこうな年になっても、幼児的な段階に居着いたままで、子どもの頃と知的なフレームワークが変わらない。もちろん、知識は増えます。でも、それは水平方向に広がるように、量的に増大しているだけで、深く掘り下げていくという垂直方向のベクトルがない。 読解力というのは量的なものではありません。僕が考える読解力というのは、自分の知的な枠組みを、自分自身で壊して乗り越えていくという、ごくごく個人的で孤独な営みであって、他人と比較したり、物差しをあてがって数値的に査定するようなものではない。読解力とは、いわば生きる力そのもののことですから。
現実で直面するさまざまな事象について、それがどういうコンテクストの中で生起しているのか、どういうパターンを描いているのか、どういう法則性に則っているのか、それを見出す力は、生きる知恵そのものです。何か悲しくて、生きる知恵を数値的に査定したり、他人と比較しなくてはならないのか。そういう比較できないし、比較すべきではないものを数値的に査定するためには、「読解力とはこういうテストで数値的に考量できる」というシンプルな定義を無理やり押し付けるしかない。けれども、ある種のドリルやテストを課せば読解力が向上するという発想そのものが子どもたちの「世界を読み解く力」を損なっている。・・・

 

今日も、あれこれグダグダと考えながら、野口氏の言葉を私なりに解釈し、要約しながら進めてみたい。

 

整体操法高等講座」(21)婦人操法(1967.11.25)

 *原文には今回の講座のサブタイトルの記載はないが、次回以降には「婦人操法」となっているので、成人した女性という一般的意味での<婦人>をここでも付記しました。

 

今日からは、女の体の操法についてです。女は男とは違った構造をしている。男に比べて自己保存の本能の働きも、種族保存の本能の働きも強く現れている。

この講座で<女>というのは、生理が始まってから終わる迄、つまり妊娠する機構のある期間と、ひとまず定義しておきます。これは、操法する上での便宜的な定義です。

その機構のどこかに変調があると、それが心の面やその生活面で強く影響し、反映される。言い換えると、生理的な<波>に強く影響される。心理的な面までも、この生理的な<波>に動かされる機会が非常に多い。それが<女>の特色の一つです。

だから、優しいはずの人が急に強欲になったり、慎ましやかな人が、急にがめつい動作をし始めたとしても、それはその人の思想信条が変化したというのではなくて、体の<波>が変化しただけなのです。

 

女が<女>である時期は、生殖器の構造の違いによるだけで、それ以外には独特のものはない。だから<女>の体を操法するという問題は、生殖器の機構、機能を中心に考えていく必要がある。いろんな異常も、生殖器を調整すると治ってしまうことが多い。

それは男の生殖器の異常を調整した場合より顕著に現れる。それぐらい生殖器の影響が直接関連している。

だから、男の胃潰瘍と、女の胃潰瘍を一緒だと考えて治療したり、外科的処理をすることは違っている。胆石でも、子宮の血行を調節するとなくなってくる。

 

<女>の生殖器の構造は学校で習ったっ通りですから省くとして、その神経系統について説明しますと、D11が卵巣関係。L1、L3が子宮関係。子宮や生殖器の機能面に直接働きかけるものの殆どは<仙椎部>のものです。特に足から仙椎部にかけての下半身の殆どは、生殖器と見做してもいいぐらい関連が深い。

男と女は、操法の上では分けて考える必要がある。そして女も、<女>である時期の以前と以後では、異なった対応が必要になる。もちろん、<女>の以前と、以後が女でないかといえば、そんなことはない。当然女と男の区分は必要です。

だから、乳児期、小児期から四歳ぐらいまでと、生理が終わってからも、女であることに違いはない。ただ、<女>に時期に絶え間なく生じてくる問題と、それ以外の期間での問題とは、操法のうえでは異なる対応が必要だということです。

 

同じ下痢をしたとか胃腸を毀したとかいっても、二十代、三十代の女の方が、同年代の男よりも治りが早い。しかし、四十代、五十代の更年期の女となると、治りが遅いし、時に死ぬこともある。腸チフスで警戒を要するのはそういう時期です。

七十代になると、下痢で弱るのは男です。子どもの大腸カタルと同じぐらい体の消耗が激しい。青年期の大腸カタルは男も女も少しも心配がないのです、その時の体力状況を示すといった程度のものです。ところが、七十代の下痢は、警戒が要る。その場合、男の方がそれによる死亡が圧倒的に多い。

脱腸などが治っている人でも、七十になると再発する人がよくある。

そんなように、年齢によっても、大丈夫な変調と、警戒を要する変調とがある。

結核は十七歳ぐらいに始まった場合が、一番脆い。それ以外は何でもない。七十くらいに結核になると今度は脆くなる。そういういろいろな<時期>がある。

 

<女>という時期は、子どもの時期とか、老人の時期とか、男の時期というものとは異なった<特殊な対応>を必要とする、ということを申し上げたいのです。従って、その時期の操法は、男の場合とはみな違ってくるのです。

老人や子どもや男には、共通するものがあるのに、それが<女>にも共通するかといえばそうではないんです。同じ症状をおこしても、操法は全然違ってくるのです。

私が男だからこういう説明になるのですが、女の立場から言えば、男の生理的な面の説明の方が必要なのかも知れませんが、ただ男の場合は、子どもや老人の場合とあまり違いはないのですが、<女>の場合には非常な違いがあるんです。だから男や子どもや老人に対するようにはいかないんです。毀れ方が異なっている。

 

胃袋の異常の場合でも、女の場合はC1・2・3・6・7、D5・6の右、D7・8・9・10の左を操法する。そしてその中に、L1・2を入れる場合もある。

男の場合の胃袋の故障はD5だけでよくて、D6・7の右、特にD6の右は要らないんです。要る場合でもD6は左が問題なんです。女はD6の右を入れる。

頸椎部も、男はC6・7でいいんですが、女の体の場合は、D6・7に影響があった場合に対応する調整方法としてC1・2・3を入れるのです。

つまり、これらは胃袋の故障を対象にしているのではなくて、胃袋の故障に影響を及ぼしそうな生殖器の異常を想定して考えているということです。

だから、女の体の治療というのは、男の体の治療の常識をもってしては難しく、また実際にそれは出来ないのです。

 

実技練習

女の操法で第一番に注意する処は、<骨盤>です。月経の際も、妊娠・出産の際も、骨盤が拡がったり、縮まったりしていますが、骨盤の状況は、女のいろんな病気と関係している。

骨盤を見る時、まず<恥骨結合部>と<腸骨部>の二つに分けて考えます。

骨盤の開き具合が左右同じかどうかをまず見ます。左右が同じであることが必ずしもいいというのではなくて、左右の骨盤の<可動性>が同じでなければならない。左右位置がずれていても、<可動性>が左右同じであれば、簡単なショックを与えてておけば自動的に戻ってきます。<可動性>が左右で異なっていると、ずれや曲がりが固定されてしまう。

そこで先ず最初に、腸骨の可動性の測定と言いますか、それをみておこうと思います。それの簡単な方法は、上から下に下げるんです。それが第一。後ろから前にやるのは仙椎の二番で、これを刺戟して測定します。仙椎の二番と尾骨のつながり目を揺すぶってその可動性をみます。横のそれは腸骨櫛の状態によってみます。あるいはこれを上から下に揺すぶってそれをみます。骨盤のお腹の方の側で、どっちがこう寄っているか開いているか、これをみます。恥骨が曲がっているかどうか、飛び出しているかどうか、それをみます。形よりは可動性を主体にしてみます。もちろん、お尻の形や、貯えているエネルギーの問題も、観察は必要ですけれども、骨盤の状況が悪いと、貯め込んだはいいが動かないんです。それで貯め込んだそれが自家中毒を起こして老衰を早くしていくという場合も少なくありません。骨盤がきちんとすれば、いざという時にサッと余剰エネルギーが発動してくる。骨盤の位置が狂っていたりすると、そういう治る力をかかえていながら発動しないんです。

 

うつ伏せになって、先ず臀部を調べます。これは主にその弾力によって調べる。

次に、骨盤をいろいろな角度に動かしてみて、どういう角度の動きが悪いかをみます。異質なものは、揺すぶれる度合いが少ない。動かない感じがする。こうやって、動く感じがすればいいんです。その動かない感じの処を先ず見つけて処理するんです。

ちょっとお互いにやり合ってみて下さい。

足に裏を一回ご覧になって、骨盤を調べたら、その足の裏の硬さと合わせてみると、特に足の周囲の硬さと、足裏の真中の硬さを調べてみると、かなり一致しているものです。骨盤の上下の動きが悪い場合は、踵が腫れ硬くなっています。親指のここの硬いのはその側のお尻が下がっています。腸骨の開きの悪いのは踝が下がっています。骨盤全体が硬くて可動性が少ないのは足首が強ばっています。

まず足首から調べて、それから足の裏を見ていくといいと思います。

 

おやめ願います。

足首から足の形、足の使い方の癖といったものは骨盤状況にそのまま反映しています。

踵の悪いのは、骨盤の前後運動が悪いということです。つまり骨盤が余分に開いている。それは生殖器の収縮する力が弱いということでもあります。だから<老衰>すると踵から変化してくる。その次に悪いのは、踝が落ちてきます。踝が落ちてくると、その能力がずうっと減ってくる。分泌が足りなくなってくる。

骨盤を治すと、踵も奇麗になるが、顔の艶が良くなり奇麗になる。ただ、足を治す方が骨盤よりも治しやすい、それで足を治して骨盤を治すようになりました。そうしているうちに、足の小指の外側が拡がっていると痔になっているということを見つけて、小指の外側を押さえると痔が治る。つまり、骨盤の上下の可動性が回復する。

踵や足の小指の外側や、踝の下がったのを治すと骨盤の上下の可動性が回復する。それで痔が治ってしまう。

女はそれで的確に治る。ところが男は治らない。男は女ほど骨盤の動きが足の形に反映していない。男の場合は、足自体の故障である。それで、男の場合は腰椎二番の左側で痔を治すようにしました。女の場合は、腰椎二番を押さえてもなかなか治らないが、骨盤を治すと治る。・・・

どうぞ皆さんも足の形と骨盤の状況との関係をたくさん見て、ご研究ください。

(終)

 

 

 

 

 

 

 

「整体操法高等講座」を読む(20)子供の操法(8)

この数日、『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』(NHK出版新書 丸山俊一 NHK「欲望の時代の哲学」制作班 2018.12.10)と養老孟司氏と名越康文氏の対談本『「他人」の壁』(SB新書)を読んでいた。私は、<意識>とは何か、<人間が創り上げた世界>とは何か、<要求>とか<欲望>とは何か、<自然>とは何か、<動物と人間の違い>は何か、というずっと考え悩んできている問題に促されて書店を歩き回っているので、ついこういうタイトルを眼にすると、読みたくなってくる。

この二冊は、そういう意味で、私にとっていつもの読書習慣に沿った選択なのだが、まず読後の印象を先に言えば、<自然>というものの捉え方が物足りない、というもので

あった。特にガブリエル氏と養老氏のそれは、現代の人間世界に対する<対立概念>として<自然>とか<本能>を捉えているその捉え方に、非常な曖昧さを感じてしまうのだ。行き詰まり、閉塞感が充満する現代社会の課題に対する処方箋のようにして<自然>という概念を置くのはいいのだが、その<自然>という概念の出自や、来歴や、そういう概念を形成している<意識>そのものに対する原理的な言及が殆どないことが物足りないのだ。曖昧さを感じさせるのは、そうした<意識>そのものの現代的な課題を論及しないで、ただ根拠の希薄な処方箋のようにして提示するそのありかたにある。

養老氏の場合

「人の意識について議論してもね、抽象的過ぎていろいろな意見が出るんですよ。なので、直感的な切り口で説明すると、人の意識が動物と違ってきたわけです。何が違ってきたか。実はこれ、めちゃくちゃ簡単で、結局は動物と人が違うのは、唯一「同じ」という能力を人間は持ってしまったんですよ。同じにする力。第一に、動物は言葉を使わないでしょう。というか、言葉が使えない。」(173)

レヴィ=ストロースも言っているでしょう。「人間社会は交換からはじまる」って。どんぐり3つと栗1つが「同じ」という物々交換からはじまって、行き着いた先がお金ですよね。栗1つが100円と「同じ」だから、100円はどんぐり3つとも「同じ」。「同じ」の2乗ですよ。」(181)

「情報化社会って、ある意味では「意味化社会」なんですね。だからさっきの会議室の話でいうと、感覚を刺戟するようなものを、できるだけ排除していってオフィスという空間ができるんです。そういう所で毎日働くということは、感覚が抜け落ちた意識の中で働いているんです。」(183)

「僕はよく言うんだけど、人生にはわからないことが山のようにある。そのうえで辛抱強く努力を続ける根性が必要なんです。田舎で自然を相手にしていれば、そういう感覚は自然に育ちます。

<感覚が抜け落ちた意識>という表現で養老氏が言わんとするところは判るのですが、それを言うなら<特定の感覚だけに特化した意識>と言ってほしかった。

なぜなら、人間の感覚はその状況に応じて必要な感覚(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚など)を意識を通じて励起させ、対象はその励起された度合いに応じて自らの部分を顕在化させるものだと思うからだ。どの感覚器官に注意を向けるかで、対象から受け取る知覚や認識は当然異なってくる。たとえば私が他者の手に触れた場合を考えてみる。その時私の注意(意識)が相手の<体温>を感じようとすればその暖かさを知覚する。<硬さ>を見ようと意識を向ければその硬さが、<湿気>を感じようとすればその湿り具合がわかるように、意識や注意の向けたものに応じて、すぐさま求める対象の表情が感知できる。

つまり<意識>そのものは、対象のどういう局面を探ろうとするかの方向を示唆しているだけで、養老氏の考えているような、<意識の中に感覚がある>というふうにはなっていない。諸感覚は意識によって示唆されて初めて励起する。

だから養老氏が<オフィスというものは感覚を刺戟するものをできるだけ排除していって出来上がっている>というのは不正確な表現であって、<オフィスというのは、ある目的(意味)に応じて設計されているために、その目的を完遂するべく温度や湿度、照度、香りなど仕事に必要とされる身体能力を最適に発現させるために、常時コントロールされた空間である。それゆえ、結果として特定の感覚の行使をできる限り排除しようとするものになっている。>というのが、より厳密な表現という事になる。なるはずである。少し長すぎる表現ではあるけれど・・・。

そうだとすれば、<都会のオフィスを飛び出し、田舎に行けば排除された感覚も蘇る>という養老氏の言葉や、<意識化され、いつも意味のみを追うのではなく、時には山に行けば、そこには意味のないものに囲まれる。都市の中にいたら全てが意味を持ってしまう。>という表現も書き換えが必要となる。

<山や田舎に行けば、それまで使わないですんでいた感覚が否応なく発動される。そして、まだ意識化され意味化されていない自然というものが溢れている>と。

要するに、養老氏は、<意識><感覚><心>というものを厳密に使い分けしていないため、<意識化され意味付けされた都市空間>を安易に<田舎空間>に対峙させうると考えてしまっているわけだ。本当は、オフィスの中での人間は感覚を刺戟されないなどということは無く、むしろ視覚や聴覚は特異な活性化を強制されているとさえ言えるのだ。そして視覚と聴覚以外の他の感覚を行使することをダブー視されるがゆえに、その発動が希薄にならざるを得ないというのが実情ではないか。

私が曖昧さを感じたのはそういうことである。

 

マルクス・ガブリエルの場合

マルクス・ガブルエルの新実在論について、この著書と、NHKの同名の番組放映でしか知らないので、ごく限られた範囲で、彼の発言について考えてみたい。彼は阪大大学院教授でロボット工学の世界的権威といわれる石黒浩氏との対談で次のように語っているる。

ガブリエル「私が今哲学者として携わっているのは、「新実在論」という新しい思考の潮流です。説明すると長くなりますが、乱暴に要約すれば、観念論のアップデート版という言い方もできるのかもしれません。それが今のステップです。私は哲学者として、哲学と科学の橋渡しをしたいのです。こうしたヒューマノイドの存在も深く理解したいと思っています。現代の科学を理解するためには、どのような哲学的概念やニュアンスが必要なのかを模索しています。しかし同時に、全体的な枠組みの追究も捨てるわけにはいきません。これは二一世紀に適応するための一つの方法です。」(177)

石黒「・・人間は、技術を使う動物である。動物プラス技術、それが人間だということです。・・・人間の活動の90パーセントが技術によって支えられていると思います。人間の脳をコンピューターで代替するのは難しいかもしれないけれど、1000年ぐらいかけたらできるようになるのではないでしょうか?人工器官や人工臓器によって腕や足、内臓を代替できるようになったように。その意味で人間はロボットに近づいてきているのです。人間の身体の一部を非有機的なものや機械に替えていくことで、寿命も伸びるのです。・・・」(194)

ガブリエル「それについては、深いところで、僕には異なる見解がありますね。全く逆の意見です。・・・僕の人間の定義は「人間は一生懸命動物にならないようにしている動物だ」というものです。・・・だからこそ、そこに技術があるわけです。人間が技術と同化するような状況には、絶対にならないと思いますし、それを試すことすら、すべきことではないと考えます。僕たちの価値、価値の倫理は、実に、進化論の祖先に遡るものです。僕らは確かにサルだと思いますし、それが僕らの倫理の由来でもあると思うのです。・・・技術を発明したサル。そして今、技術は僕らに背いたものになろうとしているのです。技術というのは、独自に発達するロジックを持っていて、ほぼそれが、進化の力になってしまっています。僕らは自分たちのこと、つまりは、自分たちの倫理意識を滅ぼしているようにも思えます。このままでいくと、人間は自分たちのこと、そしてすべてを滅ぼしてしまうことになるのではないかと危惧しています。われわれは完全に生物学から離れた暮らし方というのはできないからです。技術と人間が同化していくという考え方は、やはり危険だと思います。」(196)

ここでガブリエルは石黒氏の科学主義的な考え方に、もっと鋭いパンチを加えてほしかった。人間はサルであり技術を持った動物である、ということだけでは足りない。生き物がすべて適応やエントロピーの増大をなし遂げてきていることの意味を、論理的に説明してもらいたいのだ。科学が<生命>をタブー視していることへの、強烈な反措定を提起してもらいたかった。なぜ<生命>はエントロピー逓減を一定期間継続できるのか、個体は必ずエントロピー逓減の法則にいつか必ず屈するときが来るが、生殖を通じて種の保存を維持し続けている、その事実を哲学的に言語化してもらいたかった。それが彼について曖昧だな、と感じたわけだ。

この私のこだわりは、<知>の在り方へのこだわりだと言える。<自然>や<生命>を前にして、知りえた現時点での到達点を前提に、全てを説明しようとする<知>の方法は、その<知>が持つ限界の向こう側に、まだ知り得ぬ<知>の鉱脈が滔々と続き存在していることへの畏れを無視した、傲慢な態度としか思えない。<知>の最後の課題は、登り詰めた高みから下を見下ろすのではなく、一旦地上に降り立って、リアルな現実に舞い戻る事であるはずで、それなくしては<知>の課題は完遂しないと思えるからだ。行くところまで行って、もと居た処でもう一度考えることが重要だと思える。それがないから、ユニコーン(角を持った空想上の馬)のイメージを、<それも一つの現実だ>、とヴァーチャルな世界の非現実を現実とみなして、イメージにイメージを重ねることのみを課題としてしまいがちになってしまう。

野口整体法が、そうした意味で、<触覚>という感覚に<知>の主要な手段・役割を与え、そこから導き出される、これまで誰も気づくことのなかった<生命>や<身体>の持つ新たな意味を探り出した功績は、時代の推移とともに、ますますその価値を露わにしてくると私には思われてならない。

 

前置きが長くなってしまいました。講座に戻ります。 

 

 

整体操法高等講座」(20)子供の操法(1967.11.15)

(註:いつもの事ですが、ここでの要約は原文のままではなく、私の理解によってかなりの部分の省略や書き換えをさせていただいています。<>の表記も同様です。) 

 

一昨日、私の子どもの教師が風邪を引いて、子どもが足湯を教えたという。色が変わらない方の足を二分間追加して温めれば良くなると言って。その教師は、左右の足が違うはずはない、同じ温度に入れたのだから違いがあるということは無いはず、と疑問を持ったそうです。実際にやってみたら、片方が白かったので、二分追加したら、布団に染み通る程汗をかいて、風邪が治ってしまったという。

 

私はそういう体の左右差をしょっちゅう丁寧に見ているので、それが当たり前のように思って、教師がそういう疑問を持つこと自体が意外でしたが、その教師に限らず、案外私自身が当たり前と思って通過してきた問題が、皆さんにも同様に疑問のまま残っているのかもしれないと思うようになりました。そうして非常に反省をしました。私の教え方の中に、皆さんが判らないままになっているのに、それに気づかずに通してしまっていたのではないかと。

 

触手療法を習っている人達は、そういうことは少ないのですが、整体操法の技術を習って他人に利用しようとしている人達は、その技術を磨くことに集中してしまって、<人間はいかに生きるべきか>とか、<病気はいかに経過すべきか>という肝腎の問題を脇に置いてしまって、<その病気にはどこを押さえればいいのか>という事だけになってしまっている。そしてひとたび自分が病気になると、しどろもどろになって焦ってしまう。そういうのも、私の教え方に問題があるのではないか。

 

病気は、我々の考え方から言えば、<体の回復する動き>であり、したがって<病気を経過することは必要だが治すことは必要ない>。<病気が自然に治っていくように経過すればいい>という極めて単純なことなんですが、この単純なことが頭に入っていないまま技術を習っているだけなので、自分が病気になるとしどろもろになっていると思うのです。

整体指導というのは、<体に無理がないような使い方>を指導し、<丈夫になっていくためにその体力を発揮できるような体の使い方>を指導する為のものですが、指導者本人が非常時になった時に、そういう体の使い方をしていないのでは、他人を指導できるわけがないのです。

私が反省したというのは、そういうことを理解しないままでいる指導者がいるのではないか、指導者なら知っている筈だと思って等閑視していたことが、そうではないということならば、それは私の指導のありかたの欠点を突かれたと同じで、痛みを感じたということです。欠点を突かれた以上、それを直していかなくてはならない。

 

そこで、まず<正常な生き方>とはどういうものかを考えてみたい。

朝、目覚めてスパッと起きられない時は、体のどこかに疲労が残っている状態です。人間の健康状態というのは、体に弾力があるか無いかでわかる。整体の状態が乱れると、まず体の弾力が無くなる。全体的の場合も部分の場合もある。<疲労>というのはこの弾力が欠乏した状態です。

疲労すると、筋肉もこわばり、心も強張ってくる。

だから、体の正常さを考える場合、まず<弾力>という事を考えて、それが鈍った処を調整する。

 

子どもが病気になった時に私どもは<温めろ>と言います。発熱すると親は<冷やす>ことが常識だと思ってついそうする。しかし、<温めることの効果や、冷やすことの害>をわれわれはよく知っていますので、そういう親には後頭部を<温める>ように言う。そう言うと、冷やす習慣を持った親も、<冷やす>ことを忘れ出すんです。実は親の<冷やそうという心>を塞ぐ方法として、<温める>ということを始めたのです。

発熱は、何もしないでいい、というのが我々の技術でもありますが、親は何かしていないとすぐ不安になるのです。何かさせないと、うっかりすると冷やされる恐れがある。それをやめさせるにはどうしたら良いかと考えて、あべこべの<温める>ことを教えたんです。

病気というのは、それを<経過>するということには意味があるのですが、それを中断させることは良くない。皆、病気を中断させようとする理由は、病気がただ怖い、ということ以外に何もないんです。

<病気を治さなければ>と考えて、一生懸命にやる人がありますが、それは親切に違いないとしても、やっているその人の心の中にあるのは、<生命に対する不審>なんです。そうして<生命>を人為によって操作できるつもりになっている。

八十歳余りしか生き得ない人間を、 <人為>によって三百歳生きられるようになったというなら、そういう<人為>も信用して考えてみていいが、どのような最新の知識や技術によっても妊娠から出産に要する自然の期間を<人為>によって短縮出来ないでいる以上、やはり<生命>の問題は、<人為>よりも<生命>自体の方が主体にならざるをえないのです。

だから発熱も、その理由を理由あるものとして<後援する>という方法が本当だと思うのです。いや、それが本当かどうかは判らないのですよ。けれどもそういうようにすることによって私たちは経過してきた。そういう潜在意識教育を行なった。そうするとみんな何もしないで良くなる。

 

子どもの操法には<時期の見究め>ということが、一生懸命に愉気をするという事以上に重要です。大人でも重要だけれども、子どもの場合は特に重要です。そして<余分なことをしない>という必要は、大人の場合よりももっと必要なのです。無駄なことをすると、もっと悪くなるのです。<今はどういう時期か>ということを考える。

 

電話で、「風邪をひいたから三番をこすりました」と整体指導者が言う。そして聞いていると、「五番も一緒に押さえました。でも、汗が出てきません」と。

寒気がする時は、皮膚も縮んでいる時期なので、弛めるのにいい時期です。弛んできてから五番を押せば汗が出てきます。「両方一緒にやりました。」と。一緒にやったら効果が一緒にあるかといえばそうではない。却って強張ってくる。ちょうど<九・七・八番のショック>を与えたのと同じで、副腎の緊張が起こってしまうのです。

唐突に子どもに触ると、子どもは恐くなって警戒して、副腎緊張をおこすんです。そういうこすり方では寒気は取れないんです。そういう時は、ふわっと暖かくなるように愉気しなければならない。愉気にもやり方や、やる時期がある。

電話の場合でも、この講習での質問の場合でも、実際に相手を見ているわけではないので、時期とか体力とかがわからないのです。だから大抵大雑把な、誰がやってもいいような返事しかしていないのです。

近頃は、質問するのにも心得のない人があって、そういう質問を聞きながら、こういう質問が出るのは、私の講義の中に何か欠点があるのではないだろうか、あるとしたら、私が皆さんを過度に信頼している為ではないのか、もっと野蛮人と心得て、「熱が出た」と言ったら、「今の脈は幾つで、今の呼吸はいくつか。筋肉の緊張度合はどうか。どの部分に汗が出ているか。その部分の汗が、この部分に出るようになったら、その時の脈はこうなる。もしそれが揃ったら、その時に五番に愉気をしろ。そうすれば汗が出るようになる。」というように教えなくてはいけないのかも知れない。

しかし、そうなると、一年話してもいくつかの異常にしか適用できないし、ある特定の個人にしか適用しないことになってしまう。

だからどうしても、誰にでも通用するような事をお話しすることになってくる。

皆さんは、技術を修めようとする以上は、そういう話を聞いたうえで、<いつ、どのように、いかに>やっていくかを工夫していただかなくてはならないわけです。

 

特に子供の操法の場合は大事で、時期の見方とか、愉気の順序とかいうものを注意して、よく覚えてやるようにすると、大人をやっているよりはもっとハッキリ判るんです。

大人は、順序通りやっていくつもりでも、仕事が忙しかったり用事が出来たりして、弛めるべき時にそれが来れなくて出来なくなってしまうことがある。

そういう事があると、ご破算なんです。今日やり損なったら、本人は明日にでもやったらいいと思っているが、今日やり損なったら来年まで駄目なんだという事も沢山にあるんです。だから大人の場合は、かなりいい加減なことを混ぜます。守らなくでも大丈夫なようなことを混ぜるのです。そうしないと、それ迄やったことを乱されて悪くなってしまうからです。

昔は、一生懸命やってそれが乱されると、もう悔しくて、それこそ涙が出そうで、「もう来るなっ」と怒鳴っちゃったことも少なくないです。

そのため、僕が気が短くて怒りっぽい、と思われていたのですが、こっちは急所の時期を選り抜いているから、悔しくて仕方がない。そういうことがあり過ぎたので、私は大人にはそういうやり方をやらなくなってしまったんです。

効いてもよし、効かなくてもよし、相手がずぼらして休んだら、相手が損なのだと考えるようにした。それでも難しい病気の時になると、時々真剣になって、これが急所だと思ってやろうとすると、すっぽかされたりして、実に残念ですね。

最近はすっぽかさないような人を、すっぽかさないようにお膳立てしてやることを覚えましたが、そのためにやる前の事前準備が大変になりましたけれど、あまり腹を立てて自分の寿命を削るようなことをしなくなりましたが、以前は全く悔しくて残念でした。

誰の為に残念だったかといえば、結局は自分の為に残念がっていたんです。あそこでこうすればスパッと変わって見事に行くはずだったのにな、と。それが出来なかったことが悔しくて、相手の為に悔しがっていたんではなかったことに気がついて、それからは気が楽になりました。

初めのうちは、相手がここで気張れば、本当に体が変わって良くなるものを、と思った。何度も「明日は急所をやります」と言っていたのに、それを破られた、その怒りだったのです。

それなのに、僕が余分に腹を立てたように思われて、随分つまらない事だと思いました。

 

子供の操法についてこういう講義をしているのは、<時期をつかまえる>ということを身につけてほしいからなんです。子どもだと判りやすい。

 

(からだの記憶)

体は、意識で考えなくても記憶していることがいろんな場合にあります。水泳でも、自転車に乗るのでも、体や手が憶えている。ところが、人間の生理現象や病理現象の観察を行う際にには、そういう<体の記憶>ということを一切考慮しないで行ってしまっている。何故なのか。おかしいですね。<体の記憶>を考えに入れていないために、<生き物の実際の動き>とかけ離れた結論を導き出してしまっている。そして、その結論をさらに細かく分析して、より正確になったと言っている。ところが実際の動きというものは、その結論が細かくなるほどに、現実から離れていく。

私たちは、そういう事を知って、子どもの操法をしながら、<体の記憶>という問題をさらに詳しく確かめていきたいと思っているのです。

<こういう場合は、こうする>ということを、箇条書きにして説明することは出来ますが、そういう知識だけを覚えて、それを機械的に行うと、間違えてしまうんです。私が<時期の問題>を敢えて行うのは、そういう間違いを起こさないようにする為なんです。時期の掴まえ方を抜きにしたまま、ただ知っていることをやればいい、というのでは子どもの操法は難しい。たいていやり過ぎである。

 

触手療法で病気が上手に経過するのだから、それだけで十分だという人がいます。そういう人はそれでいい。しかし、整体操法は病気を経過したから上手だとはならないのです。経過した後の体が、それ以前の体の欠点をなくすというようになっていないと、上手とはならない。触手療法があるのに、あえて整体操法を勉強するという理由は、その病気を経過することによって、その体の歪みや、体癖や性癖、心の活動の歪みなどの欠点を正常にしていく為なんです。

触手療法では、どうしても経過の後の問題の準備がつかないんです。

・・・

今日の子どもの操法の問題、操法を選ぶ<時期の問題>を特に御研究願いたいと思います。遅くなりましたのでこれで終わります。

(終)

 

 

「整体操法高等講座」を読む(19)子供の操法(7)

私の引用癖は相変わらずで、今日は内田樹氏の昨日(2019.4.15)のブログをそのまま引用させていただきます。私のブログは、自分自身の備忘録の一面もありますので、読者の皆さまにはお許しをいただくこととして・・・

いつも内田氏のことばは、私が表現したくて、もやもやしたまま整理がつかない事柄にいつも明確な輪郭を与えてくれ、スカッとした爽快感を感じさせてくれる数少ない表現者の一人です。「野口整体とどういう関係があるの」と思われる方にも、是非お読みいただければと思います。(引用文は、私がゴチックにしました。)

 

内田樹の研究室

『善く死ぬための身体論』(集英社新書 著者:内田樹×成瀬雅春)のまえがき

 

みなさん、こんにちは。内田樹です。
 今回は成瀬雅春先生との対談本です。成瀬先生とは以前『身体で考える』(マキノ出版、2011年)という対談本を出しましたので、これが二冊目となります。
 成瀬先生とはじめてお会いしたのは、1990年代の初め頃ですから、もう四半世紀ほど前になります。成瀬先生のことは、先生の下でヨーガの修業をされていた合気道自由が丘道場の笹本猛先輩からよくうかがっておりましたし、著作も何冊か拝読しておりました。その成瀬先生が西宮の教会で倍音声明のワークショップをやるというのを知って、「おお、これは行かねば」と神戸女学院大学合気道部の学生たちを引き連れて行ったのが先生とお会いした最初です。
 小さな教会で、参加者もごく少人数でしたけれど、はじめてお会いする成瀬先生はそんなこと気にする様子もなく、機嫌よく倍音声明のやり方を僕たちに教えて、「じゃ、始めましょう」とセッションを進めました。僕の中では成瀬先生は「すごくミステリアスな、近寄りがたい人」という先入観があったので、こんなに間近で、こんなに親密な環境でやりとりできるとは思っていませんでした。それですっかり安心して、その半年くらいあとに大阪であった倍音声明のセッションにも参加しました。
 でも、その後、阪神の震災があって、僕も被災して、生活再建に手間取り、病気にもなって、しばらく成瀬先生との出会いも途絶えていました。先生との交流が再開したのは、震災から数年経って、五反田にある成瀬先生のヨーガ教室で、僕の合気道の師匠である多田宏先生(合気会師範、合気道九段)と成瀬先生との対談を聴きに行ったときです。たいへん面白い対談でした。
 帰途、五反田駅まで歩く道筋で、多田先生に「成瀬先生って、ほんとうに空中に浮くんでしょうか?」と伺ってみたら、多田先生がにっこり笑って「本人が『浮く』と言っているんだから、そりゃ浮くんだろう」とお答えになったのが僕の腹にずしんと応えました。なるほど。
 武道家は懐疑的であってはならない。
 そんな命題が成立するのかどうかわかりませんけれど、何を見ても、何を聴いても、疑いのまなざしを向けて、「そんなこと、人間にできるはずがないじゃないか」というふうに人間の可能性を低めに査定する人間が武道に向いていないことはたしかです。
 でも、実際にそのような「合理的」な人は武道家の中にもいます。そういう人は筋肉の力とか、動きの速度とか、関節の柔らかさというような、数値的に表示できる可算的な身体能力を選択的に開発しようとする。でも、実際に稽古をしているときに僕たちが動員している身体能力のうち、数値的に表示できるものはたぶん1%にも満たないんじゃないかと思います。していることのほとんどは、中枢的な統御を離れて、自律的に「そうなっている」。いつ、どこに立つのか、どの動線を選択するのか、目付けはどこに置くのか、手足をどう捌くのか、指をどう曲げるのか・・・などなど。ただ一つの動作を行うにしても、かかわる変数が多すぎて、そのすべてを中枢的に統御することなんか不可能です。身体が勝手に動いている。身体が自律的にその時々の最適解を選んでくれる。淡々と稽古を積んでゆくうちに、そういう「賢い身体」がだんだん出来上がってきます。それは「主体」が計画し、主導しているプロセスではありません。
 武道の稽古のおいては、「こういう能力を選択的に開発しよう」ということができません。だって、「どういう能力」が自分の中に潜在しているかなんて僕自身が知らないから。あることができるようになった後に、「なんと、こんなことができるようになった」と本人もびっくりする。そういうものです。修業においては事前に「工程表」のようなものを作成することができない。自分が何をしたいのか、何ができるようになるか、予測できないんですから。
 そのどこに向かうのか分からない稽古の時に手がかりになるのはただ一つ「昔、こういうことができる人がいたらしい」という超人たちについてのエピソードです。そのような能力の「かけら」でも、もしかすると自分の中には潜在的にひそんでいるのかも知れない、修業を積んでいるうちに、思いがけなくそういう能力が部分的にではあれ発現するかも知れない、それだけが修業の手がかりになります。とにかく、僕はそういうふうに考えることにしています。
 そういう割と楽観的でオープンマインデッドな修業者と「そんなこと、人間にできるはずがない。そういうのはぜんぶ作り話だ」と切って捨てる「科学主義的」な修業者では、稽古を十年二十年と重ねてきた後に到達できるレベルが有意に変わります。これは間違いない。
 どんな異能であっても「そういうことができた人がいる」という話は受け入れる。「そういうことって、あるかも知れない」と思う。そして、どういう修業をすれば、どういう条件が整うと、「そういうこと」ができるようになるのか、その具体的なプロセスについて研究し、実践してみる。
 僕はそういうふうに考えています。
 だって、それによって失われるものなんか何もないんですから。自分の中にひそむ可能性を信じようと、信じまいと、日々の稽古そのものに割く時間と手間は変わらない。だったら、「そういうことができる人間がいる」と信じた方がわくわくするし、稽古が楽しい。
人間の潜在可能性についてのこの楽観性と開放性は武道家にとってかなりたいせつな資質ではないかと僕は思います。現に、 僕が尊敬している武道家である甲野善紀先生も光岡英稔先生も、「信じられないような身体能力の持ち主」についての逸話についてはたいへんにお詳しい。

 ちょっと話が逸れましたけれど、とにかくその時に多田先生がにっこり笑っておっしゃった一言で僕は「武道家マインドセット」がどうあるべきかについては、深く得心したのでした。
 成瀬先生が時々僕にお声がけをしてくれて、対談をするようになったのは、それからの話です。そのおかげで、対談本もこれで二冊目になったわけです。それはたぶん僕が成瀬先生が語られる「信じられないような逸話」について、「そんなことあるはずがないじゃないか」というような猜疑のまなざしを向けず、「どういう条件が整えば、そういうことが起きるのか?」という方向に踏み込んでゆくからではないかと思います。
 でも、これを「軽信」というふうには言って欲しくありません。不思議な現象に遭遇した時に、「自分の既知のうちにないものは存在しない」と眼をそむける人より、「どういう条件が整えば『こんなこと』は起きるのか?」を問う人の方がおそらく科学の発展には寄与するはずだからです。

 今回の対談は「現代人の生きる力の衰え」についての話から始まります。どうしてこんなに生命力が衰えたのか。本書では語り切れなかったので、ちょっとだけここで加筆しておきますけれど、その理由の一つはなんだか散文的な表現になりますけれど、産業構造の変化だと思います。
 もう農作物をつくった経験のある人が少なくなったということです。
 僕や成瀬先生が生まれ育った1950年代の日本には農業就業者が2000万人いました。ですから、多くの人にとって、「ものを作る」という時にまず脳裏に浮かぶのは農作物を育てることでした。種子を土に蒔いて、水や肥料をやって、太陽に照らし、病虫害から守っていると、ある日芽が出てきて、作物が得られる。人為がかかわることのできるのはこのプロセスのごく一部に過ぎません。他にあまりに多くのファクターが関与するので、どんなものが出て来るのかを正確に予測することはできません。だから「豊作」を喜び、「凶作」に涙した。
 でも、今はそんなふうにものを考える人はもう少数派です。現代人が「ものを作る」という時にまず思い浮かべるのは工場で工業製品を作る工程だからです。
 学校教育がそうです。
 僕が大学に在職していた終わりの頃には「質保証」とか「工程管理」とか「PDCAサイクルを回す」というような製造業の言葉づかいがふつうに教育活動について言われるようになりました。缶詰を作るようなつもりで教育活動が行われている。だから、規格を厳守する、効率を高める、トップダウン・マネジメントを徹底させるというようなことが1990年代から当たり前のように行われるようになりました。
 この転換によって、「子どもたちのどのような潜在可能性が、いつ、どういうかたちで開花するかは予見不能である」という農作業においては「当たり前」だったことが「非常識」になりました。「どんな結果が出るか分からないので、暖かい目で子どもたちの成長を見守る」という教師は「工程管理ができていない」無能な教師だということになった。それよりも、早い段階で、どの種子からどんな果実が得られるかを的確に予見することが教師の仕事になった。「何が生まれるかわからない種子」や「収量が少なそうな種子」や「弱い種子」は「バグ」としてはじかれる。品質と収量が予見可能な種子にだけ水と肥料をやる。例の「選択と集中」です。
 人々がそういうふうに考えるようになったのは、別に教育についてのイデオロギーが劇的に転換したというわけではありません。ごく単純にドミナントな産業が農業から工業に変わったからです。
 いずれ工業のメタファーも打ち捨てられて、ディスプレイに向かってかちゃかちゃキーボードを叩いているうちに銀行預金の残高が増えてゆくのが「生産」の一般的なイメージになり、それに即して学校教育の「当たり前」も変わってゆくはずです(たぶんその時には「創造的思考」とか「スマート化」とか「投資対効果」とかいう言葉が大学教授会で飛び交うことになるでしょう・・・、というかその頃にはもう大学教授会などというものはこの世からなくなっているでしょうけれど)。
 産業は人間が創り出したものです。機械は人間が設計したものです。でも、ご覧の通り、人間は自分が創り出したものを「ものさし」にして、それを模倣し、それに従属して人間を「改鋳」しようとする。やめろといっても、そういうことをする。人間というのはそういう生き物なんです。
 本書の中でも「機械論的な身体観を内面化させた人」についての論及がなされています。機械の動きというのは、人間の動きを単純化したものです(ヒンジ運動とかプレス運動とかは人間の自然な身体運用のうちにはありません)。でも、自分で機械を制作しておきながら、それに囲まれているうちに、機械の動きを模倣して身体を使うようになる。自分が創り出したものに支配される。マルクスが「疎外」と呼んだのはこのような事態のことです。
 別にそれはそれでいいんです。人間というのは「そういうもの」ですから。自分が創り出したものに支配されるという倒錯も一種の能力と言えばそうなんです(動物にはそんな器用な真似はできません)。
 でも、とりあえず現代人は工業製品の製造工程(というそれ自体すでにかなり時代遅れなプロセス)をモデルにして、自分の身体を使おうとしていることについては声を大にして言っておきたいと思います。中枢的に管理すること、個体を規格化すること、シンプルな「ものさし」に基づいて個体を格付けし、高い格付けを得たものに資源を傾斜配分する・・・という一連のプリンシプルに基づいて現代人は身体を使おうとしていますけれど、それはある歴史的な時期に固有の、一種の民族誌的偏見に過ぎません。そういうことを「どうしてもやりたい」という人は、お好きにされればいいと思います。でも、これは前期産業社会に最適化したプロセスですので、もうだいぶ前から使いものにならなくなっているということだけは知っておいた方がいい。
 僕たちがこの本の中で提言しているのは、とりあえずは、もう少し前の時代の、人間が工業生産のメタファーで身体をとらえる習慣がなかった時代の「身体の潜在可能性に対して楽観的であること、予見不能な資質について開放的であること」です。たぶん、このやり方の方が「次の時代」に適応する可能性は高いと思います。

 もう一つ、この本では、「潜在可能性を開花させる」という向日的なテーマの他に、「よく死ぬ」とはどういうことかという、われわれの年齢(もう古希ですからね)にふさわしいいささか重いテーマについてもかなり長い時間を割いて語っています。
 ここでの僕たちの合意点は、一言で言えば、「よく死ぬためには、生命力が高い必要がある」ということです。
 変な話ですけど、そうなんです。
 健康で長生きすると「いいこと」があると昔父親が教えてくれました。父の説によると「健康で長生きすると死ぬとき楽だから」だそうです(実際に父は長寿で、死ぬ間際までしっかりしていて、最期に家族に向かって「どうもありがとう」と言い残して永眠しました)。
 なるほど。
 僕くらいの年になると、もう死ぬことそのものは怖くないんです。やりたいことはだいたいやり尽くしたし、ライフワークとしていた仕事もほぼ片づきました。たいせつなミッションについては「あとを引き継ぎます」という次世代の後継者たちが育ってくれています。
 だから、どちらかというと、死ぬのは楽しみなんです。死んだ時に「あ、死ぬというのは、こういうことだったのか!」と長年の問いの答えを得ることができるわけですから。それを楽しみに待っているのです。
 とはいえ、死を前にして心配になることが二つあります。一つは死ぬ前に大病をして苦しい思いすること。もう一つは認知症になって、「内田センセも若い時は気の練れた人、もののわかった人だったんだけど・・・年取るとあんなになっちゃうのかな。悲しいね」と言われることです(本人はもう惚けちゃっているので、悲しくもなんともないのですが)。
 つまり、身体の健康と、頭の健康ですね。できれば、死ぬ直前まで心身ともに健康で、ある日「あ? お迎え?」と呟きつつばたりと倒れて死んでしまうというのが望み得るベストなんです。
 でも、そのためにはいろいろと生きているうちに努力しておかないといけない。
 死に至る身体の病はほとんどが遺伝子由来のものですので、コントロールできることには限界があります。お酒も飲まず、煙草も吸わず、暴飲暴食を慎み、早寝早起きしていたけれど、若死にするということはよくあります。生活習慣も遺伝子には勝てない。僕らがある程度主体的にコントロールできるのは「心の健康」だけです。これは努力のし甲斐がある。
 では、「心の健康」とは何のことでしょう。
 それは「複雑化」ということじゃないかと僕は思っています。
 僕の同級生たちはもう過半がリタイアしています。まだ自分の現場を持っている人もいますけれど、一線は退いている。でも、一線を引いて、悠々自適になると、態度に際立った変化が起こる人がいます。
 頑固になるんです。「頑固爺い」になってしまう。
 不思議ですよね。世の中の利害得失から超脱した身分になったはずなのに、そういう人ほど「言い出したら聞かない」し、「人の話を聞かない」ようになる。こちらが話しかけても、「そんなことは分かっているんだ」というような興味のなさそうな態度をとるようになる。ひどい時は人の話を遮って、「わかったわかった」とうるさそうに話を切り上げてしまう。
 たぶん本人は「世の中の些事はもうどうでもいいくらいにオレは解脱しちゃったんだ」というふうに自己正当化しているのかも知れませんけれど、僕の見るところ、違います。
 この人たちは「複雑な話」をする能力がなくなってきているんです。
 新しい変数の入力があった時に、それがうまく既知と同定できない場合、僕たちは自分の手持ちの「方程式」そのものを書き換えます。増えた変数が処理できるように、方程式の次数を上げる。話が複雑になってきた時には自分も複雑になってみせないと対応できないからです。
 これが生物の本性なんです。進化の本質なんです。
 入力がシンプルな時は、シンプルなスキームで対応できる。単細胞生物だったら、外界からの入力は「餌」か「捕食者」の区別ができればいい。「餌」なら食べる。「捕食者」なら逃げる。それで済む。でも、細胞分裂を繰り返して、だんだん生物の構成が複雑になってくると、外界からの入力の仕分け方もだんだん複雑になってきます。
 複雑さを処理する基本のマナーは「判断保留」です。「なんだかよくわからないもの」というカテゴリーを作って、「なんだかよくわからないもの」はそこに置く。  
 船に乗っている時、夜の海上に何か揺れるものが見えたとします。何か規則的な動きをしている。でも、鯨か、難破船か、月の反射か、なんだか分からない。そういう時に人間は、何かを見たけれど、それが何かを「決定しない」ということができます。「それが何を意味するのか分からないものがある」ということを受け容れる。
 それができるのは人間だけです。
 老人になることで際立って衰えるのは、この「なんだかわからないもの」を「なんだかわからない」ままに保持しておく力です。中腰に耐える、非決定に耐える。何か追加的な情報入力があって、自分自身がもっとも複雑な生き物になることによって複雑な事態に対処できるようになるまで、判断保留に踏み止まること、年を取るとそれができなくなる。
 体力気力が衰えると、はやく腰を下ろしたくなるんです。中腰つらいから。
 オープンマインドとか「開放性」とかいうのも僕は同じことを指しているのだと思います。老人になって、現場を離れたことでまっさきに衰えるのは、この力です。自分をさらに複雑な生き物に進化させることで複雑な事態に対処するというソリューションが取れなくなる。むしろよりシンプルな生き物に退化することによって、事態をシンプルなものにしようとする。「オレにも分かる話」か「オレには分からない話」かの二分法で入力を処理して、「単純なオレ」でもハンドルできるように事態を縮減する。
 僕は「心の健康」というのはこのことじゃないかと思っているんです。老人になると、確実に身体は衰えます。でも、心は衰えに抗することができる。それは複雑化するということです
 老いるというのは自己複雑化の努力を放棄することだと僕は思います。いささかきつい言い方になりますけれど。こういうことを老人に向かって言う人はあまりいないみたいですので、あえて自戒を込めてそう申し上げます。
 
 日本は超高齢社会にこれから突入します。当然、これから「老人向き書籍」市場にビジネスチャンスを求めていろいろな書き手が参入してきます。この本も、そういうものの一つと思って読んでくださって結構です。
 たぶんほとんどの「老人向け書籍」は「どうやったら楽になるか」「どうやったら話を簡単にするか」という方向で読者を惹きつけようとすると思います。知的負荷をできるだけ軽減するように誘導する。でも、そうやってどんどん老い込んでゆくのはあまり賢い生き方だとも、楽しい生き方だとも僕は思いません。
 みなさんはこれからあと本文に入られるわけですけれど、出て来るのは「変な話」が多いです。それを読んで「そんなことも、あるかも知れない」と言って中腰で耐えることができるかどうか、そのあたりを自己点検してくださるとよろしいかと思います。

 本書は、最初成瀬先生が2018年の秋に個展を開かれることになっていて、それに合わせて出版するはずだったのですけれど、よい版元が見つからず、いささかご無理をお願いして、集英社新書から出してもうらことになりました。その時に、集英社編集部から対談で触れたトピックのうちで「善く死ぬ」という主題にフォーカスしたかたちで出したいという要望がありました。たしかに、対談では「死ぬこと」に繰り返し触れています。でも、勘違いしないでくださいね。この本は別に「老人向け」のものではありません。若い人にこそ読んで欲しいと思います。死ぬ準備はいつ始めても早すぎるということはないからです。
 僕は能楽のお稽古をしているのですが、前にあるインタビューで「老後の趣味として能楽なんかやるのはどうでしょう?」と訊かれて、「老後になってからじゃ遅すぎます」と割と冷たい返事をした覚えがあります。老後になって能楽を楽しみたいと思ったら、リタイアするまでにそれなりのキャリアを積んでいる必要があります。リタイアした後の生活を充実したものにしようと思ったら、その準備はできるだけ若い時に始めておいた方がいい。
 「善く死ぬ」ことは老人だけに突き付けられた問いではありませんというのはそういうことです。みなさんのご健闘を祈ります。

 なんだか「まえがき」にしてはめちゃくちゃ長くなってしまいました。本文に入る前に読み疲れてしまった方もいるかも知れません。すみません。

 最後になりましたが、対談の企画と編集の労を取ってくださった豊島裕三子さんと、本を仕上げてくださった集英社新書の伊藤直樹さんにお礼を申し上げます。ありがとうございました。成瀬先生、長い時間お付き合いくださいまして、ほんとうにありがとうございました。またお話しする機会を楽しみにしております。

2018年12月
内田樹

(2019-04-15 13:48)

 

 

私が野口晴哉という超人のエピソードに惹かれ、その言葉に接することに言いようのない楽しみを見出だせるのは、私のブログが、内田氏が表現する、<どこに向かうのか分からない稽古の時に手がかりになるのはただ一つ「昔、こういうことができる人がいたらしい」という超人たちについてのエピソードです。そのような能力の「かけら」でも、もしかすると自分の中には潜在的にひそんでいるのかも知れない、修業を積んでいるうちに、思いがけなくそういう能力が部分的にではあれ発現するかも知れない、それだけが修業の手がかりになります。>の通り、そこに私なりの整体修業の思いがあるからにほかなりません。願わくば<人間の潜在可能性についての楽観性と開放性>を持って、<「科学主義的」な修業者としてではなく、楽観的でオープンマインデッドな修業者>たらんことを。

内田氏の、この前書きとしては長いけれども、この短文のなかに詰め込まれた豊かな思想的方法は、野口整体法の未来を考える時、非常に重要な示唆を含んだものと、私には思える。特に、整体操法というものが、人間の一対一の関係性の場面の問題であることを考えるとき、整体操法という技術やその知識というものが、<誰のためのものか>という本質的な問題と深くかかわってくるものだからだ。

個人は、一般化できない固有の感受性を持っている。整体操法の現場では、それら多様な個々人に対して、一人ひとり最適な<操法>指導を行わなければならない。そこでは決して一般化できない<技術>の用い方を要請される。

その時、整体指導者に要求されるのは、その<多様性>にいかに耐えてえていけるかという課題である。「こうすれば、こうなる」という一般化・客観化された技術のみ用いて、あとは傍観する、などということはできない。目の前の個人の<個別性>のまえに寄り添い、その<個別性>という困難さに耐え、そこで<最適な解>を見出だそうとする態度をこそ、野口氏の整体操法は要求しているからだ。

整体操法についての野口氏の講座が、多数の参加者や読者に対してなされるものである以上、操法の場とは異なって、<個別性>から一段と抽象度の高い、より一般化された<ことば>で語らざるをえない。そのことから、野口氏の<ことば>は、一見すると誰にとっても該当しそうに見えて、その実はまるで自分の課題とは該当しないものに思えてきたりする。しかも、話題は連想ゲームのように様々な方向に縦横に展開し、重層性を帯びざるを得なくなっている。

しかしよくよく考えてみれば、それは必然的な展開としてそうなっているに過ぎないのだろう。なぜなら、講座でのことばは、<一般性>と<個別性>との狭間で紡ぎ出さざるを得ないものだからだ。そこでわれわれは、野口氏の<ことば>の前で、改めて自己の個別性に出くわし、混乱し、より謎を深められた形で歩を進めざるをえなくなるのだろう。

いずれにしても、内田氏の表現を借りれば、<事態をシンプルに説明することはできないのが<生命>現象であり、<身体>現象であるからだ、ということになるのだろう。

そしてそこで自ら格闘して得られた<知>こそが、野口氏が指し示そうと目論む、<整体的認識>ということになるのだろう。

そしてそれは、個人や個別の組織の専有物ではなく、常にすべてに開かれたものであるべきだ、という事になるに違いない。

では、今日も講義録の講読、要約をはじめます。

 

整体操法高等講座」(19)子供の操法(1967.11.5)

 

子供を見るという立場から言うと、最初は必ず<抱いて>見る。寝かせて見るよりは、抱き取ってみると、悪い時は軽い。いい時は重い。これは非常に主観的な問題で、判りにくいと思うのですが、子どもといっても赤ん坊ですが、眼をつぶって抱くと、抱きとった瞬間に、それを感じとります。目方が重い、軽いというのとはちょっと違う感じです。ずっしりした感じがすれば大丈夫。顔色を見るとか、脈や呼吸を見るとかいう以上に、その感じを見ることは大事です。また便利です。

 

(依存期から独立期へ)

その逆に、四、五歳になると、その感じは別の問題になってくる。軽い時はその子どもが意欲的に何かをやろうという要求がある時だし、妙に重いという場合は、コンディションが悪くて意欲がない時です。

乳児期を脱して少し大きくなって、四、五歳の変化の時期が、<独立期>だと考えています。<独立期>の前と後で、軽い、重いの持つ意味があべこべになる。

小学校に行きだした子供をちょっと抱いてみて、妙に重かったら、学校で何かあって行くのが嫌になっているのではないか、と見る。軽ければそのまま行かせる。

だから、体のコンディションを軽い、重いで見れるのは三、四歳までであります。

子どもの操法も、このあべこべになった時期あたりから、やり方が異なってくる。

 

独立期以前では、一度患うと、すぐ方々の発達が促進されます。特に一歳未満では、ちょっと風邪を引いて熱を出したとか、打撲したというだけで、もう歯がはえてしまう。下痢をしたというだけで、それまで這っていたのが歩き出す。急速に発達します。しかしそういう発達は<正常な伸び方>とは言えないんです。そのように急に成長した場合、特に歯が生えてきたという場合、歯は初めから生えているんですが、歯茎に包まれているのが、それが早く取れてくる。すると噛む力が弱くなる。そして、早く発達したことで、意識を集中するという気力も弱くなり、意識が散漫になってくる。

 

成長が早いほうが良いように言われますが、早く成長すると、その部分が弱くなる。

生後十三か月における成長の問題は、その子どもの一生の問題とつながってくる。

だから、その期間は、病気になる前に、異常が起こらないように、にいつも調節しなければならない。

 

子どもの感情がまだ出来上がっていない時期でも、自分の嫌なことや快感はよく感じます。不快な感じを辛抱することが多いと、体の一部分にこわばりが起こってきます。

<鳩尾>が硬張っている時が一番不快な時。<肩>のこわばりはその次に不快な時。<頸>のこわばりが、その次に不快の時です。赤ん坊が泣いていたら、それを確かめればわかる。生理的な不快は、<上胸部>、<肩>、<頸>あるいは<鳩尾>に現れる。手足で反応している場合は、その不快に対して抵抗して、新しい境地を立てようとしている子どもの努力や気構えの現れです。この場合は、体のコンディションとしては悪くない。変動はあるが、異常ではない。

子どもの背中が硬くなっている時は億劫とか意欲の停滞とかいった状態。その状態で熱を出したという場合は、何かしたかったのに止められた、と言う場合が多い。これは独立期の子どもでも同じです。

 

独立期前の子どもを抱き上げた特、<軽い>感じのときは<脈と呼吸のバランス>を注意して観察する。弱っている時は、<吐く息>が長く<吸う息>が短い。

呼吸は、お腹での呼吸、鳩尾での呼吸、胸での呼吸と言う順に、状態が悪い。鼻翼で呼吸するというのは、一番悪い状態。

 

(一息四脈と禁点の硬結)

呼吸と脈のバランスは、<一息四脈>が正常。単に、脈が早いとか遅いということではない。ただ、人間がいよいよ死ぬという状態の時も<一息四脈>になるが、その場合はみな<禁点の硬結>がある。

 

(乳児期の高熱)

乳児期は高熱を出すことが多いが、脳膜炎や消化不良が元の脳症状、後頭部の打撲の後の高熱というのでなければ、あまり恐いものではない。

 

一番病気が簡単で、高熱が出るのは胃カタルです。子どもが胃袋を毀した時は、非常に高熱が出る、四十度を越す場合もある。いきなり寒気が出てくる。大人にもそういう傾向があるが、胃カタルを起こす前には手足から寒くなってくる。大人は手足がだるくなってから寒気になってくる。

手足が寒くなって熱が出るのが胃袋の故障ですが、腰が強張って熱が出てきた場合は腸の故障、腰や膝が冷えてくるのは生殖器の故障の場合です。ともかく、発熱の前の変動を注意して見ていると、いろんな特徴がある。・・・

 

このへんで子どもの操法については終わろうと思います。この次は、老人の問題とか女性の問題とかの操法のやりかたを進めていこうと思います。こういうように段階を踏んでやっていこうとするのは、操法というものを具体的に、実際にやるためにどうするのか、ということを御話ししたい為です。

 

(体癖を見出だすに至るまで)

<この人はどういう病気になるのか>、<その病気はどういう経過を辿って治っていくのか>、<この人はこういう時にどう考えるのか>、<この人はこういう時にがっかりするのか、騒ぐのか、おとなしく我慢するのか、勘考するのか、観念して諦めるのか、どういう態度をとるのか>、<この病気は熱が出るのか、下痢になるのか>、<感じるのか感じないのか>

こういったいろんな面を、相手の特徴として見分けられないと実際には実用にならない。そういう実用面での必要から、人間をいろいろ分けていったんです。

最初は、相手の<要求の方向>を見ることが必要だという事が判ってきて、それからこの<要求の方向>、要求の現れ方は、その人の<体運動>や<感受性>と関係していることを見つけ出して、それで<体癖>というものに分けてやっていました。

それ以前は、実用的な必要から、相手の<体の格好>で分けていました。その恰好と感受性の方向を見ていた。与えた刺戟がどういう反応に結び付くのか、その度合いはどうかと分けていったんです。

最近になって、感受性だけでなく、体運動の構造や体形とも大分密接であることが判ってきましたが、そういう<体癖>の区分は、子どもを操法する場合も大人の場合も、実際の操法の場面では除くことが出来ないのです。

 

この整体指導の講習会は、究極は対象を<体癖>に求めてやるのでありますから、こういう異常にはこうするというような問題ではなくて、もう一歩進めた技術を研究する人たちのものでありたいのです。皆さんを見ていると、一般の人たちの触手療法の会とあまり変わっておりません。まあ、私の講義が下手だったのでしょうけれど、それを残念に思いました。

今日はこれだけに致します。

(終)