野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

「整体操法高等講座」を読む(19)

私の引用癖は相変わらずで、今日は内田樹氏の昨日(2019.4.15)のブログをそのまま引用させていただきます。私のブログは、自分自身の備忘録の一面もありますので、読者の皆さまにはお許しをいただくこととして・・・・

いつも内田氏のことばは、私が表現したくて、もやもやしたまま整理がつかない事柄にいつも明確な輪郭を与えてくれ、スカッとした爽快感を感じさせてくれる数少ない表現者の一人です。「野口整体とどういう関係があるの」と思われる方にも、是非お読みいただければと思います。(引用文は、私がゴチックにしました。)

 

内田樹の研究室

『善く死ぬための身体論』(集英社新書 著者:内田樹×成瀬雅春)のまえがき

 

みなさん、こんにちは。内田樹です。
 今回は成瀬雅春先生との対談本です。成瀬先生とは以前『身体で考える』(マキノ出版、2011年)という対談本を出しましたので、これが二冊目となります。
 成瀬先生とはじめてお会いしたのは、1990年代の初め頃ですから、もう四半世紀ほど前になります。成瀬先生のことは、先生の下でヨーガの修業をされていた合気道自由が丘道場の笹本猛先輩からよくうかがっておりましたし、著作も何冊か拝読しておりました。その成瀬先生が西宮の教会で倍音声明のワークショップをやるというのを知って、「おお、これは行かねば」と神戸女学院大学合気道部の学生たちを引き連れて行ったのが先生とお会いした最初です。
 小さな教会で、参加者もごく少人数でしたけれど、はじめてお会いする成瀬先生はそんなこと気にする様子もなく、機嫌よく倍音声明のやり方を僕たちに教えて、「じゃ、始めましょう」とセッションを進めました。僕の中では成瀬先生は「すごくミステリアスな、近寄りがたい人」という先入観があったので、こんなに間近で、こんなに親密な環境でやりとりできるとは思っていませんでした。それですっかり安心して、その半年くらいあとに大阪であった倍音声明のセッションにも参加しました。
 でも、その後、阪神の震災があって、僕も被災して、生活再建に手間取り、病気にもなって、しばらく成瀬先生との出会いも途絶えていました。先生との交流が再開したのは、震災から数年経って、五反田にある成瀬先生のヨーガ教室で、僕の合気道の師匠である多田宏先生(合気会師範、合気道九段)と成瀬先生との対談を聴きに行ったときです。たいへん面白い対談でした。
 帰途、五反田駅まで歩く道筋で、多田先生に「成瀬先生って、ほんとうに空中に浮くんでしょうか?」と伺ってみたら、多田先生がにっこり笑って「本人が『浮く』と言っているんだから、そりゃ浮くんだろう」とお答えになったのが僕の腹にずしんと応えました。なるほど。
 武道家は懐疑的であってはならない。
 そんな命題が成立するのかどうかわかりませんけれど、何を見ても、何を聴いても、疑いのまなざしを向けて、「そんなこと、人間にできるはずがないじゃないか」というふうに人間の可能性を低めに査定する人間が武道に向いていないことはたしかです。
 でも、実際にそのような「合理的」な人は武道家の中にもいます。そういう人は筋肉の力とか、動きの速度とか、関節の柔らかさというような、数値的に表示できる可算的な身体能力を選択的に開発しようとする。でも、実際に稽古をしているときに僕たちが動員している身体能力のうち、数値的に表示できるものはたぶん1%にも満たないんじゃないかと思います。していることのほとんどは、中枢的な統御を離れて、自律的に「そうなっている」。いつ、どこに立つのか、どの動線を選択するのか、目付けはどこに置くのか、手足をどう捌くのか、指をどう曲げるのか・・・などなど。ただ一つの動作を行うにしても、かかわる変数が多すぎて、そのすべてを中枢的に統御することなんか不可能です。身体が勝手に動いている。身体が自律的にその時々の最適解を選んでくれる。淡々と稽古を積んでゆくうちに、そういう「賢い身体」がだんだん出来上がってきます。それは「主体」が計画し、主導しているプロセスではありません。
 武道の稽古のおいては、「こういう能力を選択的に開発しよう」ということができません。だって、「どういう能力」が自分の中に潜在しているかなんて僕自身が知らないから。あることができるようになった後に、「なんと、こんなことができるようになった」と本人もびっくりする。そういうものです。修業においては事前に「工程表」のようなものを作成することができない。自分が何をしたいのか、何ができるようになるか、予測できないんですから。
 そのどこに向かうのか分からない稽古の時に手がかりになるのはただ一つ「昔、こういうことができる人がいたらしい」という超人たちについてのエピソードです。そのような能力の「かけら」でも、もしかすると自分の中には潜在的にひそんでいるのかも知れない、修業を積んでいるうちに、思いがけなくそういう能力が部分的にではあれ発現するかも知れない、それだけが修業の手がかりになります。とにかく、僕はそういうふうに考えることにしています。
 そういう割と楽観的でオープンマインデッドな修業者と「そんなこと、人間にできるはずがない。そういうのはぜんぶ作り話だ」と切って捨てる「科学主義的」な修業者では、稽古を十年二十年と重ねてきた後に到達できるレベルが有意に変わります。これは間違いない。
 どんな異能であっても「そういうことができた人がいる」という話は受け入れる。「そういうことって、あるかも知れない」と思う。そして、どういう修業をすれば、どういう条件が整うと、「そういうこと」ができるようになるのか、その具体的なプロセスについて研究し、実践してみる。
 僕はそういうふうに考えています。
 だって、それによって失われるものなんか何もないんですから。自分の中にひそむ可能性を信じようと、信じまいと、日々の稽古そのものに割く時間と手間は変わらない。だったら、「そういうことができる人間がいる」と信じた方がわくわくするし、稽古が楽しい。
人間の潜在可能性についてのこの楽観性と開放性は武道家にとってかなりたいせつな資質ではないかと僕は思います。現に、 僕が尊敬している武道家である甲野善紀先生も光岡英稔先生も、「信じられないような身体能力の持ち主」についての逸話についてはたいへんにお詳しい。

 ちょっと話が逸れましたけれど、とにかくその時に多田先生がにっこり笑っておっしゃった一言で僕は「武道家マインドセット」がどうあるべきかについては、深く得心したのでした。
 成瀬先生が時々僕にお声がけをしてくれて、対談をするようになったのは、それからの話です。そのおかげで、対談本もこれで二冊目になったわけです。それはたぶん僕が成瀬先生が語られる「信じられないような逸話」について、「そんなことあるはずがないじゃないか」というような猜疑のまなざしを向けず、「どういう条件が整えば、そういうことが起きるのか?」という方向に踏み込んでゆくからではないかと思います。
 でも、これを「軽信」というふうには言って欲しくありません。不思議な現象に遭遇した時に、「自分の既知のうちにないものは存在しない」と眼をそむける人より、「どういう条件が整えば『こんなこと』は起きるのか?」を問う人の方がおそらく科学の発展には寄与するはずだからです。

 今回の対談は「現代人の生きる力の衰え」についての話から始まります。どうしてこんなに生命力が衰えたのか。本書では語り切れなかったので、ちょっとだけここで加筆しておきますけれど、その理由の一つはなんだか散文的な表現になりますけれど、産業構造の変化だと思います。
 もう農作物をつくった経験のある人が少なくなったということです。
 僕や成瀬先生が生まれ育った1950年代の日本には農業就業者が2000万人いました。ですから、多くの人にとって、「ものを作る」という時にまず脳裏に浮かぶのは農作物を育てることでした。種子を土に蒔いて、水や肥料をやって、太陽に照らし、病虫害から守っていると、ある日芽が出てきて、作物が得られる。人為がかかわることのできるのはこのプロセスのごく一部に過ぎません。他にあまりに多くのファクターが関与するので、どんなものが出て来るのかを正確に予測することはできません。だから「豊作」を喜び、「凶作」に涙した。
 でも、今はそんなふうにものを考える人はもう少数派です。現代人が「ものを作る」という時にまず思い浮かべるのは工場で工業製品を作る工程だからです。
 学校教育がそうです。
 僕が大学に在職していた終わりの頃には「質保証」とか「工程管理」とか「PDCAサイクルを回す」というような製造業の言葉づかいがふつうに教育活動について言われるようになりました。缶詰を作るようなつもりで教育活動が行われている。だから、規格を厳守する、効率を高める、トップダウン・マネジメントを徹底させるというようなことが1990年代から当たり前のように行われるようになりました。
 この転換によって、「子どもたちのどのような潜在可能性が、いつ、どういうかたちで開花するかは予見不能である」という農作業においては「当たり前」だったことが「非常識」になりました。「どんな結果が出るか分からないので、暖かい目で子どもたちの成長を見守る」という教師は「工程管理ができていない」無能な教師だということになった。それよりも、早い段階で、どの種子からどんな果実が得られるかを的確に予見することが教師の仕事になった。「何が生まれるかわからない種子」や「収量が少なそうな種子」や「弱い種子」は「バグ」としてはじかれる。品質と収量が予見可能な種子にだけ水と肥料をやる。例の「選択と集中」です。
 人々がそういうふうに考えるようになったのは、別に教育についてのイデオロギーが劇的に転換したというわけではありません。ごく単純にドミナントな産業が農業から工業に変わったからです。
 いずれ工業のメタファーも打ち捨てられて、ディスプレイに向かってかちゃかちゃキーボードを叩いているうちに銀行預金の残高が増えてゆくのが「生産」の一般的なイメージになり、それに即して学校教育の「当たり前」も変わってゆくはずです(たぶんその時には「創造的思考」とか「スマート化」とか「投資対効果」とかいう言葉が大学教授会で飛び交うことになるでしょう・・・、というかその頃にはもう大学教授会などというものはこの世からなくなっているでしょうけれど)。
 産業は人間が創り出したものです。機械は人間が設計したものです。でも、ご覧の通り、人間は自分が創り出したものを「ものさし」にして、それを模倣し、それに従属して人間を「改鋳」しようとする。やめろといっても、そういうことをする。人間というのはそういう生き物なんです。
 本書の中でも「機械論的な身体観を内面化させた人」についての論及がなされています。機械の動きというのは、人間の動きを単純化したものです(ヒンジ運動とかプレス運動とかは人間の自然な身体運用のうちにはありません)。でも、自分で機械を制作しておきながら、それに囲まれているうちに、機械の動きを模倣して身体を使うようになる。自分が創り出したものに支配される。マルクスが「疎外」と呼んだのはこのような事態のことです。
 別にそれはそれでいいんです。人間というのは「そういうもの」ですから。自分が創り出したものに支配されるという倒錯も一種の能力と言えばそうなんです(動物にはそんな器用な真似はできません)。
 でも、とりあえず現代人は工業製品の製造工程(というそれ自体すでにかなり時代遅れなプロセス)をモデルにして、自分の身体を使おうとしていることについては声を大にして言っておきたいと思います。中枢的に管理すること、個体を規格化すること、シンプルな「ものさし」に基づいて個体を格付けし、高い格付けを得たものに資源を傾斜配分する・・・という一連のプリンシプルに基づいて現代人は身体を使おうとしていますけれど、それはある歴史的な時期に固有の、一種の民族誌的偏見に過ぎません。そういうことを「どうしてもやりたい」という人は、お好きにされればいいと思います。でも、これは前期産業社会に最適化したプロセスですので、もうだいぶ前から使いものにならなくなっているということだけは知っておいた方がいい。
 僕たちがこの本の中で提言しているのは、とりあえずは、もう少し前の時代の、人間が工業生産のメタファーで身体をとらえる習慣がなかった時代の「身体の潜在可能性に対して楽観的であること、予見不能な資質について開放的であること」です。たぶん、このやり方の方が「次の時代」に適応する可能性は高いと思います。

 もう一つ、この本では、「潜在可能性を開花させる」という向日的なテーマの他に、「よく死ぬ」とはどういうことかという、われわれの年齢(もう古希ですからね)にふさわしいいささか重いテーマについてもかなり長い時間を割いて語っています。
 ここでの僕たちの合意点は、一言で言えば、「よく死ぬためには、生命力が高い必要がある」ということです。
 変な話ですけど、そうなんです。
 健康で長生きすると「いいこと」があると昔父親が教えてくれました。父の説によると「健康で長生きすると死ぬとき楽だから」だそうです(実際に父は長寿で、死ぬ間際までしっかりしていて、最期に家族に向かって「どうもありがとう」と言い残して永眠しました)。
 なるほど。
 僕くらいの年になると、もう死ぬことそのものは怖くないんです。やりたいことはだいたいやり尽くしたし、ライフワークとしていた仕事もほぼ片づきました。たいせつなミッションについては「あとを引き継ぎます」という次世代の後継者たちが育ってくれています。
 だから、どちらかというと、死ぬのは楽しみなんです。死んだ時に「あ、死ぬというのは、こういうことだったのか!」と長年の問いの答えを得ることができるわけですから。それを楽しみに待っているのです。
 とはいえ、死を前にして心配になることが二つあります。一つは死ぬ前に大病をして苦しい思いすること。もう一つは認知症になって、「内田センセも若い時は気の練れた人、もののわかった人だったんだけど・・・年取るとあんなになっちゃうのかな。悲しいね」と言われることです(本人はもう惚けちゃっているので、悲しくもなんともないのですが)。
 つまり、身体の健康と、頭の健康ですね。できれば、死ぬ直前まで心身ともに健康で、ある日「あ? お迎え?」と呟きつつばたりと倒れて死んでしまうというのが望み得るベストなんです。
 でも、そのためにはいろいろと生きているうちに努力しておかないといけない。
 死に至る身体の病はほとんどが遺伝子由来のものですので、コントロールできることには限界があります。お酒も飲まず、煙草も吸わず、暴飲暴食を慎み、早寝早起きしていたけれど、若死にするということはよくあります。生活習慣も遺伝子には勝てない。僕らがある程度主体的にコントロールできるのは「心の健康」だけです。これは努力のし甲斐がある。
 では、「心の健康」とは何のことでしょう。
 それは「複雑化」ということじゃないかと僕は思っています。
 僕の同級生たちはもう過半がリタイアしています。まだ自分の現場を持っている人もいますけれど、一線は退いている。でも、一線を引いて、悠々自適になると、態度に際立った変化が起こる人がいます。
 頑固になるんです。「頑固爺い」になってしまう。
 不思議ですよね。世の中の利害得失から超脱した身分になったはずなのに、そういう人ほど「言い出したら聞かない」し、「人の話を聞かない」ようになる。こちらが話しかけても、「そんなことは分かっているんだ」というような興味のなさそうな態度をとるようになる。ひどい時は人の話を遮って、「わかったわかった」とうるさそうに話を切り上げてしまう。
 たぶん本人は「世の中の些事はもうどうでもいいくらいにオレは解脱しちゃったんだ」というふうに自己正当化しているのかも知れませんけれど、僕の見るところ、違います。
 この人たちは「複雑な話」をする能力がなくなってきているんです。
 新しい変数の入力があった時に、それがうまく既知と同定できない場合、僕たちは自分の手持ちの「方程式」そのものを書き換えます。増えた変数が処理できるように、方程式の次数を上げる。話が複雑になってきた時には自分も複雑になってみせないと対応できないからです。
 これが生物の本性なんです。進化の本質なんです。
 入力がシンプルな時は、シンプルなスキームで対応できる。単細胞生物だったら、外界からの入力は「餌」か「捕食者」の区別ができればいい。「餌」なら食べる。「捕食者」なら逃げる。それで済む。でも、細胞分裂を繰り返して、だんだん生物の構成が複雑になってくると、外界からの入力の仕分け方もだんだん複雑になってきます。
 複雑さを処理する基本のマナーは「判断保留」です。「なんだかよくわからないもの」というカテゴリーを作って、「なんだかよくわからないもの」はそこに置く。  
 船に乗っている時、夜の海上に何か揺れるものが見えたとします。何か規則的な動きをしている。でも、鯨か、難破船か、月の反射か、なんだか分からない。そういう時に人間は、何かを見たけれど、それが何かを「決定しない」ということができます。「それが何を意味するのか分からないものがある」ということを受け容れる。
 それができるのは人間だけです。
 老人になることで際立って衰えるのは、この「なんだかわからないもの」を「なんだかわからない」ままに保持しておく力です。中腰に耐える、非決定に耐える。何か追加的な情報入力があって、自分自身がもっとも複雑な生き物になることによって複雑な事態に対処できるようになるまで、判断保留に踏み止まること、年を取るとそれができなくなる。
 体力気力が衰えると、はやく腰を下ろしたくなるんです。中腰つらいから。
 オープンマインドとか「開放性」とかいうのも僕は同じことを指しているのだと思います。老人になって、現場を離れたことでまっさきに衰えるのは、この力です。自分をさらに複雑な生き物に進化させることで複雑な事態に対処するというソリューションが取れなくなる。むしろよりシンプルな生き物に退化することによって、事態をシンプルなものにしようとする。「オレにも分かる話」か「オレには分からない話」かの二分法で入力を処理して、「単純なオレ」でもハンドルできるように事態を縮減する。
 僕は「心の健康」というのはこのことじゃないかと思っているんです。老人になると、確実に身体は衰えます。でも、心は衰えに抗することができる。それは複雑化するということです
 老いるというのは自己複雑化の努力を放棄することだと僕は思います。いささかきつい言い方になりますけれど。こういうことを老人に向かって言う人はあまりいないみたいですので、あえて自戒を込めてそう申し上げます。
 
 日本は超高齢社会にこれから突入します。当然、これから「老人向き書籍」市場にビジネスチャンスを求めていろいろな書き手が参入してきます。この本も、そういうものの一つと思って読んでくださって結構です。
 たぶんほとんどの「老人向け書籍」は「どうやったら楽になるか」「どうやったら話を簡単にするか」という方向で読者を惹きつけようとすると思います。知的負荷をできるだけ軽減するように誘導する。でも、そうやってどんどん老い込んでゆくのはあまり賢い生き方だとも、楽しい生き方だとも僕は思いません。
 みなさんはこれからあと本文に入られるわけですけれど、出て来るのは「変な話」が多いです。それを読んで「そんなことも、あるかも知れない」と言って中腰で耐えることができるかどうか、そのあたりを自己点検してくださるとよろしいかと思います。

 本書は、最初成瀬先生が2018年の秋に個展を開かれることになっていて、それに合わせて出版するはずだったのですけれど、よい版元が見つからず、いささかご無理をお願いして、集英社新書から出してもうらことになりました。その時に、集英社編集部から対談で触れたトピックのうちで「善く死ぬ」という主題にフォーカスしたかたちで出したいという要望がありました。たしかに、対談では「死ぬこと」に繰り返し触れています。でも、勘違いしないでくださいね。この本は別に「老人向け」のものではありません。若い人にこそ読んで欲しいと思います。死ぬ準備はいつ始めても早すぎるということはないからです。
 僕は能楽のお稽古をしているのですが、前にあるインタビューで「老後の趣味として能楽なんかやるのはどうでしょう?」と訊かれて、「老後になってからじゃ遅すぎます」と割と冷たい返事をした覚えがあります。老後になって能楽を楽しみたいと思ったら、リタイアするまでにそれなりのキャリアを積んでいる必要があります。リタイアした後の生活を充実したものにしようと思ったら、その準備はできるだけ若い時に始めておいた方がいい。
 「善く死ぬ」ことは老人だけに突き付けられた問いではありませんというのはそういうことです。みなさんのご健闘を祈ります。

 なんだか「まえがき」にしてはめちゃくちゃ長くなってしまいました。本文に入る前に読み疲れてしまった方もいるかも知れません。すみません。

 最後になりましたが、対談の企画と編集の労を取ってくださった豊島裕三子さんと、本を仕上げてくださった集英社新書の伊藤直樹さんにお礼を申し上げます。ありがとうございました。成瀬先生、長い時間お付き合いくださいまして、ほんとうにありがとうございました。またお話しする機会を楽しみにしております。

2018年12月
内田樹

 

 

私が野口晴哉という超人のエピソードに惹かれ、その言葉に接することに言いようのない楽しみを見出だせるのは、私のブログが、内田氏が表現する、<どこに向かうのか分からない稽古の時に手がかりになるのはただ一つ「昔、こういうことができる人がいたらしい」という超人たちについてのエピソードです。そのような能力の「かけら」でも、もしかすると自分の中には潜在的にひそんでいるのかも知れない、修業を積んでいるうちに、思いがけなくそういう能力が部分的にではあれ発現するかも知れない、それだけが修業の手がかりになります。>の通り、そこに私なりの整体修業の思いがあるからにほかなりません。願わくば<人間の潜在可能性についての楽観性と開放性>を持って、<「科学主義的」な修業者としてではなく、楽観的でオープンマインデッドな修業者>たらんことを。

内田氏の、この前書きとしては長いけれども、この短文のなかに詰め込まれた豊かな思想的方法は、野口整体法の未来を考える時、非常に重要な示唆を含んだものと、私には思える。特に、整体操法というものが、人間の一対一の関係性の場面の問題であることを考えるとき、整体操法という技術やその知識というものが、<誰のためのものか>という本質的な問題と深くかかわってくるものだからだ。

個人は、一般化できない固有の感受性を持っている。整体操法の現場では、それら多様な個々人に対して、一人ひとり最適な<操法>指導を行わなければならない。そこでは決して一般化できない<技術>の用い方を要請される。

その時、整体指導者に要求されるのは、その<多様性>にいかに耐えてえていけるかという課題である。「こうすれば、こうなる」という一般化・客観化された技術のみ用いて、あとは傍観する、などということはできない。目の前の個人の<個別性>のまえに寄り添い、その<個別性>という困難さに耐え、そこで<最適な解>を見出だそうとする態度をこそ、野口氏の整体操法は要求しているからだ。

整体操法についての野口氏の講座が、多数の参加者や読者に対してなされるものである以上、操法の場とは異なって、<個別性>から一段と抽象度の高い、より一般化された<ことば>で語らざるをえない。そのことから、野口氏の<ことば>は、一見すると誰にとっても該当しそうに見えて、その実はまるで自分の課題とは該当しないものに思えてきたりする。しかも、話題は連想ゲームのように様々な方向に縦横に展開し、重層性を帯びざるを得なくなっている。

しかしよくよく考えてみれば、それは必然的な展開としてそうなっているに過ぎないのだろう。なぜなら、講座でのことばは、<一般性>と<個別性>との狭間で紡ぎ出さざるを得ないものだからだ。そこでわれわれは、野口氏の<ことば>の前で、改めて自己の個別性に出くわし、混乱し、より謎を深められた形で歩を進めざるをえなくなるのだろう。

いずれにしても、内田氏の表現を借りれば、<事態をシンプルに説明することはできないのが<生命>現象であり、<身体>現象であるからだ、ということになるのだろう。

そしてそこで自ら格闘して得られた<知>こそが、野口氏が指し示そうと目論む、<整体的認識>ということになるのだろう。

そしてそれは、個人や個別の組織の専有物ではなく、常にすべてに開かれたものであるべきだ、という事になるに違いない。

では、今日も講義録の講読をはじめます。

 

つづく

 

 

 

「整体操法高等講座」を読む(18) 子供の操法(6) 潜在意識指導

野口氏の方法の際立った特徴の一つは、目の前の実際の人間の運動系を丁寧に観察するところにある。その観察は、まず相手の体に触れ、その体から得られる情報(筋の硬直状態、硬結の位置、体の他の部分の硬直との関係、呼吸や脈、体周期など)を基礎にして、相手の固有の感受性傾向を把握し、体運動の円滑な発現を導くための操法技術を抽出、設計する。それはある部分の変動がその部分だけの問題ではなく、一個の生きる全体のなかの相対的な部分でしかないという認識から、個々の変調の多様な関係性を見出だしていく作業にほかならない。こうした作業は、身体の変調や病気といわれる現象が、ある特定の部位の特異な身体的現象ではなく、感受性や心的な領域をも視野に入れた、総体的な視点からとらえようとする作業だと言える。だから整体操法は、難しい。

この病気や異常にはここを押さえれば治る、というA=Bといった一対一の対応、原因と結果が単一の物理的論理で完結するなら、それほど困難であることもないだろう。しかし整体操法の観察の対象は、その地点を出発点として、心と体の両面に及び、しかも心と体を結び付ける<気>をも運用して、重層的な構造の課題を解決しようとするものであるのだから、並大抵のものではない。

少し前のこの高等講座で、野口氏は、鍼灸理論の<経穴・経絡>に言及し、いわゆるツボ(経穴)というものの持つ治効的有効性を認めつつも、そのツボ(経穴)を線状に結び付け整理した<経絡>という道すじが、自身の経験からは実体のないものではないのか(野口氏はこういう言い方をしてはいないのですが)と疑問を呈するくだりがあった。野口氏のこの提示は、ひとたび<経絡>というものの存在を信じ、それを先入観とすることからもたらされる危険性を踏まえてのものだった。だから極論すればそれは<経絡>思想解体の試みとさえ言える提言だと思う。重要なのは、理論から出発することではなく、事実から出発すべきなのではないかということである。そう考えると、野口氏がなぜ<ツボ>(<経穴>)という表現を用いないで、<調律点>とか<処>と表現したのかも理解出来るのではないか。また、<経絡>に沿って<気>が流れるという考え方に拠るのではなく、<運動系>の働きに中に<気>を見ていくという方法に拠った理由も理解できるはずだと思えるのだ。

ところで今日の野口氏の講義は、<感受性>とか<潜在意識>といった、我々にはなかなか容易には見透かすことの難しい領域に触れられている。他者を理解することの困難さに直面したとき、われわれは往々にして、所詮人間は理解し合えないものだ、それを理解しようと力むから却って人間関係がおかしくなってしまうのだ、といったように達観して、その場を立ち去ることが大人の態度だと考えてしまいがちだ。

しかし、野口氏はそうではない。理解することは困難だが、出来ないことではない、として、<感受性>や<潜在意識>のありようをわれわれに説こうとしているのだ。まさに<精神療法家>としての野口氏の面目躍如たる姿に触れることが出来る。

では講義の要約に入ります。

 

整体操法高等講座」(18) 子供の操法 (1967.10.25)

だいぶ子どもの操法が続きましたので、要領を得たと思うのですが、子どもというのは自分で喋らないのです。自分で感じたことをうまく説明できない。だから容態を聞くとか、経過を聞くということが難しい。・・・

 

(着手の手順 無意動作の観察)

もっとも大人でも、見栄を張ったり嘘をついたりいろいろで、聞いたからと言ってそれがその通りとは限らない。だから、私は大人でも子どもでも、先入観を持たないで、相手が意識していない<無意動作>を丁寧に観察します。

そしてその<無意動作>から、相手の体のなかにある要求、相手が実際に感じている状況をみます。

それから自分の得てきた体癖の知識や病気についての知識などをつなぎあわせながら、相手の体の硬直状態、硬結状態、筋肉の弾力状態などを通して、相手の無意運動の起こる場所と体癖的知識とを綜合して、次の変化を予測します。

その予測が実現するのを待って、その実現度合いに応じて、さらに観察を進めます。

そして、相手が感じている痛みがどういう性質のものか、その痛みをどう感じ、いつまでそれが続くのかという、苦痛の度合い、その人固有の感受性の状態を判断していきます。

そして、相手の体全体の構造、体癖、生活状況などから、もう一度それまでしてきた相手の病気の経過を分析し直して、自分の見識のどれに該当するのかを確認し、はじめて相手への対応を決めていくわけです。

相手の訴えについては、相手がどれぐらい本当のことを感じるか、本当のことが判るか、本当のことをどれくらい色づけ誇張しているか 。あるいは相手の痛みに対する予想や想像、連想がどういうものか、それらがどれくらい続くものか、ということを無意位動作から判断して、相手の苦痛の度合いを判断していきます。

だから、痛いと言って顔をしかめている、そのしかめているのがどれくらいかかって取れていくかというのを判断するために、<訴えの中にある心の残存状況>や<知覚の残存状況>や<空想、連想の敏感さの度合い>、<その連想が痛みに変化する状態>、<その空想が体の働きに変化する状況>といったものを観察します。

 

連想力が強いとか敏感というのは、頭の良し悪しに関係している。無意識の連想がさっと続いて起こるようなのを<敏感>という。運動神経が良いとか悪いとかいう評価をしますが、<知覚能力>にもそういう良し悪しがあって、<連想>が敏感なものは、どんどん変化してくる。

頭が良いというのは、<連想が敏感>なことだと、私は思っている。それと<勘が良い>というのも頭が良いということの条件の一つです。

 知識を丁寧に記憶したなどというのは、頭の良さには数えておりません。

 

なかには自分の空想で、体に変調を来たす人もいる。自分の空想で作った食道の狭窄をレントゲンを撮ってもらって、癌ではないだろうかと空想をたくましくして、癌症状を起こしたというのは、独創的な才能といってもおかしくない。そういう才能を他の場面で使えば頭がが良いということですが、病気と相撲をとるというのでは、それは駄目なんです。私はそういう受け止め方が体にどういう変化を起こすか、こういうように攻め込めば潜在意識がそれをどう受け止めるかがわかっていますから、食道が詰まるような状況を取り除く詰めをおこないます。それは世間話をするように、私の潜在意識指導の場では普段に行っています。相手の訴えに返事をするだけでいいのです。

 

潜在意識がどういうとき、どのように動くかを知っていればそれが出来る。

たとえば、食欲がない、という場合、何か嫌なことがあって食欲がないのか、生理的に迷走神経の異常でそうなっているのか。生理的な場合には、少し感情を抑えれば迷走神経は働き出します。不愉快なことがあってそうなっているなら、その不愉快さの中に、不愉快でないものを感じさせるような方向にもっていって、その不愉快さを取り除けばいい。

 

(潜在意識の指導)

亭主が喧嘩を売ってきた、不愉快が続き食欲が出ないと。私は、「本当に嫌いになった亭主というものは喧嘩を売らないものだ、喧嘩に厭きたら亭主は黙る。」「亭主が喧嘩を売る間は、あなたに多少でも自分の存在を認められたいだけだ。」「まあ喧嘩をあなたから売ればいい」と言いましたら、食欲が出てきた。

亭主に喧嘩を売らないうちに食欲が出てきた。自分の中にあった何かが、ひょっと変わると、もうそれで食欲が出てきて変わる。

「喧嘩をしましたね」「いえ、喧嘩はしていません」「それは結構」

こういう<何気ない会話>をすると、何でもない時の会話と違って、喧嘩をしたという空想が起こって、喧嘩をしなかったことで却って亭主に勝ったような清々しい感じになって、それで食欲が出てきた、そんなことがよくあります。

私の潜在意識指導はそんあ普段の会話をとおして行っていますので、誰にもそれときづかないんです。

「何時に起きましたか」「はい、何時に起きました」「寝坊ですな」

それだけで話は通るが、それだけで体が変わってくる。

子どもの場合は、そういう変化が非常に早いのです。大人の場合より不平の根っこは浅いのに、変化は大きくて早いのです。

だから、その子どもの不平をちょっと聞くだけで、一回の喘息の発作はなくなる。

たとえば喧嘩をして負けたことで小便が出なくなっている子どもがいましたが、親は喧嘩に負けた事だとは考えない。私は、子どもが「喧嘩した」と言っている子どもの呼吸の止め方をみて、本当に喧嘩をしたんだなと思った。そこで「誰と喧嘩したの」と聞くと、「誰ともしていない」と言う。そこで「どっちが先に手をだしたの」と聞くと、「向こうだよ」と言う。だから喧嘩をしたことは確かなんだけれど、そばに喧嘩をしてはいけませんと睨んでいるお母さんがいるから、その子どもは反射的に「喧嘩なんかしてないよ」とつい答えてしまう。

仕方がないので「どっちが先に手を出したのかな」と聞いたわけですが、そうすると反射的に「向こうだよ」と答えた。

そこで「負けた方が先に手を出すんだよ。お父さんとお母さんの喧嘩だって、負けた方が手を出す。君が先に手を出したんでなければいいよ」と言いました。

そうしたらしばらくしてお母さんが、小便がどんどん出るようになったと言ってきた。「先生の操法はとてもよく効く」と言っていましたが、お母さんはそれが何故だか判らない。みんなそんなふうに、自分で病気を作って、自分で治っていく。ただみな、その道筋が判らないんです。

喧嘩をして負けたことが悔しくて残念がっていれば、D10に捻れが出ています。捻れが出て、その影響で喧嘩をしたために小便がでなくなったという順序ではない。

そういう証拠固めをして、そのうえで相手の心の角度を変えながらショックする。

 

(心のしこり・結ぼれ)

私の見つけてきた操法というのはそういうもので、体だけにショックを与えたり、心専門にショックを与えたりというのではなく、身体も心も両面を見て、証拠立てして、自分の推測を固め、さらに推測を作りながら、その仮説に沿ってテストしていって、いろいろ予備的な打診も行って、そうして<結ぼれ>をほどいたり、新しい刺戟を作ったりいたします。

そして、そういうことを<暗示>としてとか、あるいは治療の形式としては行わないで、<普段の会話>、<雑談>を通して、方法をそのつど選択していくというのが、私の見つけてきた技術であります。

こういうことは、子どもが一番早く変化する。大人でももちろん変化する。大人は変化が複雑で、調べていくのは面白いのですけれども、子どもは悔しい、癪に触る、恐い、困ったといったような割に単純な理由です。我々のやり方の段階で言うと、<第一次現象>だけなんです。慢性の喘息を持っているような子ども達に<第二次現象>があるくらいで、第二次現象のような、ある心の働きが、反射によって次の働きに変化し、この反射による投射状態として体の異常が生じているといったものは割に少ないんです。

 

<第三次現象>になると、そういう変化、異常のなかに、<自己弁明>が存在したりする。この<自己弁明>が、自分に言って聞かせる為のものか、芝居として他人に見せる為なのかで、少し違いがあるが、子どもの場合は簡単に見破りやすいのです。

 

子どもは「痛くないよ」と言うから、痛くないと思っていたと言うお母さんがいましたが、「触ってごらんなさい。痛いと脈が早いんです。」と言って触らせると、早い脈がドンドンと打っているのです。けれどもそこにあるアイスクリームが食べたいから、「痛くないよ」と言っているんだと。アイスクリームを持ってきて、「痛いの?痛くないの?」と子どもに嘘をつかせるように聞いている。痛いと言えばもらえないに決まっているから「痛くないよ」と言う。そして後になって、嘘をついたなんて言って叱る。

お腹を触ってみれば痛いかどうかは判る。相手の訴えでなくて、こちらの手でそれを聞く。ただそれだけでなくて、痛いのを痛くないと言う時の、その子どもの心理を観察します。

痛いという場合に、「どれくらい痛い?」「これぐらいだ」と。「そうかな。こっち側が痛いのではないか。こっち側は痛くないのではないか。これ位だと、その上だって痛くない。痛いのはここだけではないか。」と。悪い時は、初めのうちは方々が痛いんです。ところが良くなってくると、悪い処は一か所に決まってくるんです。蚊に刺されても、方々が痒いが、だんだん一か所が痒くなってくるでしょ。そういうように、治ってくるとだんだん範囲が縮んでくる。痛がっている最中でも、注意をだんだん痛みに集めて、本当の痛いところを感じさせるように誘導すると、本当の痛いところだけしか感じなくなる。本当は、本当に痛いところだけが痛みを強く感じるのですから、強く感じたそこをギュッと押さえて、「痛いのはここだけではないか」と言うと、それまで方々痛かった感じがなくなってしまう。「そこだけ痛い、そこだそこだ」と言う。「ここですね」と言う。そうなればこれを押さえれば治ってしまう。「痛いなんてこの場所だけじゃないか?そうでしょ?」「そうだ」で打ち切る。

そうすると、方々痛いような感じがしていたのが、ここの一か所だけ痛いのが残って、そのうちにその痛いのも止まったような気がする。「もう二十分経ったらアイスクリームが食べられるな」と言うと、どんどん回復してくる。痛い最中でも、それを与える時間を決めるだけで、その間に治すことが出来る。

子どもの心をそういうように<焦点をつけて使っていく>ことが、私等の技術なんですけれども、こういう事は、子どもで練習すると非常に早く身についてくる。

 

石をぶつけられて痛いとワイワイ泣いている子どもを連れてきた親がいました。触ってみるとそんなに酷くない。これは石をぶつけられたということの悔しさと、相手に食ってかかれなかったという自分の弱さに対する弁解が、その痛みを大きく感じさせてしまっている。大体<感じる>ということは<潜在意識的なもの>で、十の痛みを必ず十に感じるかと言えばそうではない。裡にあった潜在意識的な感じ方によって、同じものでも強く感じたり、弱く感じたりする。子どもは嘘をついているわけではない。誇張しているわけでもない。自分の感じたとおり正直に言っているだけで、本当に痛く感じているのです。大人はそれを聞いて、物理的に強い力でぶつけられたと錯覚して、青くなってここへ担ぎ込んでくるのです。

痛いと訴えられたら、まず「これは本当の痛みだろうか」「実際はどれぐらいの程度の痛みだろうか」と考えてみる。誇張していたとすれば、なぜ誇張するのかを考える。

大体<感受性が歪んでいる>ことが多い。

だから意識して誇張しているのではなく<無意識による誇張>、<無意動作>なんです。

 

強い打ち身というのは、だいたい痛みを感じなくなる。だから、強い打撲なのに痛くないという場合は危険なことが多い。ちっとも痛くなかった、なんていう場合にくらべて、痛かったとか出血したとか、こぶが出来たという事の方がずっと軽い。

ただ、相手の痛みが、そう感じているとおりのものか、それ以上に感じているかを確かめることが必要で、そこに誇張があるのかないのか、先ほどみてきた子供には誇張があった。相手が自分よりも強い。食ってかかれない。そういう相手だった。そうするとその不満が、全部「痛い」という言葉で表現される。

「誰がぶつけたんだ、どんなやつだ?」と聞く。名前を言ってもこちらには判らないが、「どんなやつだ?腕力の強いやつか、意地の悪いやつか、成績の悪いやつか」と聞いたら、「ずっと僕より下なんだ。先生にいつも叱られているんだ」。「どうだ痛みは?」「あまり痛くなくなった」と言う。それはそういう潜在意識が感受性に作用していたのだという事が判る。だから腕力では負けるが、成績では勝てるから「腕力があるんだ。どんな顔をしているか」「こんな顔をしている」という会話では痛みは減らないが、「成績は悪いやつか?」と聞いたら、さっと変化してきた。

「数学が悪いんだろうな」「数学はあいつは駄目だ」「体操は?」「体操はいいんだよ」「唱歌は?」「駄目だ、音楽なんか判らない」「先生にその子は叱られたことがあるか?叱られた時どんな態度をする子だ?」と聞いたら、それを説明した。

説明が終わった頃には、痛みはなくなっている。打たれた正味の痛みだけになってしまう。

 

(感受性の方向、歪み)

そんなように、子どもなりの複雑な心理行程があって感受性が変わってくる。

私は、こうやってその子どもを押さえて、会話をしているなかで、そういう子どもの<心の掃除>や<感受性の歪み>を取り除いているのです。

こういうことが、子どもの操法の際の一番大事なところで、親が気づかないような子どもの<心のしこり>を処理するということが大事であります。

 

だからといって、そういう心理的な過程だけで病気になるのではないんです。成長の過程の過渡的な現象として起こる場合もあります。子どもは寒暑風湿には強いとは言えないんです。寒暑風湿気に侵されて起きる場合もあります。細菌に侵される場合もあります。

けれども、子どもが疫痢になったという場合でも、疫痢は細菌によるものですけれども、足を極端に冷やして、気が上に上がった状態が長く続いたあとに起こる。昔は、潮干狩りに行って疫痢になったということが圧倒的に多かったが、何らかの条件に合致したというわけです。

あるいは、やりきれないほど沢山の宿題があったとか、やりたくないことを何度も繰り返さなくてはならないというのも、潮干狩りと同様に、足が冷たくなり、頭が熱くなるという条件です。

 

相手の感受性をリードし、感受性を高めて操法するという、整体操法の行き方から言えば、子どもに対してひたすら愉気をするだけというのは、頭の悪い人のやることで、子どもは一次反射、二次反射でいろんな現象を起こしている場合が多いから、今言ったようなポイントさえつかめば簡単に効果を収めることが事が出来る。

 

子どもの操法というのは、その子どもの感受性に副って、感受性を歪めているものを取り除いて、素直な状態にしてから愉気をするという考えが要ると思うのです。

その一番はっきりするのは、子どもが怪我をした時です。

 

(子どもの怪我)

子どもはその切り傷が深いのか浅いのか判らない。親は深い切り傷だと余分に痛いと思い込んでいる。ところが、生理学を知っていれば、浅いケガは痛いが、深いケガはそんなに痛いものではない。トゲが刺さった時でも、深く刺さったトゲはたいして痛くないのに、浅い方が痛い。また、傷の範囲が広いためにより痛みが拡がるかといえばそうでもない。

あっちもこっちも怪我をしたという場合には、その中の一か所の痛みだけが痛い。何か所も痛いというのは、中のどれかに痛みを誘導するだけの余分な怪我がある、他と比べて度合いの強い場所があるということです。それを丁寧に見つけ出して、「ここか?」と言って押さえると、他は痛くないことが判るんです。

ここを押さえちゃって、他を自分で押さえて、そこが痛いか、痛くないかと押さえていくと、痛くなくて、私の押さえている周囲に行って初めて痛いのが判る。「では痛いのはここだけかな?」と念を押して、「そこだけ」と言ったら放す、そうすると痛いのがそこだけになってしまう。

 

だから、痛みの範囲を、広い痛みのときはそれを狭くしていく。痛みの範囲が狭い場所

 であるなら、その痛みを感覚する感受性の歪みを調節していく。

「転んで打ったんだね」「そのときどんな格好してたんだ」「誰か見いている人はいなかったか」「みっともなかったろうな」と言うと、<痛みを余分に宣伝しようとする>感受性の歪みが、<転んでなんかいない、痛みなんか気にしてない>と言いたい気持ちに変化してきて、その痛みがなくなってしまう。

子どもの痛みというのは、そういうのが多いんです。

それから、大した痛みでもないのに包帯を巻いて痛がっている、そうしないと気持ちがおさまらないというような子どもがいたら、われわれはそう言っている子どもの裡にある独創的な才能とか芝居本能が発達してきたのだな、と見るべきなんです。

自分では信じていないが、他人には信じさせたいという<芝居本能>は、大人にだって働いている。でも、包帯をぐるぐるに巻いて自慢げに歩く子がいたら、その子どもの中にある<不安>を見ていく。何を不安に感じているのか。自分の身を自分で守ろうとしているけれども、自分では守り切れないものがある。そうすると、あえて自分の弱いところをさらけ出して、他人の同情を買って、その不安を補おうとする。言ってみれば、それは<不満>の表明なんです。<不満>があるから包帯をぐるぐる大きく巻くという事ではないんです。<不安>があるから、そうするのです。<不安>を満たすために、その独創的な才能を利用している。

 

大人でも同じですよ。ちょっとした病気で「痛い、痛い」と、血圧がちょっと上がったというだけで「脳溢血になるんじゃないか」と言って奥さんを驚かすなんていうのは、その後ろにはやっぱり<不安>がある。いつも奥さんは自分にそっぽをむいている。「おい、おい、俺はここにいるよ」と呼び掛けたい。

そういうように、<不安>がある時は、異常状態を誇張する。

「飯がどうも旨くない、癌だろうか」と。これ飛躍していますでしょ。でも本人は本気でそう感じている。そこには、<潜在意識的な不安>がある、と見るべきなんです。

 

 こうした独創的才能の使い方の方向、角度を変えることが出来れば、そういうことは無くなってくる。ただ、その方法は、その時のその人の状況に応じたぴったりとしたかたちでないとうまくいきませんので、ここで予めああする、こうするということを説明するのは難しいですが、わたしは普段からそれをやってしまっている。

 

感受性の歪みを正していくという方法は、やはり子どもで練習していくといい。

 

 

つづく

 

「整体操法高等講座」を読む(17)子供の操法(5)

私たちは日々の生活の中で、<病気>という現象にどのような意味を与えているのだろうか。<病気>が、日常のありふれた社会生活を停滞させ、阻害するという面があることから、それから一刻も早く逃れたいと考え、その現象をなくしてしまいたいと焦ることはよくあることである。それはそれまでのありふれた日常に生じた裂け目のように感じられ、非日常の出来事、自分にとってあってほしくない非日常のことと思い込むことに慣れ親しんだ結果だと言えるかもしれない。

しかもこの<病気>という現象は、<死>という日常生活とは対岸にある究極の<非日常>についての観念と容易に結びつき、不安を煽ってやまないものだから、なおさらといっていいだろう。

メディアにあふれ返る健康法への飽くなき渇望は、いかに人間が深く<健康不安>に陥っているかの証左でもある。これは今日のことに限ったことではなく、古今東西遍く続いて来た意識をもった人間の、本質的な不安であり課題だと言えよう。

この課題解決の為に、人類は膨大な知識を獲得してきたのだが、しかしなお<病気>といわれる現象は存在し続けており、一つの解決がまた新たな課題を投げかけてくるという状況に変わりはない。

考えてみれば、<病気>とよばれる現象は、生命として生きる存在にとって不可避の現象であり、降ってわいたような災難というものとは異なった、ある必然的な過程として捉えられるべきものであって、忌避すべき禍々しい出来事だとする理由は本当はないのかもしれない。

われわれはいつも、遭遇する諸現象の<意味>を求め、その現象に一定の観念を付与することで、それなりの安定を得ようとする。それが日常性を否定するような現象だから、早く見つけ出しそれを根絶やしに排除することが正当だとする観念も、それなりの価値を持つものであることは判るのだが、それがその生体にとって最も自然であり合理的なものであると言い切れるほど、人間の知識や理解が完全なものであるはずもなく、結局のところは中途半端なものになっていることは否めないだろう。

これは、<病気>といわれる現象に、どのような意味付け、観念化をなしうるか、という人間の意識の問題とも深くかかわってくるものである。

近代医科学による<病気>観も、東洋医学と言われる<病気>観も、あるいは今われわれが読み進めている野口整体の<病気>観も、ともに意識による意味付けであるという点では、いずれも<過渡的なもの>であることだけは間違いがない。

対象である<生命>現象の本質を意識によって捉えようとする人間的行為であるという面では、<過渡的>にならざるをえないからである。

日常性の中断、死をも連想させる恐るべき対象としての病。しかし、人間の個体としての生命は、百年に至らぬうちにその幕を閉じるのは例外のない不可避の事実である。なぜ人間はこの不可避の事実をこんなにも怖れるのか。それは日常性が永遠に続くものと想定し、その想定の中では、一時たりともその継続を停滞させたくないとする願望によるとともに、その日常性の中で作り上げてきた他者との関係性を喪いたくないという見果てぬ夢に生きるのが人間だからだ、というよりほかにないものだろう。

生命としての個体は、その生の永続を願って子をもうけ、種を存続させる。しかし、個体は、とりわけ意識を持った人間の個体は、自らの永続を観念として夢見る存在であって、それ故に不老不死の幻想を手放さない。それは観念として<死>を無化しようとしていることであり、それは常に事実によって裏切られる。

不死の幻想から自由になり、みずからの<生>の姿を静かに観察する視点を獲得できるなら、もう少し落ち着いた生き方も出来ようものだが、もっと早く、もっと遠くまで行きたいとする人間の意識が、いつもそれを躊躇わせる。

 

<視覚>や<聴覚>というのは、意識を構成するものとしては優等生である。ところが<触覚>というのは意識を構成する要素の中では劣等生とみなされがちだ。そこでは明確な時間性や、空間性が希薄であり、対象に溶け込んでそこでまどろもうとさえする性向を持つために、怠け者のように思われている。

どの親も、もっと早く、もっと遠くへ羽ばたくことをその子どもに求めるが、対象に触れ、その肌理(きめ)の豊かさを味わいなさいと教える親はそう多くはいない。それはわれわれの生きている現代社会が、<視覚>や<聴覚>を重要視して、より早く、より遠くへという性向に価値を置くのに対して、<触覚>にはそれほどの価値を置かない社会だからだと思われる。

じっくりと対象に向き合い、対象に触れながら、対象からの声なき声を聴くといった悠長なことを近代というものは奪い去ってしまったのではないか。<兵器>というものを考えれば明らかなように、より早く、より遠くの敵を見つけ殲滅することができるものほど有能だとされるように、科学は<視覚>と<聴覚>の要件を最大限に引き出すことに専念して自己と他者を選別し、その優劣を競ってきた。

対象と同化し、内部感覚を豊かにして、そのぬくもりを感じとる、というような悠長なことは、戦争という場面では邪魔なものでしかない。だからと言うべきか、近代科学を根拠とする近代医学・医療の言説は、不思議と戦争の用語に満ちている。より早く敵を発見しそれを殲滅排除する。病気は人間の<敵>とみなされる。<敵>には<敵>の意味がある、などと悠長なことを言っていたら、逆にやられてしまうと。

微細なものをより微細に見ようとすることは<視覚>にとってお手の物だ。顕微鏡も天体望遠鏡もおそろしく遠くのものを見られるようになった。科学のすばらしい進歩とはそういうものだ。ブラックホールさえ映像化できたと昨日のニュースが伝えている。

われわれのネット環境も、その実は<視覚>と<聴覚>が地球規模に拡大された成果であって、そこには<嗅覚>も<味覚>も<触覚>も放置されたままである。はてさて、劣等生と刻印される<触覚>は今後どうなっていくのか。<触覚>が視・聴覚と同様のレベルで延長され発展するという事はどこまで可能となるのか。AIによってそれは可能になるのか。<生命>による<生命>の感応とか同調とかいうことが、人工知能で理解出来るようになるのだろうか。

 

われわれは、整体法という極めて<触覚>領域を重要視する世界を学ぼうとしている。それは<視覚>や<聴覚>では判ってこない生命の別の側面に向き合おうとしていることと言っていいだろう。整体操法の理解の困難さも、視覚・聴覚が優位の世界に慣れ親しんできた我々には、なかなかに難しい世界であり、口で言うほど<触覚>世界が身近であるわけでもない。

このブログが、そうした困難な<触覚>世界に分け入る、一つの手がかりになるはずだと感じつつ、作業を続けることにします。

 

整体操法高等講座」(17)子供の操法 (1967.10.15)

 

子どもの体は<敏感なため>に変化しやすい。子どもが変化しやすい第一の理由は、敏感なためで、それは<成長過程にあるため>である。けっして弱い為ではない。大人は

ともすると弱いから変化しやすいのだと考えがちだが、そうではない。赤ん坊を除けば、子どもは、外界の変動に対して、むしろ<強い>という傾向を持っている。

 

(子供の発熱)

子どもは大人に比べて、発熱しやすい。発熱して、そのつど問題を解決している。発熱そのものが、体の欠点の修理や、成長のつかえを通していく。だから熱が出たから病気だというのではなく、そういう経過として見ていく。そういう面が多いのです。

 

子どもが病気になると、それを治るものと考えないで、ここが毀れたのではないか、余病を併発するのではないか、などと心配することばかり考えてしまう。その次には、不吉なことまで考えて、慌てて余分に子どもをかばってしまう。発熱した子供を心配して、朝から夜中まで冷やしている母親がいましたが、「もし肺炎になって死んでしまったら大変だ」といいましたので、「そういうことをしていると死ぬのだ。あなたは気持ちの中では、死んだことを予想している。それはおやめなさい。」と言ったら、冷やすのをやめましたが、病気にだけ追いかけられて、病気をしている意味とか、病気をしている子どもの体の状態とか、子ども自身の気持ちとかを客観的に観察できないで、ただ苦しそうとか、痛そうだとか、可哀そうだとかいうことだけで見ようとしている。

病気は治るものなのだ、という確信がなく、どこかでふわふわしているんです。

私は、子どもは育っていくものだという確信を持っておりますので、病気を治そうとか、病気の時は可哀想だとか何とか考える前に、<病気の意義>を考えます。そうして、その子ども達には、<苦しみの耐え方>とか、<病気とはこういうものだ>ということを教えます。早く楽にしてやろうとは思わない。

「今度はここが痛くなるが、頑張れるか」「こうなって、こうなってよくなる。我慢できるか」と訊く。そうして、なるべくなら手伝わないで通りたい。そうすると、後になってみると、手伝ったよりもずっと結果が良かったことが判る。

そういうやり方は、多くの病気の経過し回復した経験を積まないと、そういう確信を持つことが難しいかもしれないが、普段からそういうことを考えておくという事はそう難しいことではない。

今日はそういう<病気の経過の意味>を一緒に考えようというものであります。

 

子どもの発熱という現象の背後には、<体のどこかの閊えを具体的に動かしていこうとする動き>が存在している。だから発熱のあと、そのつかえが通って発育がよくなったりします。

だから私は、病気は体が悪くなったから起こるという考え方ではなく、<回復の経過>として起こると考えています。

 

先日、子どもが発熱して、お腹が痛いと言い続けているといってきた親がいました。子どもの背中を調べてみると、一側が硬直している。子どもの一側が緊張しているのは、大脳運動が臓器に影響していることが殆どです。一側の緊張が上から下に来ているものが多い。だから胃腸の問題というよりは、大脳の問題である。親が、何か無理なことを叱ったことが要因ではないか。

親の無理な叱言というものは、子どもが反撥出来ないことで萎縮を来たして、そのために病気になるということがしばしばあります。

子どもの要求を抑えるということは、簡単なことで熱を出したり、痛みがおこったりすることがよくあります。友達にいじめられたという場合でも、お山の大将だったものがもっと強い相手が出てきたなんて言うことのショックが病気になることもある。テレビで怖い場面を見て、それから熱が出たということだってあります。あるいは、自分の臆病さを知られたくないと思って病気になる事もある。忙しい親の注意を集める為に病気になったり。だから子どもの病気を見る場合には、そういう事も考えておくべきだと思います。ただ、これらは、成長の過程の現象というよりは、大人と同じで、他人の注意を集めたいという、外部的な理由によっているわけですが、発熱という事に限ってもいろいろ考えるべきことがあるわけです。

 

それ以外に、<打撲>による影響にも注意する必要がある。とくに調律点、という体の急所の打撲は注意を要する。D5を打つと胃袋が毀れます。足の甲を打つと肝臓を毀します。<打撲>が病気を引き起こすことは少なくない。

ただ、子どもの発達という視点で言うと、この閊えた処は、そこを打撲しなければならない、といった面もあります。何かの拍子にそこを打撲する。すると閊えが通ってくるという事もあります。偶然に転んだように見えて、実はその転んだことによってもちろんいろんな変動はおこすけれども、それによって成長の閊えが除かれるという事を多く経験してきました。まったく妙だ、と思いながら、観察が拡がっていって、こういう場合にはここを打撲しなくてはいけないのでは、という角度で見ていくと、転んだ時にその子どもがどういう転び方をするのかというと、必要な処を刺戟するような方向で転ぶのです。だから偶然とは思えない。

体の鈍いところ、打った影響ではなくて、そこを打たなくてはならなくなったような体の伸び縮みの悪い処はどこかをつかまえるように観察してきました。

 

子どもの病気の中で、一番重要なことは、熱の出る前に愉気を集注するということですから、<発熱の経路>をよく掴まえることが必要になります。

呼吸に比べて脈が多くなって来たならば、熱が出る前です。二つごとに打つ脈になってきたら熱が出る前です。

また、D8が硬直して、鳩尾がそれでも胃袋にあまり異常が無いような場合も熱が出る前です。C2、3が余分に硬直してきたら熱の出る前。子どもの一側に変化が起こった場合も熱の出る前。

こうした場合に愉気を集注する。熱が出る前に愉気をする。

熱が出ている時は非常に愉気がよく効きますが、熱の出る前というのは、なかなか愉気が効かないんです。余程上手に愉気をしないと、蓋をしたようにしてなかなか気が入っていかない。そういう場合に、後頭部を温めながら愉気をすると、割に楽に入っていきます。入るとじきに熱が出だす。予防注射をしても丈夫な子どもは高い熱がでます。早く通ってしまいます。弱い子供は余り高い熱が出ないで、それが何度も繰り返しています。

高く出る方が早く経過する。子どもの状態が重いとか軽いというのは、<平熱以下が長いか短いか>によっている。長く続くのは体が体がくたびれたんです。短いのはあまり疲れなかったんです。だから短いのは重くなかったということです。

重い軽いは熱の出方ではなく、平熱以下の状態が続く度合いによって決めるべきです。ただし、高熱が出る方が丈夫であることは言い切れます。・・・

 

子どもの発熱についての理解をまず頭においておく。四歳から六歳までを子どもと見て、それ以降は男と女では病気の経過が異なってくるので、対処の仕方も異なってきます。

子どもの体は、部分部分伸びるんです。ある時は眼が発達する。顔の右が発達する、左が発達する。前が伸びる。しょっちゅう変わっていきます。その変化が一回つかえると、一回伸びる分が伸びないで、そのつかえている部分が伸びる時期が来ますと、そこで病気になりやすい。熱を出しやすい。熱を出してしまうと、二回分すっと伸びてしまう。部分部分の発達が、循環的に来るんです。丁寧に見ていると、そういうことが判ってきて、その子どもの何処が閊えているかが判る。

私の言う閊えというのは、観念的なものでなくて具体的なものなんです。その体の何処が以前のままなのか、どこが変わったのかを丁寧に観察してみて下さい。

お喋りになったと思うと、今度は無口になる。運動が激しくなったと思うと、運動しなくなる。遊び方までみんな違ってきます。閊えた場合に、その閊えた時から何週目に変化が起こるかを見ていけば、次に熱が出る時期も予想が出来るようになる。

一般的に言えば、一回の周期は四週、または六週。時間でいえば、四時間か六時間。時に八時間というものもある。・・・

大人でも、歳をとるのにぐるぐる循環的に廻りながら部分部分が衰えていくんです。それがばたばたとまとまってくるような時は、尾骨に脂が溜まっています。尾骨に脂が溜まると、そういう循環が乱れる。病気の経過が緩慢で遅くなる。・・・

一応、この尾骨の脂をお互いに調べ合ってみて下さい。

私は自分で触るんですが、何かあると、これは長引くぞとか早いぞと見当をつけて待っています。ちょっと尾骨を触ってみて、何週目だろうな、週で変化しますから、一週目はこうで、二週目はこうで、というように数えていきます。漫然と待っていてはつまらないのでそうしています。尾骨の先から順々に。

子どもは尾骨と仙椎のつながり目の処ですが、大人はそこから先まで見ていく必要があります。

子どもの病気の経過の早い遅いは、この尾骨を読めると判ります。

 

次回も、そういう大人にない場合のやり方をもう一回お話しようと思います。今日はこれだけにします。

(終)

 

 

 

「整体操法高等講座」を読む(16)子供の操法(4) 

整体操法高等講座」(16)子供の操法 (1967.10.5)

 

前回<頭の形>について説明しましたが、<ぜっぺき>とか<半絶>とか、いつの間にか操法を受けに来る人達に、うちの子は<半絶>でしょうかとか、気にする人が多くなって、少し余分な説明をしちゃったなと後悔しておりますが、<半絶>を治すのに四年かかるんです。

子どもの<頭の形>で見逃すことが出来ないのは、<頭部第三の膨隆>です。第三が持ち上がってくる。第三の冠状縫合部がキューピーの頭のように盛り上がってくる。

臨時にそうなったばあいは、感情を抑えた時や、やりたいことを抑えた時、急激な抑制が行われた時、激しい下痢の時などで、こどもの場合は大抵ほおっておけば治ってきます。ところが、第三が飛び出している時の下痢は、急性で、かなり悪くなりやすい。

逆に凹んで萎縮している時の下痢は長くかかるということを考慮に入れて処置します。

 

第三の飛び出しは、肛門の括約筋の緊張の場合、あるいは脱腸の場合、寝小便の場合で、どれもみな抑制する場合。あるいは、精神的にも肉体的にも、抑制する機能が弛んでくると第三が飛び出してくる。

 

具体的なことを話していると、なかなか終わらなくて、一年でも二年でもかかるものなのです。だからごく大雑把に片づけておきたいと思います。

子どもの操法をする場合は、子どもが成長のコースを歩んでいるのだということ、その成長を妨げることは、どういう事があってもやらないように心がけること。また、その成長するコースを活用する気構えがいつも必要であること。そういうことがないと、子どもがせっかく病気になったのに伸びてこないこと。

成長というのは、部分部分で行われる。全体が一緒に成長するのではない。部分部分で行われるから、たえず変動があるのです。丁寧に見ると、右の脚が伸びて来たり、体だけ伸びて来たり、胴だけが伸びて来たり、頭の中のある部分だけが働いて来たりといった具合です。

部分部分が発達してくるという事は、バランスという面から言うとアンバランスがその都度新しく起きてくるということです。そういう時に病気を起し易いのですが、そういうアンバランスによる状態が、果たして本当に病気といえるのかどうか。

それは成長のつかえがあって、それを取り戻そうとしている状態なのかも知れない。あるいはそのつかえを破ろうとして生じている状態なのかも知れない。あるいは、成長に伴う変動そのものの状態であるかも知れない。

そういうことの見分けが必要となります。子どもの変状を見て、すぐに是が非でもそれを治さなければならないように思い込むのは、子どもの操法としては慎むべきことであって、一旦退いて、まずそれらの見分けを行なたうえで手を出すことを考えなければいけない。

子どもは、大人と違って、内部変動を循環的に起こしているのです。だから、一般論としてではなく、子ども一人ひとりが対象となってくるので、大雑把な指示をすることが難しいのです。

耳が敏感に働いてくる時期というものもありますが、それを見て天才だと決めつけてしまうと、三歳で天才といわれたものが、十歳を越したら普通になったということがよくあります。そうなってしまったら、その子どもに与える心理的ショックたるや、見誤ったというだけでは済ませられないほど深刻なものがある。

鼻などが発達する時期には、子どもは鼻水がいっぱい出てくる。鼻が出るから風邪かと考えるのは間違いで、かえって鼻水をどんどん出した方が、ある時期を越すとピタッとそれが出なくなるのです。

だから子どもの体の変動を、すぐに病気だと決めつけることは出来ない。当然大人にするようなレディメイドの体の修繕で操法をやってはいけない。

こういうことは、心の成長の面についても言えるのであって、子どもが悪いことをしたからといって、それだけで悪いとは決めつけられない。子どもの嘘を見て、親はそれを嘘つきと決めてかかるが、親が嘘をつかせないようにと勢いで叱って責めれば、子どもはつい嘘をつくんです。それは嘘つきとは違う。親が食ってかかるので避難しただけのことで、そういう嘘をつくのは、ある意味で子ども自身を守る為に言っているにすぎません。

寝小便したという場合うでも、親に対する無意識の反抗で起こることもある。それに親は気づかないで、叱ったり、病気にしてしまったりすることがあるが、それは間違いである。

小さな子どもの時は、痙攣を起こす場合があるが、それが生涯続くということは無い。六歳になって体が変わってくると、ぴったりと痙攣しなくなる。そういう子どもは沢山います。そういう<変わる時期>というものがある。

それを癲癇だ、と決めつけていろんな処置をしてしまうことは、かなり危険なことであると言わなければならない。

前回お話しした耳下腺炎なども、生殖器の発達過程として出てくる。

 

最近、産まれた時に痢症活点に愉気すると、宿便がすっかり出て、皮膚病が出る期間が短くなることが判りました。自然のままでは出ないような宿便が出てくるんです。まだ何も口にしていない赤ん坊のそれに愉気をする。その効果は非常に大きいものがある。

愉気は誰にもできますから、家庭でも、やれば多少は効果がある。ただ、専門家がやる愉気は家庭における看病法としての愉気とは異なってくる。

専門家の愉気は、自分の全身全霊を込めたものでなくてはならない。それが<声のない気合>としての私の愉気です。だから私は長時間やらない。そのかわり短い瞬間に全部を集中する。だから私は愉気をすると、愉気したことの変化がはっきり判る。

やはり、専門家には専門家的な愉気が要るのです。

今指導者になっている人達は技術的にいえば下手です。だからといって力が無いかといえばそうではない。彼らのそばに寄ってみればわかる。気の出方が違うのです。気を出したら強烈なものです。愉気の事をよく知らない人がそばに寄ってみても、気が猛烈に出ていることを感じられる。そういう気を出せている人だけが、操法の効果を上げることが出来る。手からのそういう気が出ない人は、自然に脱落していきますが、私はそういう脱落を妨げません。出来ない人が気張ってやることは世の中に迷惑ですから、効果が出せて、皆に引っ張られて、自然に伸びていける人だけになったほうが良いのではと思います。そういう人が指導者になっていますので、ひとたび愉気をすると、そういう気合がおのずと出ているのです。だから技術は下手なのにそれが出来る。そういう力をみな持っているんです。だから、練習の場で技術がうまく出来ないからといって自信を無くす必要はない。だんだんそういう方向に力が満ちていくようになるのです。

 

そういう専門家が、全力で、全身全霊を込めてぱっと打ち込んで愉気するということは、小さな子どもにとっては大変動を意味するのです。

産まれたばかりの赤ん坊の痢症活点に愉気をするということは、考えも及ばぬ変化を引き起こすのです。それと、後頭部への愉気。あるいはL3への愉気が大切です。D7も併せて愉気する。その場合にただ手を当てるだけではいけない。それらの椎骨に明瞭に指が当てられて、そして愉気をしなければならない。そこに力を集中すると変化がおこってくるのです。家庭での愉気のように漠然とというのではなく、どんな場合でも悪い一点を必ず掴まえたうえで愉気しなければいけない。

 

<病気治療としての硬結の処理>

漫然と愉気するだけでは変化が起こりにくいが、<硬結>を見つけて、それに愉気するとどんどん変化してくる。瘍とか疔とかも治ってきます。体の中の筋腫や癌のようなものも、<硬結>をみつけて愉気すると変化してきます。どんな病気にも、みなその周囲を探っていくと<硬結>があって、それを押さえると変わってきます。

私が病気治療をしていた時期に狙っていたのはそういう<硬結>だけなんです。お腹でも、ぐるっと触ってここだ、とその悪い処の周りを探して<硬結>をみつけてぱっと押さえる、それだけでよかったんです。それでみんな治ってしまいます。

<硬結>を処理すると<反応>がいきなり強く現れてきます。予期しないような変化を起こします。その変化に対応すし、処置をするためにいろんなことをやってきただけで、そういう変化対応がなければ、<硬結>の処理だけでいい。私は、病気治療の急所はここだ、ということを永い経験でつかまえて参りました。

産まれたての子どもへの操法として、この<痢症活点への愉気>というのは、ちょうど<人間全体のなかにおける硬結>といっていいようなものと考えています。ですからずぼらをしないでやって頂きたい。それまではお腹の子供への愉気が大事だとばかり考えていましたが、そうではなくこの時期の痢症活点への愉気が一番大事だということがだんだんはっきりして参りました。これをやるとやらないとでは随分違うのです。

 

<痢症活点への愉気

痢症活点の場所はわかりますね。触手療法の場合、上行結腸と横行結腸の曲がるところだと言っていますが、厳密に言うと、その肋骨の下に指を突っ込んで、こうやったところこうやったところです。必ず手を上に向けて、肋骨のここへかかるように手を当てなければならない。できれば痢症活点部位に中指が当たって、それからこちらの方に直接愉気をする。掌ではなくて、指から痢症活点のところに愉気ができるようになれば、効果がはっきりすると思います。一番はっきり判るのは、<黄疸>にならないか、なっても希薄で判らないくらいのものです。そのことを基準にしてご自分の愉気の効果を見直されるとよろしい。

注意してみると、その部分だけが縮んだ感じがするんです。そして愉気をしていきます。<掌心感応>を求めていってぴったりとその部分を指で掴まえるられれば申し分ない。たったこれだけのことですが、この<掌心感応>が出来ない。感応のある処を押さえるということが出来るのに、三年から五年はかかるのです。手が敏感になってこないと判らないのです。操法で押す場合でも、同じ場所を押してもその角度がちょっと違うだけで全然違ってしまうでしょ。それと同じで愉気でも角度がぴたっと合っていないと効かないのです。

 

それから、熱が出たから後頭部を押さえるとか、下痢をしたからお腹を押さえるとか、耳が悪くなったから足を押さえるとかいうのは、本当は遠回りなのであって、子どもの体の中のどこに変動があるか、代謝系統の変動なら当然痢症活点ですし、神経系統の変動なら当然前頭部です。排泄系統や腰の力の問題だったら後頭部です。栄養の吸収の問題だったら臍の上という処をよく愉気したらいい。

三、、四歳になると腰部活点が愉気する急所になります。そういうところに<硬結>があります。大人の場合ならその<硬結>を押さえればパタッと変わってくるが、子どもの場合は、体の変わり目にこないうちはそこにいくら一生懸命愉気しても変わってこないのです。ところが発熱のような変わり目の時機にやるとぱっと変化する。

だから、子どもの場合には変動があった時は、それがどこの系統の変動であるかを見ていかなくてはならない。その変動は、発達のコースに関連するものだからです。

その時期の変動する場所に関連のある変動を起こしているのです。

下痢がなかなか止まらないといった場合、それが左足が長くなっていたなら、その変動は成長の一つのコースであると考えていい。咳がなかなか止まらないという場合、腕が片方著しく伸びている、それも成長コースである。風邪をひいて小便が変動を起こして、経過が鈍いという場合に、後頭部をみると、その関節が段々に盛り上がってきている。そうしたらそれは、頭の成長のコースである。

そういったように、体全体の中の何処が変動しているか、そしてその場合の急所は何処なのか、ということを見つけ出していくことが、子どもの操法の根本的なやりかたなんです。

 

<指で気を感じ、硬結に愉気する>

皆さんにお教え出来るのは、こういう変動にはこうする、といった一般的なことしかお教え出来ませんから、皆さんでまず<気を指で感じる>、<硬結>そのものを直接つかまえる、というように技術を錬磨して、私が言ったことを一つの暗示として、指で見つけていっていただきたい。

そうやって見つけた時の、相手の経過の早さは、本当に<技術を訓練する>という事が持つ意味を感じさせてくれるものです。全然違ってくるのです。

 

大人には大人の問題があり、子どもには子どもの問題があって、特に子どもの場合、成長時期ですから、自然にかなり厳重に保護され守られている面があるのですが、その逆に大人と違って極めて弱い面もあるのです。

 

<子どもに特有の弱さ>

そこで今日知っておいて頂きたいのは、その自然の保護が行われている面ではなくて、子どもの<弱み>ということについてです。

子どもの持っている<弱み>は、発達以前の頭にあります。特に子どものリンパの発達は六歳ごろから本格的になる。それ迄弱かった体がいきなり変わるというのは、淋巴が発達し始めるからだろうと思うのです。それ以前のリンパの腫れは、すこぶる経過が悪いのです。リンパというのは、何処かに悪い処があると、その周囲にそれを食い止める場所ができる。それが腫れるんです。だから病気になりかけているのだということですが、それを大人なら愉気していると治ってしまう、簡単に治る。ところが子どもの場合は、特に赤ん坊の場合はリンパを愉気しても治らない。遅くとも四歳くらいまでは待たなくてはならない。リンパの親分は扁桃腺です。だから扁桃腺が腫れたり引っ込んだりすること自体に成長の意味がある。六歳くらいまでは繰り返します。六歳を越すとけろっと変わってやらなくなってしまう。リンパが本格的に働き出すからです。それまでは愉気をしても無駄である。

だから子どものリンパの腫れはなかなか引っ込まない。そういう状態なので、結核には弱いのです。十一カ月までの子供は特に結核に侵されやすい。一年半を越せば、あまり大したことはなく、二年になれば大丈夫です。六年越せば全く安全に近い。

六歳から十二歳の間は、リンパは普通よりも非常によく働く。・・・

 

子どもの操法において最も子どもの弱みをさらけ出す時期は十一カ月から十五カ月、特に十三カ月の前後の一、二カ月は一番注意が必要な時期なんです。・・・

 

今日はこれだけにします。

(終)

 

 

「整体操法高等講座」を読む(15)子供の操法(3)

今私が引用させていただいている資料は、原本ではなくてそのコピーです。この講座に参加していた方の持っていた口述記録の原本のコピーです。そして、このコピーの最終ページにはその方自身による、講座内容を要約した手書きのメモが、毎回走り書きで残されています。たとえば、「子供の操法 敏感・・・成長過程、変化しやすい 発熱しやすい 体の欠点の修理は閊えを招く 臍の緒は早く切らない 痢症括点に愉気 ・・・」といった具合です。

わたしの受講経験でも、ノートにメモった講義記録は大体似たようなものになっています。後から見るとよく判らなくなっている。

レコーダーを使用することは大抵の場合禁止されているので、きっちりメモをとろうとすると、そのことばかりに注意が行ってしまって、速記記者のようになってしまう。

そういうことからも、講座の<簡易製本された講義録>というものが非常に役に立つことになるのですが、今度はそれを<要約>するという行為も、そうした参加者メモといったものに近くなることがネックになると思えます。

前回の講座を一言で<要約>すれば、「子どもの操法は、大人の操法と違って、成長過程を考慮し、それを促すよう行うことが重要である、と野口氏は語った。」とか「病気と言われるものは、治すべき対象ではなく、経過するものであり、整体操法はその自然の経過を促すためのものである」といった具合になるのでしょうけれど、それでは味もそっけもなく、その結論に至るための大事な文脈からも、個別の具体性からも逸脱してしまい、野口氏が真に伝えようとしたことからは随分隔たった、薄っぺらな知識の断片に変容してしまうというのが実態ではないか。当然、野口氏が意図して繰り返し語った<ことば>は、惜しげもなく省略されてしまい、簡素化された分、からだにしみ込まなくなってしまう。

話し言葉>を<書き言葉>に変換したときに生じるある種の欠落と、その逆に生まれる抽象化されたが故の説得力(たとえば、われわれは一つの病気を捉える場合に、その病気を<大人の病気>と<子どもの病気>というふうに複線化して考えることはあまりないのではないか。その病気を単線的に、ただ病気として理解しがちである。しかし、野口氏が抽出した<子どもの病気は、成長の過程として生じていることがある>という認識は、病気というものの意味を重層化して、<子どもに固有の病気>として成長・発達の正常な過程のものとしてもあるのだ、ということを抽象化して捉えていることは、驚くべき認識であると言わなければならないのではないか。さらりと語られた野口氏の<話しことば>の中に潜む、高度に抽象化された認識は、非常に説得力に満ちているが、つい見落とされがちな認識であるように私には感じられる。)のどちらも捨てがたいものがあるとはいえ、いつもこの微妙な揺らぎの中でしかブログを進められないことへの戸惑いからは自由になれません。

今日も、そんな揺らぎの中で、ブログを書き進めることにします・・・。

 

 整体操法高等講座」(15)子供の操法 (1967.9.25)

 

前回<頭の形>について説明しましたが、<ぜっぺき>とか<半絶>とか、いつの間にか操法を受けに来る人達に、うちの子は<半絶>でしょうかとか、気にする人が多くなって、少し余分な説明をしちゃったなと後悔しておりますが、<半絶>を治すのに四年かかるんです。

子どもの<頭の形>で見逃すことが出来ないのは、<頭部第三の膨隆>です。第三が持ち上がってくる。第三の冠状縫合部がキューピーの頭のように盛り上がってくる。

臨時にそうなったばあいは、感情を抑えた時や、やりたいことを抑えた時、急激な抑制が行われた時、激しい下痢の時などで、こどもの場合は大抵ほおっておけば治ってきます。ところが、第三が飛び出している時の下痢は、急性で、かなり悪くなりやすい。

逆に凹んで萎縮している時の下痢は長くかかるということを考慮に入れて処置します。

 

第三の飛び出しは、肛門の括約筋の緊張の場合、あるいは脱腸の場合、寝小便の場合で、どれもみな抑制する場合。あるいは、精神的にも肉体的にも、抑制する機能が弛んでくると第三が飛び出してくる。それを弛むまで押さえておりますとそれらは治ってきます。大人も同様ですが、子どもは非常に早く治る。

 

 子どもは<腸>が悪くなると、体全体が不活発になって、だるくなり、少しの憂鬱と苛立ちがとが混ざった状態になる。陰気とイライラ、焦り、何となく腹が立つ状態。かといって腹を立てて起こるほどの元気もない。そういった独特の状態になります。

だから子どもの下痢などは、<腸>だけでなく、体じゅういろんなところに影響してくる。体の調子も低くなってくる。大人の場合は消化不良で死ぬということは殆どないが、子どもは消化不良で死ぬことがある。<腸>の健康に占める割合は、大人と比べると子どもの方がずっと大きく、広範なのです。

だから子どもの下痢を大人のそれと同じように見てはいけない。警戒を要します。

まずお腹に力がなくなってくる。お腹の筋肉がいきなり引っ込んで、弾力がなくなってきます。そうなったら、特に警戒が必要です。

頭を打撲するとお腹の筋肉が力を失って来ますが、消化不良になっても同じようにお腹の筋肉が弛緩してしまう。そうなってくると、腸だけの問題ではなくなって、頭との関連が生じてきている。その場合、第三は必ず膨隆している。

 

子どもの成長は部分部分なのだという事は説明しましたが、そういう成長の段階で、頭を打撲しますと、その部分の成長だけが一時ストップするんです。その部分だけ成長が遅くなる。 これは大人にはない、子どもだけの顕著な特徴です。

だから、成長の遅れた部分を見れば、いつ頭を打撲したか推測することも可能です。

 

<心の打ち身>なども、頭部第三の膨隆となって現れます。そしてその影響は体全体に及びます。

大人の下痢はたかをくくれるが、子どもの場合の下痢が続くものの中には、警戒を要することが頻繁にある。もっとも、<老人>になると、腸の異常が健康に占める割合はかなり高くなってきます。でも、子どもの、特に乳幼児期の下痢のような激しさというものはない。

 

赤ん坊や乳幼児の<頭部第三>は、特に注意して見る必要がある。

腸が無力状態になっていなくても、<頭部第三>が膨隆している時は、まもなく無力状態になっていく。

ただ、臨時に<頭部第三>が飛び出しているだけなら、それはその子どもの体の傾向を現しているものと見ることが出来る。そういう体の傾向というのは、腸の一部分が非常に弱くなっている、腰が弱い、足が鈍い、足が強くない、足の調節が悪いんです。脚が弱くて飛べない、駆け出せない、転び易い、股関節に異常がある。あるいは股関節に異常がない場合でも、腰自体の調節が鈍く、大人でいえば腰が強張っている状態。あるいは足の成長が遅れている。

 

何かを我慢する、食べたいものを我慢する、それが<生理的な許容度>を越えると、<頭部第三>は盛り上がってきます。そういう<我慢>というのは、病気に至らなくても、子どもの成長を遅くさせる可能性があります。

<頭部第三>の膨隆というのは、なかなか油断が出来ないものなんです。

<腸>が弱いと、風邪を引いてもその経過が遅い。けがをしても治りが遅い。そういう場合に<頭部第三>を見ると、盛り上がっている。その原因は、頭部の打撲かもしれないし、<心の打ち身>によるのかも知れないが、盛り上がっている。だから、その原因を探っていくことが必要になります。

 

<肋骨の挙上> 

<頭部第三>の盛り上がりは、そこだけを押さえても回復しない。そこで<肋骨の挙上>を行ないますと、治って参ります。

上に、上に上げていく、というのでもいい。

大人の場合は、肋骨の第五調律点をジーっと上に上げるように押さえることが操法の急所になりますが、子どもの場合でもこれはよく効きます。ただし、この方法は、子どもの場合や老人の場合には、非常に狂いやすい、老人の場合には骨折しやすい、ので注意が要る。

 この<肋骨の挙上>を行うと、第三の冠状縫合部の膨隆が引っ込んできます。

陰気な子どもに、この肋骨挙上を行ないますと、肋骨が下がって、いつもイライラしていたのが、急に<頭部第三>の盛り上がりが引っ込んで、硬くなっていた鳩尾が弛んできて、お腹の弾力も出てきます。いくらお腹に愉気しても弛まなかったのに、肋骨挙上すると弛んでくる。下痢も自動的に止まってくる。

まあ、頭の格好についての説明はこのぐらいにしておきますが、<頭部第三>の膨隆のことだけは覚えておいていただかないと、子どもの治療の際に不便が多いと思います。

 

<頭部の弛緩と調整>

なお、大人の場合、頭のところどころに<脂のかたまったような弛緩部分>がありますが、そこを押さえますと非常に過敏で痛い。痛いのは、その過敏部分を保護するために脂状の塊が溜まっているのだと思いますが、こういう処は、<臓器>自体や、<神経系統>と深い関係がありまして、その調整ということは、とりわけ<血管系統の異常>を調節する場合には、最も重要な処となっています。

子どもにも大人と同じような脂の溜まった弛緩部分が生じている場合がありますが、その場合の殆どは消化器や呼吸器系統の異常がうまく経過していなかった、経過がどこかで閊えていたという場合で、そこを調節すると、その変動がもう一回生じてきます。下痢のし損ないは下痢をし、熱がでなかったものが肺炎に似た状態になったりして繰り返し、そして何となしにそれが抜けていきます。悪かった顔色が、さっと良くなってくる。つまり、子どもの病気は、異常の調整として起こる場合が多いのです。

頭皮の弛緩部を愉気すると、そういう変化を起こすことがあります。それを起こすと、健全になってくる。

 

頭皮の弛んだところを、こうやって押さえて愉気します。弛んでいる処がこうあります。この周りを触っていくと、どこかに<硬結>があります。中にも<硬結>はありますが、それは触らないで<周辺にある硬結>を触ります。愉気するとその<硬結>がなくなってきます。・・・

ただ、頭を打撲しても、扁桃腺を毀してもリンパは腫れてきますので、それと混同しないことが必要です。<頭皮の弛緩>と<脂のついた弛緩>と<リンパの腫れ>とを区別してかかる必要がある。そこがこの場合、なかなか難しいところです。

リンパの場合は、後頭部や頸にかけてそれが多い。頭頂から前にかけてというのは殆どない。リンパの腫れは、四歳から六歳になれば放っておいても治ってしまう。・・・

 

私が子どもの異常を殆ど頭の愉気で処理しているのは御存じだと思うのですが、それの経過も頭で見ているのです。どうぞ皆さんも、子どもの頭の変化を観察なさることを御奨めいたします。・・・

次回、も子どもの問題をもうちょっと続けます。

(終)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「整体操法高等講座」を読む(14)子供の操法(2)

野口氏はこの高等講座の第13回で、整体操法の原理>について次のように語っています。なぜ野口氏が、生理解剖学の知識や、東洋医学の<経絡>の知識を徹底的に学んだうえで、それらに自らの思想・技術の根拠を置くことなくそれらを<捨てた>のかについてです。この<捨てる>という思想的態度、それは解剖学や経絡の知識を徹底的に解体して新しい<原理>を打ち立てるということです。そこにこそ野口氏の整体操法の<原理>というべきものがあると言えると思います。

野口氏がそれらを捨てて人間の<運動系>というものに焦点を当てるようになったのは、<運動系>こそが、<いま、目の前にいる具体的な個人のからだ>を見る場合の、最も依拠すべき根拠を与えてくれるものだという確信を得られたためだと思うのです。

人間の裡に息づく<原始の力>、あるいは<生命>というものは、もちろん直接見ることも触れることもできない。しかしこの<原始の力>、<生命>というものは、生きているもの、成長するもの、繁殖するものすべてに存在しているものであって、そういう<原始の力>以外のものではどうすることもできない世界がある。間接的にとはいえ、端的にそれを表現しているものこそが<運動系>なのだ、という確信を得たからだと野口氏は言っているのです。

この<原始の力>の焦点を合わせ、その表現である<運動系>をじっと観察する。そのうえで<要求と運動>や<運動と潜在意識>の関係を考え、<体運動の構造>とその<変化>を微細に見ていくことによって構築されたのが整体操法である、と。

 そして<見える処の動きだけを見る>ということおこない、その<見える処の悪い処だけを調節する>、ということだけをやってきたのが整体操法である、とも。

 

ここに、他の手技療術などとは異なる、整体操法の独自性やその<原理>があるといっていいと思います。

それは野口氏自身が述べているように、<見ようによっては、非常に非進化的なやりかた>であり、<突飛な発想>と映るものであったはずです。そう映るのは、「これは解剖学的構造によってそうなっている」とか、「<経絡>によればそうなっている」とか、いろいろな説明を勿体をつけながらすることのほうが明らかに説得的に見えるからです。

しかし野口氏にとっては実際に技術を運用してみると、そうした説明や、それらの知識が先入観となってしまい、<てんでおかしな結果を引き寄せてしまいかねない>ものだったと実感したのです。

過去の知識のみにしばられると、先入観が働いて、<見えるはずのものも見えなくなる>といったことが起こる。それでは、過去に行われたこと以上のことは出来ないし、過去の専門家を超えることも出来ない。

そこで整体操法制定に際して、<運動の失調状態を正常に戻す>という、これまで誰もやってこなかったことをやり始めた、と言うのです。

そして実際にやってみると、今まで治らないとされていたものが治ったり、それまで出来なかったことが出来るようになった。だから解剖学や<経絡>理論というようなものに依拠することなど不要になった、と言うのです。

そして、「やる以上は、<新しい原理>をつかまえ出してやらなければならない。私は、そういう<新しい原理で見る>ということをやり出してからは、人間の体の動きや変化を見ることが楽しくなってきて、丁寧に、綿密に、細かく見ることが出来るようになってきました。」

 

この一連の野口氏の述懐に、私は芯から魅了されます。

親鸞が、その師法然の教えに震撼し、<この師なら、たとえ騙されたとしても、どこまでもついていきたい>と決意した。その心情が、とてもよくわかる気がしてきます。

 

さて、<神(真理)は細部に宿る>と言われますが、この<高等講座を読む>シリーズも、ますます細部に分け入った地平を展開してくれています。気おくれなどしないように、忠実に野口氏の<ことば>を<愉しむ>ことに徹しなければ・・・

今回の講義で、見落としてはならないことは、子どもの<耳下腺炎>の不十分な経過というものが、大人になって男性だとインポテンツに、女性だと不妊症につながるという野口氏の経験上の結論そのもののことであるよりも、野口氏がそのような結論に至った実験的観察の方法にこそあるといえる、という事だと思う。

われわれは、ともすれば野口氏の結論をそのまま一つの知識としてのみ受け入れるということで済ましがちだ。しかし、そんなもったいない受容態度は、講座を<読む>と言うときの正しい読み方とは言えないだろう。大事なことは、野口氏がどのようにしてその結論に至りえたかの解体の<方法>をこそ学んでいくべきだと思うからだ。野口氏の思想や技術を一片の知識としてのみ受け入れたあげくに、それらを薄っぺらな先入観にしてしまわないようにするためにも・・・

それは、I先生がいつも私たちに仰っていた、<野口整体法は病気治療の為のものではなく、何よりもまず生き方なんです>ということとも深く関係する問題であり、整体法を学ぶための<学び方の要諦>だと深く納得させられる課題でもあります。

前置きがまたまた長くなってしまいました・・・

 

整体操法高等講座」14 1967.9.15

「子供の操法(2)頭部の見方」(要約)

 

子どもは、大人に比べて環境の影響を受ける度合いが強い。だから暑さにも寒さにも弱い。余分に温めると、熱が出てくる。服を着せすぎたり、布団を掛け過ぎたりするだけで熱が出ることがある。大人より発散する度合いも強い。成長しつつあるそのコースを動いているから、そこで病気をすると、成長する方向が歪む。

だから子どもを操法する時は、<環境を調節>し、<成長する傾向>をみる。

 

耳下腺炎

耳下腺炎は生殖器の成長する時に起こってくる。その時期に耳下腺炎をやり損なうと、生殖器の発達が行われない。そういうインポテントや不妊症と耳下腺炎との関係がわかっていると対応は異なってくる。ただ腫れて引っ込むという軽い病気のつもりで経過させると、後になって冷えた処が硬くなって、腫れた痕が硬くなってくる、そうすると発育が行われない。二十年以上経ってから生殖器に異常が出る。大人の耳下腺が硬くなっている。それに愉気すると改めて発達してくる。

 

わたしはそれを見つけた当初は、生殖器の発育が悪いのを治す処と考えてやっていた。これは考えている以上に的確な変化をもたらしていました。

耳下腺の硬くなった処への愉気と、仙椎の四番の刺戟をした。女性の場合は、仙椎の二番も追加して刺戟をした。そうすると、後頭部の凹んで萎縮した処もだんだん丸みを帯びてくる。丸みを帯びてそこが柔らかくなりだせば大丈夫なのです。

そうしているうちに、耳下腺部の硬直の問題だけではなく、耳下腺そのものの問題でもあることに気づきました。そしていろいろ調べていくと、耳下腺炎の余病として、睾丸炎や卵巣炎、あるいは寝小便や脱腸、脱肛をおこしていることがわかってきた。特に十代に耳下腺炎をやる場合には睾丸炎というものが非常に多い。その場合の睾丸炎は淋病の時の睾丸炎より激しくて、睾丸そのものがなくなってしまうということも珍しくない。そうでなくても耳下腺炎の、左右不完全な行われ方をした場合には、片方が大きくて片方が小さいというそれが残って、私がそれを発見した当時、今から三十年位昔ですけれども、「君の睾丸は左が小さいぞ」と言うと、当人はそれを知らないんです。自分で触って確かめると「その通りです」と言う。

それが耳下腺部をちょっと触れば判るのです。その左右をみて硬い方の睾丸が小さい。頭部は体の左右と逆側ですから、硬い方が大きいかと思いきや、大きい。大きい方が働いていないのです。男性のそれが判れば、女性の卵巣の状態も判るわけです。

そこで耳下腺部を確認して睾丸や卵巣の機能、機構を知ることが出来るようになってくると、耳下腺炎のどういう経過が正しいのかということが、俄然難しい問題になってきた。それまでは、耳下腺を押さえれば治る、と思いやっていたのが、どうもそれだけではない。そこで、耳下腺炎の経過というものを、よくよく観察してみました。

そうすると、睾丸の大きい方の側の耳下腺部がまず腫れる。そして腫れ切ると今度は縮んでくる。すると今度は小さい方の側の耳下腺部が腫れる。そしてそれが弛んできて睾丸が大きくなるとその腫れがとれてくる。

そういうことが判ってきてからは、「今日で腫れが収縮して終わる」ということが言えるようになった。

そして、そういう経過を通らない、つまり腫れてこない場合があることがわかった。そういう人は、縮んだまま硬くなってしまう。

あるいは、経過がなかなか進まないで、途中で硬くなってしまう人がいる。経過はするが、そのあとで硬くなってしまう人がいる。この場合は、足にある喉の急所を刺戟すると、大分変化してくる、しかし全体の傾向は変化しない。そこでD11や、L3に異常があるのではないかと思いそれらを確かめ処置すると、割に楽に経過するということが判ってきた。

そんなようにして、順々に経過を調べていって、耳下腺炎の経過の道すじをまとめ上げっていったのです。

その結果、耳下腺炎をうまく経過していない場合は、みな耳下腺部が硬くなっている。硬くなっているのは、二十数年経って生殖器の異常を起こす可能性があるという認識に至ったという訳です。それが判るまでに二十年以上かかったのです。この認識が間違いないものであることを確信できるようになるのに二十年以上かかった。

それ以降は、みな観察したとおりの状態を経過している。だから耳下腺炎をただ治せばいいという考えではなくなって、それと関係する処の異常を調節することが重要だと考えるようになり、うまく経過出来るように仕向けていくことの重要性を認識するようになったのです。

<病気を早く治す>などという考え方は、単に<焦り>にすぎない。そういう考えに便乗してしまっては、整体指導するという意味がなくなってしまう。

やはり、病気は必要な<経過>を通って、はじめて<治る>という事がある。<経過>を全うできるように促すことが重要である、ということなのです。

 

お産が重い人、お産の経過が悪い人をみると、みな耳下腺部が硬くなっている。そこに愉気すると、大きく腫れてきます。そこによく愉気をしていくと、お産も正常になってきます。だから、耳下腺の問題は、耳下腺だけにとどまらない、生殖器の発達の問題やその発達の経過の問題を重要視するようになっていったわけです。

 

耳下腺炎に限らず、麻疹や水痘とかいった伝染病のなかには、そういう子どもの<発達過程の現象>という特殊性をもった面があるのではないだろうか。目下、そういうことを一生懸命確かめているところですが、そのことで判ってきたこともあり、またなお判らないこともあるのです。しかし、大雑把に言えば、子どもの<発育過程の現象>というべき病気というものが相当あるということは確からしく思われます。

そして、子どもの病気というものが、そういった特殊性を持つものであるという事を考えるならば、ただ<早く治そう>と考えることよりも、<発達の過程>に沿った方法を考えなければならない、ということになるはずである。大人の病気に処するように、大人の病気の小型と考えて対処してはいけない、ということなのです。<発育の完成を

期する>ために病気を<経過させる>、そういうように考えるべきではなかろうか。

 

水痘をやると、そのあとにL4とL5の反りが出てきます。そういうのも体の発育過程のひとつですが、反りのあるのとないのとを比較すると、自分の考えたことや言いたいことを素直に出来るのに、反りがない場合はそれが出来ない。決断が出来ないのです。決断までに非常に時間がかかる。そういう子どもたちのL4、L5を調整すると、皮膚に何らかの変化が繰り返し起こるようになって、そういうことが出来るようになっていく。調べてみると、水痘の経過と関係があることが判ってきた。

 

耳下腺炎を経過する際に、途中でひっかかる人たちに共通しているのは、<後頭部が凹んでいる>んです。後頭部は生殖器に非常に関係が深いことは随分前に知ったのです。老人のそこへ愉気すると若返ってくる。

 

実習

耳下腺炎の経過として、はじめに熱があって、二、三日風邪のような状態が続きます。潜伏期はかなり長いのです。五週間に及ぶ。しかし軽いので、実際に感じ出すのは三、四日前に風邪のようになる。兄弟でかかった場合、一人が経過して一週間経ったらもう一人に出てくる。二週間経って出てくるのが正式なのですが、経過が長くてゴタゴタしていると一週間。普通はじまると、三日ぐらい腫れて、五日目には普通になります。経過に一週間とみるのが常態です。一人が治って一週間経つとまた腫れてくる。しかし実際に感じるのは三日位前から風邪のような状態になって、何か体の中が熱くなり熱っぽくなった感じで、腰が妙にだるくなる。他の場合と違って腰がだるくなるのと、小便が非常に遠くなるか、逆に頻繁になるかして、どちらかに分かれるのがその特徴です。それから耳下腺部が腫れてくる。片方腫れて、それが終えてもう一方が腫れてくる。両方一緒に腫れるのもあります。腫れないで通ることもある。片側ずつ腫れる場合は、後頭部の片側がぜっぺきになっている。

症状はそれぐらいで、腫れて痛いとか、喉が痛いとかはない。耳が痛いというひとは二、三ありました。はじめは中耳炎に似た痛みが起きることもあります。歯が痛いといっているうちに耳下腺部が腫れてくることもあります。歯も耳も同じ神経系統なので、歯の痛みを耳で感じたり、耳の痛みを歯に感じたりすることは珍しくない。耳下腺炎で痛む場合も、そういうような面で歯や耳の痛みを感じる場合もあります。その逆に、喉が腫れてしまって、食べたものが通りにくくなってしまって、それから耳下腺が腫れてくる場合もあります。あるいは夜中に小便に行かなかった人が、小便の為起きたとかいうことがあると耳下腺が腫れだすことがあります。

大人の場合、排尿が頻繁になるのは、耳下腺部を愉気するとじきに静まってくる。

萎縮腎の場合だと、排尿数が急減します。

頻尿で三十回、五十回トイレに行っていというのを、鳩尾の上と、膀胱の上を愉気しますと、二、三回に減ってくる。それを五、六回愉気していると、頻尿がなくなる。

耳下腺をやっていると段々少なくなる。耳下腺と小便は関係がありますが、耳下腺が腫れだしている時に排尿が頻繁なのは、簡単に経過する。排尿が遠くなったのは警戒しないと余病を起こす。そうして普通の風邪と同じようにD5と、喉の風邪のように足の処を調節すればいいが、それ以外にS2とS4と<ぜっぺき>部分によく愉気をする。もちろん冷やさない。熱があって腫れている時は冷やしてもそれを押しのけて腫れていますから害はないが、腫れが頂点に達した後も冷やしていると害があるんです。経過が遅くなる。だから熱も冷やさないし、耳下腺部も冷やさない。耳下腺部は冷やしても、温めてもいけない。せいぜい愉気する程度にする。

耳下腺の異常は、C2と<上頸>部に硬直があります。<上頸>部には時に硬結がある場合もあります。それに愉気することは構わないし、愉気することで経過を早めます。

ただ、<ぜっぺき>の場合、その硬結を押さえたらあとで腫れてきたということも時にあります。すっかり治って熱もおさまったからと、その硬結を押さえたら、また腫れてきたということがよくあります。しかし、そうやって出てくれば、発育不全は治る。

このほかに重要なことは、L2とL3の間を押さえるという事です。私は全ぜっぺき、後頭部の左右ともに<ぜっぺき>の人には、必ずこのL2、L3の間を押さえます。それ以外の人にも時間に余裕があればそれを押さえるようにしております。

その押さえ方をやってみます。

 

実技

相手がうつ伏せになり、お臍の真後ろをこう押さえます。こう押さえて四十秒以上このまま保つ。これは寝小便する子どもにやると止まります。関節炎や痛風の場合も、あるいはインポテントの場合も、このL2、L3の間を押さえればいい。

そこを腕橈骨で押さえる。体を乗せる。戻す、戻す。ギュッと押さえる。耳下腺炎の最中に<ぜっぺき>を見つけたら、必ずそこを愉気する。愉気する場合、逆を上に持ち上げるように強く押しておいて、それから<ぜっぺき>の方に愉気をするようにすると、治って参ります。<ぜっぺき>部分をギュウギュウ押しても治ってこないで、逆をやってそこに愉気していると、耳下腺炎を経過した後、四十日か六十日ぐらい経ってから、いつのまにか変わってまいります。

変わったのが判るのは、その鼻筋が真っ直ぐになってくるのです。おかしいんですが、<ぜっぺき>の人の鼻筋は曲がっているのです。それがスッと真っ直ぐに通ってくる。

 

片側がペソっとなっている子ども達の耳下腺炎を経過する場合には、後頭部のペソっと凹んだ側の耳下腺の経過が非常に悪い。その側の耳下腺が腫れないまま通ってしまうことがままある。

そんなふうに、<頭の形と体の成長>というのはかなり関係がある。

 

今日の実習は、相手の後頭部を調べて、<ぜっぺき>なのかどうか。その<ぜっぺき>は片側だけか、左右両方の<全ぜっぺきか>を見ます。<ぜっぺき>かどうかは、外から見ていても判りません。触ってみないと判らないのです。

では調べてみて下さい。

 

<片ぜっぺき>は子どもの頃に小児喘息やアレルギー、あるいは寝小便だったことに関連がある。<全ぜっぺき>は、子どものうちからしょっちゅう生殖器をいじっている癖がある。それらの覚えのある人は調べてみて下さい。恥ずかしいというのを抜きにして、研究しませんと、中途半端になります。私は男であることも、女であることも考えないで、追い詰めていきます。自分もそうなら相手も同じようなつもりになって、相手と自分と同じように考えるところまで引っ張ってきては、細かな面まで聞いていきます。そうでないと変態のようでしょ。他人の変態を調べるのに、調べている当人が変態にみられたのではしようがない。・・・

頭の見方はもう少しやらないといけないと思いますので、次回にもう一度続けましょう。今日はこれだけに致します。

 (終)

 

 

 

 

「整体操法高等講座」を読む(13)子供の操法(1)

整体操法高等講座」(13)1967.9.5 

「子供の操法」(要約)

これまで、操法をやる迄の問題をずっと話してまいりましたが、これから実際に操法をどうやるのか、についてお話ししようと思います。

最初に、生まれてから四歳前後までの子供にはどう操法するかについてです。

子どもは大人の小さいものとしてではなく、大人の成長しない状態、大人よりももっともっと成長する力を体に持っている生き物として見るべきで、いろいろ特殊な条件を持っている。

生まれた当時は、体の自然の保護力が強い。大人なら毀れてしまうようなショックにも耐える力がある。考えているよりもずっと抵抗力が強い。しかしその逆に、非常に弱い面もある。

特に、<皮膚の問題>。皮膚は、免疫を作る特殊な働きがある。皮膚結核をやると臓器の結核が治ったり、皮膚がんをやると臓器のがんがすうっと減って来たりする。

また、皮膚は臓器の影響をすぐに知覚変化として報告する。

子どもの場合、皮膚は体温の鬱散を図るのに重要な役割をもっている。

整体操法において、子どもに対しての特殊性というと、その皮膚能力についてのものです。暑くなれば体に熱が集まるので、その鬱散の為に汗が出ます。大人は汗が出過ぎても、出せなくても大体平温を保てますが、子どもはうまく出せないと、体温が急にドカッと上がります。乳児の場合など39度、40度まで高くなることがあるが、それは必ずしも病気の場合とは言えないで、ただ体温の鬱散がうまくいかないということも多い。

子どもの高熱には、そういう見方も必要です。

汗をかいた赤ん坊を、汗をかいているからと風の通るところに寝かせていたら、急進性肺炎をおこして死んでしまったということもある。

赤ん坊の皮膚は、大人の皮膚のように汗を出したり引っ込めたりという融通がうまくいかないのです。体温を調節する機構が大人よりも少し鈍いのです。

だから発熱しても、いちおう生理的に正常なものと仮定して処置をかんがえてみて、そのあとで病気に対する発熱の問題を考えても遅くはない場合が多い。

 

子どもを見る場合には、皮膚が大人と違って特殊な働きをしているので、まずその皮膚を見る。

子どもの成長の、特に神経系統の成長のピークを見つけることが必要で、そのピークに乗って操法ということを考える必要がある。

成長の速度が非常に速くて、大きな波を持っている。たとえば、言葉を覚え始める十一カ月から一年三カ月の間が第一回のピークです。このころ脳膜炎に一番なりやすい。そのころの赤ん坊の頭は非常に発達していて、血のめぐりがいいから、結核菌でも何でも運んでしまう。そのピークがおさまって、次のピークが三歳から四歳にかけてきます。この時期には自家中毒や痙攣が非常に多くなって、簡単な食中毒でも痙攣を起こすとか自家中毒を起こすとかする。こういうのは子ども独特のもので、大人になればそういうのはなくなってしまう。しかし、同時にこの時期は、疫痢とか伝染病の罹患も多く、また毒の廻りも早いので注意が要る。その次のピークは八歳。

成長がある処に急激にいくので、その度合いが高まるときに、体は一番弱くなる。

そういうピークに子どもが伝染病にかかると、一番重い。同じ体でありながら、経過が悪い時期と、非常に簡単に経過してしまう場合とがある。

しかし、経過が悪くて重いから、体が重い病気をやっているとは限らない。軽いからといって、次も軽いとは限らない。だから、子どもを操法する時は、そういった発達のピークを見つけることが必要になるわけです。

視力は生まれると間もなく発達し始めるが、生殖器は発達の完成までには二十五年かかる。赤ん坊の体には成長の早い部分と遅い部分がある。丁寧にみていくと、足でも手でも右が伸びたり、左が伸びたり、手が伸びたり、足が伸びたり、みなそれぞれ別個の成長を遂げている。ふあっと公平に成長するわけではない。

だから子供の操法には、成長の傾向を見極め、それに適した操法を考えることが必要なのです。大人の体は、その点過去の残骸でただ生きているだけのものと言えます。だからみんなに同じような操法をしてもそうは違わない。

しかも二十二、三歳を越したら、もう死ぬ専門で、崩れる方向にだけ向かって、惰性で生きているだけですから、体を見るよりも病気のほうを見なければならない。

子どもの場合は、徹頭徹尾<成長しつつある体>、<成長しつつある命>として見る。それは外界に適応していくために鍛錬している体ということである。

子どもの病気は、治せばいいというだけのものではない。それは成長の過渡期の状態、発達していく過程で生じる正常な経過であり、それを見ていく。

発達の過程としてそういう異常状態が生じる面がある。大人の異常と違って、そういう発達過程の異常というものがあり、それを発達のコースとして処理すべき面が多くあるのです。

たとえば子供の時の耳下腺炎は、その経過が十分でないと、大人になってからインポテントや不妊症になることが多い。大人の睾丸炎や卵巣炎が、耳下腺炎の余病によるということは判っていることですが、大人のそういう病気に対して、耳下腺への愉気が非常に大きな意味を示すのです。だから子供の時の耳下腺炎に愉気してちゃんと経過しておけば、大人になって問題がない。

だから、子どもを操法する時は、いつでもその成長を促進させるため、あるいは停頓しているものをスムーズに成長を続けられるようにする為に行うという事が大事です。その場合、特に子供の<皮膚>と<神経系統>が問題の中心になります。

神経系統の働きが皮膚に微妙に反映してくる。皮膚の変化が、子どもは大人と違って非常に敏感である。

大人なら厚着をしていても汗が出るのに、子どもは暑さに耐える力がある為に、かえってその耐える力によって、自分の体を毀すという事が生じてしまう。つまり発熱してしまう。その発熱を下げようとして冷やすと、こんどは異常を起こしてくる。発熱したらその厚着を弛めれば済むのに、汗が出ないままの状態で冷やそうとすると、毀れてしまう。

こういうことは、説明し始めると一日中かかってしまうので、とりあえず<子供は大人の小さいものではない>ということ、そして体の異常は、病気というより<成長のつかえ>であることが多いという事、だから用心したからその異常にならないというものではないこと。ともかく<大人と違った経過がある>ということを念頭に操法することが必要です。

子どもの操法は、故障した処を対象とするのではなく、<成長の閊えている処>に向かって、成長を促すように操法する。<故障した処>と、<閊えた処>があったら、まず<閊えた処>から治し、<故障した処>が自動的に治るように仕向けていくようにする。

 

成長が閊えていると、子どもはイライラしたり、気が散ったり、八つ当たりしたり、体がだるくなったり、陰気になったりといろんな変化を起こします。だからそういう変化を<成長のつかえ>と結びつけて考えてみることも必要になります。

言いたいことも言えないという場合に、皮膚のどこかに伸び縮みの悪い部分があったりします。それが伸びるようにしたら、気性迄変わったという事もあります。

内向的になって行動がももたもたしているという場合、お腹が小さくなっている事があります。それは神経系統の発達が早いということですが、大人がつべこべといろんなことを教えすぎてしまった結果、不決断になって、腰の伸びが悪くなり、気性が内向したという場合もあります。腰の伸びを良くすると、陽気になり、決断できるようになる。そうするとお腹も大きくなってくる。そして以前の幼児的な傾向が出てくる、そしてお腹が縮んでくる。

胸椎十二番の骨が腰椎一番のほうにくっついていると、法螺ばかり吹くようになる。それを調節するとノーマルになってくる。ワイワイはしゃぎすぎるという場合は、小便が閊えているとみて、D10の曲がりをに愉気するとおさまってくる。

子どもの性質をよく見ていると、どこが悪いかも判る。そうなればどこを治せばどういう性質が変わるかも判る。

つまり病気を治そうとする考え方よりも、そういう未成長のところの閊えているものの動きを誘導する、そうすれば病気があっても自然に治ってしまい、子どもの性質が歪んだとしても、そういう誘導で治っていく。大人と違って、<毀れている処を治す>と考える前に、<成長のつかえ>を調整する。

成長には、ピークがある。神経系統の成長でも、胃袋の成長でも、眼の成長でも、みんなそれぞれのピークがある。だから無理に子どもを大人と同じようにさせようとしない。

子ども大人並みに扱ったってだめなんです。子どもは全部成長の過程で不完全な状態なんです。それなのに大人が聞いても判らない様な理屈をくどくど言って、大人並みに扱おうとするのは間違っていますね。大人の嘘をたしなめるようなつもりで、子どもの法螺を治そうとしたら、それは治らない。かえって法螺を嘘に変えていくことを覚えさせるだけである。そういう場合は、D4の硬直部分を治すようにすると、そういう嘘はつかなくなる。そのかわりに憶病になってきます。<臆病>と<正直>、あるいは<臆病>と<真面目さ>とは同じものなんです。<真面目さ>も度を越すと<臆病>に近づくことになる。<死に物狂い>というのは<臆病>の代表的なものと言える。

 

大人でも成長の不完全が残っている人がありますが、子どもはすべて不完全で成長過程ですから、その成長のピークの頭の時機を使って、それぞれの成長の系統を調節する。そうやって、子どもの性質を治す、気性を治す、体を治すよいうように操法を行ないます。

異常を対象にしない。仮に異常があっても異常箇所を押さえるのではなく、<停頓箇所>、<発達の閊えた箇所>を押さえる。

閊えが最初に現れるのは、<頭部>です。<頭部>の動きと子供の成長とは関係が深いので、まず頭から見なければならない。

頭の形は、大人でも自発的な意思を全く持たないような状態の時は、その片側がべそッと削げたようになっています。子どもでも同じで、自発的な意志を起こして、自分で何かし出すと、そういうのが丸くなってきます。他人に寄りかかってばかりいる人の片側はぺしゃんこになっています。逆に、絶え間なく自発的な意志で細かく動きすぎるような人は、<頭部第二>が弛んでいます。そしてそういう人の自発的な意志が抜けてしまうと、そこが強張ってきます。<頭部第二>は、感情抑制に関係している。

後頭部が萎縮しているのは、感情が豊かに育っていない状態。後頭部が絶壁になっている人は、感情が突然変化する。感情と意志が頭を経由しないで、直接出てくる。動物に似た感情の動きで、パッといきなり変わる。突然人を傷つけたという人に、後頭部が絶壁になっていることが多い。それは<頭部第三>部分の萎縮とつながっている。

 

大人でも頭は変化しますが、子どもはさらに大きく変化します。

だから子どもの頭の変化にまず注意する。形でも何でも、判るようになってからでは遅いんです。愉気を致しますと、頭の一部分だけが弛んでいる、脂がくっついている、あるいは乾いている。そういう部分があります。頭のそういう部分にまず愉気をするということが大事です。そういう処は、お腹の硬い部分と関係がありまして、お腹にそういう硬い部分がありますと、頭には弛んだ処があるのです。お腹が弛んでしまっている時には、頭に萎縮して硬い部分がある。

子どもの場合の操法は、どういう病気であっても、まず<頭>と<お腹>に愉気をする。愉気をしながら、頭やお腹の観察をするのです。

 

実習(頭部調律点の観察)

今日は子どもがいませんので、組んだ一人を子供に見立ててやって頂く。頭の骨はしょっちゅう動いています。その上の筋肉はさらによく動きます。筋肉の動きにごまかされないように、骨の動きを見ます。顔の表情を見れば、相手の状態はすぐに判りますが、頭の骨も、慣れてくると同じように判ってきます。

骨の動きと筋肉の動きを見て、あいての現在の状態が観察できますが、今日は骨の発達状態だけを見ます。そうすれば、その人の子供のころの状態も想像がついてきます。

腹を立てると、頭部の第二が硬くなる。強情になっている時は、第四だけが張ってくる。何かに頑張っているなということが判る。

赤ん坊は、掴まえたものを放すことが出来ないような場合は、第三が硬くなってきます。第三は、感情を抑圧した場合飛び出してくる。第四は、行動が衝動的になる場合。

そういうことを確かめ合って下さい。

そして、家で子どもの頭を三日なり、四日なり続けて観察してみて下さい。子どもの場合は、筋肉も一緒に見るように。毎日変化していることを、よく確かめて頂きたいと思います。今日はこれだけに致します。

(終)