野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

「整体操法高等講座」を読む(20)子供の操法(8)

この数日、『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』(NHK出版新書 丸山俊一 NHK「欲望の時代の哲学」制作班 2018.12.10)と養老孟司氏と名越康文氏の対談本『「他人」の壁』(SB新書)を読んでいた。私は、<意識>とは何か、<人間が創り上げた世界>とは何か、<要求>とか<欲望>とは何か、<自然>とは何か、<動物と人間の違い>は何か、というずっと考え悩んできている問題に促されて書店を歩き回っているので、ついこういうタイトルを眼にすると、読みたくなってくる。

この二冊は、そういう意味で、私にとっていつもの読書習慣に沿った選択なのだが、まず読後の印象を先に言えば、<自然>というものの捉え方が物足りない、というもので

あった。特にガブリエル氏と養老氏のそれは、現代の人間世界に対する<対立概念>として<自然>とか<本能>を捉えているその捉え方に、非常な曖昧さを感じてしまうのだ。行き詰まり、閉塞感が充満する現代社会の課題に対する処方箋のようにして<自然>という概念を置くのはいいのだが、その<自然>という概念の出自や、来歴や、そういう概念を形成している<意識>そのものに対する原理的な言及が殆どないことが物足りないのだ。曖昧さを感じさせるのは、そうした<意識>そのものの現代的な課題を論及しないで、ただ根拠の希薄な処方箋のようにして提示するそのありかたにある。

養老氏の場合

「人の意識について議論してもね、抽象的過ぎていろいろな意見が出るんですよ。なので、直感的な切り口で説明すると、人の意識が動物と違ってきたわけです。何が違ってきたか。実はこれ、めちゃくちゃ簡単で、結局は動物と人が違うのは、唯一「同じ」という能力を人間は持ってしまったんですよ。同じにする力。第一に、動物は言葉を使わないでしょう。というか、言葉が使えない。」(173)

レヴィ=ストロースも言っているでしょう。「人間社会は交換からはじまる」って。どんぐり3つと栗1つが「同じ」という物々交換からはじまって、行き着いた先がお金ですよね。栗1つが100円と「同じ」だから、100円はどんぐり3つとも「同じ」。「同じ」の2乗ですよ。」(181)

「情報化社会って、ある意味では「意味化社会」なんですね。だからさっきの会議室の話でいうと、感覚を刺戟するようなものを、できるだけ排除していってオフィスという空間ができるんです。そういう所で毎日働くということは、感覚が抜け落ちた意識の中で働いているんです。」(183)

「僕はよく言うんだけど、人生にはわからないことが山のようにある。そのうえで辛抱強く努力を続ける根性が必要なんです。田舎で自然を相手にしていれば、そういう感覚は自然に育ちます。

<感覚が抜け落ちた意識>という表現で養老氏が言わんとするところは判るのですが、それを言うなら<特定の感覚だけに特化した意識>と言ってほしかった。

なぜなら、人間の感覚はその状況に応じて必要な感覚(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚など)を意識を通じて励起させ、対象はその励起された度合いに応じて自らの部分を顕在化させるものだと思うからだ。どの感覚器官に注意を向けるかで、対象から受け取る知覚や認識は当然異なってくる。たとえば私が他者の手に触れた場合を考えてみる。その時私の注意(意識)が相手の<体温>を感じようとすればその暖かさを知覚する。<硬さ>を見ようと意識を向ければその硬さが、<湿気>を感じようとすればその湿り具合がわかるように、意識や注意の向けたものに応じて、すぐさま求める対象の表情が感知できる。

つまり<意識>そのものは、対象のどういう局面を探ろうとするかの方向を示唆しているだけで、養老氏の考えているような、<意識の中に感覚がある>というふうにはなっていない。諸感覚は意識によって示唆されて初めて励起する。

だから養老氏が<オフィスというものは感覚を刺戟するものをできるだけ排除していって出来上がっている>というのは不正確な表現であって、<オフィスというのは、ある目的(意味)に応じて設計されているために、その目的を完遂するべく温度や湿度、照度、香りなど仕事に必要とされる身体能力を最適に発現させるために、常時コントロールされた空間である。それゆえ、結果として特定の感覚の行使をできる限り排除しようとするものになっている。>というのが、より厳密な表現という事になる。なるはずである。少し長すぎる表現ではあるけれど・・・。

そうだとすれば、<都会のオフィスを飛び出し、田舎に行けば排除された感覚も蘇る>という養老氏の言葉や、<意識化され、いつも意味のみを追うのではなく、時には山に行けば、そこには意味のないものに囲まれる。都市の中にいたら全てが意味を持ってしまう。>という表現も書き換えが必要となる。

<山や田舎に行けば、それまで使わないですんでいた感覚が否応なく発動される。そして、まだ意識化され意味化されていない自然というものが溢れている>と。

要するに、養老氏は、<意識><感覚><心>というものを厳密に使い分けしていないため、<意識化され意味付けされた都市空間>を安易に<田舎空間>に対峙させうると考えてしまっているわけだ。本当は、オフィスの中での人間は感覚を刺戟されないなどということは無く、むしろ視覚や聴覚は特異な活性化を強制されているとさえ言えるのだ。そして視覚と聴覚以外の他の感覚を行使することをダブー視されるがゆえに、その発動が希薄にならざるを得ないというのが実情ではないか。

私が曖昧さを感じたのはそういうことである。

 

マルクス・ガブリエルの場合

マルクス・ガブルエルの新実在論について、この著書と、NHKの同名の番組放映でしか知らないので、ごく限られた範囲で、彼の発言について考えてみたい。彼は阪大大学院教授でロボット工学の世界的権威といわれる石黒浩氏との対談で次のように語っているる。

ガブリエル「私が今哲学者として携わっているのは、「新実在論」という新しい思考の潮流です。説明すると長くなりますが、乱暴に要約すれば、観念論のアップデート版という言い方もできるのかもしれません。それが今のステップです。私は哲学者として、哲学と科学の橋渡しをしたいのです。こうしたヒューマノイドの存在も深く理解したいと思っています。現代の科学を理解するためには、どのような哲学的概念やニュアンスが必要なのかを模索しています。しかし同時に、全体的な枠組みの追究も捨てるわけにはいきません。これは二一世紀に適応するための一つの方法です。」(177)

石黒「・・人間は、技術を使う動物である。動物プラス技術、それが人間だということです。・・・人間の活動の90パーセントが技術によって支えられていると思います。人間の脳をコンピューターで代替するのは難しいかもしれないけれど、1000年ぐらいかけたらできるようになるのではないでしょうか?人工器官や人工臓器によって腕や足、内臓を代替できるようになったように。その意味で人間はロボットに近づいてきているのです。人間の身体の一部を非有機的なものや機械に替えていくことで、寿命も伸びるのです。・・・」(194)

ガブリエル「それについては、深いところで、僕には異なる見解がありますね。全く逆の意見です。・・・僕の人間の定義は「人間は一生懸命動物にならないようにしている動物だ」というものです。・・・だからこそ、そこに技術があるわけです。人間が技術と同化するような状況には、絶対にならないと思いますし、それを試すことすら、すべきことではないと考えます。僕たちの価値、価値の倫理は、実に、進化論の祖先に遡るものです。僕らは確かにサルだと思いますし、それが僕らの倫理の由来でもあると思うのです。・・・技術を発明したサル。そして今、技術は僕らに背いたものになろうとしているのです。技術というのは、独自に発達するロジックを持っていて、ほぼそれが、進化の力になってしまっています。僕らは自分たちのこと、つまりは、自分たちの倫理意識を滅ぼしているようにも思えます。このままでいくと、人間は自分たちのこと、そしてすべてを滅ぼしてしまうことになるのではないかと危惧しています。われわれは完全に生物学から離れた暮らし方というのはできないからです。技術と人間が同化していくという考え方は、やはり危険だと思います。」(196)

ここでガブリエルは石黒氏の科学主義的な考え方に、もっと鋭いパンチを加えてほしかった。人間はサルであり技術を持った動物である、ということだけでは足りない。生き物がすべて適応やエントロピーの増大をなし遂げてきていることの意味を、論理的に説明してもらいたいのだ。科学が<生命>をタブー視していることへの、強烈な反措定を提起してもらいたかった。なぜ<生命>はエントロピー逓減を一定期間継続できるのか、個体は必ずエントロピー逓減の法則にいつか必ず屈するときが来るが、生殖を通じて種の保存を維持し続けている、その事実を哲学的に言語化してもらいたかった。それが彼について曖昧だな、と感じたわけだ。

この私のこだわりは、<知>の在り方へのこだわりだと言える。<自然>や<生命>を前にして、知りえた現時点での到達点を前提に、全てを説明しようとする<知>の方法は、その<知>が持つ限界の向こう側に、まだ知り得ぬ<知>の鉱脈が滔々と続き存在していることへの畏れを無視した、傲慢な態度としか思えない。<知>の最後の課題は、登り詰めた高みから下を見下ろすのではなく、一旦地上に降り立って、リアルな現実に舞い戻る事であるはずで、それなくしては<知>の課題は完遂しないと思えるからだ。行くところまで行って、もと居た処でもう一度考えることが重要だと思える。それがないから、ユニコーン(角を持った空想上の馬)のイメージを、<それも一つの現実だ>、とヴァーチャルな世界の非現実を現実とみなして、イメージにイメージを重ねることのみを課題としてしまいがちになってしまう。

野口整体法が、そうした意味で、<触覚>という感覚に<知>の主要な手段・役割を与え、そこから導き出される、これまで誰も気づくことのなかった<生命>や<身体>の持つ新たな意味を探り出した功績は、時代の推移とともに、ますますその価値を露わにしてくると私には思われてならない。

 

前置きが長くなってしまいました。講座に戻ります。 

 

 

整体操法高等講座」(20)子供の操法(1967.11.15)

(註:いつもの事ですが、ここでの要約は原文のままではなく、私の理解によってかなりの部分の省略や書き換えをさせていただいています。<>の表記も同様です。) 

 

一昨日、私の子どもの教師が風邪を引いて、子どもが足湯を教えたという。色が変わらない方の足を二分間追加して温めれば良くなると言って。その教師は、左右の足が違うはずはない、同じ温度に入れたのだから違いがあるということは無いはず、と疑問を持ったそうです。実際にやってみたら、片方が白かったので、二分追加したら、布団に染み通る程汗をかいて、風邪が治ってしまったという。

 

私はそういう体の左右差をしょっちゅう丁寧に見ているので、それが当たり前のように思って、教師がそういう疑問を持つこと自体が意外でしたが、その教師に限らず、案外私自身が当たり前と思って通過してきた問題が、皆さんにも同様に疑問のまま残っているのかもしれないと思うようになりました。そうして非常に反省をしました。私の教え方の中に、皆さんが判らないままになっているのに、それに気づかずに通してしまっていたのではないかと。

 

触手療法を習っている人達は、そういうことは少ないのですが、整体操法の技術を習って他人に利用しようとしている人達は、その技術を磨くことに集中してしまって、<人間はいかに生きるべきか>とか、<病気はいかに経過すべきか>という肝腎の問題を脇に置いてしまって、<その病気にはどこを押さえればいいのか>という事だけになってしまっている。そしてひとたび自分が病気になると、しどろもどろになって焦ってしまう。そういうのも、私の教え方に問題があるのではないか。

 

病気は、我々の考え方から言えば、<体の回復する動き>であり、したがって<病気を経過することは必要だが治すことは必要ない>。<病気が自然に治っていくように経過すればいい>という極めて単純なことなんですが、この単純なことが頭に入っていないまま技術を習っているだけなので、自分が病気になるとしどろもろになっていると思うのです。

整体指導というのは、<体に無理がないような使い方>を指導し、<丈夫になっていくためにその体力を発揮できるような体の使い方>を指導する為のものですが、指導者本人が非常時になった時に、そういう体の使い方をしていないのでは、他人を指導できるわけがないのです。

私が反省したというのは、そういうことを理解しないままでいる指導者がいるのではないか、指導者なら知っている筈だと思って等閑視していたことが、そうではないということならば、それは私の指導のありかたの欠点を突かれたと同じで、痛みを感じたということです。欠点を突かれた以上、それを直していかなくてはならない。

 

そこで、まず<正常な生き方>とはどういうものかを考えてみたい。

朝、目覚めてスパッと起きられない時は、体のどこかに疲労が残っている状態です。人間の健康状態というのは、体に弾力があるか無いかでわかる。整体の状態が乱れると、まず体の弾力が無くなる。全体的の場合も部分の場合もある。<疲労>というのはこの弾力が欠乏した状態です。

疲労すると、筋肉もこわばり、心も強張ってくる。

だから、体の正常さを考える場合、まず<弾力>という事を考えて、それが鈍った処を調整する。

 

子どもが病気になった時に私どもは<温めろ>と言います。発熱すると親は<冷やす>ことが常識だと思ってついそうする。しかし、<温めることの効果や、冷やすことの害>をわれわれはよく知っていますので、そういう親には後頭部を<温める>ように言う。そう言うと、冷やす習慣を持った親も、<冷やす>ことを忘れ出すんです。実は親の<冷やそうという心>を塞ぐ方法として、<温める>ということを始めたのです。

発熱は、何もしないでいい、というのが我々の技術でもありますが、親は何かしていないとすぐ不安になるのです。何かさせないと、うっかりすると冷やされる恐れがある。それをやめさせるにはどうしたら良いかと考えて、あべこべの<温める>ことを教えたんです。

病気というのは、それを<経過>するということには意味があるのですが、それを中断させることは良くない。皆、病気を中断させようとする理由は、病気がただ怖い、ということ以外に何もないんです。

<病気を治さなければ>と考えて、一生懸命にやる人がありますが、それは親切に違いないとしても、やっているその人の心の中にあるのは、<生命に対する不審>なんです。そうして<生命>を人為によって操作できるつもりになっている。

八十歳余りしか生き得ない人間を、 <人為>によって三百歳生きられるようになったというなら、そういう<人為>も信用して考えてみていいが、どのような最新の知識や技術によっても妊娠から出産に要する自然の期間を<人為>によって短縮出来ないでいる以上、やはり<生命>の問題は、<人為>よりも<生命>自体の方が主体にならざるをえないのです。

だから発熱も、その理由を理由あるものとして<後援する>という方法が本当だと思うのです。いや、それが本当かどうかは判らないのですよ。けれどもそういうようにすることによって私たちは経過してきた。そういう潜在意識教育を行なった。そうするとみんな何もしないで良くなる。

 

子どもの操法には<時期の見究め>ということが、一生懸命に愉気をするという事以上に重要です。大人でも重要だけれども、子どもの場合は特に重要です。そして<余分なことをしない>という必要は、大人の場合よりももっと必要なのです。無駄なことをすると、もっと悪くなるのです。<今はどういう時期か>ということを考える。

 

電話で、「風邪をひいたから三番をこすりました」と整体指導者が言う。そして聞いていると、「五番も一緒に押さえました。でも、汗が出てきません」と。

寒気がする時は、皮膚も縮んでいる時期なので、弛めるのにいい時期です。弛んできてから五番を押せば汗が出てきます。「両方一緒にやりました。」と。一緒にやったら効果が一緒にあるかといえばそうではない。却って強張ってくる。ちょうど<九・七・八番のショック>を与えたのと同じで、副腎の緊張が起こってしまうのです。

唐突に子どもに触ると、子どもは恐くなって警戒して、副腎緊張をおこすんです。そういうこすり方では寒気は取れないんです。そういう時は、ふわっと暖かくなるように愉気しなければならない。愉気にもやり方や、やる時期がある。

電話の場合でも、この講習での質問の場合でも、実際に相手を見ているわけではないので、時期とか体力とかがわからないのです。だから大抵大雑把な、誰がやってもいいような返事しかしていないのです。

近頃は、質問するのにも心得のない人があって、そういう質問を聞きながら、こういう質問が出るのは、私の講義の中に何か欠点があるのではないだろうか、あるとしたら、私が皆さんを過度に信頼している為ではないのか、もっと野蛮人と心得て、「熱が出た」と言ったら、「今の脈は幾つで、今の呼吸はいくつか。筋肉の緊張度合はどうか。どの部分に汗が出ているか。その部分の汗が、この部分に出るようになったら、その時の脈はこうなる。もしそれが揃ったら、その時に五番に愉気をしろ。そうすれば汗が出るようになる。」というように教えなくてはいけないのかも知れない。

しかし、そうなると、一年話してもいくつかの異常にしか適用できないし、ある特定の個人にしか適用しないことになってしまう。

だからどうしても、誰にでも通用するような事をお話しすることになってくる。

皆さんは、技術を修めようとする以上は、そういう話を聞いたうえで、<いつ、どのように、いかに>やっていくかを工夫していただかなくてはならないわけです。

 

特に子供の操法の場合は大事で、時期の見方とか、愉気の順序とかいうものを注意して、よく覚えてやるようにすると、大人をやっているよりはもっとハッキリ判るんです。

大人は、順序通りやっていくつもりでも、仕事が忙しかったり用事が出来たりして、弛めるべき時にそれが来れなくて出来なくなってしまうことがある。

そういう事があると、ご破算なんです。今日やり損なったら、本人は明日にでもやったらいいと思っているが、今日やり損なったら来年まで駄目なんだという事も沢山にあるんです。だから大人の場合は、かなりいい加減なことを混ぜます。守らなくでも大丈夫なようなことを混ぜるのです。そうしないと、それ迄やったことを乱されて悪くなってしまうからです。

昔は、一生懸命やってそれが乱されると、もう悔しくて、それこそ涙が出そうで、「もう来るなっ」と怒鳴っちゃったことも少なくないです。

そのため、僕が気が短くて怒りっぽい、と思われていたのですが、こっちは急所の時期を選り抜いているから、悔しくて仕方がない。そういうことがあり過ぎたので、私は大人にはそういうやり方をやらなくなってしまったんです。

効いてもよし、効かなくてもよし、相手がずぼらして休んだら、相手が損なのだと考えるようにした。それでも難しい病気の時になると、時々真剣になって、これが急所だと思ってやろうとすると、すっぽかされたりして、実に残念ですね。

最近はすっぽかさないような人を、すっぽかさないようにお膳立てしてやることを覚えましたが、そのためにやる前の事前準備が大変になりましたけれど、あまり腹を立てて自分の寿命を削るようなことをしなくなりましたが、以前は全く悔しくて残念でした。

誰の為に残念だったかといえば、結局は自分の為に残念がっていたんです。あそこでこうすればスパッと変わって見事に行くはずだったのにな、と。それが出来なかったことが悔しくて、相手の為に悔しがっていたんではなかったことに気がついて、それからは気が楽になりました。

初めのうちは、相手がここで気張れば、本当に体が変わって良くなるものを、と思った。何度も「明日は急所をやります」と言っていたのに、それを破られた、その怒りだったのです。

それなのに、僕が余分に腹を立てたように思われて、随分つまらない事だと思いました。

 

子供の操法についてこういう講義をしているのは、<時期をつかまえる>ということを身につけてほしいからなんです。子どもだと判りやすい。

 

(からだの記憶)

体は、意識で考えなくても記憶していることがいろんな場合にあります。水泳でも、自転車に乗るのでも、体や手が憶えている。ところが、人間の生理現象や病理現象の観察を行う際にには、そういう<体の記憶>ということを一切考慮しないで行ってしまっている。何故なのか。おかしいですね。<体の記憶>を考えに入れていないために、<生き物の実際の動き>とかけ離れた結論を導き出してしまっている。そして、その結論をさらに細かく分析して、より正確になったと言っている。ところが実際の動きというものは、その結論が細かくなるほどに、現実から離れていく。

私たちは、そういう事を知って、子どもの操法をしながら、<体の記憶>という問題をさらに詳しく確かめていきたいと思っているのです。

<こういう場合は、こうする>ということを、箇条書きにして説明することは出来ますが、そういう知識だけを覚えて、それを機械的に行うと、間違えてしまうんです。私が<時期の問題>を敢えて行うのは、そういう間違いを起こさないようにする為なんです。時期の掴まえ方を抜きにしたまま、ただ知っていることをやればいい、というのでは子どもの操法は難しい。たいていやり過ぎである。

 

触手療法で病気が上手に経過するのだから、それだけで十分だという人がいます。そういう人はそれでいい。しかし、整体操法は病気を経過したから上手だとはならないのです。経過した後の体が、それ以前の体の欠点をなくすというようになっていないと、上手とはならない。触手療法があるのに、あえて整体操法を勉強するという理由は、その病気を経過することによって、その体の歪みや、体癖や性癖、心の活動の歪みなどの欠点を正常にしていく為なんです。

触手療法では、どうしても経過の後の問題の準備がつかないんです。

・・・

今日の子どもの操法の問題、操法を選ぶ<時期の問題>を特に御研究願いたいと思います。遅くなりましたのでこれで終わります。

(終)