野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

生き方としての野口整体

野口整体を愉しむという視点から整体を考えることは、一人の生活者として野口整体に素人として向き合うことを意味している。

野口晴哉氏の到達した思想や技術の総体をわが身に体現したいという思いは心の片隅にないとは言えないが、整体指導のプロとして生きようとすることの無謀さは自分が一番よく知っているし、どう考えても野口整体野口晴哉氏一代のものとしか思えない。それほどに私にとっては隔絶した世界であり、境地である。

それは、囲碁の有段者や超一流の棋士のレベル世界が、碁会所で遊ぶ素人の囲碁愛好家のレベルと比較して隔絶した違いが存在することを連想すれば容易にわかる。

しかし、素人にだって囲碁を愉しむことなら可能だ。

それと同様に、私は素人として野口整体を愉しみたい。囲碁同好会があるように、野口整体同好会があったら是非そこで遊びたい。素人なりに腕を磨きたいのだ。

 

私たちはそれぞれ固有の生理的身体をもち、同時に固有の心理的時空を生き、さらには個々人固有の社会的時空のなかで生活している。

これら身体時間、心的時間、社会的時間の次元の異なる時間の中で、自分自身と向き合い、他者と向き合い、社会と向き合って生きている。時間という言葉は同じでも、実際に意味する内実は三者ともに異なっている。

だから、同じ野口氏の言葉に接しても、捉え方に違いがある方が当然である。

ところが、なぜだか野口整体を学んでいる同行の士のなかには、「あなたの言ってる整体は本来の整体とは違う」とか、「あなたの理解は邪道だ」とか、「身体教育研究所のやってることは協会の趣旨とは違う」などと簡単に口にするひとが結構いるのも事実なのである。

本当は、野口晴哉氏一代限りの、だれも真似のできない世界を、なんとか後世に継承しようとして成立している整体協会という組織や、組織の構成員のはずが、互いに他者を批判して孤立しているとすれば、それこそ野口氏の望むところではないだろう。

個々人において、その整体理解の度合いの優劣や理解の誤謬は存在するのが当たり前なのだ。

野口晴哉氏を師と仰ぐのはいいとしても、自分の見知った世界にとどまって、野口氏を神格化し、党派的に異端者を探り出すようなあり方は料簡が狭すぎる。

「ロイ先生の方がダン先生より野口先生に近いよ」、そう耳打ちした先輩もいた。しかしそんな物言いを、私は信じることが出来ない。子息であろうとなかろうと、等しく野口氏の教え子であり、隔絶した野口氏から見れば、たいした差異はないのではないか。それほどに野口晴哉氏の存在は特別である。すくなくとも私にはそう思える。

だから、わたしは、整体を学ぶ個々人が、この卓越した先達に向き合って、個々人自らの固有さにおいて、自己の野口氏を語ればいいのだとおもっている。そこに優劣を持ち出す必要はないはずである。

野口氏が体癖論で自らを九種捻れとして自己相対化したことの意味を、私たちはもうすこし謙虚に受け止めなおす必要があるのではないか。

生き方としての向き合い方だって、あっていいわけですよね。