野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

風邪の効用

野口晴哉氏の「風の効用」(ちくま文庫)をまず手に取って読んでみてください。ここには野口氏が直接多くの人のからだに接し、その微細な観察とそれに基づく数えきれない操法指導の実践から抽出した、風邪をめぐる膨大な知識を、丁寧にわれわれに語り伝えようとした慈愛に満ちた口述記録となっている。

 

野口氏は、自ら得た、からだについての知識を、これ見よがしにその高みから伝えようとすることはなく、ただ静かな語り口で、これまで誰も手にしたことのなかった、驚くべきからだの持つ知恵について、淡々と語り、理解を求めようとしている。

 

野口氏亡き後、野口整体の知識を語ろうとする指導者のなかに、野口氏の語り口とは正反対の物言いをする方を散見する。それらの知識をわがものとして、知識のない者たちに教示してあげようと、終始上から目線で硬直した言葉を語り、それらを繰り返すのを見るにつけ、野口氏がいかに知識の高みに至った後の知識の扱い方や伝え方に深い配慮をしてきた人であるかが歴然としてくる。

 

たしかにこの書には、われわれがひく風邪の諸現象についての、整体的意味が豊かに記載されている。風邪は治すべきものではなく経過させるべきものである、風邪は硬直した体やこころさえも、柔軟なあるべき姿へと導いてくれるものである。からだが敏感だからこそ風邪をひくことができる。かぜは万病のもとであることは確かだし、正しく個々の風邪に対処することは至難のわざではあるが、そのことを逆に考えれば、風邪についての意味付けや対処のしかたが適切であれば、万病に対処することも出来るはずである。

本書を一読して、そのおおまかな趣旨を理解したとしても、すぐにわれわれは、いまこの滴れ落ちる鼻水をなんとかしたい、この熱や咳の苦しみを和らげたい、このふしぶしの痛みを早く解消したいと、忙しい日常に舞い戻ってしまう。かかってしまったなと思ったらすぐに風邪薬に手がのびてしまう。早期発見、早期治療の近代医術の王道に身を任せないと、あとで大変なことになってしまい、後悔してしまう。

こうしたありふれたわれわれの日常に、野口氏は異を唱えようとしているのではない。そうではなくて、風邪という身体現象に、たゆまず意識を向け続け、からだが表現する生理的自然の時間的流れに寄り添って、しずかに触れ、耳を澄ましていると、個々人のからだの癖や、季節の移ろいや、生命の流れのなかで、これまでとはまるで違った風邪やからだの風景がみえてくるのではないか、と語っているに過ぎないことが分かってくるはずである。

野口整体を学ぶことが愉しいのも、野口氏が、からだや風邪のすがたを、これまでとは異なった視点から観察し、工夫を重ね、それを愉しんだからに違いない。