野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

体癖について

野口晴哉氏の整体法のシステムがどのような意味を持つものであるかについては、それに向き合う個々人の固有の宿命によって規定されるだろう。私たちは私たち固有の宿命から少しも自由になってはいないのだし、いくら客観性の意匠や、あるべき理想の理念として振るまおうとしても、そのことが却って自らの宿命を露わにしてしまうことはある。

自己の宿命を丸出しにすることは、社会生活のうえで、あまりに嗜みに欠ける行為とみなされかねないし、かといって嗜みや羞恥に絡めとられてしまえば、結局のところ自己を閉ざし衰弱していくことになってしまう。いずれにしても、宿命は宿命として放置されることになる。

 

こうしたいと望んでいるのに、どうしてもこうなってしまう。こういうとき私たちは宿命の問題に出会っているといえるだろう。

野口氏はこれを宿命と呼ばずに、体癖と呼んだ。宿命ということばがあまりにも決定論的な響きを持っているために違いない。

思わず闘争的になってしまう人、まずもって目先の損得計算をしてしまう人、いつも懐手して考えてばかりいて動こうとしない人、好き嫌いが行動のなによりの動機になってしまうひと、いつも受け身で行動してしまう人、いつも行動してから後で考え始めてしまう人、全てか然らずんば無かとばかり考えて行動する人、すこぶる本能的にふるまう人などなど。

ついそう感じ、そう行動してしまう固有の行動パターンは誰にでもあるし、百人百様である。それを単に宿命と呼んで済ませてしまうこともできるが、そう呼んで済ませてしまうには惜しすぎる何ものかが渦巻いているのではないか。この渦巻きを分析し、解読できれば、新しい人間観さえも築くことができるのではないか。それが晩年にいたる野口氏の重要な課題となったと思われる。

私たちは自らの宿命から自由になることはできないし、その宿命を受け止めたり、その逆に打ち消したりしながら生きていく存在である。そのとき、受容も否定も宿命をめぐってしかなされえない。

言い換えると、宿命こそが自己のふる里であり喜びや悲しみの湧き出る泉のようなものだ。

個々人の固有の気のありかたやその固有の揺らぎが、個々人の感受性をも規定し、知覚の面でも運動系の面でも、固有の傾向性をもち、それが人間の行動をささえる五つの腰椎にも反映していると考えるのが、野口氏のこの感受性分類としての体癖理論だと言っていいだろう。

そしてこの個々人に固有の感受性を宿命として放置してしまうのではなく、体癖としてとらえ返すことで、個々人の個性をより輝かせ溌剌とさせうる道も拓かれるはずだ、というのが野口氏の発見であり、未来を先どりしうる独自の整体法のシステムになったのだと思う。

整体指導の個人指導が体癖を基軸にしておこなわれるのは、百人百様の感受性の傾向に、便宜的にあえて抽象化をくわえて、よりよい指導を完遂するための手段であると私には思えるのだ。体癖理論をいくら熟読しても、目の前の個人を言い尽くせるものであるはずがない。それは便宜的に形成された、あくまで抽象化された人間理解の方法だからである。

野口氏の体癖理論を読んで、いちおうの理解ができたとして、「自分は何種と何種の複合体癖だ、だから何種の人とはどうも相性が合わない」とか「私は三種といわれたけれど、そんな好き嫌い至上主義者じゃないわよ」「かれは損得ばかりかんがえる人だから前後型だよ」などと言って一喜一憂したり、他人を評価したりすることは勝手だとしても、そのことだけでは血液型性格診断をたのしむこと似ており、それ以上のものではない。

大切なことは、野口氏によって抽象化され類型化された各体癖や複合体癖についての記述は、より確実に目の前の身体、いま生きて生活している具体的個人を理解するために編み出され構築されたものであるということだ。

そしてその個人の「固有の感受性」こそが対象となっているのであり、「感受性」とは、個人に於ける心的なものと身体的なものとが融合しているように思われる「心身領域」に限定されたものなのである。

私たちは体癖理論を、いったん「身体そのものの領域」や、「心的なものそのものの領域」から退いて、「心身が融合したとみなしうる領域」に固有の、抽象化された理論である、と明確に分けて考えることで、体癖理論解読のむずかしさや、間違った性格占い的解釈から少しは自由になるはずだと私には思える。