野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶ(37)鈍った椎骨の矯正

ポール・マッカートニーナゴヤドームライブの余韻に浸ってパソコンに向かっている。今回(11.8)は妻と二人での参戦となったが、数年前の東京ドームでのポールのライブが娘と息子の家族四人でのビートルズ体験だったこともあり、少し趣が異なっていた。娘は妊娠初期で参加を見送り、息子はグレン・ミラーのツアー同行通訳のバイトで参加できず。我が家ではビートルズは殆ど空気のような存在である。

数時間前のポールの熱唱する声が、私の頭やからだの中で、繰り返し押し寄せてきては気持ちよく揺すぶってくれる。今日のポールは、奇を衒ったところがまるでなく、ジョンやジョージについて静かに切々と語り唄った。そこには、自己の人生のすべてを、優しさにあふれた眼差しで振り返る、熟しきった老人の姿さえ感じさせる。もちろん、その演奏や歌声は若き日のポールと少しも変わらない溌剌とした熱気そのものだったし、スマホの灯りを左右に揺らしながら酔いしれる会場の老若男女が、一つの渦巻きを形作りながら、その熱気のなかでそれぞれの人生をフラッシュバックさせつつあるのを感じることが出来たのは至福の時間としか言いようのないものだった。妻が帰宅後に、「ヨーコが車椅子の生活にはいっているんだって」、とネットの情報を教えてくれた声を重ねあわせながら、時は静かにそして確かに移りゆくものであることをも実感する一日となった。

そんな気分のなかで、ここ何日間、書き出したまま放っておいたこのブログに、やっと注意を向けることができたのだった。さっそく記録を続けます。

 

鈍った背骨の矯正について

敏感な人は、前回までやったような椎骨の両側を押さえ、愉気することで、異常に対処することが出来るが、叩いても弛まないほど鈍った体の人もいる。そういう人に愉気しても、何時間やっても弛まない。

そういう鈍い場合には、一度そこに力を集めて、相手の意識をそこに集めさせる必要がある。集注させておいてからフッと抜くと弛んでくる。こちらの力でではない。相手の注意を作るわけです。その鈍った人の一番鈍い一か所に注意をフッと集めておいて、いきなり抜くと、弛んでくる。力を十分に入れると弛んでくる。それが背骨を治すのに一番大事な問題で、とくに狂っている処の背骨は非常に鈍っている。

相手に注意を集めてくださいと言ってもなかなか集まらない。しかし、集まらない処にちょっと力を加えると、相手の注意が集まってくる。相手の注意がそこに集まるにしたがって、その筋肉の張力が増えてくる。筋肉の張力が増し、ここが頂点だと思うところへ来たら、もう一回そこにギューっと力を入れる。それをはね返そうとする力が起こってくる。起こってきたところをフッと放す。それが弛めを誘導する技術である。

 

相手の注意が集まっていく途中で放すと、前とは逆に、相手の中にある引締めようとする働きが起こってくる。だからだんだん緊張してくる。刺戟して弛んだり、戻って緊張が来ないような処には、一旦押さえていって、そこに相手の力が集まってくる時に、その集まってくる力の頂点に来るところまで待たないで、集まってこようとしているところで放す。そうするとそこが引き締まってくる。その逆に、集まってきてその頂点に達したときに放すと、こんどは弛んでくる。どちらも方法は同じです。相手の注意の焦点を体の鈍った処に設定し、そこに力の集まってくる気配を感じて、ポッと放す。

 

もし胆石が出かかって、胸椎九番が硬くなっているような時、フーっと押さえていって、その途中でポッと放すと、その拍子にガクンと出てしまう。ところが胆石の痛みのある時、胸椎八番を押さえていると楽になるが、押さえている指をポッと放すと、相手は途端に痛みを増して感じる。力が集まってくる頂点まで押さえておいて、これ以上緊張が来ないというところまで押さえてから、一緒にフッと放すと痛みが取れてくる。

 

胆石のような場合は、その放す時の違いが非常に明瞭に現れる。しかし普通の場合は、放した後に、緊張が残るか、弛緩が残るかという違いだけである。

椎骨の矯正という場合は、多くは弛緩を誘導する。ポッと放して弛緩して来た時に、ちょっと力を加えると、椎骨の異常は一緒に治ってしまう。ところが、途中で力を抜くと、筋肉が緊張し硬くなってきて、異常が治らないだけでなくて、いよいよそこに抵抗が増えてくる。これを頻繁に繰り返すと、過敏な傾向を呼び起こす。痛みが残る。とにかくやり過ぎると過敏現象を引き起こす。しかし、ショックする方法としては、これが一番強い。

胃袋の拡張反射の処をショックして、早く拡張させようとする時は、この方法、つまり力が集まり切るところで行かないで、途中でポッと放すと、それがはっきり生じる。

この方法で、腰椎二番を押せば、逆に胃の収縮反射がはっきりと生じる。

このように、脊髄が持っている反射作用を利用した操法をする為には、この途中で放す、というやり方が一番いい。

 

操法には、引き締める面と、弛める面との両方があって、弛めるのは、多くの場合引き締める為の前提として行う。もちろん弛めるだけで、一晩眠れば疲れが抜けてしまうこともある。ただ、引き締めることだけを行なうのは難しいので、弛めることを前段階で行うということです。

 

骨を矯正する場合、弛めただけで治る場合と、弛めたあとの引き締めないと治らない場合と両方ある。弛めて行って最後にどうしても弛まないという処が出てくることがある。そういう処に対しては、もう一回力を加えてフッと注意を集めて弛めないと治らない。あるいは弛めなくても、そこに不意の引き締まりが出来れば治る。

 

練習

前回は弛め方を集めてやったので、今度は弛んできた後の、弛み切らない処をもう一つ弛める。あるいはそれを引き締めながら椎骨の異常を治すという練習をしておきたいと思います。ここで一番注意することは、押さえるということが相手の注意の焦点を出すということです。それを間違えると、自分が勝手にギュウギュウ押さえているだけで、相手は相手で勝手なことを考えている、ということになってしまう。

こちらの焦点が、相手の焦点かどうかは、見ているだけでは判らないが、押さえる時の構え、押さえ方というものが、ピタッと決まって、相手が動けないような押さえ方をすることによって、作り出すことが出来る。これは強く押さえるということではない。

相手の注意を集めるということは、操法で一番難しい事ではあるが、ついそれを忘れてしまって、こちらの力を入れる事だと思い、ゴリゴリやって押しつぶす事だと錯覚してしまう。しかし、硬結はいくら力を入れたからといっても弛むものではない。ところが相手の注意をそこに集めておいて急に抜くと、硬結がスーッとなくなっていく。その硬結が無くなるのを見て、相手の注意を得たなと自分の技術の程度を知ることが出来る。

 

技術というと皆、こちらのやり方のつもりでいる。手の使い方が技術だと思っている人もいる。しかし整体操法の技術というものは、やる人の使い方以上に、相手の注意を集めて、相手自身が無意識に動いていく。そういうように誘導していくように押さえていくということが大事です。

操法は普通は押さえられると気持ちがいい、しかし最後の一点だけが痛い。ちょっと触ると痛いように仕向けて押さえる。そうすると相手の注意は否が応でもそこに集まる。強く押して痛い、というのではないのです。それは、こちらの力が集まっているだけで

相手の力が集まっていない。

なぜそういう最後の一点だけが痛いという感じが必要かと言うと、人間というものは普段の生活や普段の頭の働きの時は、その人の普段の力しか出せないのです。ところが火事場の時、思わず重いものを持ち出して外に逃げ出します。それは、火事になったから非常力が出たということではないのです。火事になっても、冷静なままでいる人には、そういう非常力は出ないし、重いものは持てないのです。さあ大変だ、と慌てふためいて無我夢中になった人は、重いものでも平気で持って出られる。

普段われわれは、自分はこれ位の力がある、これ位なら出来る、と自分の能力に限界を設けて、こころで限界を作ってしまっている。それが、無我夢中になると、その限界のことを忘れてしまって、サーっとその人本来の力が出せる。つまり、それは普段無い力が出てきたのではなく、本来普段に持っている力なのです。

例えば便秘の人などは、自分は便秘するのだ、私は便秘だと、つまり毎日大便が出ないから便秘なんだと、そう心に決めている。心でそう思い込んで、意識で出そう出そうとしている。ボールドウインの法則にあるように、心の空想と意志との喧嘩では、結局意志の方が負けるということになるわけです。私たちは、いつの間にかそういう限界を設けて、病気になった時でも、その限定の範囲内でしか動けなくなってしまっているのです。

一瞬、無我夢中の状態に相手を誘い込んでしまえば、本来持っている力を一気に、素直に発揮してしまうのです。

ある一瞬に、相手の力を集めさせることが出来れば、相手本来の力、本来の働きが起こってきて、サーっと体を変えていく。この無我夢中にするその瞬間を作る為に、相手の快感を一瞬破る痛みを使うわけです。痛くない操法専門で、ソーっと操法している人は、いつになっても終わりが見えてこない。

足を急にパッと引っ張ると、相手は一瞬我を忘れる。すると、相手の作っている能力の限界の範囲を取っ払うことが可能になる。そうなれば、サーっと相手の本来の能力が働き出すのです。

 

胃やお腹が痛いと訴える人に、我慢しなさいなどと言えば、当人は一生懸命我慢しようとしたとしても、ますます痛くなってくる。ところが、胃やお腹以外のよその場所一点にグッと力を加えてからフッと放すと、押さえたその場所の痛みが無くなると同時に胃やお腹の痛みも一緒に無くなってしまう。相手が痛がっている痛みと同じくらいの痛みを作って押すのです。相手が我慢できないぐらい、我慢できるその頂点でポッと放す。そうすると、相手は作り出された痛みが無くなっただけなのに、それを無意識のうちに訴えていた痛みが無くなったと受け取るのです。この訴えていた痛みと、新たに作り出した痛みとが無意識のうちに結び付くと、痛みが一緒に無くなってしまう。

極端に言うと、歯が痛いと訴えてきても、お尻をつねっても、どこを押してもその痛みを無くすことが出来る。

ここで言いたかったことは、操法の最後の問題は、相手の注意の焦点に力を集めるということにある。その為には、相手の体の力を逃がさないこと。同時に相手の心をよそに逃がさないこと。

空想というのはどこへでも動くが、体にくっついている心というものは、体を押さえてしまうと、どうしても押さえられたところに集まってしまうものなのです。体にまだ隙があるようだと、体にくっついている心も一緒に逃げてしまう。隙が無いように、最後の押さえを決めて逃げないようにする。

愉気をしていると相手は弛んでくる。その弛んだ一点を押さえる。押さえると相手は逃げる。その逃げようとする動きを封じて、ピタッとかかえ込んで、一瞬力を加える。加えて中に入った瞬間にポッと放す。そうすると、体中が弛んでくる。体のあちこちを弛めてなお弛み切らないところを、今言ったように押さえると、そこだけでなく、全体が弛んでくる。すると急に相手の呼吸が楽になる。そうなればうまくいったということです。

そういう弛み切らない一点の処というのは、相手の体の動きの中で一番多く使われていた処です。つまり、相手の偏り疲労の最後に残るところが、そういう弛み切らない処です。そこだけが弛まない。そこを今のようにすると全体が変わってくる。

もちろん、そういう弛み切らない処を見つけ出して操法するのが理想です。しかし、それを実際に行うとなると、体じゅうを調べるわけですから、それを見つけだすだけで一人に何時間もかかってしまう。

これまでやってきた練習も、結局はこの最後の一点を見つけ出し、操法するための方法であったわけです。

しかし、もっと要領よくその一点を見つけ出す方法はないのだろうか。偏り疲労を一つひとつ追いかけていって、最後の弛み切らない一点の急所というものを見つけ出すことを繰り返し練習してきたことは、もちろん無駄なことでは無い。体量配分計だって結局はこの最後の一点を見つけ出すための手段なのです。

 

体癖というものは、そういう考えから、試行錯誤を経て、必要上まとめられてきたものです。その人の体癖によって、偏り疲労の最後の一点というものは異なっている。

一般に、腰椎一番が硬いという場合、頸椎三番も硬いといった関係がある。ところが、体の異常状況によって、この腰椎と頸椎の関係は一定のものではない。むしろ腰椎と頸椎の関係が合致しないことも多い。合致しないのは、両者の間にある胸椎部のどこかに異常があるためにそうなる。だから腰椎三番が硬く、同時に頸椎三番も硬いということであれば、中間にある頸椎部には異常がないという確認になる。つまり、その体は反応が素直に出ているのだから、そのままにしておけばいいということになる。ただ、ムチウチの場合は、頸椎が主となっているから注意する必要がある。

 

練習

体癖によって、偏り疲労の場所は異なるが、上下型は腰椎一番と頸椎三番、左右は腰椎二番と頸椎四番、捻れは腰椎三番と頸椎五番、開閉は腰椎四番と頸椎六番、前後は腰椎五番と頸椎七番にそれぞれ関連が深い。

そして椎骨の転位は腰椎と頸椎はその逆側に現われるのが正常です。たとえば腰椎一番が左に転位している場合は頸椎は右に転位している。関係する椎骨の転位が同側に現われているのは異常です。

では、まず相手の体癖の見当をつけてください。頭で想像するより、実際に腰椎を触っていって見つけた方が早い。

調べてみて、腰椎一番だった場合は上下型、その場合胸椎部も確認してみる。胸椎部の椎骨を上から押さえたり、下から押し上げるようにしてみると、上下は上がりっぱなしで上から押し下げた時に痛みを感じる。

腰椎二番だったらその胸椎部をみると左右に転位して、右や左から押さえた時に痛みを感じる。棘突起自体が痛むのは捻れ。開閉は下がり専門で、胸椎部の背骨はどれも下から押し上げるようにしたときに痛みを感じる。前後型は飛び出している。

今回の練習では、腰椎を調べてみて、その転位が頸椎の逆側に生じているかどうか。同側の場合、その関連する胸椎部はどういう転位が見られるか。胸椎部の棘突起の転位状況はどうなっているかを調べてみてください。

その結果、相手の体癖傾向がどういうものかを推測してください。

はい、どうでしたか。一応こういう調べ方を憶えて、家で何回かやってみて下さい。偏り疲労というものは、一人ひとり全部違っています。しかし、腰椎部を観察して、弛み切らない最後の処を見つけ出す手掛かりにできれば、大分要領も良くなってきます。

繰り返しになりますが、整体操法病気を治すために行うものではありません。あっちもこっちも異常を探し出してそれをいじくるのが整体操法ではない。

正式の整体操法は、弛めるために行うのでもない。むしろ選び抜いた一点を引き締めるということが重要です。あっちもこっちも操法するということが親切丁寧なのではない。むしろ操法を慎むこと。

整体という状態は、必要な時必要な体勢、無意識に必要な行動が出来る体勢をとれる状態のことである。ところが体が鈍くなると、目的に適った行動がとれなくなる。われわれが整体操法するのは、相手のそういう状態を、整体の状態に誘導し、目的に適った行動が出来るように方向づけるだけである。相手がそういう体勢になれるように、相手の力を使って整えるだけである。そして、相手に自分自身の力で良くなったことを確認させることも必要である。操法のおかげだなんて、とんでもないことである。相手がそういう力が自分の中にあったためであることを教えなければならない。

相手の大便まで気張っている人がいるが、余分なことである。それは間違いである。病気は相手の力で経過することで初めて丈夫になるのであって、操法愉気によって丈夫になるわけではない。

ただ、多くの人は、病気になると気張るべき時に気張ることが出来ない。一旦病気になると無抵抗で、手を上げることしか出来ない。無条件降伏の状態になってしまう。それ以外の方法があることを知らない。病気になると無意識に緊張する必要も生じるが、そんな時に、ああ駄目だと、逆に力を抜いてしまう。無意識にそういうものだと信じ込まされてしまっている。だからそういう人たちには、病気になった時には力を入れる事を教えなければならない。

高い処から落ちても、ハッと思うと頭から落ちてしまうけれど、ウームとお腹に力を入れると足から着地するのです。火傷でもハッとすると火ぶくれになるが、お腹に力を入れると水ぶくれにならない。ハッと思わないだけでもそれだけの違いがある。

逆説的になりますが、整体操法のやり方というのは、どこまでも不親切に、それが一番の親切なのです。

 

今日の講義をもちまして、この初等講座を終了します。