野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶⅡ(56)痛みはなぜ苦痛なのか

私はいま、パソコンの画面に向かって文字を打ち込んでいるのだが、ふと右手のマウスの矢印の表示が気になってくる。「この矢印って、まるで意識に似ているんじゃないかな」と思えてくる。矢印を動かせば、好きな処へどこでも飛んでいけるし、アイコンをクリックすれば全く違う画面に行って、画像をクリックして動画を見始めることもできる。囲碁の対局だって思いのままだ。必要ならズーム機能で拡大したり縮小したりもできる。もちろんそれをやっているのは、マウスではなく私の意識なのだが、その落ち着きのなさといったら、尋常じゃない。

ブログを書くことに集中している時はそんなことは考えないのだが、時間が経ち、首や肩や腕や眼が疲れ始めると、あっちこっちに矢印が動き回り始めるのが、いつもの私のパターンである。

お茶を飲んだり、お菓子に手を伸ばしたり、絶え間なくいろんなことに注意が移り、ブログを書くことに戻るのはなかなかに容易ではない。

 

よく通った禅寺での参禅会でも、このせわしない私の意識の動きが鎮まることがない。どうしてこうも休みなく動き回るのか。それを雑念というのだろうが、私の心は内面に向かったかと思うと、また脚のしびれに向かい、和尚さんの呼吸の音に向かったかと思えばすぐまた坐禅堂の脇の遠くの坂道を登ってくる自動車の微かなエンジン音飛び移っていく。

シャットダウンすれば画面と共に矢印もフェイドアウトして、私が眠りにつくように意識も眠りにつくのだろうか。いやいや、そうではないようだ。

一体、この矢印に似た私の意識というやつは、どこにいて、だれに促されてそんなにせわしげに動きまわっているのか。

唯一考えつくのは、私が身体として、いや一個の生命として、今ここに生きている、そのことからそうなっているのに違いない。それしか思いつかない。

 

では、言われるように手術で麻酔を打たれた患者の意識がなくなるというのは、なぜなんだろう。その時意識はどこかに身を潜めてしまっているのだろうか。あるいは高いところから落ちたりして気を失った人の意識はいったいどこへいったのか。もちろん死んでしまえば意識は当然なくなっているはずだろう。

 

そんなときだけでなく、一般的に言って、身体と意識とはどういう関係にあるのか。意識は、どんなものにでも興味を持ち、自然界のすべてだけでなく、自分の心に浮かぶイメージにさえ関係を取り結ぶ。心的なイメージが、さらにそのイメージに折り重なり、バームクーヘンのように重層的なイメージの世界さえ構築してしまう。いわば幻想に幻想を重ねた、自然界には決して存在しない龍や胡蝶をも創り出してしまう。

だから禅寺の和尚さんは、我ら凡夫に向かって、内面に意識を向けなさい、そのためにまずあなたの呼吸にのみ意識を向けて集中しなさい、と仰るのだろうが、かつて言われた通りになったためしがない。

呼吸を数えながら、相変わらず、ゆらゆら揺れる香りたかいお線香の、燃えた灰の落ちる音さえが、シーンと静まり返った堂内に響き渡ってくる音に、わたしのマウスは敏感に反応しつづけているのだから。

野口氏は、「愉気は天心で行うのを最上とする」という趣旨の言葉を言われたが、私の意識はいつも不安や空想、妄想飛び交う荒れ模様のなかにあり、天心といえる状態で愉気できたと実感できたことは稀でしかない。

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」とか「病は気から」と言う言葉は、私の頭ではなかなか理解出来ないし、肚にストンと落ちてくる言葉でもない。だって、そんなのが日常だったらたまったものではない。疲労疲労感は違う、というのはよく理解出来るし、痛みが心のありようでその感受する度合いが異なるというのだって、とてもよく理解出来るつもりだ。しかし、「だからあなたの痛みは気のせいなんだよ」と言われたら猛然と反発したくなるのは確かだ。だって、そういう論理には飛躍がありすぎる。病や痛みや苦痛が、たんに心のありようだけの結果だというのであれば、それははっきりと悪しき精神論・観念論だと言い返せばよいはずである。

もちろん野口氏はそんな精神論者、観念論者ではない。

野口氏は生理的身体と、それに対する心的な認識とは時におおきな隔たりがあるんだよ、ということを述べられているに過ぎない。

身体は、身体を取り巻く環界(自然的、人工的)と絶えず異化と同化を繰り返し、悠久の時間による蓄積としてさまざまな身体現象を表出している。そうした身体や生命の働きに全幅の信頼を寄せたうえで、人間の心的な在り方がときにその自然的身体の流れを堰き止めたり脇道にそらせることがあるから、心的なものをよくよく観察しようではないか、と主張されているのだ。

そこには、少しも論理的な飛躍は存在していない。

野口氏が指導した人の中には、幾人もの新興宗教の教祖になった人もいるというが、そういう人達は、自然的身体のありように敬意を表すること以上に、みずからの力のみを過信し、教祖たるべく振舞ったがゆえに、信者個々が教祖と同様に持っている自然身体の神秘を独り占めした人たちではなかったのか、などと勝手に空想してしまう。

「病は気から」とは、本当は「人間の病は、時に気から生じることもある」と言うべきフレーズであると、私はいつも思ってしまう。

 

私は、野口整体を学ぼうとする時に、野口氏の断片的な言葉のみからそれを理解してその本質を見失うことに陥らないようにしたいと思う。ついつい、自分勝手に理解したつもりに陥らないようにと。このブログもそうした陥穽に落ち込まないようにと心がけている。野口氏が、決して新興の教祖たりえなかったのも、あるいは宗教的、政治的なものから比較的自由であり続けてこられたのも、結局は氏が眼の前の一人ひとりの生きる個々人と自分との一対一の関係の中からのみ真実と言えるものを見出していきたいとする、確固とした思想的立場によっているからに違いない。

またしても、脱線してしまった。これが私の愉しみであり、哀しき性癖なのだろう。

本題の記録に戻ります。

 

I先生。「前回、痛みを快痛にする方法について少し触れてきましたが、これは本来高等技術の問題です。今日は、肝腎の中等技術としての痛みへの対応ということをやっておきます。」

 

「痛み」と言うのはなぜ「苦痛」になるのか。別段、痛いからといって、苦しいわけではない。それは、欲していないのに痛んでいるから苦しいのです。欲していないのにくっついて放れないから苦しいのです。

では痛むなんていうことは誰も望まないのかというと、そうとは言い切れない面もある。痛い事をされること自体に信頼を持つような場合というのも少なくない。

外科手術の大部分は痛いだろうことをされる。麻酔で痛くないようにするとしても、痛いだろうことをされる。最も人間にとって嫌なことをされる。内臓を出すなんていう嫌なことをされることによって、何か、いままで自分が考えられないような、常識の積み重ねでは考えられないような「治癒」というようなところに到達できるような気がしている人が大部分です。

外科手術の手術的効果を、心理療法的効果として使う場合を考えてみると、心理療法的効果というものは意外に馬鹿にはできないものである。もし手術というものに全く痛みがなく、それが当たり前のことなら、今のような効果は上げられないだろう。

お灸でも、熱いのを我慢するから効果がある。断食も長い方が効果があるような気がする。その方が辛いからである。安静を守るというのも、そうである。動くことが本来動物である人間にとっては、動かないでいるということは苦痛である。その苦痛に耐えることによって、何か常識外の治癒があるような気がする。薬を飲むのだって、苦くてちっとも美味しくないものを飲む。高いから効く。今の薬が効かない大部分の理由は、薬が安くなったことや、健康保険制度があるからで、効果からいえば、自腹を切って苦しまないと効果は不十分である。

それにしても、病気を治すのに、生きていることと縁のない薬を飲んで効くような気がするのは何故かというと、縁がない、美味しくない、苦いだけ、そういうものを飲むことは口にとっては負担になるが、その負担になる事を辛抱することで、その苦痛感を忍ぶということを自ら望んで自発的に行うことで、それが治療法になり、体力を呼び起こす力になるからである。

人間の裡には、そういう現象があるのです。

寒いのでも、極端に寒くなると寒さを感じない。感覚の限界以上は感じられない。三万ヘルツの音はあっても人間には聞こえない。せいぜい一万から一万五千ヘルツぐらいしか聞こえない。十万ヘルツの音があったとしても、聞こえる音とはならない。

昔、出口王仁三郎が地球の自転の音を聞いているのだ、というようなことを言っていたが、地球の回転の音が実際にあるのかも知れないが、周波数が高いので聞かれないのです。もっとも、王仁三郎は耳鳴りのことをそのように表現したということだったらしいが、そんなように感覚の閾値をこえたものは、あっても感じない。

けれども感じないのを感じようと頑張って、何らかの幻聴を心に描くと、それが実際に体に実現してくることがある。

ちょうど、恥ずかしいことを想像すると恥ずかしくなり、怖いことを思い描くと顔が青くなるのと同じです。

実際、こころに思い浮かべたことというのは、体の上に実現してくるのです。

だから、苦しいことを耐えると、そのことによって良くなるということだって実現するのです。

 

苦しさに耐えるという場合、耐えるごとに快感が出てくるという面がある。水をかぶって本を読んだなんていうのは一生懸命勉強しているようにみえるけれど、頭が悪い証拠です。推理小説でも読んでいれば夜の更けるのも知らずにいる。ところが、それが難しい哲学の本だったらもう我慢できない。苦痛がただ苦痛なだけというのは、自分で律することができないものがあるからで、それを越えて苦痛に徹すると、苦痛が快感に変わってくる。

だから「苦痛に徹しさせる」ということは、観念の中において、「苦痛を快痛に変換させる」方法として使えるのです。指導の状況によっては、そういう様式もとれるのです。

 

しかし、その逆に、「痛み」に対してへっぴり腰になっている人に、こういう様式を使うのは難しい。もっとも外科手術なども、いやだいやだと言いながら、切ってもらわないと不安だと言う人もいる。切る側の人も、それが自分の経験になるということで、何でもかんでも切ろうとする人もいる。そういう人は、果たして体に必要だから切るのか、自分の勉強に必要だから切るのかといえば、後者の方が実際問題としては多いのではないだろうか。

本来、切らなくてはならないような病気はないのです。

むしろ、そういうようなことで苦痛を忍ぶ覚悟を患者に作らせておく。そうすると患者の苦痛が快感に変わり、あるいは苦痛が治療法に変わる、そういう面があるのです。

 

苦痛というものは、非常に治療法に変わりやすいという性質を持っている。だから上手にやれば、苦痛そのものを止める必要はない。そのままでそれを丈夫にする方法に使える。

「熱が出ているな」、と顔を覗き込んで、「もう少し出なくては駄目だ」と言う。すると相手は、熱が出るのをじっと待っている。熱が苦痛であったことをすっかり忘れてしまっている。

「ここが痛いのなら、こっちまで痛くならないといけない。こっちまで痛んで来れば、ここはよくなってくる」と言うと、相手は、初めの痛みだけでは物足りない感じがしてきて、一生懸命他方のところの痛みを作り出そうとする。そして、「やっぱりこちらが痛くなりました」と言って、初めの痛みのことを忘れてしまう。本来の痛みはそのまま残っているのに、痛みによる「苦痛」が消え去ってしまう。

 

こんなように、「苦痛」を打ち消すことは、そんなに難しい事ではないのです。問題は、「苦痛」を「快痛」にどう変えていくかにあるのです。「快さ」がどういう時に生じてくるのか。

たとえば、相手を押したときに、「痛い、痛い」と騒ぐ人がいます。だったら押さえられるのが嫌なのかというとそうではない。いつも痛がるので、ちょっと押さえるだけでやめると、物足りなく思ってか「今日はどうして痛く感じないのでしょうか」と聞いてくる。そこで「それは体が良くなったためか、もっと悪くなったためかのどちらかでしょう。いや、それとも、あなたがあんまり痛がるので、押さえるのを控えた為かもしれません」と言うと、「どんなに痛くても辛抱するから押さえてください」と言う。

それは痛いのが嫌なのではなく、実際に押されてみて、痛い中にも快感があって、もっともっと押してもらいたい、そういう感じがあるからなんです。そういうことは沢山あります。

ところが、見当違いの処を押さえていると、相手はすぐその痛みが嫌になってしまう。

 

求めているものが与えられると快い。欲しているものが満たされると、それだけで快いという感情が必ず起こってくる。だから、相手が今痛みを訴えている時、その痛みの質を苦しみの方に向いているものから、あたかも相手自身が要求している方向であるかのように、その方向を持って行けばいいということになります。

 

痛みというのは、体の他の部分にその痛み以上の痛みが生じると、消えてしまって、強い痛みの方に注意が集注する。注意が集注した処が痛い。

だから、小さな痛みでも、そこを気にしていると、強く痛んでくる。「そこはガンの痛みです」などと言われると、ごく些細な痛みでさえも強く感じだす。そしてほかに痛みがあてもそれは忘れてしまう。その些細なのに強く感じだした痛みが、その人の心に「意味のある強い痛み」と認識されて残り続ける。

このように、心に特別の意味を付け加えられた痛みを感じはじめると、体の他の処の痛みがなくなってしまう。

いつも歯が痛む人は、食べ過ぎによって本来なら胃が痛んでくるはずの時にも、歯が痛くなる。しょっちゅう頭痛がするという場合でも、本当は手が痛いだけなのに頭痛として感じてしまう。むち打ち症で手が痺れるというのでも、お腹が痛いはずの時にも手が痺れると感じてしまう。これはむち打ち症が気に入っているとそういうことも生じる。

 

救急操法で痛みを取るという場合には、「痛みの転換」ということが割に効を奏するもので、盲腸炎で右腹が痛い時に、ギューッと左腹を押さえると痛みが止まるのは、この転換効果によるものである。ただ、盲腸炎の痛みより強い痛みを右腹で押さえることは大変なので、併せて心理作用を利用して、その痛みを追放するということもします。

 

繰り返しますが、痛みと言うのは、そこに注意が集まるから痛いと感じるのです。痛みを感じる度合いは、注意の集まる度合いに匹敵する。そして、注意をよそに移すと、その痛みは消えてしまう。

 

このことは、痛みは心が感じるからなのですが、その感じる筈の心を動かせば、その痛みはなくなってしまう。相手が欲する、要求する痛みにその方向を変えてしまえばいい。あるいは、相手の注意を他所に移せばいい。ガンによる痛みでも、出産による痛みでも、そういうことは言える筈である。注意を集めて痛みに大騒ぎしたりすると、かえって痛みが増して、非常な苦痛感となる。だから、痛みがあっても、それに対する心の苦痛感を忘れられるるような方向に心を向けるということも必要になる。

そのように、痛みと言うものは、物理的なあるいは生理的な問題だけではない、心理的な問題と言うのが存在しており、それをうまく解決しないと、モルヒネで痛みを一時的に取り除いても、また痛んで来たり、また痛みはしないかと不安になったりということが解決されないまま残るのです。

 

喘息の発作で苦しんでいる子どもの母親が、「また喘息で発作が起きました」とやってきて、その時に「それは間違っているのではないかな。喘息というのは、発作を起こすことでは無くて、発作をしないような体になる事が大事なんですよ」とお母さんに言うと、それを聞いていた子どもは、それからは発作をあまり気にしなくなり、気にしなくなったら、それまで発作を苦しがっていたのが、発作をあまり苦しがらなくなってきて、そのまま通るようになった。そうしてみると、本当は子どもは知らなければそんなものだったのに、大人が発作のたびに騒いだために、苦痛を増大させられていたのだと言えないことはないはずなのです。

快感であるべき発作まで、苦痛に転換できる、そんな風にも言えそうである。

 

相手の認識、相手の価値観を転換する、このことが「痛み」についての最も基本的な問題であって、これをどう上手にできるようにするかが、技術者としての一番大事な問題と思われます。

 

練習

相手は伏臥。相手の背骨の一か所に注意を集める。再度そこを押すと、前より痛く感じる。注意を抜く。もう一度押すと痛くない。同じ場所を押して、これを実験したいと思います。押し方の強い、弱いでなく、同じ力が痛くもなれば痛くなくも出来るということの練習です。

他に痛む処があっても、背骨の一か所を痛くすると、他の痛みはみな消えてしまう。

しかしそれは幻想であって、実際は痛くもなんともない。誘導によって痛くされたのです。

背骨の、ある骨を痛くするとします。そこに相手の注意を集めればいい。押さえて「痛いですか」と聞いてみる。痛くないと言えば、再度角度を変えて押さえてみる。痛く感じる角度の押さえ方というものがある。相手が痛いということを確認したら、同じ角度と同じ強さで押さえる。すると力の程度が最初と同じでも、今度は痛みを強く感じる。それはそこに注意が集まってきたからである。そうなると、今度は指先でちょっと押さえただけで痛く感じる。触るるふりをしただけでも痛い。

ところが、そういうところでも時間が経ってからだと、押さえても痛くない。注意がそこに集まらないからです。

 

ではやってみましょう。コツは、背骨の中で異常のある骨を選りどっているような顔をしてやるのです。実際にそういう顔をしてやると、相手は背骨を選りどられているつもりになる。そういうつもりになっているところで、ここだと言って押さえると、否が応でもそこに注意が集まる。押さえて痛いかどうか聞いてみる。痛くないと言う。そうしたら、その骨の上と下にある骨も押さえて比較させる。上下の骨を押さえる時と同じ強さで押すのだが、わざとこの時だけ前押したときより速度を速くして押さえる。

すると、相手は押された速度の違いを、痛みとして感じるのです。

これは一瞬だけの錯覚による痛みですが、そうなったら普通の速度に戻して再度押さえると、押さえるたびに 幻想の痛みが強く感じる。次に速度を遅くして押さえると、普通に押さえても痛くない。そうなると、前より強く押しても痛くない。

 

このように、押す時の速度の変化というものを相手の体に感じさせ、それにより相手の注意をその部分に集めたり、抜いたりするということが一つの技術なのです。これが自在に出来るようになれば、「苦痛の快痛への転換」も手の技術によって出来るようになる。言葉であれこれ説得したり、議論したりしなくても転換が出来る。

 

今日の練習では、まず前提として、椎骨の異常のない、何でもない処を見つけて、その骨を今言ったように角度をとって、痛みを作り出す。つぎに、相手が「快感を感じるように押さえる」。これは今までやってきたように、相手の呼吸の速度に乗って押さえて行く。

これは出来ますね。

次に押す速度を変えてみる。呼吸より遅く押さえると、今度はその痛みが「苦痛」に感じてくる。出来ましたね。

われわれが相手を指で押さえて行くときに、その押さえ方を変化させることで、何でもない処からいろんなものを取り出すことが出来るようになることが技術のなるわけで、それが出来ないうちは技術は未完成のままです。

 

では、次に以前やった「肩甲骨はがし」の操法をもう一度練習してみます。

最初にそこを「痛くなく」押さえてください。それが出来たら「快痛」のあるように

押さえて下さい。最後に、もう一度「痛くなく」押さえてみます。どうですか。

一度痛みを感じてしまうと、注意が集まっているから、それが出来ないこと判りますね。相手はそこが痛い場所だと思い込んでしまっているので、触れようとしただけでもう痛く感じてしまうのです。

それを「痛くなく」押さえるためには、二度目に押さえたものが「快痛」だったからで、それが「苦痛」だとさらに痛く感じてしまう。

本来整体操法に「苦痛」は不要です。「快痛」専門で行くべきものです。しかし、相手がマゾヒスチックな要求を持っている人に対しては別です。そういう人に対したときだけは、「苦痛」を使うこともあるということは、前に説明しましたね。

二度目が「快痛」であっても、痛みそのものは残った、という人は三度目もわずかながら痛みを感じています。

なによりも、三度目が勝負で、それ以上は押さえないでください。

そうしたら、押してみた結果を、相手に確認してください。

 

これは、相手の呼吸の速度を利用して痛みを作ったり、抜いたりするという練習です。相手の呼吸より速いか、遅いか、一緒かというそれだけの問題です。

なかなか難しいようですね。

痛みというのは、相手が感じているのですから、実際にはもっと心理的な問題も絡めないとうまくいかないのですが、ここでは徹頭徹尾、指による押さえ方ということに絞って練習します。いまは三度押さえてみて、三度とも違った痛みを感じさせればいい。

だんだん痛く感じさせるというのは簡単ですが、痛いのを痛くなく押さえるというのは難しいのです。

特に、押さえる人は、自分ではゆっくり押さえたつもりでいても、相手の呼吸状態によってはそれがゆっくりに感じられないということもあります。しかし、大事なことは相手がそれをゆっくりと感じなければ意味がないということです。痛い処を痛くなく押さえられる為の練習です。胸部でも、腹部でもそれが出来るように練習する。

 

さらに言うと、これらの押さえ方に、今度は押さえる時の力をさらに加えていったり、痛がってそれに耐えている時の相手の態勢を崩していく方法を加えていくと、相手はその痛みをさらに強く感じるのです。相手は無意識に楽になる態勢をとろうとする。

態勢の取り方をこちらが誘導することで、実際以上に相手に痛みを感じさせる方法もあります。相手の心や体の態勢が、その痛みを耐えるのに適していないことによって、痛みを過大に感じてしまうということが結構あるのです。だからその逆に、痛みに耐えられる、耐えるに適した態勢がとれるように調整すれば、相手は楽になってくるのです。

 

痛みで苦しんでいる場合、その人の心や体の態勢が、それを耐えるのにふさわしいものになっていない場合は、たとえそれがわずかな痛みだったとしても苦しいのです。多くの場合、体が鈍っている人というのは、敏感な人がその痛みから素直に逃げていける態勢を取って痛くないように出来るのに、体が強張っているために力を抜けないだけでなく、逆に力を入れてしまう、だから余分に苦しくなってしまうのです。そしてその苦しいから精神的にショックを受けてしまい、急に強張った動作をしてしまう。

そんなときでも、その動作の角度に逃げさせるようにしてやると、かなり激しい痛みでも和らげ無くすことは出来るのです。

 

相手の態勢、相手の呼吸を変えるということを覚えると、突然激しく痛み出した人に対して、何故痛んでいるのか、どんな態勢になっているのか、どんな呼吸になっているのかを観察し、判断できるようになり、痛まないような態勢や呼吸の変え方を見つけられるようになってきます。

痛み出すのは、痛みだす態勢の始まりというものがある。痛みで顔をしかめているからといって、顔の筋肉を冷やしてやるというようなことを考える人がいるがそういうことではない。しかしそれに類したことを平然とやっている。

食道に食べ物が閊えたという場合に、胸椎四番を叩けば通るというように決まっているが、やみくもに叩けばいいわけではない。体癖によてっては駄目な場合もある。しかし、なによりもまず息を吐かせてから叩く。相手が息を止めてしまっているのに叩いたりすれば余計に閊えてしまう。ショックは息を吐かさなければ効かないのです。相手のためている息をふーっと吐かせて叩けば通る。

このように、息を吐かせるということ、態勢を痛くなくなる方向に持っていくことが出来ていないと、痛みを止めるということが難しくなる。

そういうことも考えながら、痛みというものを多角的に興味をもって研究してください。今日はこれで終わります。