野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶⅡ(55)痛みを快痛に転換する

前回、前々回で「痛み」について野口氏がわれわれに問いかけていることを私なりの言葉で整理し直しててみると、次のように言い換えることが出来ると思う。

つまり、「痛み」そのものに対して、われわれは大きく分けると「苦痛」と「快痛」との二つの異なった意味付けをすることができる。(これは野口氏がいつも話される「疲労」と「疲労感」とは異なっている、という文脈と同じである)

そして、その意味付けの方向を決めるのは、ひとつは個人個人の感受性の違いによっており、「痛み」を「苦痛」と認識する傾向が強い人もいれば、逆に「痛み」を「快痛」と認識する傾向が強い人もいる。

また、個人において、ある時はそれを「苦痛」と感じたり、また別の場面では「快痛」と感じたりもする。

つまり、「痛み」そのものは同じであっても、それを「苦痛」に感じるか、「快痛」に感じるかは、場面によっても、個々人の感受性によっても異なりうるものである。

なぜなら、「苦痛」というのも「快痛」というのも、身体が感受したも「痛み」に対しての意味付け、認識という心的なものだからである。

「痛み」そのものは生理的なものであるが、人間の場合はその生理的な「痛み」をいつも心的な領域で多様に解釈してしまう存在だからである。

そして、このことが、結果として体がもつ潜在体力を十全に働かすことが出来たり出来なかったりを左右することになる。

当然、整体操法をして相手の快復力を十全に発揮させるためには、「痛み」そのものを「苦痛」に感じることも、「快痛」に感じることも技術として利用することが出来る。

従って、「痛み」を訴える人を前にした時に、われわれは相手がその「痛み」をどのように認識しているか、いまその生理的「痛み」を「苦痛」として感じているのか、「快痛」として認識しているのかをまず把握する。そしてそれが「苦痛」として認識されているならば、まずその方向を「快痛」に転換してから操法を始めよう、ということだろう。

私の理解だと、こういう表現になってしまう。

いやはや、これは最悪の言い換えであると言ったほうがよいだろう。こんな表現では野口氏がせっかくシンプルな表現に練り上げてきた「痛み」についての口述内容が、どこかに吹っ飛んでいってしまいそうなほど堅苦しく解りにくいものだからだ。

深く反省しつつ、今日の講義記録を始めます。

 

I先生。「今日も、引き続き痛みについて、もう少し説明したいと思います。」

 

鬱滞して体が重く感じたり、頭が重いといった時に、鬱滞をとる為に痛みを与えるという方法がある。肩甲骨をはがす操法を行なった時に相手が感じる痛みは、体の鬱滞をとる。首から上の異常感や異常現象は、これをやるとなくなってくる。

 

一応、練習しておきます。

脇の下の肩甲骨の縁をつまむ。肩を逃がさないようにつまむ。この中に、硬結があり、押さえていると段々痛くなってくる。痛くなってきたら、肩甲骨の間に親指を入れて、肩甲骨を外側にはがすように寄せる。寄せて逆の肩を持って角度を合わせる。逃げようとするのを逃がさないようにすると、鬱滞がとれてくる。

簡単にする場合は、肩甲骨の上を押さえてもいい。

逃がさないようにやるには、大げさにやる。大変力を入れているような恰好でやると、痛い実感が増える。逃がさないようにして、指を当てている側より、他の手に力を入れると、痛みがひどくなる。

 

三種や九種や捻れの人が、ここが緊張している場合に、頭に行った血が下がらなくなり鬱滞が強くなる。

上下の頸の硬いという人には、この操法は駄目で、上下は同じ事でもアキレス腱を押さえると同じように変わる。アキレス腱は伏臥でゆっくり上から下に順に押さえて行く。急に押さえない。下に行くほど痛くなる。そこで一番いやな痛みのするところで、ゆっくり保つ。これで我慢させて、それから放す。

肩甲骨も、アキレス腱もともに緊張がとれればいい。押さえていて痛いが、その痛みによって鬱滞がとれるので、痛みの中に快感がある。これが、鬱滞を取るための痛みの与え方で、痛く押さえるほど快感がある。逆に、痛くなく押さえられると、相手はイライラする。

ではまず、この練習をしてみて下さい。

この操法で、痛みのない人は鬱滞していない人です。

力で強く押して痛みを感じさせるのは駄目で、少し痛いような感じで強く感じさせるのがコツです。そうすれば、どんなに痛くても快感がある。

それが鬱滞をとる痛みの与え方の原則です。

呼吸が合わない為に痛いということもあるが、その場合は快感がない。

上手になると、押す時の勢いを示すだけで、相手は痛がるようになる。技術によって痛みを与えることが出来るようになってくると、痛みがちょっと取れたというだけで、体全体の異常を回復させる方向に誘導することも出来るようになる。

 

痛みを与える為の技術だけでなく、痛みを止める為の技術も同時に身につける必要がある。そこで、今度は「痛みを止める方法」をやってみましょう。

 

痛みには、「苦痛に感じる痛み」と、「快痛に感じる痛み」とがある。心の中に、それを分ける分子がある。そこでそういう心を使って、痛みというものを一応快痛に転換しあるが、なお残った苦痛だけを処理する。

全部の痛みを取ってしまうわけではない。快痛の分子は残す。苦痛の分子だけ治す。あるいは苦痛の分子を、心の入れ替えで快痛の分子に変えてしまう。

痛みを止めるなどということは、本来野暮なことではあるが、これまで見てきたように、痛みが止まったということで回復に向かって新しいエネルギーが噴き出すように、そういう意味で痛みを止めるのである。だから機械的に痛みを止めるというのでは意味がない。痛みが止まることが、そのまま回復につながっていくようでなければ意味がない。

ここで言う、「苦痛を快痛に転換する」ということは、「心の転換」ということです。

 

痛みを止めても、なお痛い部分は残っていて、今は感じない痛みでも、素地としてそれはそのまま残っているのです。「痛み」に対する「苦痛」を、「快痛」に変えておかないと、残った痛みで不安が増してくるのです。快痛に転換しておけば、痛みが残っていても気にしないでもよくなるのです。

 

痛みは、まずそれに対する苦痛を快痛に置き換えることから始める。その次に痛みを止める場所の問題がある。それから押さえる速度の問題がある。

 

転換の一例をあげると、胃が痛くてなかなか止まらない人がいる。その人に、尾骨を焼き塩で温めるように指示し、温めたら痛みはすぐに止まってしまった。本人はどうして痛みが止まってしまったか不思議でしかたがない。胃や臍を温めたなら連想もつくが、尾骨では連想がつかない。だから何故だろうと不安になる。その逆に興味を持つ。あるいは疑問を持つ。そんなことで効くのだろうか。希望であれ、不安であれ、それまで胃の痛みと取っ組み合っていた心が、よそに行ってしまう。それで痛みがなくなってしまう。

 

整体操法の技術は、多分にこういった心理的なことが含まれている。だから難しいとも言えるのだが、相手が痛いと言っていても、吐く息に沿って押さえれば痛くなく押さえることが出来る。

相手が痛がっている時に、その痛みを止める操法は、押した後の放し方にそのコツがある。景気よくパッと放すと、またすぐに痛くなる。胃の痛みでも、背中の痛みでも、だいたいどこでも、ギュッと押さえて行って、押さえたままで、相手が息を吐くごとに放れていく。相手がいつ放されたか意識しないように行う。ギュッと押さえられたままで相手は自然に放れてしまったと感じるように力を使っていく。

その際、あらかじめ苦痛を快痛に振り替えておけば、残った痛みで不安が増幅してくるということを防ぐことが出来ます。

 

どうですか、痛くない人を練習に使うために、難しかったと思いますが、この練習では、押し方よりも、放し方に注意を払うことが必要です。ギュッと押さえたままで、相手が自分から自然に放れてしまったというように、もう一度やってみてから、今日の講義を終わります。