野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶⅡ(53)痛みの質の差異とその利用

整体操法の世界がもつ魅力やその難解さは、それぞれに異なる個々人の「感受性」を対象に働きかけるという、これまで、ありそうでいて存在してこなかった方法によっている。

「心それ自体」を対象に言葉を持って働きかけるというのでもなく、「体それ自体」を対象に物理的な働きかけを外側から行うというのでもなく、ハッキリと「感受性」という、心と体が互いに強く結び合い、融合しあっている「心身領域」を対象にする、という明確な視点に立っていることにその独自性、独創性があると言える。

そしてそのことが、野口氏の整体操法の技術の基本原理になっている。この魅力的かつ実験的な視座から、心と体を結び付ける働きを「気」と想定して、その「気」を媒介に具体的操法が展開される。

だからその実験的試みから抽出された様々な整体的知見は、これまでの近代医学や代替医療の知見のどれとも異なった新たな「ことば」を紡ぎ出すことになった。

けれどもそれらの「ことば」は、一般の常識とされる知見からは、しばしば逸脱した認識となっている。だから、その認識が一般化されるためには、かなり多くの曲折や年月を要することになるのはやむを得ないことであるに違いない。

さて、今日も、その新たな知見にわくわくさせられること必定の講習会記録を続けます。何よりも、精神療法家としての野口氏の面目躍如たる姿に圧倒されるに違いありません。それと同時に、私たちのからだ(心とからだ)というものは、ジーっと見つめていると、あるいはジーっと触れていると、少しずつすこしずつ自らを開きはじめ、みずからの固有のことばで語り始めるという、驚くべき世界にいざなってくれるとことに感動し、愉しみを与えてくれるものであることを実感できるような気がします。

 

I先生「前回はムチウチ症の被害者心理や、痛みの持つ質の違いなどについて見てきました。今日は、その痛みの質の使い分けや操法の仕方について、潜在意識教育という視点から説明していきたいと思います。」

 

前回も説明したように、痛みにもいろいろあって、苦痛の痛みもあれば快感の痛みもある。しかし、苦痛の痛みでも、痛みを感じる心の置き所を変えると快感に変わる。

痛みそのものは、エネルギーを鬱散させるから、エネルギーの過剰な人ほどそれを強く感じる。このエネルギー過剰の人ほど痛みを強く感じる、という性質を利用して、心の本能の中に在る、「痛みを要求する心」、「苦痛を求める心」を解消させる方向に変えていくわけである。

「未練症状の処理」などと言う非常に難しく思われるが、痛みを少し使い分けると簡単になくなってしまう。

十の痛みが苦痛で、八の痛みが快痛で六の痛みが楽な痛みかというとそうではなくて、三か四でも苦痛に感じる。十二の痛みでも苦痛が少ない、ということが少なくない。大きい痛みはすぐ忘れて、小さい痛みはいつまでも覚えているということも少なくない。

 

その違いは、「痛みの質の違い」によっている。そしてその痛みの質の違いは、痛んでいる人の体や心の条件によって生じてくる。だから、痛みを操法で利用できれば、痛んでいる人の心や体の条件を変えることが出来るのである。

 

これまでいろいろな場所の「痛みの作り方」について説明してきました。ある場所の痛みを使うと、その次の場所の痛みはなくなっていく。あるいは、気持ちの中で硬直していたものが、フッと弛んでくる。

一番簡単なのは、操法を受けている人が、何か痛みを感じた時に、フッと気が弛んで良くなる。あるいは、体が弛んでくるという場合です。

普通は、痛みを感じると体は強張ってきて、なかなか筋肉が弛まないのですが、体に異常があるという前提のある人は、押さえられて一応痛みを感じると、フッと弛む、そういうことがある。

経験を重ねると判りますが、むしろギューッと押さえていってから弛む処は、その人の操法の関係部位である。痛くて強張ってくるのはそれとは無縁の部位である。

つまり苦痛があって弛むということは、苦痛に対応する何等かの心の動きによるので、その心にピタッと合うと弛んでくる。だから、その異常に関連する苦痛であれば、操法しながらそれを押さえると、一緒に弛んでくる。その弛んでくるところをつかまえて、その人の体や心の観察をもう一回やりなおすという手順を踏みます。

痛みが三だから苦痛でないといは言わないが、十だからといって苦痛だとも言えないのです。十の痛みでも弛むこともあるのです。

 

同じ物理的な刺戟による痛みやその苦痛が、いろんな心理的条件と結びつくと、異なった結果をもたらしてくる。

だから、潜在している心の何かに触れるような痛みがあると、筋肉を強張らせるはずの痛みが、逆に弛めるものにもなる。

そこで、筋肉を強張らせるような痛みをあえて作り与えて、弛むような場所を見つけていくことで、その人の心の状態を観察できるということにもなるわけです。

 

ヘッド氏による知覚過敏帯の学説がありますが、いまわれわれがここでやっているのは、その知覚過敏の問題ではなくて、同じ痛みを感じることの背後に存在する、個々人のエネルギーの過剰状態とか停滞状況というものを問題にしているのです。

過剰なエネルギーが鬱散されるような状態では、わずかな痛みさえも過剰に強く感じてしまう機序が働く。そういう感受性の生じる場処を探求するというのが我々の方法です。だからヘッド氏の知覚過敏体による場所とは異なる問題なのです。

 

強い痛みを快感に感じるということや、わずかな痛みでも強い苦痛を伴って感受するということの問題は、すべて個々人の心や体の状態、感受性の状態によって異なってくる。そういう個々人によって異なる感受性の構造の違いを、われわれは研究しようというのです。

たとえば、お産が強い痛みを伴うとしても、それを苦痛としては感受しない、という方法を考えていく、あるいは操法で押さえて痛いということがあっても、その人が苦痛としてではなく、快痛として感じられるような押さえ方が出来る筈であると考える。

 

胃が痛む人のお腹に触れる場合、ソーっと触るとますます痛く感じる。胃が痛むのはそこの筋肉が縮むから痛いのであって、縮むそれ以上の力で押さえて縮ませると、逆に痛みがなくなってしまう。

こうした、力の与え方の違いで、相手の心や体の感受性に働きかけて、痛みそのものの質を変化させることは可能なのです。

 

整体操法では、こうした痛みの機序を追求して、どこの場所の痛みでも、それを快感に感じさせるように転換していくことを行っていく。こちらの与える痛みは、いつも相手の本能の中にある「痛みを求める心」、「痛みを要求する心」にピッタリ合致させるように押さえるということを追求している。

整体操法では、そういった痛みの質の区分と、それぞれの痛みの使い分けをおこなっている。痛みの質を使い分けて、操法として相手の心を誘導していく。

 

とりわけ、相手が今ある痛み、いまある病気のままでいたい、といったある意味での倒錯、マゾヒズム的な気持ちを持っている場合、その痛みや病気に対する未練症状を打ち消すためには、いま述べたような、「別の角度から痛みを与える」という方法を用いるのが、一番早くて有効なのです。

この方法は、一般の病気での痛みを耐えさせるとか、痛みについての苦痛を苦痛でなくするようにする為にも有効なのです。

 

胃が痛い人の背中を押さえたら痛みがなくなった。背中を押さえる時に、痛くないようにとソーっと押さえても痛みはなくならないのに、背中をもっと痛くなるように押さえたら胃の痛みがなくなってしまった。

それを見た人は、意外にも治った、と言うが、意外だから治ったのです。人間の中には、そうした要素があるのです。

 

(気を制する)

相手に針を刺すような時でも、相手の注意がそこに注意が集まっている時と、そうでない時では痛みが違う。

痛みを作るという時、相手の注意さえ集めることが出来れば、どこにでも作れる。逆に、痛みさえ作れば、否が応でも注意がそこに集まってくる。

 

操法で、力をできるだけ使わないようにしようとすればするほど、痛いという感じを上手に使いこなさなくてはいけない。

そういうわけで、「痛むような押さえ方」をもっと知る必要がある。それができれば、痛い処を痛くないように押さえることも出来るようになる。

 

何処か痛がっている人がいるとする。急所を押さえると、痛みがやわらいでくる。しかしまだ少し痛みは残っている。その残った痛みが、だんだん強く感じられてきて、余計に痛くなってくるということがある。

痛みを測定する計器でもあれば、実際の痛みは急所をおさえる前よりもこれだけ少なくなったと言えるのだが、その少なくなった残りのわずかな痛みを、押さえる前と変わらないかそれ以上に痛く感じてしまう、ということが生じることがあるのです。

 

上手な人が押さえれば、十の痛みが九にまで減れば、ちょっと楽になったというだけで、痛みが無くなってしまったように感じさせることができるのに、下手な人が押さえると、逆に痛みが増したように感じてくる。しかも相手は、そのことで痛むこと自体が恐くなり、それを警戒するようになってしまう。

 

こういうことは、血圧を下げた場合でも同様に生じる。熱が下がったという場合でも同様で、また血圧や熱が上がるのではないだろうかと、不安になり恐怖心を抱くということが生じる。

それは、相手の「気を制する」ということをしない為で、気を制することさえ出来れば、百の痛みのうちの一か二が無くなれば、気が楽になり、あとの痛みに平気になるというように誘導できるのです。

痛みの質を使い分けて操法を着実に行う為には、この「気を制する」ということが非常に重要な課題となります。

 

このことは、気の問題を理解しないと難しいのですが、「気を制する」という問題は、こちらで一人気張っ行うことではなくて、相手と一つになって初めて可能となるのです。

「気を制する」というのは、相手の気と自分の気とが一つになった状態を前提にしているのです。ちょうど活元運動の相互運動や、活元操法の時のように、やる側と受ける側との気が一つになって、共に同じように運動が起こることと同じです。それを相手に気づかれないように、そういう運動が起こるように誘導していくことを「気を制する」というのです。

相手と息が一つになり、相互に持ちつ持たれつの関係が生じる。そうした感じが起きてはじめて、「気を制する」ということが可能になるわけです。

この前提条件を誘導できれば、痛くない処に痛みを作ることも、痛い処を痛くなく押さえることも出来るようになる。

 

これまでの練習では、相手の呼吸に乗じて、相手が息を吐いている時に呼吸に沿って押さえれば痛くない。これを相手を弛めるという目的でをやってきました。

 

しかし、この「気を制する」ことをやっておけば、今言ったこととは反対に、相手が息を吐いている時に痛みを感じさせることも出来るのです。

押さえる最初の速度を、相手の呼吸より速く押さえていって、相手を身構えさせれれば、相手はその「速度を痛みとして感じる」のです。だから、吐いている時にも痛みを感じるように押さえられる。

一旦そういうように押さえて、その次にもう一度押さえる時には、どんな簡単な押さえ方をしても、呼吸に関係なく痛く感じさせることが出来るのです。

 

今度はその逆に、痛いはずの処を痛くなく押すというのは、どのようにすればよいか。それを練習してみましょう。

 

練習

たとえば下肢上腿部の第三の処は、押さえると誰でも痛いところです。初めにそこをちょっと速く押すだけで、もう痛く感じる。

逆に、初めにそこをゆっくり押さえてから、次にギュッと押しても今度は痛くない。

この違いは、押さえ初めの「速さ」の違いによるもので、痛いはずのところも、痛くなく押さえることが出来る、。これを、一度確かめてみて下さい。

 

出来ましたか。

この痛みの違いは、同じ力で押したにもかかわらず、初めの押す速さが速いか、遅いかによって生じたもので、心理的な要因によるところが多いのです。

つまり、いきなり速い速度で痛いはずの処を押されると、相手は不意に押されてハッとした状態になり、そこに思わず注意を集めてしまう。そのために押されたことを痛みとして感じたのです。

相手が、そこを押されることをあらかじめ判っている場合は、押されてもそれを痛みとは感じない。

このことから、痛みの性質と言うものは、押し方や押した力によるよりも、その刺激を感じとる相手の「感受性」、要するにより多く心理的な状態によることが多いということを示しています。だから相手にもっと痛みを欲するような要求を起こさせれば痛くない。相当痛くても痛くない。肩の凝っている人などは、相当力を入れても、もっともっと、と言う。もっと押してもらいたい要求があるからなのです。

熱が三九度を超すといいのだ、と言われると、そこまでの熱は平気になってしまうのです。ないのと同じになってしまう。熱が出て、食欲がなくなってがっくり来ている人がある。「どれくらい出た?」「八度五分」「おしいな、もう一度出すと麻痺が取れるのに」実際そうなのですが、「ことのついでだ、九度五分まで出しなさい」と言われると、途端に彼は八度五分では物足りなくなってくる。八度五分の熱で食欲がなくななるなんてことは、なくなってくる。

熱は八度三分を越えると食欲がなくなるように、酵素が働き出して邪魔するようになっているから、八度三分以下で食欲がなくなればインチキであるが、八度五分で食欲がなくなるのは不思議ではない。しかし自然にほおっておいて食欲がなくなる熱でも、一つ手を加えることによって九度になっても、なお食欲があるということも出来る。九度五分の熱も苦痛にならなくするには、相手がその熱を必要だとする、その熱を要求する態度を作ればいいわけです。

生理的に痛いものは痛いのですが、その痛みを相手がどのように意味づけるかによって、その痛みに対する対し方も変わってくるのです。ですから、痛いとか苦しいとかいうことも、それを苦痛にしてしまうか、耐えられるもの苦しくないものに変えることはできるのです。心の角度と言いますか、認識の仕方と言いますか、そういうものの方向を操法を通して変えるわけです。疲労疲労感の違いについてはすでにやりましたが、痛みと痛みについての意識とは別のものなのです。

咳が苦しいから何とかしてほしい、と訴えるのは、自分にとって不必要なもの、邪魔なものという認識があるからで、咳は生理的な回復作用の一環で、必要なものだという認識があれば、今度はもっと咳が出ればいいのに、そうなればより早く回復できるのに、という認識ができれば、不安にならずに咳に対処できるようになるわけです。

このことは、病気全般に対していえるわけで、われわれはその病気の状態を観察しながら、その自然の経過を邪魔しないような心の状態に、相手を導くということを行っていくわけです。

 

だから、手指で操法する、ということだけでは解決できない。病気やその症状に対する相手の心の角度、視点の在り方、認識の仕方を確かめ、あるべき角度に誘導するのです。病気を治さなくては、と不安になり焦っている人に、それは月経と同じものなんですよ、といえばそれだけでいいのです。

 

吐いて苦しいという人に、「吐くことは止められないが、吐くことの苦しいのは止められますよ」と言って、相手が「はい、お願いします。」と言ったら、こちらは「よろしい」と返事をするだけでいい。あとは何もしなくても、相手はその時から、それっきり苦しくなくなってしまう。

 

(「迎苦の精神」の確立をどう誘導するか)

相手の心の角度を変えることによって、病気を恐くなくし、熱を恐くなくし、痛みに平気になれるように整体指導というものはなされるのです。

親からお使いに行くことを頼まれて、寒くて面倒くさく思っているのに、外でスキーに行って遊ぶ時は、どんなにさ組む経って寒くたって平気なように、寒さは同じであっても、それに対する心理的状態、心の位置のありようで、それぐらい違ってしまう。

 

「迎苦の精神」といいますか、そういう心の角度が生まれれば、苦痛はなくなる。熱から逃げようとするから苦しくなる。自分からそれを迎えるようになればいい。この「迎苦の精神」というのは、いくら相手の意識に対して説得しても駄目である。相手の潜在意識のなかに入り込ませないと、相手のものにならない。相変わらず逃げるだけである。

潜在意識の中に、熱は必要なものだ、痛みは筋肉の収縮なのだ、収縮は体の必要な働きだ、もうちょっと筋肉に働いてもらわねば、もう一つ痛みが来れば、からだはきちんと回復してくる、もうちょっと熱が出れば、と迎い入れようとする気持ちが無意識の中で動き出すと、苦しみが無くなってくるのです。

 

だから相手を押さえて痛がっていても、「痛がるのは君だけだよ」と言って押さえると痛くないのです。このように言うと、相手の中に「迎苦の精神」が起こってくる。その為に痛くなくなる。言葉は反対なのに、同じように痛くない。

この精神を確立する。つまり、病気は回復作用である。風邪は健康法である。それを心の奥で納得しようとする方向に意識が向いてくれば、今ある病気はもう病気ではなくなるのです。そして、病気というものの苦しみはなくなる。

 

この「迎苦の精神」を潜在意識のなかに確立する、という方法はいろいろあるのですが、痛い、痛くないということを主題にする方法が、最も有効と言えます。

 

痛がるのは君だけだよ」というのとは逆に、「痛がらないのは君だけだよ」と言えば、相手はその痛みを我慢する。「痛がるのは君だけだよ」と言うから、ますます痛みを感じるのです。

その時に、相手に押さえながら「痛みを避けようとする気持ち」をすこし起こしてやると、相手の無意識に「迎苦の精神」が芽生えてきていたところに、不安を生じてくる。

つまり確立しかかったところに、一点の不安を敢えて叩き込むことによって、芽生えかけの「迎苦の精神」を一旦揺さぶりをかけることで、それをさらに強固なものにしていくのです。

 

頸椎ヘルニアや腰椎ヘルニアの痛みを具体的に止めるために、椎骨を真っ直ぐに治る人は多いのだが、真っ直ぐにして椎間孔を拡げても、それが潰れてしまった為に神経そのものが損傷しているために生じる障害はなかなかすぐには回復しない。

だから骨は真っ直ぐに治したのだが、痛みはひどくなってしまった、ということもしばしば起こる。その為に、物理的に頸を引っ張りったり、手術したりするということをやる人もいるが、我々からすればそれはおかしな方法と言わねばならない。

実際には、まず痛んでいるその頸や腰の痛みを止める。すると相手は痛みが止まったということの感動というか、それによって出てくる勢いで、骨や神経の異常を自ら治してしまうのです。

われわれは、骨を治して痛みを取るとか、神経の傷を治して故障を治すということは考えていない。まず相手が自覚している痛みをとる、その取った勢いで故障を片付けてしまうのです。痛んでいるところには、みな心がそこに集まってしまっているから、それを脇にどけてしまう。

 

練習

頸椎のヘルニアで、手が挙がらない、手が痺れる、首が曲がらないと言った時の有効な

方法をやってみましょう。

相手は仰臥で、頸の狂っているところをガクッとやって、その音を聞かせます。そして、脇の下、背中側をつまみます。つまむときに、必ず頸は押さえています。

つぎに横臥になってもらい、側腹を押します。腸骨と肋骨の間をつまみます。

脇の下や側腹は、頸や腰と直接関係はないのですが、そういう縁のない場所を押さえます。相手が痛がっている頸の痛みを、いったん脇の下をつまんで気をそちらに移す。

そのことで、相手に「治る」心を作り上げる。

側腹はつまんでも痛くはない。それをここでは痛くなるようにつまむ。その痛みが相手の予想を越えて痛いようにつまむ。痛くないようでは駄目である。痛くするといっても、力によってではない。軽く触って痛いように押さえる。

そうすると、骨が治っていなくても、頸の痛みがとれてくる。そしてその勢いで、骨の異常も治ってくる。

そのあとで、条件をつける。「今日だけは風呂に入らないように」とか「今日だけはお酒を飲まないように」と。もちろんこれは心理療法的にそういうのです。

 

脇の下を押さえる時は、最初に触れる時の速度が重要です。速度が速いと痛く感じる。何度も押さえて行って、そのたびに痛みが弱まってしまうというのは下手な押さえ方。

くり返し押さえて行って、そのたびに痛みが増すように押さえることが必要です。するとどんどんそこに注意が集まってきます。

脇の下や、側腹でその練習を何度かやってみて下さい。

これはいろいろな原因の頸の痛みや腰の痛みに対しても有効です。

 

われわれは、物理的に、生理解剖学の教科書通りに押さえて行くということに重点を置いてはいない。あえていえば、相手の心を押さえる、相手の心に角度をつける、相手の無意識の要求の方向を決める、そういったことに重点を置いている。

 

こちらの技術で治したものは、すぐまた元に戻ってしまう。相手が、みずからの力で治っていったときに本当の治癒というものがある。こういう症状にはここを押さえる、といった説明なら極めて簡単だが、人間のからだというのは、そういうことではどうにもならない領域というものがほとんどで、今回やった痛みの使い分けというのも、個々人の感受性に応じて、技術を使い分けるということが必要だからこのような複雑なことも学んでいかなければならないのである。

 

今の段階では、よく理解出来なくても仕方がないが、今後実際に多くの人に当たると、今日やったことの意味が実感として判ってくるとおもいます。いまは丸暗記で構わない。将来必ず役に立つときが来ます。

では今日の講義はこれで終わります。