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未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶⅡ(57)感受性の閾値と潜在的疼痛

I先生。「初等では痛みを止める操法を練習しました、中等では痛みが操法として利用できることを前提に、あえて痛みを作り出すという練習をしています。今日は、そのことを通じて、痛みの問題をもう少し展開していきたいと思います。」

 

操法が痛くないと、ちっとも効かない人がある。それは人間の体には許容量というものがあって、ある程度刺戟されないと刺戟反応が起こってこない。ある程度、表からの力が加わらないと、中の平衡要求が動き出さないという面がある。そういうことが潜伏している病気が、あるところまで拡がってこないと発病しない。敏感な人ならとうに感じているのに体が鈍い為になかなか感じないということがある。

十年に一度くらい患うとか、ぽっくり倒れてしまう間際まで何ともないというのは、感受性の閾値が低いのです。

刺戟に対する許容量というものがぞれの体にはあって、ある感受度に達しないと反応が起こってこない。

肩が凝っている人にそーっと肩を触っても一向に快感はない。ところが相手の感受性閾値に合った力を加えれば、相手は力が加わった事を感じる。

だから押す側の自分の感受性だけで操法していると、相手は「そこをもう少し」と感じるところまで行かないで他所に移ってしまい、ピタッと来ない印象を受ける。

もどかしくて仕方がない。

痛みを感じるということは、その人の生理的な速度の問題と、心の集注度合いの問題とがあって、その痛みの感じ方も異なってくる。

 

自分の痛みを押さえる場合、その収縮の力よりももっと強い力で押さえると痛くない。痛みは筋の収縮によるのだが、その縮まる力を越すように押さえれば痛くない。ところが他人の痛みに対した場合、そーっと触っても痛がるのだから強く押したらもっと痛がるのではないかとつい思ってしまって、そーっとやってしまう。そのために却って痛みを強く感じさせてしまう。縮まる力を越すように押さえれば痛くならない。

 

そういうことを、前回までの講習でやってきました。

今日は、相手の体のどういう処に痛みが起こるのだろうか、という問題です。

相手の注意を集め、ある角度で押さえさえすればどこでも痛いのかといえば、そうではないのです。相手の体癖によってそれは異なるのです。緊張の抜けない処が痛みを感じる処なのですが、体癖によってその場所が違う。

 

痛いと感じるところには、無意識にそこに力を集めている。逆に言うと、相手の痛みの所在、無意識に力を入れている場所を観察すれば、その人の体癖や異常を類推することだってできるわけです。

体癖とは無意識の偏り運動習性である。人間の運動には、前後、左右、直線に動く、円を描く、捻る、上下する、伸縮する、緊張弛緩する、運動の早く行われる、遅く行われる、鈍い、敏感などあるが、こういう運動状況が体のどこかに余分に偏って行われるのが体癖です。その偏ることが緊張したときにに強く行われるか弛緩時に強く行われるかという二種類ある。つまり陰性と陽性。それが十二種類の体癖の元になっている。

 

人間の運動をみると、どこかに偏りがある。たとえば九種というのは収縮の全体的なものですから、ある一部分の苦痛も体全体が縮む感じになって出てくる。前屈傾向の人は、足が痛くても前屈する。体をかがめる。左右傾向の人は、何か考えるとき片側で考える。回転の人は、回転とは半回転なのですが、これは捻じるとか廻るということですが、細かく言えば、上下における左右の緊張が斜めにきている状態が捻るになるわけですが、そういう人は捻じらないと考えられないし、休まらない。

体の状態、体癖習性によって、力の偏る場所がいろいろ違って、偏って抜けないような場所が痛みを感じやすい処なのです。

だから胆石が起こったから輸胆管や胆嚢が痛むかというと、最初に感じるのは右の肩なんです。

縮む処は、それぞれみなこわれている場所とは限らない。特に体癖的に偏る場所というのは、痛みを感じ得る素質といってもいい。痛みをそこには余分に感じる場所である。

そういうのを知覚過敏帯と言って、針をそーっと体にながして調べたのがヘッド氏の過敏帯ですが、そういう過敏帯の感じる処と病気とはかなり離れているし、何故そこに感じるのか直接神経との関係もあまり明瞭ではない。

たとえば、肝臓が悪くなると肩が痛くなる。呼吸器が悪い時に頬が赤くなる。そういうような場合、生理的な連絡があるのかというと、それが今の医学では判らない。自律神経の影響だと考えるが、直接どの神経がどうなっているのかということになると、ほとんど判らない。判らないというよりは、判っているところには出ないといったらいい。

リュウマチは体内の酸が強くなって副腎が怠ける状態であるが、それが手に出るか足に出るかということになると、全く判っていない。強いて言えば、普段の体の使い方のなかで、偏った処にリュウマチが起こる素地が強くなっているのではないだろうかと思われる。

神経痛でも何でもどこかが痛む。ストレスはみな副腎に変化を起こすがそこから先はどこに出るか判らない。ストレスが心悸亢進をひきおこすとか、胃痙攣もストレスからだとか、ストレスという範囲があまりに広すぎる。

 

いろいろの痛みは、偏り疲労状態の、力を抜こうとして抜けない場所にまず現れる。一番多いのは関節。その関節と直接関係のある筋肉である。

その体癖的に一番使われるような方向で、前屈の人なら伸び縮の偏っているところ、つまり肩の周辺が、左右なら腰椎の二番の状態、骨盤周辺。上下なら頸、開閉なら腰から足にかけてというように、痛む場所は体癖的な疲労の偏っている場所と一致することが多い。多いというより、一致するものとして押さえてみると、どこも痛く感じあまり間違えるということがない。

ただ、体癖的な観察をしたとしても、同じ前屈傾向があったとしても、胸が痛む人もいれば、肩の痛む人もいる、あるいは足が痛む人もいるので、普段の体の使い方を見て知っておくことは必要です。

その痛むような場所は、偏り疲労のある処だからこわれやすいし、筋肉の伸び縮みも狭くなっている、体で言えば硬直した状態になっている。そういうところは、押さえると必ず痛みを感じる。

その痛みを押さえて、「快痛」があれば、押さえるたびに弛んでくる。「苦痛」であるとそのたびに硬直が強くなってくる。

 

だから痛みを作る操法では、痛みを作っていながらそれが弛んでくるように押さえないといけない。力づくだと、相手を器質的にこわしてしまうこともある。そこで弱い力を強い力であるかの如くに感じさせる方法をとって、感受性閾値にそれを併せていく。これが痛みを操法として使う要点です。

 

練習

この人はどこが痛むのだろうか。どこに潜在的な疼痛があるだろうか。その潜在的疼痛をどういう速度で押さえたら、その疼痛を呼び起こせるだろう。そういったことをまず観察により考えて、そのあとで判ったところを押さえてみる。ではやってみて下さい。

潜在疼痛というのは「圧痛」のことです。「圧痛」というのは普段は痛くないが、押さえられると痛い。押さえるのは、「圧痛」の呼び起こし、ほじくり出すことです。

上手にほじくれば、「快痛」と感じる、下手にやれば「苦痛」に感じます。

 

上手にできましたか。

一応これで一連の「痛み」の問題はこれで終わります。何度も練習して、自分のものにしていって下さい。今日はこれで終わります。