野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶⅢ(74)腰部活点の操法

I先生「整体操法講座の第九回目です。前回と同様、操法の基本を練習を通して身につけることを目標に行います。復習とはいえ、指先に集注して真剣にやってみてください。練習とはいえ、相手の身体に触れるということが、結果として相手の身体の自然を乱すようなことになっては全く意味がないのですから、慎重にやって下さい。」

 

腰部活点が硬かったので、一生懸命そこを押さえました、と言っている人がいましたが、そこが硬くなるにはなるだけのいろいろな理由があります。ただ硬かったから押さえたというだけでは、観察が行き届いているとは言えない。

眼が疲れてもそこが硬くなる。頭が緊張してもそこが硬くなる。消化器の系統などに異常があっても腰部活点は硬くなる。

もう少し細かく言うと、腰部活点の硬直には、姿勢の問題だと二側が、頭の系統だと一側が、臓器の問題だと三側が関係してくる。同じ硬直でもそれぞれ元にあるものが違っている。だから前回練習した椎側を確かめるということが必要になる。

二側に関連するという場合は、足の左右に余分な緊張が残っている。足先は緊張していると真っ直ぐになり、弛んでいると曲がっている。緊張が強いと外に足先が出る。左右にアンバランスがある時は、一応二側の異常ではないかと考えて、二側を見るなり、足の位置を変えたりして、弛むかどうかを調べてみる。それで足に異常があれば、まず足を治す。特に右の足首というのは腰部活点と関係が深い。腰部活点が弛緩し、萎縮している時には左の足首と関係が深い。

足の位置を変えたり、治しても、弛まないということが分かってから腰部活点を押さえる。厳密に言えば、頭部第二調律点も一応確かめて、片側が弛緩している時は一側の関係だから、一側を確かめてからやるようにする。

足の異常である場合は、股関節や足首の異常が多い。股関節はその角度に広げていくと、腰部活点は自然に弛んでくる。足を開いて弛むようなら、足の調節が大事である。その調節法は、そういう角度に緊張がいかないのであるから、弛緩している方を掴まえて、そういう角度をとって引っ張ると、緊張がいく。そうすると腰部活点が変わってくる。

足首に異常がある場合、下手な人は強引に引っ張って治そうとするが、角度を開いて股関節の位置が自然の位置にいったときにやると、じきに治ってしまう。

逆側の足を踏んで、それで足を開いていくか、治す足を外に開いていくとかしながら、足首の操法をする。そうすると、力を入れないでもひとりでにボソッとはまるところがある。

原則として次のようなことを覚えておく。操法は相手の体に沿って進めること。真っ直ぐに引っ張って、はまらないからといって、力を入れるのは本当ではない。だんだん開いていって、はまる処にいってはめれば、力を要しない。

普段力で治そうとする癖がついている人は、つい力を入れてしまう。相手の自然の動きに合えば、力なしでスーッと治る。治していこうとするのではなく、相手の身体に無理のないように治っていくところを見つける。つまり、操法で相手の身体を支配しようとしてはいけない。少しの力で治らないということは、無駄な力を加えているのですから、それは力ずくということになる。

角度をとっていくと、サッとはまるところがある。相手の身体の位置や、身体の他の処で、悪い処が自然に治っていくような処を見つけていく。

それで治らなければ、お腹の問題かも知れない。お腹が硬いのかも知れない。そういう場合は、お腹を押さえる前に腰部活点を押さえる。そういう場合は、お腹の問題、つまり二側の問題に限って、腰部活点の操法が重要なので、二側や一側の場合には、それは腰部活点で強引に攻めるということは避けなければならない。

しかし、腰部活点や足に限らず、力を入れてやるということが悪いわけではない。必要な時には力を入れてやるべきです。ただ弱くやればいいというものではない。

だが相手の身体の自然な動きに沿わない様な動きを相手に強いて、それを力で何とかしようということに無理がある。無理に引っ張ってくることを「強引」と言うが、そういう強引が一番いけない。

技術が高度になってくると、練習のちょっとしたミスで相手を毀してしまうことがある。病気と言うものだったら自然に経過していくものですが、身体に強引なことをして毀してしまったものは自然には治っていかない。

マッサージを受けて首が曲がってしまったとか、肩が傷んでしまって痛いとかいうのを、気軽に引き受けると、自然の病気が経過するようなつもりでやって、うまくいかないことが多いが、それらは強引に力ずくでやられたためであることが多い。

道筋を得て病気になっている。だから治すのもごく簡単な力で治る。ところが強引に無理して力を入れて揉まれたりした場合には、肩の筋肉が縮まる力をなくしてしまう。頸の骨を治しても、筋肉が縮んでこないから、せっかく操法しても、筋肉の疲労を増すことにしか役に立たない。

だから整体操法して毀したというような場合には、相当慎重である必要がある。

他の流儀で毀したという場合も、慎重にやらなければならない。

やり過ぎているものは、狂っている側の逆の筋肉が弛緩してしまっているから、そこを引き締める操法が必要になる。

薬を飲み過ぎた為に毀したとか、手術をしたために毀したとかいうものも、自然の病気の経過のようにはいかないものなので、そういうことをあらかじめ確かめておくことも必要になる。

 

病気は自然に治るものであるが、下地のところでやり損なっているとそのようにはいかない。操法でやり損なった場合でも、一度目なら自然の経過を見ていれば良くなるのに、治り際に毀してしまった場合は、今度はそのようにはいかない。二度目も自然に経過するだろうと見ていると、なかなか経過しない。

われわれが練習で、何度も何度も相手の身体の状態を確かめることをまず身につけるようにやっているのも、そうしたミスをしないよう万全を期すためである。

整体操法が「意識」によって設計しおこなうものである以上、いくら万全を期し、全身全霊でおこなってもミスをしないわけにはいかない。慎重の上にも慎重であるべきであることを練習の最初の課題としているのもそういうことによる。

力を弱くすることが慎重であるのではない。押さえてみて痛い、硬直がある、過敏が見つかった、そうしたら押さえる前に、なぜその骨は痛いのか、どういう理由でそうなったのかを相手の身体をくまなく観察して探っていく。異常な刺戟がその部分だけのものなのか、他の異常の反映なのか。体のいろんな変動は、臓器から来ているものもあれば、姿勢のひずみから来ているものもあれば、心の変動によっているのかと、さまざまである。頭の過敏状態ならそれへの対応も必要になる。

相手の背骨の過敏状態でも、背骨がちょっと曲がっているということでも、それは相手にとっては一日中そういう刺戟がそこに加わっているのであるから、わずかなことでも相当の影響があるということです。

だからそれがどういう理由でそうなっているのかを細かく観察していくことが必要となるのです。

下手なうちは特に間違いが起こる。そういうものを減らしていくために、ここでの練習もあるということを、もういちどよく考えて下さい。

 

今日はここまでにします。