野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

「整体操法高等講座」を読む(2)「間」について

今日の要約は「整体操法高等講座」(昭和42年4月15日)の第二回目です。

<読む>ということは、とても難しいことです。野口氏の表現した言葉に込められた意味を抽象化された概念として理解することの難しさであり、野口氏自身が経験し、獲得した知見や思いや心の触りのすべてを私の中で再現することの難しさでもあります。

たとえば前回のテーマであった<要求>という言葉一つとってみても、あるいは今回のテーマである<間>という言葉にしても、野口氏がその言葉に込めた意味や価値といったものは、すべて野口氏という個人の体験を基礎にして語られ彩られているからです。

だからこそ、そこで語られる言葉は、それまで他の多くの人々によって語られた言葉と、概念としては一般性を持つ指示的な意味としての共通性を持つのは当然としても、その一方で野口氏の心に芽生え育まれてきた思いが、その言葉に折りたたまれていることで、その言葉に野口氏固有の価値というものが生まれてくるわけでしょう。

つまり、ある言葉を<読む>という行為は、語るその人のすべてを理解していく、あるいは追体験していく過程であるということになります。

野口氏があれほどまでに多くを語り、多くを書き残したということの秘密も、伝え難いけれども何とかその思いを伝えたいという、その思いの深甚さによっていることは明らかでしょう。

そんなことを考えながら、今日も野口氏の口述記録に向き合っていこうと思います。

 

「間」ということ

高等技術の焦点は「間」ということです。それは何もしない時間です。操法として絶えず外側から働きかけられている間は、相手は自分自身の働きでない働きをある意味で強いられている。一旦その働きが遮断されると、操法した影響だけでなくて、初めて相手自身の体の働きやその方向というものが浮上してくる。その浮がび上がってきたものも同時に見ていかないと指導の方法も出てこないし、相手が今どういう状態にあるのかを知ることも出来ない。

 

「間」というものを置かないと、やることがどんどん行き過ぎになってしまう。その逆に「間」を開けすぎると、やったことが抜けてしまって、また初めからやり直さなくてはならなくなる。

表から加えた力がまだ働いていているうちに、次に移り、また次に移っていくというようにしなければならない。

また、吐く時なら吐くとき、吸う時なら吸う時を使って押さえていくと、相手は繋がりを感じることになる。バラバラに押された感じがしないで、相手の感受性が高まっていく。操法する場合には、この「呼吸でつなぐ」ということが大切です。

これが原則です。

しかし、「間」というものを活かすことが出来ると、この原則を外して操法することも出来る。

たとえば、押した後、吐く息を一つ置いて、その次の吐く息で押さえても相手はつながって感じる。

三呼吸置いて次につながるのが限度の人もある、一呼吸置いただけでつながりがなく乱れてしまうなら、その人は「間」を詰めていかないと裡の力が盛り上がってこないのです。

三呼吸が限度の人に、一呼吸置いたり、二呼吸置いたりすると、相手は早すぎる感じに受け取って、次の<体勢>が起こってこない。起こってこないうちにこちらがギュウギュウ押して気張ってしまうと、反発が起こってくる。押したことの応答が出来ないうちにこちらの操法だけが進んでしまうことになり、相手の力の働く余地を奪ってしまう。

だから操法する場合に、相手がその体に加えられた刺戟がどれくらい続くのだろうかという「間」を確かめておかなければならない。

このことは、一回の操法にだけ言えることではなくて、何度も操法する全体の期間についても同じようにいえる問題です。

私は今、大体週に一度、あるいは五日に一度、時に十日に一度というように、操法する人を分けております。そうすると、気の急いている人は、間が伸びすぎていると感じる。今日やって、明日もやってもらいたい。

私がそうやって分けてやっているのは、こちら側の都合でそうしているのですが、そうしないとやってもらいたい人が押しかけてきて一日で悲鳴をあげることになってしまうからです。繋げないで間延びしてしまうとその都度ポツンポツンの操法になってしまうので、いろいろ工夫をして繋ぎことを考えました。はじめはその間延びを防ぐ方法として、「こういうことを是非やらなければいけない」とか、「何日目にこういう体操をしなくてはいけない」というように、やるべきことを示して「間」をつなぐようにしました。そうすると、気が急いている人でも五日間をそう長く感じなくなってきて、繋ぐということが出来るようになる。十日間も同じです。

そうやって相手の<感受性>を訓練しながら、私の都合に合わせられるようにやっていました。

でも、普通の場合には相手の持っている自然の「間」を使って操法を進める。そして相手の体を動かしていくために、「間」をつめたり、拡げたりしていく。相手の自然の「間」を外すことで相手の体をいろいろ動かしていくのです。

隔靴掻痒という言葉があるが、見当はずれの処を掻いてもらっていると、イライラしてきてその手を振り払いたくなる。それは早く掻いてもらいたいという要求に対して、それが間延びして感じられるからである。自分で搔けない処だから掻いてもらっているのだけれど、痒いところに当たっていない為によけい痒さが増してきて、苛立ちつのってくる。

それと同様に、「間」のとり方にもそういう面があって、体の働きも、心の働きも皆変わってきてしまう。何よりも<要求>そのものが一番変化してしまう。

靴を隔てて痒いところを掻いているとイライラしてくるのは、痒みをとろうとする<要求>が満たされないで抑圧されたために、その<要求>がかえって高まってしまった為である。正確に痒いところに触れれば掻きたい<要求>も無くなるが、抑えると高まる。そういうように、<要求>の度合いや方向が変わってくる。

 

人間の体は<要求>があると働き出す。お腹が空けば食べたくなる。チップでも少ないよりたくさんもらった方が「もっと荷物持てますよ」と動きが軽くなる。妙なことですが、チップが体の中にある要求の度合いを変えたとしか考えられない。

 

操法の場合は、「間」を変えることで、相手の<要求>を変化させることが出来る。

ただ、相手の動きを変えようとして相手の<意識>を対象にしてやる限りは、<要求>を変化させることは難しいのです。「漠然としたもの」「はっきり形づけしていないもの」の方が、<要求>を変化させるためには必要となるのです。

操法は、相手が「体を良くしたい」という<要求>を持つように導くということが大切なことですが、初めから寄りかかって、他人に良くしてもらいたいと思っている人には、一旦それを突き放すと、かえって<要求>がはっきりしてくるという場合も少なくない。あるいは「はい、これで良くなった。もう来なくていい」と言ったことによって、治る<要求>が起こり、そこから治り出すという場合もしばしばある。親切庇っているために治らないでいるということもよくある。

そんなわけで、人間の体の動きというのは、意識的な動きも無意識的な動きも、ともにその人の<要求>によって起こっている。

 

(<要求>をリードする為の<間>) 

<要求>をリードしていく為には、この<間>というものが一番大事です。昨日、中等講座で、いろいろな場合の頸椎ヘルニアの治し方を説明していて、私はついうっかり口を滑らせて高等講座の問題にまで話を進めてしまいました。

「首がグキッと音がして、首が動かなくなった」と訴えてくる人がよくありますが、実際は音が出て狂うということは無くて、音などしないで黙って狂うのです。しかし、当人は音がして狂ったそのことを動けなくなったことに結び付けている。そういう場合には、どこの場所でもいいから音をさせてみる。「音がしました」と相手が言っても、聞き流す。音に気づかない人には、「音がしましたね」と念をおしてみる。すると相手はハッとして音がしたんだ、と思う。そして相手は「これで良くなったんですね」とこちらに言いたくなる。しかしそれを言わせない。それで良くなるんですよ、というような明確な言葉を与えないで、ただ漠然としたままにしておく。そうするとよくなってしまう、そういうことを説明してしまった。

実際、音がして狂ったと思っている人には、どんな上手な技術を使っても、治らないのです。外科手術して繋いでも治らない。

ところが、どこかをボキっと音をさせて、あとは良くなったとも何とも言わないで、相手の頭の中に「音がしましたね」という言葉を漠然と入れておくと、良くなってしまう。そして、こういう場合には、二度と首を触らないでおく。確かめてもいけない。そうすると、翌日には良くなるのです。

それで相手は「良くなりました」と言ってくる。しかし、それを認めないでおくと、次にはもっと良くなってくる。ところが、それを認めると、またそこで痛み出す。

実際の操法とはそういうものなんです。

首をガクッとやって、「良くなったでしょう」と言うとします。相手は「はい、お陰様で」と言うが、翌日になるとまたどこかが痛くなったと訴えてくる。音がして狂った、と訴える人には、そういう傾向の濃い人が多い。

そういう人の体を、あっちもこっち確かめて「はい、良くなった、大丈夫だ」と言うと

 、立ち上がった拍子にまた「ちょっとここが痛い」とかなんとか言いだしてくる。

そういう時に、相手が立ち上がったところをつかまえて、「ちょっと待った」と言って、ちょっと押さえると、本当にきっちり治ってしまうことがある。痛いと言われて続けて押さえたら効果がないのに、そうやって<間>おいて押さえた、立ち上がって帰りがけの相手を呼び止めて押さえた。そういう時には、すっかり良くなってしまう。

 

こういうことは、明らかに高等の技術であって、中等で説明するような問題ではなかった。まあ、そんなことで、「漠然としたままで置いておく」という方法は、いい場合にも、悪い場合にも、その方向に誘導していくのです。

 

だから、体を良くするような方向に相手の<要求>を導いていくということが大事なわけです。

自分の弱いところを見てもらおうと思っている人達は、痛いところを止めてもらうと、口では「お陰様で」と言いながら、またもっと痛くなる。それは痛がって自分の弱いところを示したいと思っていたことを、痛みを止められてしまったために、そういう<要求>を遮断されてしまった為です。

 

こういう「病気でありたい」という<要求>を抜かないままで、相手を治した場合、治ってしまったという現実を見せつけられると、治ってもまた悪くなるのではないか、今度悪くなったら大変だ、というふうに自分で次々と空想して、また悪くなっていく。

 

病気を余分に怖がったり、余分に早く治そうと焦るような人のなかには、こういう「病気のままいたい」という<要求>を遮断されたことで、治した人に不平を抱く、などということは沢山あるのです。

 

体の特性を示す一側

そんなわけで、相手の体の変化をジッと見、相手の動きをちゃんとつかまえないと、自分の感覚で「間」をつくってしまう。相手の状況を知らないと、一人で気張ってしまうことになる。

この相手の体の状況を知るために、一番初めに調べなくてはならないのが脊椎の<一側>です。

エネルギーが余ると腰の<一側>が硬くなる。だから若い人達の腰を調べると<一側>が硬くなっている。エネルギーが足りなくなってくると、それがバラバラに別れてくる。それがバラバラとわかるような人は歳をとっている。

頭が緊張してくると、<一側>が上から下に向けて硬くなってくる。頭の緊張が強くなってくると胸椎部まで硬くなって、背中が曲がらなくなってくる。ノイローゼとか神経衰弱というのはそういう状態になっている。

最近、ストレス学説といって、頭の緊張が体の方々に異常を起こすという生理のシステムが分かってきましたが、その説でも、ストレスが体のどの部分にどのように現れるかについては予測がつかないし、繋がりも分かっていない。

ストレスがリウマチや心悸亢進、あるいは胃痙攣や胆石、カタレプシーを起こすことは分かってきたが、どういう体の人が、どういうどういう変動を起こすか、ということは分かっていない。

ところが、<一側>を調べると、下から硬直が来て胸椎六番の右に硬結がある人は胃痙攣を起こす。六番で<一側>の線が切れている人は、エネルギーが余ると食欲が異常に増える。性欲の食欲転換と言えるような現象が起こっている。お腹が空いていないのに、食べなくては不安定だといって食べている。これが八番だと胃が痛いという状態になっている。八番と四番の左に両方とも硬結がある場合は、エネルギーが余ってくると間違いなく心悸亢進を起こす。

このように、頭の緊張によって起こる体の変化というものも、性エネルギーが余った為に余分に働く体の変化というものも、みな<一側>に変化として現れているのです。

そういうことが分からないから、蕁麻疹も喘息も、胃痙攣もストレスのせいにして終わっている。或る人は風邪を引くと食欲がなくなる、別の人はそうでないのは何故なのかということが分からない。<一側>をみればそういうことも分かってくるのです。

エネルギーが大脳に昇華する途中に起こる体の変動というのは、突然激しくなり、そしてサッと引いてしまう。こういう突発的な体の変動こそ、「間」というものを使って治す以外に方法はないのです。

首の三番が捻れて鼻が詰まっている、胸椎八番が捻れて胃が痛い、というのはその捻れさえ治せばいい。ところが捻れていないのに痛んでいるといった場合には、治しようがない。そういう治しようのない病気というのは非常に沢山あるのです。歪みを治したのになお痛みが続く、そういうものを治す為の手段を知っていないと、いろんな以上に対処することが出来ない。

そういうことは病気に限らずいろいろあります。たとえば、ボールを遠くへ投げるというそれだけのことでも、自信があっても無くても腕力には関係ないから同じように遠くに投げられるはずなのに、一旦自信を失うと遠くへ投げられないということが起こる。体の面でいろいろ全部調整しても遠くへ投げられない。ところが、自信を取り戻したら、体が歪んだままでも前より遠くへ投げられるようになった。そういうことがある。

<自信>などという訳の判らないようなものの有無によってそういうことが起こる。

人間の体と言うものは、そういった訳の判らないもので動いてくることが沢山あるのです。

「間」を活かすというのも、そういう訳の分からないものを動かす為のものです。そして、この「間」を的確に活かす為には、<一側>の観測を正確にできるようになっていないと、一人合点で終わってしまいます。

 

次回から<一側>の読み方と調整の方法を説明していきますが、今日一つ憶えていただきましょう。

下から来る硬直が胸椎十番で終わっている人は、エネルギッシュに反抗します。事柄に対する反抗ではなくて、何とはなしに自分の力を発揮しなくてはという感じで反抗し、強情を張ります。ですから強情を張って反抗している人があったならば、「ちょっと失礼」と言って十番を調べる。その一側が硬かったなら、それ以上構わない事。構うほどに、反抗の為の反抗、逆らおうがための逆らいが起こります。叱言を言えば、言い訳をしてきます。その言い訳は、相手を逆襲するような形の反抗形式をとります。ですから十番の硬くなっている人にうっかり叱言を言うと、それが簡単なものなのに、サッと攻めてくるような激しい逆襲があります。それ自体がその人の言い訳なんですが、逆襲が激しいので、こちらが逆に攻められているような気になって、受け身になると、そのまま押されてしまいます。ですから十番の硬い人には手を出さないこと。手を出す場合には、相手にまず喋らせること。相手の痛いところを一つ突っついて逆襲させる。「ごもっとも」と言うと、さらに逆襲してくる。もう一度「ごもっとも」と言う。そうやっていって、相手がすっかり分かったろうと思える頃に、「君、何て言ってたんだっけ、さっきから」と一回聞き直す。そうすると、もうさっきのような勢いで逆襲できない。その後で「これはこうだね」と言うと、こちらの言うことを聞くようになる。

十番の硬くなった人の逆襲は、言わせるだけ言わせて、「あれ何だっけ」とか「もう一度言って」とか言うと、二度と繰り返せないんです。言うだけ言って、消耗してしまうと、同じ調子が出ないのです。逆襲している途中で咎めだてたりすると、もっと激しい逆襲になるのですが、「あそこのところが分かりにくかった。もう一回言ってくれないか」と言うと、もう言えないのが特徴で、言えなくなった時に叱言を言うと、その方が割りに強く相手に入るのです。言えなくなった状態の十番を見ると、弛んでいて、その緊張が八番に上がっていった場合は感情的になっている。腰の一番に下がっている時は、頭の働きになっている。下に行く方が頭は落ち着いてくる。

これが、十番の硬い人を説得したり、叱言を言う時のやり方です。

風邪の場合に、十番が硬くなるのは、熱が出る前。十番の硬くなるのが分岐点で、それからちょっと経つと、普通は四時間、周期時間の長い開閉型の人でも八時間、周期の短い上下型では二時間ぐらい、熱が出る。

ですから、背骨を触る立場から言うと、逆襲も発熱も同じようなものだということです。(終)