野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶⅢ(66)「整体操法講座」を始めるにあたって

I先生。「中等講座につづく講座を始めます。この整体操法講座は、これまでやってきた基本形を体全体、運動系全体の関連の中で、より具体的に展開できるようにする目的で行います。個々人のさまざまな運動の特徴にそって、いかにして整体指導を行っていくかに関心を持ちながら、少しずつ身につけていって下さい。そうすることで初めて、野口先生が目指したもの、その言葉に込められた意味を、理念的にではなく、実感的に理解出来るようになると思います。」

 

体の自然の動き

整体法でいう整体操法というのは、いろいろある整体指導の一つの方法です。整体操法が体の形を修正していくという面だけをみて、姿勢を正しくする方法だと混同されがちですが、姿勢というものは体の裡の動きが外に現れている状態であって、姿勢のもとはその人の裡にある「要求」にあり、その「要求」が体を動かして今の姿勢になっている。

姿勢の内容は、たとえばがっかりするとうな垂れる、気を取り直して無理に胸を反らそうとしてもまたうな垂れてしまう。むかむかしている時に、冷静になろうとして肩を下げたとしても、そのむかむかは変わらない。すぐまた肩が上がってくる。

そういう内側の動きの現れとして姿勢があるのです。外に現れた形だけ修正しても、それはわれわれの考える整体操法ではない。

姿勢に現れる前の状態、つまり内側に動くその内容にまで触れていかなくてはならない。だから、その裡に動く運動、その運動を正常化し保つための技術である、ということが我々の操法の目標とならなくてはいけないし、それを実行しなければならない。

 

正常な運動というのは、運動自体が体の「要求」から出ているのだから、その「要求」自体を、川の流れを堰き止めるようなつもりで、基本操法を使って変えようとしても、それは難しい。「要求」そのものに触れていくことのために、潜在意識教育というものや、人間の「要求」に直結している「気」というものや、相手が意識していない偏り運動というものを使って、それに至ろうとするわけです。

そしてその為には、相手の運動の習性といったものを知っていかないことには、その手掛かりがつかめない。人間の場合には、同じ人間という類に属していながら、一人ひとりみなその感受性が異なっている。そういうことから、体癖というものが必要となってくる。体癖には、「体癖の修正」という問題があります。また「体癖の活用」という問題があります。そういうことから「整体法」の内容が分かれてきたわけですが、もとは一つなのです。分類するために分けているのではない。

 

 教育ということ

整体指導というのは、体を正常にするための教育です。あるいは体を正常に使っていくための教育です。だから操法ひとつするにしても、それを機会に、相手が自分の体の使い方を会得できるように教えなくてはならない。

今迄みんな相手の不始末を、あるいは不摂生の後始末をするつもりで異常というものに対して接して来たが、そういうことを百年続けても相手のためにはならない。そういうことに依りかかって、自分で自分の体を保つ、独立して生きるということを忘れてしまう。ただ依りかかる事だけを考えてしまう。

 そして、そういうように受け身になった心は、次の故障を引き起こす元になって、昔の人なら異常でも何でもないことまで、病気として感じて、だんだん人間自体が弱くなっていく。そのうえ自分の不摂生を他人のせいにするようになれば、まさにそれは病気ではなく「病人」である。そういうようなことになったのでは、体を良くすることをやりながら、結果的に悪くしてしまう。それがどんなにいい事であっても同じである。

そこで、体の使い方を指導する教育として行っていく。整体指導というものが意味のあるものになってくるのです。

整体指導を行うための一つの手段、特に他動的に行う手段が整体操法といわれるもので、その行為自体が整体指導ではないということを、ここでもう一度再確認する必要があります。

整体指導の同じような形式でやっても、これは整体指導だという建て前でやっても、そこに一つの教育の手段としてやらない限りは、それは整体指導とはいえない。

その人が、どういう考え方で整体操法を行うかということが、一番の問題なのであって、一つの教育的な働きの一つの手段としてこれを使っていくという前提がその人の中にないと、「整体指導としての整体操法」が成り立たない。

整体指導というのは、整体操法だけでなく、活元運動とか体癖修正とか、潜在意識教育とかいうものの一つとしてあるのであって、それらを「体の使い方」の教育として、使い分けていくものです。

 

使い方の問題

この講座では、整体操法という、人の体を他動的にいろいろ動かしていく技術についてやりますが、みなさんがそれを「整体指導をする」という立場で使うようにしてもらいたい。あくまでも「教育手段としての整体操法」として学んでいただきたい。

もちろん、この講習では、整体操法自体を実用になるようにやるつもりですが、大切なことはその使い方なのです。

整体操法の技術を磨くというのはカミソリの刃を磨くのに似ている。講習ではその研ぎ方や切り方を学んでくものですが、よく磨かれれば、その使い方によっては人を傷つけるものにもなりかねない。使い方によって、いろいろ難しい面がある。

だから本来ならば、操法を「指導」として会得した人が学ぶべきものであって、それがない人が研ぎ方や切り方を覚えるべきではないのです。いわゆる何とかに刃物となって、危険なことである。

今の皆さんの段階で、いまだに操法を、相手が訴える異常を治すものである、と考えているようならば、ここで止めていただきたい。そうでないと、対外的にも誤解を生じかねない結果になる。あるいは、人を傷つける道具を身につけることになってしまう。

 

整体法の制定

そういうことをはっきりさせておかないと、つまり整体操法の技術を、教育の一つの手段として理解していないと、他の療術の技術と並列に並べて考えるようなことも出てきてしまう。あるいは医者にかかっても治らなかったから整体でなおすのだ、というように考えてしまう。最近では大分そういうことはなくなってきましたが、整体操法は他の療術とは全然別の技術である、ということが伝わってきましたが、ともすると並べられることがある。

技術のない、力のない人が整体操法を使えば、それらと並べられるほかはない。そうなると、だんだん教えることが怖ろしくなり、しまいに嫌になってしまう。

 

整体操法の技術を、初等、中等、高等分けた理由は、初等の技術として、体にはいろいろな急所、外からの刺戟に対して内からの反応が非常に敏感な場所があり、そういう急所がまず、整体操法制定委員会で明らかにされた。

それは昔から大勢の人が使っていたものをみんな集めたわけです。昔は沢山の名人と言われる人がいたが、どの人もその人なりに上手に使って、急所というものを得ていたのに、その人が死ぬと、それで絶えてしまった。もし伝わったとしても、技術のない人が使うので、効果が発揮されなくて、その名人のやっていたことは曖昧なことではないか、というようなことになって、絶えてしまった。

いろんな人の技術があって、昔はそういう処に技術というものを求める人が多く、斎藤寅太郎は、腰のある場所を押さえさえすれば万病に処しうる、永松卯造は、体の中の毒素を急速に掃除する場所がある、今でいう腰部活点。梶間良太郎は脊髄反射療法を発明。特に彼は、胸椎の九、七、八という場所の使い方に身をいれていた。自分はその三つの背骨で万病に処し得ると。それは副腎の機能の働きを持っているからだと主張していた。その当時は、副腎がどのような働きをしているのか誰も知らなかったので、彼のことを皆笑っていた。ところが戦後、彼が死んでから、ストレス学説というものが発表されて、いろんな精神や体の刺戟になるような行為は、みな体に変化を起こす、その媒体となるのは副腎であり、副腎皮質ホルモンがそういう媒介をしているのだということで、副腎が俄然いろいろな病気の症状と関連あるものとしてクローズアップされてきた。そういうして梶間良太郎の副腎説は、それが直接副腎を刺戟するかどうか分からないが、もし副腎を刺戟するというようなものであったなら、その場所で万病に処し得るという彼の主張も間違いとは言えない。

山善太郎は、体の中の血管に脂が溜まって、血液の循環を阻害するから病気になるのだ、その脂を指で押していけば治るのだと主張した。これも当時は、体の中の脂なんて、と無視されていた。ところが後にコレステロールという血管に溜まる脂が問題になり、それがいろいろの病気と関連があることが分かってきた。

そういう技術というものは、本になって残ってはいるが、それは実際の技術とはほど遠い、特に秘伝というようなものは、誰にも伝えられない。そんなわけで昔の技術というものは絶えてしまったが、皆そういう処に、あるいは処の使い方に技術の根拠を求めていた。そういう人達の処と、その使い方を、最初に整体協会での処と型として集めたわけです。

 

処だけいくら覚えても役に立たない

型というものは、長くやっている人は、いつの間にか、その処を使うのにふさわしい体の使い方をしている。だから同じ処を素人が押さえて触らない処でも、押さえるとスーッと触る。野中豪作という人は、恥骨を押さえると皮膚病が治ると主張した人ですが、彼が押さえると恥骨にみんな硬結がある。「これだ、これだ」と言う。けれども他の人の誰が触っても分からない。また、彼は古い打撲の痛みが起こってくると、股間の坐骨の角を押さえて、それを治した。坐骨の角に硬結があって、それがあると打ち身をしたかどうかが分かると言う。ところが当時整体操法を勉強していた七十人ほどの人達(野口氏を除くと)は、誰もその硬結が見つけられない。だから彼らは、野中君の妄想だ、と口々に言う。

このように、ある処をいじる為には、その処に適った体の使い方をしないと見えるものも見えてこない。ただ指だけの使い方の他に、指を動かす前の体の使い方や指の使い方というものがある。

まあ、そんなことで、体の使い方、つまり相応しい型というものや、処というものをまず集めて、一つにまとめたのが整体操法のもとになった。

鳩尾を強く突けば気絶するが、弱く押さえれば胃病を治す。変につつけば相手は腹を立てるだけである。気絶させるどころではない。相手が怒ってからそこを強く叩いても効かない。だから、そこをいじるにはいじる為の型というものが要る。そこで、まず処と型を最初に集めて、それを知ることが初等技術だ、というように、当時の制定委員会で決定されたわけです。

背骨が曲がっているのは、カイロプラクティックの人から言うと、骨が曲がっているのだから、それを押して治せばいいと言う。しかし実際は、そこの組織が弱っているとか、疲れているとかいうのがあって曲がる。そういうことがなければ、曲がってもひとりでに治ってくる。しかし実際は自然に治るものもあれば、治らないものもある。それは組織の弱りや疲れがあったり、他の部分が硬直したりしていて治らない。だから、治らないからといって、その曲がった骨を暴力的に力で治したとしても、それは意味がない。それが正規の位置に恢復するように、体全体のバランスをとるようにするところに、整体操法する意味がある。

力づくで骨を治したしたとしても、どんなに技術の粋をつくしても、五分も経たない内にまた元に戻ってしまう。

初等で型や処の問題をやっていると、全体のバランスなど考えないで、遮二無二そこを治そうとする。そこで、そういう傾向に陥らないようにということで、「機」、「度」、「間」という問題、つまり技術をどういう時期に使うか、どれぐらいの度合いで行うか、どれぐらいの間隔でそれを使うかという中等の技術に入って行くということです。

 

「処と型」以外の問題

操法をただ長くやればいい、多くやればいいと考える人が多いが、そういう人はみな下手な人です。上手だと言われる人は、自分の止まるところを知っているというか、与える力を計算出来るというか、つまり「度」というもの、やる割合というものを知っている。

中等では、「機」「度」「間」の三つをまとめて、操法学というものをやるわけです。技術というのは、やる者だけが気張っても駄目で、相手の感受性を高めていって、刺戟を刺戟として感じられるような態勢を作っていき、初めて技術が活きてくる。

相手の感受性を高めると言っても、相手の体のどのような処、その心のどういう部分に対してそれを行うかが分からないとそれは出来ない。また、その人の状態によって感受性が高まる時期とそうでない時期というものもある。それを「体周期律」というが、「体の波」、「体の偏り」傾向、「体量配分」傾向によっても感受性のありようは異なってくる。

こういう相手の「体の波」、「体周期律」に沿って感受性の高潮、低調の時期をとらえながら、操法していくということが、高等技術の段階になってくる。

さらに、「潜在意識教育」という問題もある。心が体に及ぼすとともに、体が心に及ぼすという側面を使っておこなうのですが、そういうものも「型」や「処」、「機」「度」「間」の問題に加えて、人間の全体に対して整体操法、整体指導というものがなされるわけです。

 

技術の段階を便宜的に初等、中等、高等と分けてはいます。そしてそれぞれの段階で、技術の使い方も異なっていますが、最終的には、何もしないで治せるようになっていくことが目標になります。何もしないで治せるようになって初めて、指で押すということが本来の働きを発揮する、とでもいいましょうか。初等の段階では、犬も歩けばで、どこで手を出したらいいか、押さえた指をいつ放したらいいか、この痛みは押さえたほうが良いのかどうかということを分からないまま押さえることが多い。中等では、相手の感受性、体の働きを利用して治す、しかし、高等では相手の心の働きを使って治す。

高等の段階では、こちらは何も使わない。

我々は、体癖を研究して、体の機能の歪み状態を知るために矯正したりするのであって、そういう面での収穫がなければならない。そして、最小の力で最大の効果をあげられるようにならなければ、操法する意味がない。時々、整体操法はその時間が短い、ということで、訓練もしないで時間を短くしている人があるが、そういうのでは効果をあげることなど出来ない。訓練に訓練を重ねて、技術を選り抜くことが出来て初めてそういうことが可能になる。

体のことは、技術を選り抜くことが出来れば、一瞬で済むことが多い。いたずらに時間をかけることでも、時間を短くすることでもない。

 

練習の目標

練習では、長くやる、多くやる、強くやるということを避けるようにしてください。その為には、相手の体の特徴を掴みだせなくてはならない。相手の偏り、それも意識的動作による偏りではなく、無意識に偏っている働きをつかまえ出すことが必要で、そのために体癖を知っていく。相手の特徴を掴み出せれば、一か所押さえただけでも、相手には体全体に満足感を感じる。そういう処を選りすぐることが出来れば上手と言える。

知識でこうだろうといって押さえても、そういう満足にはつながらない。それは相手の体の動きの観察から初めてもたらされるものです。

これで、第一回の整体操法講座を終わります。