野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶ(33)背骨の観察

この「はてなブログ」の記録を進めながら、ふと気づくと、少しずつ読者の方の眼差しが増えてきていることがわかります。そしてそのことで、とても勇気づけられている自分がいることを感じ、また喜びを感じます。有難いことです。わずかながらでもお役に立てればと、心を引き締めて、今日もI先生による講習会の記録を始めてみます。

 

背骨の数え方ですが、解剖図みれば大体何番ということは誰でも判りますが、その他に椎骨の可動性も一つ一つ揺すぶってみていくことは既に何度もやってきました。さらに、可動性のない椎骨の位置、どんな曲がり方をしているか、飛び出し方や捻れ方はどうか、そして椎側の硬直度合いはどうかを、調べながら数えていきます。

触手療法というのは、体が敏感な人に対して行うもので、その敏感な人が特に敏感な時、つまり急性病のような時に使う方法ですが、整体操法は、触手療法をおこなっても感応が起こらない鈍い体の人の矯正ということを目的に行うものです。

古くなってしまって、どうにもならないような人たちを対象にして、もう一回オーバーホールして、使えるものなら使ってみよう、というのが整体操法の行きかたですから、相手が敏感なものとみないで、鈍いものとして見なくてはならない。鈍い場合には、同じ愉気でも太陽の光を当てるように漫然と当てるのではなくて、太陽の光をレンズを通して集注させるように、愉気でもある一か所に集注してやることが必要です。

体にとって、調整の場所が狭い程、その体にとっては強い刺戟として働く。風邪を引いたとき、我々は風呂に入って風邪を経過させることをしますが、風呂に入るだけで経過できない人には、半身浴をする。それもできない人には脚湯をする。それも駄目なら足湯をする。それはある部分だけに刺戟を集めると、強く体が変化していくからです。全身風呂に使っても風邪で咽喉が悪い状態を直接変化させることが出来なくても、ある急所を選ぶと風邪が抜けていくのです。

あっちこっち弄ってしまうと判らなくなってしまうけれど、ある部分だけポンと刺戟すると、相当弱い刺戟でもすぐに変化を起こす。ある部分に、集注しながら、物理的力を加え愉気をする、そうすると漫然と手を当てているよりも効果がはっきりする。それによって、鈍っているひとの体でも変化を起こすことが出来るのです。

だから整体操法という意識的に行う働きかけというのは、触手療法とは違って、対象や目的が違ってくるのです。当然、使う武器も異なってくる。ただ愉気をするだけではなく、その愉気を集注させる、さらにそれに物理的な力を加える。さらにその体の急所を選りどって使っていく。整体操法では、その故障がどういう理由で生じているのかを、意識的に考え推測し、その故障を回復させる方法を設計していくのです。

整体操法の場合、脱肛しているのにその場所でなく頭のてっぺんを押さえたりしますが、本能のまま愉気していると肛門が痛い場合肛門を愉気します。

 

整体操法の場合は、椎骨の可動性、椎骨の転位、椎側の硬直度合いの三つを、一つ一つ意識しながら観察していきます。気で異常が判っても、意識的に触覚を通して異常が判っても、異常は異常で同じですが、われわれはその両方とも感じとらなくてはならない。臓器の異常なども、解剖しなくても機械で探らなくても、体表に現われた異常の反映を観察する方が、敏感にわかるし、内臓の状態を正確に読み取ることが出来る。

 

今日の医学をみると、運動系というものを軽視して、臓器の異常だけを見てしまっていますが、それではそのような臓器の異常がどのような運動系の状態の人に宿るのかということが理解できないままでしょう。実際には、運動系の異常と、臓器の異常とには一定の関係があるのです。そして、運動系というもののほうが、その人間の生活様式を端的に表現しているのです。

人間と動物との違いは運動系だけなのです。口から物を食べて、お尻から大便を出すことは哺乳類なら皆同じです。だから、体の中の異常、特に人間の体の中の異常を考えるときは、人間固有の運動系の問題を考えないかぎり、解決できないのです。今の医学は、みな動物の運動系からの類推による「だろう」の仮定で成り立っている。胃潰瘍を起こしているのは、食べ過ぎたからだろう、といったように。しかし、胃潰瘍を起こす原因は食べ過ぎだけによるものではない。その人の運動系を調べていくと、ある場所で使いすぎて疲れている。その人の運動系のこういう処に硬直がある。この硬直は、この臓器異常と関連がある。そういうことを確かめていくと、その人の普段の生活の中で、こういう体の使い方をしたためにこういう内臓の異常を起こした、ということが割に容易に判ってくる。

実際の人間を調べるというのであれば、その個人と生活、生活に関連する体運動の状況を知っていかざるを得ない。運動系の状況を観察しなければ、臓器の異常ひとつ本当は理解出来ないはずである。

だからこそ整体操法では、運動系を構成しまたその中心となる、背骨やお腹などを丁寧に観察する訳である。

 

ここに食べ過ぎの人がいるとする。かれは何故食べ過ぎるのだろうか。かれが不摂生を好んで行うのはなぜか。誰だってほんとうは不摂生などしたくないと意識では思っている。ところが食べ過ぎまいと思っているはなから又食べ過ぎてしまう。その理由は何だろう。

そこで、かれの腰椎二番を調べると、そこが激しく硬直している。そして手を動かすたびに頸椎六番が激しく緊張する。これらは、胃袋の収縮を誘導するものであるが、そういう人に食べ過ぎてはいけないと言ったところで、また食べ過ぎるに決まっている。かれにとっては、実際に空腹を感じているのだから、胃袋の状態だけを見ていてはそうなる理由が見えてこない。しかし、かれの運動系を見ていけばその理由が判ってくる。

もし、かれがこの状態で医者にいけば、専門家の医者は胃潰瘍の症状を見て薬を処方してくれるし、痛み止めもくれるし、一向に改善しないで壊れてしまえば、今度はそこを切除してくれる。その異常が、かれの生活と関連しているとか、かれの運動系の状況と関連しているとか考えないで最後は切ることを考える。

しかし本当は、彼の体力を発揮させることや、彼自身の体力で異常を経過させることを考え、それをどうしたら改めさせることが出来るかを考えるべきではないか。かれの体に基づいて考えればそうなるはずである。

ところが、一般に養生法といわれるものは、個人の生活やその運動系の特性を考えないで、ある事例でよかったと推奨されると、誰に対してもそれを当てはめようとする。しかもその方法たるや、しょっちゅう変化する。この病気の時はこれは食べてはいけない、と言ったかと思うと、しばらくするとそれと全く反対のことが推奨されたりする。養生法といわれるものがしょっちゅう変化するのは、いろいろな異なった実験の結果によってのその都度の推測だからで、実験が変わればその推測も変わってしまうからである。

それは、いろいろな推論のなかで、どれがその個人に適しているかを判断できる基準がないためにそうなる。当人とかけ離れた方法を、あてはまるまで試し続ける。

食うなと言って食えば、食わないような方法を考えてやらなければならない。本当に食っていけないものを、当人の意志だけに頼ってやらせようとするのは残酷である。それは指導ではない。運動系の問題から離れて体のことを研究すると、こういう問題を起こす。

頸椎六番に力が入らないように、三番四番に力が入るように肩の位置を変えてやれば、お腹は空かなくなる。あるいは腰椎二番の左にかかっている力を三番に落としてやればいい。本当に食わない方がいい場合はそうしたらいい。食うなと言われると、そのことで食欲が誘導されることもある。

われわれが、いつもその個人の生活と関連して異常に対処するのは、そういう運動系の研究から入っているからです。誰に対しても同じように注射したり、薬を飲ませたりすることは、人間の理性に対する侮辱である。もっと一人ひとりの体に合う使い方、その使い方に間違った癖があればその正し方、そういうものに則って衛生指導や治療の指導をするのが本当だと思う。

まあ、こういったことは言い過ぎになるので別にして、背骨を観察するというのは、背骨がそういう運動系の中心だからであり、もう一つは、背骨からいろんな神経が出ていて、臓器や末端の筋肉との連絡がはっきりしているからである。そこで背骨から着手する。

 

椎骨の位置異常を見つける時に、この人の背中にはこんなに沢山曲がった骨があった、頸椎にも胸椎にも腰椎にも二十も転位があった、と。しかしこういう時はむしろ曲がっていない骨が本当は異常である、ということがある。異常というものの中には、刺戟があるのにそれを刺戟と感じない、反応できないという鈍った体というものがある。十二種体癖の素質がある人は、そういうことがある。この素質のある人は、他人がそう言った、というような保証や前例がないと行動できない、という傾向がある。そして背骨も真っ直ぐであることが異常である、ということがあるのです。

だから、骨がまっすぐでも正常と言えないこともある。骨がくるっていても、必ずしもそれが異常とは言えない。

そういうことがあるので、椎骨の転位だけを見ないで、その可動性を問題にし、その鈍った椎骨を対象に選び出すのです。

椎骨が転位し、かつ可動性のない鈍った骨を探せば、一人の体にせいぜい三か所ぐらいしか異常な骨は見つからないのです。そうやって、探すべき操法の対象となる骨の範囲が狭められてくる。

それを見つけたら、次はその骨の椎側を一側、二側、三側の順に、そこの筋肉の硬直度合いを見ていくことになる。硬直した中に弛緩した部分があり、その中に硬結がある。あるいは筋肉表面が全体的に硬くなってしまっている。あるいはその硬直が明瞭に椎骨の転位を表現している。そういう状態、変化を観察し見つけていきます。

つい一生懸命になって、相手の背骨や椎側を、ギュウギュウ押さえてしまうという人がいますが、それだとすぐに疲れてしまう。出来るだけ少ない力で調べるということが、技術の上手ということです。

この講座の最初のほうで、背骨の観察の仕方をやりましたが、一見すると方法は簡単なので、わけなくやれると思った人もいるようですが、実はそう簡単なことではありません。簡単な形式に練り上げられてきて、そうしているのです。だから、あっちこっちをいじくりながら、何時間もかけて背骨を調べることの方が、余程簡単だと言えるのです。相手に無駄な力を一切かけないで、どうやれば観察できるのかという試行錯誤の結果そうなっていることを理解してください。

 

練習

背骨の観察が上手になってくると、そっと触った感触だけで、可動性の異常は判るようになりますが、今日は面倒でも一つ一つ揺すぶって観察してください。可動性のない鈍った骨を見つけたら、その転位を確認し、つぎに椎側の硬直度合いやその変化を確認してください。頸椎部と腰椎部は今は調べないで、胸椎部でやってみてください。腰椎部は胸椎部と比較して鈍いように感じてしまいがちなので、あとで人を変えてやってもらいます。

念のために調べ方を説明します。うつ伏せになった場合、だれでも普通は胸椎五番が飛び出しているか盛り上がっています。特に首を真っ直ぐにして伏せた場合は、胸椎五番が硬くなる。まずこの五番を押さえながら、相手に首を左右にゆっくり曲げてもらう。その時に、当てている五番に緊張が生じてくれば、その緊張した逆側に異常がある。左右に曲げても硬直が生じないようであれば、五番から調べていけば間違いはない。もし、五番に何らかの響きを感じるようであれば、五番から上にも異常があるということだから、そのどこが異常になっているかをよく確認する。それを調べるときは、相手の首に無理がない方を向いて臥せってもらって調べればいい。

それから、胸椎三番を調べる。三番を調べるときは、相手に、首を前後、左右に動かしてもらって、三番に当てた指に響きや緊張が感じとれれば、頸椎自体に異常がある。その時は、頸椎も調べなければならない。頸椎に異常があって、胸椎三番に響かない時は、胸椎自体に異常がある。

うつ伏せの状態で背骨を調べるということは、たとえ首を真っ直ぐにしていても、どうしても顎に力が入ってしまい、同時に頸椎五番にも余分に力が集まってしまう。かといって、首を捻っていれば頸椎三番、四番に、また胸椎では五番に余分な力が入ってしまう。

だからいずれにしても楽な姿勢とはいえない、楽な恰好ということであれば、相手の両手を八の字に持ってきて、空いた空間に鼻を突っ込むようにすれば無理がかからないが、今度は逆に可動性を確かめることが難しくなってしまう。形を調べるだけならこれでもいいが、まあ、目的によって替えればいい。

まず、この胸椎の五番と、三番を一つずつ順に調べてください。五番に緊張が来なければそこから下を調べていく。来なければその上の骨を順に丁寧に調べていく。胸椎三番に緊張がくる場合は、頸椎も調べる。ではやってみて下さい。

 

どうでしたか。ここで五番と三番の二つに絞ったのは、背骨を調べる場合でも、出来るだけ時間を短縮して、余分な力を相手にかけないようにする為の工夫なわけです。やってみて難しかったという人は、もう一度十二個全部の椎骨の可動性を調べてください。

 

次は、見つけた鈍った骨、可動性のない椎骨の一側を内から外へ、二側は真下に、三側は外から内に向けて押し、その部分の硬直度合いを見ます。可動性のない骨を取り上げてその椎側を調べるという方法も、要するに背骨全部の椎側を調べるような余分な時間と無駄な力をかけないよう省略するためであることは判りますね。

押すときも、はじめのうちはどうしても力を余分にかけて調べてしまいますが、そっと触れて判るようになれるよう、やりかたの転換を図っていくことが大切です。

それから、胸椎三番に異常があった場合は、坐姿になってもらい、相手の上頸を上げる操法をしておく。ここは本来は脳への血行調整のための処ですが、ここを持ち上げて頸の曲がっている、転位している位置に方向づけて、ふっと落とすと転位が戻ってきます。これは頸椎全体の調整のために行います。これを一、二回やればそこに過敏があるような場合に回復してきます。それをもう一度伏せになってもらって確認します。

今日は、ここまでにします。