野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶⅡ(50)いつ、どのように放すか

操法において弛めるということの第一は相手の気を抜くということである。相手の心に抵抗を起こさせるのは下手であって、病気は絶対に治せるというと、治せるものなら治してみろ、という心が起こる。そういうのは、相手の無意識の抵抗を呼び起こす。無意識の相手の心の中の結ぼれているものを取る必要がある。そういう気を抜くというのが体を弛める基本になる。

気の抜き方にも、集めておいて抜く方法と、抜いて抜くという二つの方法がある。

われわれが、気が抜けたという予期には時には、何かに十分に気を集めていて、それが思うようにならなかった時に気が抜ける。一生懸命に整体の勉強をしようと思って、どんどんやっていくと、今度はもっとやらなくてはと思うと気が抜ける。気を集めておいて、ある程度以上に集まると抜けてしまう。

操法する場合、硬結は当然気が集まって硬くなっている。本人が意識するしないにかかわらず、そこに気が集まっている。集まっているところを意識しないで、集まっているところをジッと押さえる。ところが硬結を押さえている時に、やたら放す人がいる。むやみに放すと、その都度気が集まってくる。それは引き締める方法で、弛めるためには相手の集まっている力、ジッと押さえて相手と力くらべをするつもりで押さえる。そして相手がくたびれてくればそれで弛んでくる。相手の気が十分集まったところで抜く。放すと一緒に弛んでくる。

こういうように、硬直した部分を押さえる場合には、相手の気を抜くということを考えながら押さえることが大事で、固まったものを押しつぶすようなつもりで押さえていると、却ってそこに気があつまってしまう。

肩の凝った処をもんでもらうと、いよいよ凝ってしまうように、却っていけない。

相手の気を集めて、こちらの気も集めていく。十分集まったあとは、どうなるかというと、抜けるのです。

集注と分散は自然のリズムで、人間はあるところまで息を詰めていると、吐かざるを得ない。あるところまで息を吐いていくと、吸わざるを得ない。そういうように、集注すれば分散するように出来ているのです。それが自然なのです。

 

そこで、操法する場合には、ジッと押さえて行って、それで相手がいよいよ集注していたものを吐かざるを得ない、気を散らさずを得ないまで待って、そこで一気に放すと、弛んでくる。

それを待たないで早く放してしまうといけない。相手の力が抜ける寸前に弛める。

放し方で、弛むか引き締まるかが決まるのです。

よく、押さえることが技術だと思っている人がありますが、押さえるということはむしろ相手の気を集める為で、ちょっと触っただけでも気になる。

体を弛めるということに関しては、押さえるということは技術として本質的なものではない。むしろ、放すことの方が重要。いつ放すか、その放すことに対して耐えるということがある。耐える速度。耐え方で放す時機が決まってくる。

 

初等の技術では、押さえることに重点が置いてあった。ところが中等の技術では、「耐える」「放す」というところに技術の重点が置かれている。そこをギュッと押すだけでは初等程度の問題である。中等は「どれだけ耐えて、どう放すか」である。

どこで放すか、どこでまた押さえるか、耐えること自体が、放すためにある。それらをいつも念頭に置いていないと、中等技術はうまくいかない。

 

これまで頸椎ヘルニアを例にしてみてきましたが、やってみると、多くの場合は失敗する。なぜかというと、力を入れすぎるからである。やりすぎる。アマの操法の特徴は、効果が上がるまでやろうとする。だからいつもやり過ぎになる。プロは効果の上がる前に放してから、効果の上がるように打ち切る。

 

(空想を無意識に封じ込める)

四十肩で腕が上がらない時、脇の下の操法をするが、押さえてみて「さっきと比べてどうですか」と聞いてみる。「さっきよりも上がる」と言ったら、もう一回押さえる。

今度は「上げてみて下さい」とは言わないでおく。相手はさっき上げたら以前より上がったことをよく覚えている。それでもう一度押さえられたので、もっとよく上がるはずだと相手は思う。こちらからは、上げるように言わない。一瞬そこで間をおく。すると相手は、今度は上げることは無しになったのかな、と思う。その時に、「ちょっと上げてみて下さい」と言う。すると前より上がる。

相手が上げるつもりで、もう一回やってみたいと思ううちは、上げるように言わない。言わない為に、相手は気が抜ける。その抜けた時に、「上げてみて下さい」と言うと、上がる。前より上がった、と相手は言おうとする。「はいよろしい」とやめてしまう。すると相手は、上がったということを認めららない為に、けしからん、と思う。

つまり、上がったということを、相手の中に押し込めてしまって言わせない。そうすると後になって効果が上がってくる。

何回もやって、上がった、上がったとやっていると、逆に上がらなくなってしまう。

一度、前よりも上がったと確認させて、次に押さえたあとは、無視する。無視するということは、相手の心の中にもっと上がる、という空想をしまい込んだのです。

決して、複数回の確認をしてはいけない。

相手の中にそういう空想が起こるように仕向けて、あとは待っている。空想が相手の無意識の中に起こるようになれば、生理的に変化を起こすのです。

このように、自分の空想で変化して治ったものは、戻らないのです。そうしてその人の体の力で治っていく。意識しての空想ではない。無意識の空想を相手の中に封じ込んでしまう。

 

ところが、病気のなかにも何か本当のことを言うと、悪くなったり、治らなくなったりするものがある。知った為に却って病気が悪くなるという例は沢山あり、真実を知るということは必ずしも回復を誘導することにはならない。真実だと思っている中に空想がある。入り込んだ空想が相手を支配していることは少なくない。

普通は操法に対する保証とか断言はしませんが、相手が勝手に空想しているような時は断言することもある。

ただ、こういう技術は、相手の感受性に左右されることが多いので、空想で肉体を支配する力が旺盛で敏感な人にはいいが、鈍い人には駄目である。整体操法が感受性の敏感な人には効果を発揮するが、鈍い人には効かないというのも、「思い浮かべる」という力、空想したことを育てるという力にならないからである。

とにかく治してくれ、治ればいい、と言う人はあまり相手にしない方がいい。自分で考えて、これを治すためにはどうしたらいいか、自分の暮らし方をどうしたらいいか、と多少でも考えられる人を相手にした方がいい。

 

体を治していく、回復させていく、と言う場合、相手の心の働きを使わなければならない。その為には、相手の心の状態を知らなくてはいけない。相手が、俺は怖くないぞ、と言って青くなっていれば怖いのです。青くなる人ほど、怖くないを連発する。「俺は強いぞ」と言って威張る、なぜそんなに威張るかといえば、弱いからです。腕力で力を誇示したり、強い言葉で言うのは、弱いからです。

整体の考えを相手に伝える時に、熱なんか怖くないですよ、と説得していて、はて、そんなことを言っている自分自身が熱を怖がっているんじゃないかふと思うことがある。ところが、上手になるとそういうこと説得などしなくなる。「熱が四十度出た」と訴えられて、「ああそうですか」と言うだけで、「もう少し出るといいですね」と、それだけなんです。「熱は自然の働きで、体に必要だから出るんだ、黴菌を殺す働きがある。何も恐れる必要はない」なんて言わなくなる。その方が、相手はその通りに従うようになる。相手に説得しているように見えて、実は自分に言い聞かせているという面がたくさんある。そうして、相手の中の空想ではなく、自分の中にある空想と闘って、くどくなる。説得することもくどくなるが、操法自体もくどくなる。

そういうことでは、とても「度を得る」ということは難しい。

中等の技術の基本は、耐える、放す、というところに度を得る、時機を得るということです。気と度を得ることなく、ただ急所を押さえているだけでは操法にならない。

ジッと押さえる、いつ何処まで耐えるか、いつ放すかと、相手の気を見ます。

相手の言葉を見ないで、相手の中に集まっている心を気で見るのです。そして、相手の気が抜けていれば集める。集まっていれば分散させる。そのリズムを誘導していく。

相手が言ったことを無視して、気の状態で相手の心の状態を見る。そしてその中に新しい空想を盛り込んでいく。それが出来なくても、その気だけ抜けば、心があっても、心配があっても、なくなってしまう。

心配だって不安だって、その気を抜いてしまえば、それがなくなってしまう。

操法の対象は、いつもこの気なのです。相手の気をつかまえて、押さえていると、相手の気がそこに集まる。テレビの音がしていても余り気にならない、というように押さえなければ、気をつかまえているとは言えない。気をつかまえたら、押さえて集注する。弛む、それを加減する。集中しているのは抜くように押さえる。耐える、自然に気が抜ける時機が来るまでじっと押さえている。押さえ合って、気が抜け出す時に、ちょっと押さえて放すと、すーっと弛む。

気は気で感じるものです。それには自分の指に気が集まっていなければ駄目で、手に気を入れて相手の気を感じる。そしてその気によって、耐える度を求め、放す時機を得るということが一番大事なことです。

 

頸椎ヘルニアを治す時に、肋骨を上げる操法をしましたね。相手は、ヘルニアとかムチウチとかいろんな名前を付けられて頭がいっぱいの状態。そこに集まった気を抜かないままにいくら頸を押さえても駄目で、ますます気がそこに集まってしまう。気が集まるごとに異常感が鮮明になってきて、押さえた後に痛くなってきたりする。

そこで、わざわざ仰臥になってもらって、肋骨挙上の操法をする。相手は「そこではなくて、頸のここが狂っているのですが」と言う。ことらは「胸を押さえてそれを治しているのだ」と言うが、相手にとっては意外なことなんです。そいて胸の操法の効能を説明していると、相手は頸のことより胸の方に気が行く。気が胸に行った頃に、頸をガクッとやる。気が胸に行っているその隙にやるのです。

相手の気を抜いて、空想を使う。どこどこが悪いからそれを治して下さい、と言われるままに、それを治そうとやればやるほど、そのつど相手はその病気である自分というものを空想してしまい、いくら押しても効かない、上手に押せば押すほど相手は自分の病気を確信していく。

 

押す時は相手の気だけを見ていく。心とか体とかに分けて見ない。そうやって気だけを見て押していくと、心にも体にも変化を起こしてくる。押さえると、相手はいろいろな耐え方をする。例えば足の急所を押さえると、逆の足をばたつかせて耐えようとする人がいる。押した足に力を入れて耐えようとする人もいる。顔をしかめる人もいる。そうやって痛みをこらえる、痛みに耐えようとするその体の動きが、その耐える体の形自体が、その人の体の異常を回復していく働きそのものなのです。だからそういう耐え方からその人の体癖状況も知ることができるのです。

 

練習

操法と言うのは、どこを押す場合でも、最初に息を止めさせて、相手の逃げる方向を封じ、ある時間耐えさせる、そして放す、ということで相手の全体を弛ませることをするわけです。今日の練習では、まず相手の体の力の抜けない処を見つける。見つけたら、一度ガっと押さえて、ちょっと放してみる。そしてもう一度押さえる。息を吐いている人でも息を止める。これは力の量で止めるのではなく、吐く息の速度の加減で行う。さらに押さえていくと、相手はこらえきれずに吐く。速度を変える。息を止める。耐えさせてから放す。そうすると相手は息を吐いて弛む。

 

押さえた時、そこに硬結があっても、硬直があっても、過敏があっても、「快感のある痛み」がある。押さえてただ痛いだけで、快感がない時は押す場所が適当でない。

押す時は、快感のある痛みの範囲を越えないようにする。痛い、と言って逃げようとする中にも快感がある、という押さえ方をし、その範囲を越えない。快感を保ったままで強くも弱くも押さえられるということが大切です。

そういう場所を早く見つけられるように練習を繰り返すことが必要です。

押していって、相手の呼吸が深くなり、体全体が弛んで来れば上手くいったのです。

体中が楽になる処というのは、人によって異なっています。ただ、この体癖の人はここ、という傾向がありますので、体癖と関連させながらこの練習をすると、どこを押さえれば一か所で全体が弛み楽になるかということもだんだん判ってきます。

 

今日の講義はこれで終わります。