野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶⅡ(54)痛み、苦しみの心理について

I先生。「前回は痛みの質の違いや、その利用について説明しましたが、今日は、もう少し踏み込んで、痛みや苦痛が我々にとってどのようなものかを考えていきたいと思います。」

 

痛みは、一般的に言えば、誰もが嫌がるものです。ところが、実際には痛みや苦痛が嫌ではなく、むしろ快感にさえ感じる面、マゾヒスティックというような面がないとは言えない。病気が早く治ってしまいたくないといった未練症状を起こすことも多く、そうした苦痛を経過しないと安心できないといった人もいる。難行苦行しないと、しっくりこない人がいる。断食して健康になった、安静にしていたから良くなった、こういう苦労を乗り越えたから良くなった。すいすいと良くなったのでは、なんだか本当に良くなったという気がしてこない。そういう人がいます。そういう人の中には、命がけの外科手術をやったということで、安心感を得たという人もいる。病院に何日も入院したということで良くなる人もいる。そういう形式を踏まないと良くなったという安心感が得られないという人は随分いるのです。

実際に操法していくと、人間というものは、いかに苦痛といったものを愛好する存在であることかが、よく判ってくると思います。

ここで言っている苦痛というのは、物理的な刺戟による痛みとか苦しみというものだけではなくて、不愉快な経験や他人から侮蔑された経験、あるいは食べたいものが食べられなかった経験、やろうとしたことが出来なかった悔しい経験、そういったもの全ての苦痛についても同様です。そして、そういう苦痛を意外にも愛好しているのではないかと思われるケースによく出会うのです。

もちろん、意識では嫌だと思っているんですよ。ところが心の奥にそれを望んでいるものがある。

苦痛に出会い、それに耐え乗り越えることが、良くなることなのだと、苦痛というものに信頼を寄せている人が意外に多いのです。体でそう思っている。

 

熱が出ないで通ってしまったのでは気味が悪い。苦しくなく通ってしまったので、病気をやったような気がしない。そこでわざわざ断食をしてみたり、これこれは食べてはいけないと考えたりして、いろんな不愉快なことが多ければ多い程、どこか安心が出来る。

一種類の薬を飲むより、七種類飲んだ方が安心できる。飲みやすいものより、苦くて飲みにくい薬の方が効果があるように感じる。病んでいる自分の周りの人たちがおろおろするほど快感を感じる。周囲が大丈夫だよと、悠々と構て見られると、だんだん不安になる。

そのために、そういう人にとっては、養生というと、苦痛や不快が伴ったものを良いものだと思うし、またそのようにすると体が働き出してくる。食欲不振になると、消化剤を飲んででも食べようとする。

 

しかし、こういうことは考えてみればおかしなことです。戦後の食糧難の時には断食など誰も考えていなかった。食べ物が豊かになって来て、断食する人が増えてきた。

 

難行苦行して出世した、成功したなんていうのも皆同じ事です。何事かを成し遂げる人は、やってきたことを難行苦行だなんて考えたことも無く、ただ気楽にどんどんやれて、面白くてたまらないから進んで努力しただけなんです。難行苦行を耐え忍んだような話をする人は、時に出世することがあったのかもしれないが、それを耐え忍んだからできたのではない。

 

他の治療法や養生法、健康法というのは、自ずから治っていくような、われわれのやっている整体操法や触手療法と比較すると、多少によらずそういった耐え忍ぶとか苦しみを経過するといった要素を持っています。

苦痛を耐え忍ぶことで良くなっていく、ということはあるのですが、逆にそういうことで病気に箔をつけたために悪くなってしまうという面もあるので、一概に苦痛を耐え忍ぶだけがいい方法だと言うわけにはいかないのです。

 

前回、敢えて痛みを作ってそれに耐えさせるという方法を練習しましたが、それも治療の一つとして考えておくことが必要な場合があるということでやったわけです。なんでもなく出来ることを、あえて大変な治療方法であるかのように行う。

 

昨今のように、塩を断たなければいけません、砂糖は食べてはいけません、安静にしていなければいけません、と自分以外の人から良かれとして強いられることが当たり前のように行われている現状がありますが、本来そういうことは他人が強要すべきことでは無いと思うのです。そういうことは自発的に行って初めて効果が得られるのです。

 

他人から強いられたことというのは、もしそれを行えなかった場合、そのことが不安を増大させ、却って病状を悪化させることが多いのです。

しかし、そういうふうに患者に何事かを強いるということが治療の一環であるかのように行われている現状は、とても奇妙だと思えるのです。

みんな嫌なこと、不愉快なことを我慢している。しかもその上に脅かされるようなことにも耐えて、怖がり、不安を持ちながら命がけで治療を受けている。

そういった現状があるなかで、ときに敢えて痛みをつくって、苦しみに耐えることを信頼している人に行うということが、それなりの存在価値を持つものであることは、理解出来るのではないでしょうか。

 

整体操法は、実際は快感だけを追求する。そのなかに敢えて痛みを作り、相手を不安がらせたり、耐えさせたりするということは、おかしいのではないか。当然そうなりますね。しかし、それが効を奏することがある、ということも一応覚えておいてください。

 

これから実際に操法をやっていく中で、相手にいろいろ制限したり、我慢させたり、忍耐させたり、痛がらせたり、不愉快だったりということが必要なことも出てきます。われわれはそういうことを、不愉快なこと、苦痛を与えることという面から考えるのではなく、それを活用して、どのように使えば相手の裡に回復する力を呼び起こせるかと考えて、もう一歩積極的に前に進ませる。

痛い時に、それが苦痛でないものと相手に感じさせる。相手に痛いと言わせないように痛みを感じさせる。それによって、痛みの持つ効果は一気に上がるのです。

本格的に相手を調整しようとする場合に、そういうことが必要になる事がある、ということです。

我慢させてそれを表現させなくしてしまう。そういう痛みの活用の仕方があるということです。敢えて作った痛みを、「痛い、痛い」と言わせてしまうと、それで発散させてしまって効果が得られない。これは相手の意識に対して行っているのではないのです。痛いのを堪えさせて、言いたい気持ちを封じてしまうと、効果が上げられるのです。

 

技術がもっと上達すると、痛みなんてことは抜きにして、相手の心の中でだけ嫌な感じがし、痛みを感じ、苦痛を感じるという事柄だけを、言葉でスパッと与えることによって、治っていくようになる。そうなれば、わざわざ痛みを作るなんていうことは野暮なことなんです。

 

快感によって回復につながるということもあるが、それよりも苦痛に耐える時の方が、もっと回復する力は働くのです。

しかも、それを自覚的に耐えると、さらにいい。能率で言うとそのほうがいい。

 

たとえば、甘いものだけを制限して食べさせないと、本人は苦痛です。そういう苦痛を治療に結び付けることはできる。もちろん誰にでも良いというのではない。三種の食物制限、上下の睡眠制限、捻れの勝負無視、前後の安静といった違いもある。

捻れと言うのは、何もさせないと退屈してしまう。断食でもマラソンでも何でもいいが、何かやっていないと不安なのです。だから安静にして、何もするなと言われるのが苦痛になる。そんなように、相手の最も不得手なことをやらせると、その苦痛と感じる心が、回復誘導に繋がってくる。

そういう、日常のなかで、相手の苦手なことをやらせて、その苦痛を感じさせれば、痛みを作るなどということをしなくても同様の効果を発揮させることができるのです。

 

今日は、ちょっとややこしい説明になってしまいましたが、意のある処をくみ取っていただきたい。今日はこれで終わりにします。