野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

「気」とは何か

野口整体における「気」とは何か。この問いは、いつも私のなかにあり、しかも問いのままで形を結ぶことがない。野口氏の思想や技術を理解するうえで、これほど重要な言葉であり概念であるにもかかわらずである。

この「気」に対する私の漠然とした感じが、意識の中でいつも課題となって波打っている。

そこで、この問いの答えを見つける手懸りの一つとして、野口氏が講習会などで一般の人びとを前に、その都度言葉にされてきた「気」についての口述記録などをもとに、このブログページに集めてみようと思う。

幸いブログのページは、気づいたときにその都度書き加えることが出来るので、とても便利なツールだからだ。ただ、読者の方にとっては、いつどのように書き加えられたのか判然としないという不都合さはあるにしても。

 

 

野口晴哉著『健康の自然法』に「気」に関する次のような記述がある。

これは本ブログ(2018.8.28)で以前取り上げたものだが、再度引用してみる。野口氏がアメリカに留学中の長男に送った手紙の一節である。

 

「愉気って何だという質問だが、人間の気力を対象に集注する方法だと考えたらよかろう。人間の精神集注は、その密度が濃くなると、いろいろ意識では妙だと思われることが実現する。穏やかな太陽の光でも、集注すると物を焼く。光はレンズでとらえるのだが、気は精神集注によってちからとなる。それ故、愉気するには高度な精神集注のおこなえること、恨みや嫉妬で思いつめるようなこころでない、雲のないような天心が必要である。・・・

人間というものは元来、自分や自分の家族の体のけがや故障を正し、また癒す本能を持っている。この本能の働きを高め得れば、人間はいつでも、どこででも自分の身を護れる。生きている人ならだれでも触手療法はできる。痛いと、思わずその部分を押さえる。血が出ると押さえる。それが自然の触手療法だ。創傷でも打撲でも、その部分に手掌を当てて、その思わず押さえた手を放さないで、心を集注し、気を凝らして、裡の動きが感ずるまで手をあてておくことが、パパの説く触手療法だ。手掌に冷風感や蟻走感や温かい感じがするが、それが経過して何も感じなくなったら止めればよい。注意を集めたり気を凝らすと、感覚も体の働きもさかんになる。・・・天来の勘も、気を凝らしていることに自ずと働き出す。だから手掌に気を凝らすと、異常のあるところ近づけただけで異常感を感ずる。触手療法の感覚はこういうものらしい。触覚ではない。そういう知覚以前のものらしい。しかしパパは、病気している心を正すことが一番大切なことだと思っている。病気したと思っている機会に、その心を正すことが本当の健康を理解させるに都合が良い。精神が集注し統一しやすい為だろう。心の姿勢が正しくなって触手療法を行い施すことがパパの主張する触手療法なので、この点病気の心のまま体の病気を治すつもりで触手するような行為はパパの触手療法ではない。パパの触手療法は体の正常な働きを発揮し、その機縁に体の本当の使い方を会得させることであり、ただその為にだけ触手療法を行う。」

 

野口晴哉口述「整体操法初等講座16(1975.7.4)」

「・・・この気というものをそう問題にするのは何かと申し上げますと、人間の行動が、気の有無でまったく違ってくる。気が集まっている時と、集まらない時と行動が違う。・・・同じ人間の動作でも、気が入っている時と、気が抜けている時ではまったく違う。そこで気というものを除いて人間の動作だけを説明しても意味がないのです。

・・・人間の行動というのはエネルギーの集注によって行われるが、その集注度合いによってまた意味が違ってくる。

・・・水を浴びても、浴びせられた場合には風邪をひいてしまう。自分で浴びた場合には温かになる。・・・

人間の動きは、動きの中にある要求、それを観ないと判らない。その要求というのは一つのエネルギーです。その要求の鬱滞度合いが判らないうちは鬱散する勢いが判らない。エネルギーを鬱散するから動く。・・・

物理学はエネルギーを想定することによって非常に進歩しておりますが、生理学ではそのエネルギーの想定がない。そうすると生理的な知識を持って、人間の行動を観察しようとしても出来ない。不思議、不思議なのです。・・・