野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の提唱

野口晴哉著作全集第三巻』に「整体操法の提唱」(p.439-617)と題された昭和二十二年から二十六年ごろ、つまり敗戦後間もなくの時期の野口氏の文章がある。

 

そこには野口氏が「整体操法制定委員会」の委員長を引き受けることになった動機が次のように表現されている。

 

「(整体操法は)東京治療師会に於ける手技療術を行なう人々が、その技術を交流して一つの共通操法を産み、それを精神療法を行なう私の立場から裏打ちして標準操法を制定したのでありますが、・・・私が整体操法を提唱しました目的は、手技療術の標準操法を造る為ではなかったのであります。

電気、光線、磁気又いろいろの器具又薬物を用いて身体外部からはたらきかけ、体を整え、自然治癒を図る一切の治療行為に呼びかけて、これらが整体操法として行われることを希望したのであります。手技療術に携わっている人々が第一番にこの呼びかけにこたえてくれましたので、その手技療術の為に力を尽くしたのでありますが、私はこれからも、他の治療行為に呼びかけて、一切の治療行為が整体操法として行なわれる日を待っているのであります。これは人間の医術の革命であります。(中略)

 私がその(整体操法制定の)委員長になった理由は、私は精神療法で立っている者であり、手技療術に就いて無色なるが故である。・・・私はただ型を調える為のパイロットを為しただけで、整体操法そのものとは私は関係が薄い。それ故適当の機に整体操法から身を退く考えでいるのであるが、全国的にこれの標準操法が決定される日迄はお役立ちたいと思っている。

手技と器技の標準が確立すれば療術法制化の根拠ができるのであって、業者自らがこの問題を解決しないで法制化を得ようとしても無理である。・・・希くは手技療術がその本来の立場を自覚し整体操法となり、器技療術もまた器技による整体操法を制定して一元化する運びに至って貰いたいものである。 

斯くしてのみ医業類似行為に非ざることが明瞭になり、現代医術と別個の立場を主張できる・・・」(441-444)

 

ここには日本のすべての手技(および器技)療術を一元化し、統一された整体操法を根拠に、それを法制化したいと希求する、野口氏の敗戦直後期の、熱い志が伝わってきて興味深い。

国家による<医>や<医療・医術>の位置づけのありかたや、それをめぐる<法制度>のありかた、あるいは個人の療術家と治療師会という組織との関係などについて、若き野口氏が当時格闘し苦悶した姿が鮮やかに感じられるものとなっている。

 

くり返し「整体操法とは何か」について語る野口氏の次のテーマは、医の倫理についてである。「生命に対する礼」というのは、野口整体思想の根幹をなす倫理観と言えるが、それは操法する対象としての他人だけでなく、自分自身に対しても同様に向けられる。

そして野口氏は、操法する者と受けるものとの関係について、次のような高い倫理意識を要求する。

整体操法を行うということは、食べる為の職業であってはなりません。整体操法は人間の相互の愛情と誠意の現れであって、利害得失によって行なわれるものであってはならないのであります。・・・世相がどのように乱れましても、医術ということが営利の為に行われることがあったとしても、整体操法を行う同志の人達は、医は仁術という古諺をすててはなりません。三度のめしを二度にへらしても、腹一パイ食べる為にこの道をそれてはなりません。・・・一人の信念は万人の行動のもとです。この世の中が乱れれば乱れる程、吾々は自分の信念に生き、人の信頼に生くる欣びを知って整体操法を行ってゆきたいものであります。」(447-448)

 

もちろんこれは、整体操法を生業とする高度な技術と認識を学んでいる人たちに対してのものである。当時の野口氏の弟子への指導は、プロを志向する人たちにのみ可能な厳しい鍛錬がなされており、一般の人々はただそれら指導者から操法を受ける立場としてしか関係を持ち得なかった。

整体操法が、一般の人々に共有可能となるためには、整体協会が体育団体として認可設立され、その<体育団体>としての教育活動のために、多くの専門家を養成する必要が生じてきて以降のことである。

 

そうした経緯について、田野尻哲郎氏の「野口整体の史的変容ー近現代日本伝統医学の倫理生成過程ー」に詳しく論じられています。(註:私はこの論文をネットから検索しました。)田野尻氏はこの論文で、野口整体の理論と実践についてRichard KatzのEducation as Transformation(意識および社会的変容としての教育)という概念を援用しながら、詳細な分析を行っています。是非、検索してみて下さい。

 

すこし話題が逸れますが、見田宗介氏(東大大学院教授)については、「月刊全生」誌上(平成20年4月・5月号)に「美術の人間学」1・2を投稿されていますのでご存知の方も多いと思いますが、その見田氏周辺から田野尻氏や永沢哲氏をはじめ、多くの野口整体研究家が輩出されていることも、私にとっては興味惹かれるものがあります。

 

 

 

 

 

整体操法の基礎を学ぶⅢ(76)型、処、基本型など(最終回)

今回で、「整体操法の基礎を学ぶ」のⅠ・Ⅱ・Ⅲの最終回となります。これらが、私と私の知人がI先生から学ばせていただいた講習会の資料のほとんど全てです。講習会が終了したあとも、私が困ったり悩んだりしたときには、長時間電話でご指導を仰いだり、直接個人指導を受けたりはしてきましたが、結局、「高等講座」は開講されないまま今日に至っています。

このブログでは、I先生から戴いた資料をもとに、私なりの駄文も交えながら進めてこれたのですが、今後はそれも叶わない事ですので、「月刊全生」や「著作全集」を読み進めながら、整体操法についての記述を続けてみたいと考えています。

しかし、間接的にとはいえ、野口晴哉氏の肉声に接することの魅力に優るものはないと思いますので、手元にある「四の日講座」「七の日講座」「高等講座」の一部から、読者の皆様と口述記録の<愉しみ>の共有ができれば、とも考えています。

私が野口氏の口述記録にこだわるのは、それが野口氏による<語りことば>がそのまま記載されているからです。<語りことば>は、当然野口氏の身体を通して発せられたそのままを可能な限り忠実に再現しようとする意思によってなされているわけですし、何よりも眼の前にいる具体的な受講生の息遣いの反映としても、その雰囲気が伝えられるものになっている。その雰囲気、息遣い、そこに流れる<気>、それらのものが織り込まれていると思えるからです。

整体協会が会員向けの定款にみるような、あの文体、あの抽象的な言葉や、整体協会についての行政手続きの必要上作成された「整体協会の設置の趣旨およびその理由」といった文章からは決して感じとることのできない、ある種の魅惑的な誘惑が、口述記録には溢れています。

 

では、整体操法講座の最終回の記録を始めます。

 

 

I先生「整体操法講座の十一回目、最終回となりました。そこで今日は、型や処について、また操法の基本形といったことについて説明してみます。今後皆さんが、実際に整体操法を行っていく場合に、相手のいろいろな訴えを聞くことになると思いますが、その際の考え方の参考になると思います。実際に操法を行なっていかないと、次の段階の高等講座というものに行くことには無理があります。高等講座というのは、心理指導的な面が多くなります。しかしそれが何時になるか、それは何とも言えませんが、これまでやってきた様々な練習型をもってすれば、可成りな程度の操法は出来ると思います。効果も出せるはずです。それまでは、これまでのことを繰り返し復習しながら、実地の経験を積んでいってもらいたいと思います。では始めましょう。」

 

相手の背骨を観察していて、分かりにくい場合があります。その理由の一つは、相手の身体が弛まない為にそうなる。なかなか弛まないという時は、まず胸椎の十一番に手を当てて、息を吐かすだけ吐かせて、吐き切った時にゆっくり放す。それを二、三回やると弛んできます。相手の息がフーっと入ってくればそれでいい。そして、腰椎の二番に手を当てて、軽く揺すぶる。

そうすると、背骨がずっと調べやすくなります。この揺すぶるというのも、ごく軽く動かして全部が動くのが望ましい。強くやってはいけない。軽く触る。背中の操法をする場合でも、ある一か所だけを押さえるというのは本当ではない。揺すぶりながら弛んできたところを押さえていく。どこを押さえるにも揺すぶりながら押さえると、その局部が強く押されたという印象が薄くなる。触ったら揺すぶっているようなつもりで、少し揺すぶるということに慣れること。

 

これまで練習型というものをずっとやってきましたが、この練習の型というのは、その構成は操法をやっていくのに必要なものを、一通り身につけるために組まれたもので、やる人自身の身体を、操法するのに適した状態にするためです。

それが「型」というものの第一の目的です。ある部分を操法する場合に、常に身体全体の力を使っていく。だから肘をつけたままで、身体ごとで押さえていく。指だけではやらない。十年、二十年とやっていれば自然に決まってくるものですが、それを短期間で身につけるために、型の練習型がある。

ところが、自分の型が決まっていても、相手の身体の型を決めないと力を使いこなせないことが分かってくる。だから相手の身体の「型」を決めていく。相手の身体の力を使っていく。相手の力が、こちらの押さえる処に集まるように手伝う。そうすると少しの力で強い力として働きかけることが出来る。相手の身体の力を使いこなすということがないと、自分の型を決めてもどうにもならない。

相手の身体の力を使いこなすには、相手がいつ緊張し、いつ弛むかということを知っておかなくてはいけない。そのために、呼吸の間隙という問題がでてくる。相手が無意識に緊張したり弛緩したりしているのを掴むには、吸い切った頭、吐き切った頭を使っていく。それが出来ないと緩めたり、引き締めたりが出来ない。それが出来れば、相手の力の受け止め方をこちらで支配できる。「型」には、そういう方法が全部組み込まれている。したがって、型を詳細に練習していると、いつの間にかそういうことが身についてくる。身につくまでには時間がかかる人もいるが、早い人もいる。しかし、誰にでもそれは身につくようになっている。

相手の身体の状態に合わせることが操法するコツです。

それから、相手の身体を観察するという場合、調べるたびに変化しているということがあるが、そういう処は観る必要はない。身体はいつも変化している。我々が観るのは、変化している中に在って、変化しない異常を見つけていくことにある。異常に見えても一晩寝れば変化しているようなものは対象にはならない。ろれは臨時の異常である。十二個ある胸椎の中で、ほんとうの異常というものはそう幾つもあるものではない。

 

操法の「型」を練習で上手に出来るようになったからといって、操法が上手になったとは限らない。実際の操法では、「型」は型通り使うものではないからです。しかし、練習では、型通りに丁寧にやって下さい。

 

練習型で「処」について何度も見てきましたが、今日はもう一度おさらいをしておきます。特に「処」におけるさまざまな「関連」についてざっと見ていきましょう。

 

「急所」というのは、たとえば気絶した人の体じゅう揺すぶっても意識が戻ってこない。ところが胸椎の七番をショックすると戻ってくる。生かす時にも殺す時にも「急所」というものがある。

身体は細胞の集まりで、身体のどこでも同じように公平に出来ているかというとそうではない。或るところを打撲すると死んでしまう。事故であちこち打撲しても急所でなかったら治ってくる。

「急所」というのは、死ぬ方向ばかりではなくて、生きる方向の「急所」も沢山ある。整体操法は、生かす方向の急所を使って、相手の潜在体力を呼び起こしていく。

 

頭の「急所」を、尖ったもので軽く叩いてみる。そこが特別に痛い場合、体の他の部分の異常と関連がある。

そういう処が、頭部第三調律点の付近にあれば、鳩尾を中心とした処に異常がある。第四であれば、腰を中心とした処に異常がある。第二の周辺ならお腹に異常がある。

頭部第一調律点は身体の反射を鈍くする処。第三は、括約筋を引き締める処。

眼が疲れている時は、こめかみを持ち上げる。こめかみの左右に、厚い薄いの差があるばあいは、厚くなった方を薄くなるまで持ち上げる。これは脳溢血の予防にもなる。

鼻の下は、喀血を止める急所。そこをトンと叩くと止まる。

生理不順の場合に、顎の骨を下に押し下げると整ってくる。

耳の前と後ろは、耳のいろいろな故障を治す処。ここは泌尿器の故障にも関係がある。耳鳴りの場合、耳の後ろの突起部に愉気または軽く叩いていると治る。中耳炎の時に、そこが腫れているのは、脳に異常を起こしている。ここは、膀胱炎に効果がある。

三叉神経痛は、眼窩と鼻翼と耳の前を押さえてから、胸椎の三、四、五を押さえる。

頸動脈の処は、脳の血行の急所。脳軟化症や老人の惚けるのや、半身不随と関連。

惚けてくると何も慾がなくなってくる。生きているのも退屈になってくる。感覚が鈍くなってくる。また余り病気をしなくなってくる。頭の身体に対する支配というのは非常に大きなもので、頭と首の連絡が悪くなってくると、つまり惚けてくると死ぬ方向に近づいていくということになる。惚けというのは身体の保護の一種かもしれない。惚けなければもっと早く死ぬ。とにかく惚けだすと、身体は細かい反応を示さなくなる。だから鈍い身体を治す時は、首から治さなければならない。

頭と体の関係というのは非常に大きく、頭のちょっとした過敏が、身体の故障と非常に関係が深い。

 

頭の操法は、最初のうちはすこぶる気持ちがいいが、少し経つと不快になってくる。その時は首が硬くなっているので、その硬いところを押さえる。右か左か片側ずつ押さえる。一、二回押さえると頭の熱がとれてよくなってくる。これを一組としてやると、いろいろの故障は頭で調整がつく。

 

それから季節の問題について。春は冬からの惰性で栄養過剰になっている人が多い。冬には老人などの弱った人がよく死ぬ。それだけ冬は消耗が多いということです。

暖かくなれば消耗は少なくなる。だから暖かくなっても、冬と同じように食べていると、急に食べ過ぎとなり、胸椎の六番右と胸椎九番の右が硬直し、さらに胸椎四番の左に影響が出る。飲みすぎ、食べ過ぎの現象です。

こういう食べ過ぎ状態の場合は、定石通り胸椎九番を押さえても治っていかない。ところが腰椎の一番を押さえると、すーっと変わってくる。

これが秋だと、腰椎一番を押さえても治らなくて胸椎八番を押さえると治ってくる。

冬だと、食べ過ぎからくる心臓の苦しさや、手足の異常などはなかなか治らない。このように時期がある。時期によって押さえる場所も違う。

冬に食べ過ぎの状態になってしまっている人は、春まで待たねばならない。

 

秋や冬は「引き締め」の操法をする。春は「弛める」操法をする。弛める場合は、弛めようとするところの周辺を引き締めると弛んでくる。

 

気候の変化で身体のある部分が過敏になってくる。呼吸器系の人は<台風>に過敏である。肝臓の弱い人は<雷>に過敏、リウマチや神経痛のある人は、<雨>が降る時に異常感が強くなる。こういう気候の変動による身体の変化に乗って操法を進めると操法が非常に楽になる。

 

また、人の心の変化に乗って操法を進める時期というのもある。大抵の病気というのは、二週間ぐらいで良くなる。そこにいろんな治療法を加えると、二週間以上かかってしまう。二週間、何もしないで待っている方が、いろいろ工夫をこらしてやるより早く治ることがある。それも一種の操法と言える。

 

操法は、誰でも、どこでも、いつでも同じ操法をすればいいかといえば、そういうわけにはいかない。愉気でもそうで、離して愉気をした方がいい場合もあれば、触れて愉気した方がいい場合もある。膿が出ている場合や、皮膚病の場合は離して愉気した方がスーッと効果がある。ものもらいも話した方が早い。過敏なリウマチも同様。

 

触って愉気をすることが有利なのは、皮膚と皮膚の間の空気を遮断することで、汗をそこにとどめて乾かなくさせるということによる。

一方、身体の鈍いところは、叩くか強く押さえるかしないと反応しない。そこで押さえること自体が刺戟となるように強く押さえて愉気をすると、気がよく通る。

頭はゆっくり押さえ、腰は強く押さえた方がいい。ただし、「型」で押さえないと、力が相手の中に入って行かない。その鈍りが除かれると、非常に敏感になってくる。

 

身体は、眼と肺の関係、眼と泌尿器の関係というように、離れた処とも関係している。

 肛門の弛んでいる人は、物ぐさな人が多い。やろうとしても億劫になってやらない。それは肛門、仙椎の四番、尾骨、腰椎二番、胸椎の四、九、八番と関連している。

 

尾骨を刺戟すると、最初に変動するのは肋骨です。鳩胸や、肋骨に固有の異常を持っている人の尾骨はみな狂っている。

尾骨をきちんとすると、生殖器の発育不全やその感覚の異常といった構造上の異常が治ってくるが、治る前に肋骨が拡がってくる。

六種の人の尾骨は巻いてしまっていることが非常に多い。

前屈状態と、尾骨。腰椎一番、五番、あるいは胸椎の三番と四番と尾骨。あるいは胸椎の八番と尾骨は関連している。

結核の人は頬が赤くなる。なぜそうなるか分からない、ただ自律神経の異常だということは分かる。

こういった訳の判らない「関連」というものが、身体には沢山ある。たとえば生理閊えると鼻血になる、ということの関連は分からない。鼻に出るものが口にまわって出ることもある。

卵巣の悪い人は、嗅覚がなくなってくる。臭気はわかるが香気は分からないというのもある。これは頸椎の三、四番の関連。胸椎の十一番にも関係している。

整体操法の「基本形」というのは、そういったさまざまな「関連」を追求して作られたものである。

基本形では、右の足と左の手の操法、というように体の上の方と下の方では左右逆になっているというものが多くあります。もちろん、同側の操法もある。

エンボリーのような、脳の運動系の故障、錐体路系の故障の場合は、同側の操法になる。

ところが、眼も胸もお腹も全部右側が悪いというような場合は、左右の重心の問題である。頭との直接の関連の異常ではないというものである。それは自律神経系の問題と言っていい。血管系統の異常はそうなる。半身全部がそう感じる人があるが、それは脳の関係ではない。

脳の関係の場合は、頭の異常と身体の異常が逆になっている。

 

ところで、頭の中に生じたいろいろな興奮は、皮膚と関連している。大脳が何かに対して集注しそれが持続したような時に、皮膚に変化を生じさせる。緊張すると汗が出やすくなったりするが、暑いから汗が出るというよりも、心理的な緊張による発汗の方が激しい。

このように考えると、脳の血行と頸椎の二番、および胸椎の五番は、同じ系統のものだと言える。ただし、胸椎五番の発汗は、主として生理的な汗腺と関係している。

大脳緊張で発汗する汗腺は、脇の下や額、あるいは掌である。それらは心理的な興奮と関係が強い。発汗中枢そのものは同じなのです。そういう意味で、頸椎の二番と胸椎の五番とには関係がある。

 

また、大脳緊張には、皮膚病と直接関係がある。特に不安というものは皮膚病を生じさせる。潜在的な不安がなくなると皮膚病がなくなるということは沢山ある。従って、恥骨や腰椎の一番が、胸椎の五番や頸椎の二番に関連することが分かる。

胃袋の異常というもののうちで、首が硬くなっているものがあるが、それは胃潰瘍や胃酸過多と関連している。胃袋の異常というよりは、大脳緊張の過剰に伴って頸の硬直がもたらされたというので、大脳の緊張の反映である。

胃潰瘍だから胃を切り取るなどというが、そういうれは恥ずかしいから顔が赤くなったと同じようなことで、不安とか異常な緊張による胃の収縮で胃酸が多くなったり、潰瘍が出来たりすると考えることが出来る。

そういう場合は、頸椎一、二、三、五、六と胸椎八との異常が重なっているので、頸椎を調節することの方が重要となる。

胸椎五、六、八が異常となっている場合は、多くの場合腰椎や腰部活点に変化はなくて、頸に変化を起こしている。腰部活点に変化を起こしている場合は、胃袋そのものの異常と考えてもいいが、腰部活点に変化がなく、変化が頸椎の二、六、七と関連するものは大脳緊張の関連と考えることができる。

人間はいろいろ空想するが、その空想によってからだも変化する。空想で身体が変化する場合は、空想に感情が伴った場合である。悲しかったことを思い出すと、急に涙が出てきてしまう。昔の嫌だった感じが起こってくると、急に腹が立ってくる。そういうのは、記憶というよりは空想であり、感情を伴ったものである。

耳というのは多くの場合泌尿器に関係する。足の小指は視力と関係する。親指は眼球関係。

胃袋が縮まると腸が働き出す。内臓反射。噴門が閉じると幽門が開く。そんなように、部分の臓器自体も関連しているが、臓器同士が互いに反射しあっているということもある。

だから整体操法の「型」だけを学んでも、そういう関連のことを知らないと、効果を上げるのが難しい。こうした様々な「関連」を知っていくことが「基本形」の勉強ということです。

操法の場面で、人はいろいろな異常を訴えます。

たとえば「右の肩が凝る、首が曲がらない、大便の色が黒い、あるいは逆に白くなる、そして時々痛む」と。

胆嚢は右肩と関連がある。胆石が出るような場合、まず肩が凝ってくる、肩から痛んでくる。そして胆石が出来るのは、胸椎四番の左、胸椎九番の右と関連がある。そして胸椎の九番と腰部活点、腰椎一番と関連があるような場合と右肩が凝るというのは一組である。

 

口の中は生殖器生殖器といっても卵巣ではなくて、子宮に関連。特に舌は関連が大きい。生殖器の働きを抑えていると、舌がよくぺらぺらと動いてくる。これはそういう生理的な機構が働く為で、その人達がお喋りの為に動くのではない。そうしないとバランスがとれない為である。その動くのが人を褒める方向に行くのと、亭主の悪口の方向に行くのとに分かれるが、それはその人たちの教養の問題で、動くという面では同じである。それを抑えていると、口の中の分泌物が多くなってくる。唾を飛ばして喋るなんていうのは、相当に余っている人たちです。

口内炎は、腕の処を押さえて治すが、それは直接治す場合です。しかしその前に骨盤の位置を治さなくてはいけない。腰椎三番、仙椎二番も口の中と関連する。口内炎の場所や化膿活点にも関連があり、胸椎七番の左にも関連がある。

 

足の裏は腎臓に関連がある。腎臓の悪い人は、足の裏が熱くなっている。足の裏は腎臓関係で胸椎十番と関連するが、足の「指」はいろいろな処と関連する。

足の親指は右の肩の凝り、あるいは肝臓に関連、左は胸椎七番や眼に関連する。小指も眼に関連する。眼に関連するものは泌尿器や腎臓にも関連する。足の甲は、多くは仙椎二番、四番に関連する。

身体が浮腫んだり、生殖器が悪かったりというのは、足の裏や足の甲、足の指の操法で良くなることが多い。特に、心臓が弱ったような時には、足の指というのは非常に関連がある。足の指を引っ張ると心臓の縮む力が増えてくる。

静脈瘤を治す場合、静脈瘤の部分に直接愉気をして治すのは、臍から下に出来ている場合で、肩の辺にそれがあるような時には非常に危険である。

静脈瘤が鬱血するのは、心臓に戻る復心還流の働きが弱いからで、お腹の中の収縮が良くなってこなくてはいけない。肝臓の収縮する力も増えてこないといけない。その為に腰椎一番、二番、三番、胸椎四番の操法が大事で、とくに心臓の収縮が弱い場合には、静脈瘤の恢復は難しい。

 

内臓についての「関連」もいろいろある。

皮膚は呼吸器に関連する。だから汗を引っ込めてしまうと風邪を引く。風邪をこじらせると腎臓が悪くなる。呼吸器と腎臓が関連してくる。そして腎臓が悪くなった時に汗が出ると良くなってくる。

腎臓はまた皮膚病に関連がある。腎臓、皮膚、呼吸器はいつも一組になって動いている。だから腎臓が悪い時に、腎臓だけ追いかけていては駄目で、呼吸器や皮膚の働きを増すようにすると、良くなってくる。

皮膚に出たものを体の中に追い込むと、浮腫むことがある。あるいは肺炎などを起こすこともある。皮膚が働けば治るが、皮膚が働かなければ泌尿器に異常を起こしたり、浮腫んだりする。そうのように、一連のものとして見なければならない。

静脈血の還流の悪い時は、中毒、リウマチ、痛風、神経痛と関連し、胸椎九番と胸椎四番に関連し、同時に腰椎一番にも変化を起こす。そういう関連を見ていく。

 

初等講座では、一つ一つの椎骨の持つ意味を知って、胸椎六番は胃袋との関連、胸椎八番は胃袋の拡張状態と関連、胸椎十番は腎臓と関連というように見てきましたが、それだけでは実用にならないのです。

実用になる為には、今見てきたような「関連」というものを「基本形」として学んでいかなければならない。

体じゅうにある様々な「関連」を知って、その「関連」する処を調整しなくてはいけない。

熱が出たからそれを下げようとしているだけでは本当ではない、というかそれは間違いなんです。熱が出た時に変に下げると、皮膚が縮んでしまう。そうすると治りが遅くなってしまう。われわれが発熱のときに、後頭部を温めたり、足を温めたりすると風邪が早く治るというのは、皮膚と胸椎三番と胸椎十番の「関連」を利用した為で、汗が出ない時には胸椎の五番や十番を刺戟する。呼吸が苦しい時には、胸椎の五番、十番を刺戟すると楽になる。

胸椎三番、四番を刺戟すると浮腫みがとれてくる。

皮膚はまた、頸椎二番、つまり脳の血行とも関連しており、ここの硬直とも一緒になっている。

こうした「関連」を知って、関連して閊えている処を調節していくというのが本来のやりかたで、腎臓が悪いから腎臓を対象にするということは、実際の場面ではおかしなことと言える。

肛門が弛んでいるような場合に、頭部第三調律点を叩くと締まってくる。心臓が悪い場合も、ここを叩くと心悸亢進も治ってくる。

こういうことは、偶然そうなるのではなく、「関連」があるからそうなるのです。

整体操法というのはこういう「関連」を利用していくのです。また「関連」を利用することで、操法自体の時間が短縮でき、しかも簡単に対処できることに成功したのです。

 

腰椎の二番に異常があれば、それはすぐに胃袋の収縮、腸の収縮、消化器の異常と考えることは出来るが、それだけでは駄目である。もし胃袋なら胸椎の五番、六番と「関連」がある、そこに変動がある。もしそれが皮膚との「関連」であれば恥骨に過敏が生じている。また、上頸にも変化が生じている。そしてそのことを通して、胸椎三、四、五、十番という汗や泌尿器との「関連」を確かめていって、はじめて腰椎二番の変動の意味や実際の性質というものが確かめられる。

 

こういうことは、ノートに書いて覚えようとしても大変で、ノートをなくしたら何もできなくなってしまう。そういうことで「基本形」というものを組んであるわけです。

 

「基本形」で示したことは、病気というものがその「基本型」に示したようにキチンと沿って経過している。そこに示したもの以外には、めったに外れるということがない。病気にはその病気の辿る道筋というのがある。だから一つの異常が見つかれば、あっちこっちに「関連」のある異常がみつかる。その「関連」を読んでいけば、その異常の元になっているものも見当がついてくる。

 

たとえば蓄膿症の人がいるとします。鼻は頸椎の四番であるというのは初等の段階であるが、蓄膿症の人は太っている人が多い。太っていることと鼻というのは「関連」がある。だから蓄膿症の人には腸骨を調整する。太るということは、腸骨の異常によって起こるからである。腸骨というのは卵巣の動きに「関連」している。そのことが鼻にも「関連」しているということになる。

卵巣の異常は婦人科に行くとか、太っているから美容体操するとか、鼻の異常は耳鼻科に行くとかいうが、それは一連のものであって、別のものと考えるのはおかしいのです。

「基本形」の一つとして、操法を始める時に、つまり相手が操法を受けたいと言ってきた時に、一旦断る、ということから始めることがあります。それは神経衰弱の人とか、口やかましい人といった、頭の系統の異常や生殖器の異常をかかえた人を操法する場合の方法として、それがあります。

その逆に、「肯定」から始めるという「基本形」もあります。それは骨盤が拡がっている人や、自分でものが考えられない人、あるいは連想力の悪い人、記憶は出来るが連想が出来ない人、そういう体の人には、「大丈夫です」「やってみましょう」と言うことから始めます。

操法というのは一番最初が大事で、その最初が勝負のしどころで、そこで決まってしまう。あとは大抵の場合、本人自身で治してしまう。

われわれは、治るようなきっかけを作ってやればいいのです。どこまどもこちらの力で治してしまうつもりでいると難しい。

「基本形」の第一は、相手が緊張型ならば「否定」から入っていく。弛緩型なら「肯定」から入っていく。つまり体癖の奇数、偶数の違いにより入り方を変えていく、ということがある。

奇数型に人には「否定」的な面から入っていく。弛緩型、偶数型の人に「否定」から入っていくと、みなガックリして動けなくなってしまう。「大丈夫だ、しっかりしろ」と言うと元気が出てくる。

力がある奇数型の人に「大丈夫だ、しっかりしろ」などと言うと、それでなくてもしっかりしている人だから、からだが弛んでしまう。「全部まかせなさい」などというと弛んでしまう。これが操法を始める前の「基本形」です。

 

糖尿病の場合を考えると、糖尿病と言っても甲状腺が悪くなっているものもあれば、心理的な面でそうなっているばあいもあり、膵臓の異常から来ているものもあれば、栄養調節としてそうなっていることもある。

栄養調節として糖尿の症状があっても、胸椎の六番、七番が異常でなければ、栄養過剰による糖の排出であって、糖尿病としての操法は必要がない。尿に糖が多く出ているからといって、病気だとしているが、そういう場合は余分な糖を捨てているだけである。

蛋白が出ているといっても同じである。

もとろん、糖や蛋白が出ていてもすべてが問題ないということを言っているのではない。出ているだけですぐにそれを病気と決めてかかることが本当ではないということである。

糖が過剰栄養としてでている場合には、まず胸椎の九番が硬くなる。ついで右の肩が硬くなる。それは調節している場合である。異常の時は胸椎六番、七番に変動がある。そういうものを確認してから決めなくてはいけない。

だから、操法にかかる前に観察ということが大事なことになってくる。観察ということをやらないで、医者が糖尿病だと言ったので、糖尿病の操法をするというように考えたら、それは間違いである。もっと糖の出るのを観ていれば身体全体が丈夫になるということもある。胸椎九番が硬いような場合はそれにあたる。

 

病気として栄養を捨てていることがある。その場合には二つあって、甲状腺、頸椎六番、胸椎七番、あるいはラムダ縫合部の弛緩。これは頭の、間脳関係のものです。

身体に変動があるからといっても病気とは言えない。病気になって、熱を出しても、身体を良くするように働いているのなら、その熱は病気とは言えない。下痢をしているからと言っても病気とは言えない。

悪いものを出しているのだったら、調節であり、健康法である。

 

観察をしていくと、「基本形」にあう処の変化がみな起こっている。たとえば、胸椎四番左、胸椎九番右、腰椎一番の両側に硬結がある場合であれば、われわれは中毒ではないかと考える。何の中毒か分からないが、そうなっていれば中毒現象である。その中毒現象が、他の胸椎三番、四番、十番に変動があれば、今の呼吸、皮膚、腎臓の系統の変動と「関連」がある。それは身体のなかで、中毒に対する処理の動きが起こっている。肺、皮膚、腎臓はともにからだの排泄器です。

 

変動があれば、そこが硬くなってくる。硬くなるということは変動があるということだけなのです。だだ、硬いから弛めるというのではない。その硬い中に変動がある。その関連のなかで、硬結のある場所がある。それを見つけ出す。そしてそこに愉気をする。そうすると全部が変わってくる。一番元になっている硬結さえ見つければ、それ一つで仙椎から頸椎までフーっと弛んでくる。

 

操法する場合の観察の対象は、硬結を指で見つけ出すということが一番大事な観察です。知識に頼っていては観察はできない。あくまで指で観察する。

胃潰瘍の場合に出るボアス圧点というのがあるが、それは胸椎の十番に出るということが本に書かれている。ところが実際には八番にそれが出ている人がいる。体の収縮する働きが強い人はみな八番に出る。伸びる傾向の上下の人は十番に変化を起こす。胃潰瘍を起こす人は上下的な人が多いので、十番に変動を起こす人が多いのは確かだが、体癖によっては同じ胃潰瘍でも八番に圧痛が出る。だから、体の状態から出発しなければいけないのです。

「基本形」で最初にする観察は、もっぱら指で硬結を見つけることが問題になる。

それが出来ないと、「基本形」が使いこなせない。

 

まず中毒の「基本形」について。

胸椎四番左、胸椎九番右が中毒の基本になる処です。そして消化器に中毒があれば、胸椎五番、六番、腰椎一番、二番の二側に変動が起こる。ところがそういう処に変動がなくて、八番の左一側に硬結がある場合は、消化器ではなくて、一種の自家中毒です。

そこで、胸椎五番や腰椎一番に故障があれば、それは皮膚にも出ないで体の裡にこもって、神経痛や通風を作っていく。もしそれが、仙椎部に影響のあるものであれば、ガンとか肉腫のような分泌物のもたらすものです。

お腹の中でピクピクしたり、痙攣したりするのは虫の中毒のことがある。そういう場合も、消化器の異常よりは、胸椎四、九番という中毒の型を示している。

胸椎の四番、九番の変動は、中毒とみなす。食べ物による中毒か、新陳代謝の異常か、身体のなかの何処かは分からないが中毒だとそうなる。レントゲンをよくかける人もそこが硬くなる。血友病の場合もそこが硬くなっている。

それらの処理をおこなうと、神経痛やリウマチ風の状態もなくなってしまう。癌でも血友病でもその中毒する傾向を解消していく。どの症状もやわらいでくる。

四番と九番を一つに見ていくのが中毒の操法です。

その操法は、四番は一側。九番は三側。九番を刺戟すると、四番の三側が硬直してくる。そうなったら次に胸椎十番の操法を行なう。もし、胸椎九番の三側の方が硬直してきたら、あるいは九番の一側に硬直が起こったら、一側は仙椎部の操法、三側なら右の股間操法を行なう。

これが一組になって中毒の操法の「基本形」を構成している。これを「基本形」の第一号として覚えて下さい。

中毒と言うのはその範囲が非常に広くて、黴菌が直接に害を及ぼすのではなくて、黴菌の分泌する毒素で中毒することが非常に多い。そういう場合にも、四番と九番に変動を起こします。

 

胸椎四は一側ですから、跨って押さえる。中毒していると一側の線がピンと張っていて指に触れない。硬くなってしまっている。硬くて一側に触らない状態で、愉気しながら待っていると、指が中に入っていくようになる。入ったら少しはじいてみる。何回かはじいていると線に触ります。それが早く触れれば中毒の度合いは軽い。重くなるとなかなか触れない。

二、三回やって触れない時は、諦めて、胸椎九番の三側を押さえます。内に寄せるように押さえていく。弛んできたら指が入るようになる。そうしたら寄せる。中毒している時にはここがゴリっと音がする。ゴリっと二、三回音をさせてから、また胸椎四番の一側を押さえてみる。そこで一側がはじけたら、そこから中毒の操法が始まるのです。

胸椎九がゴリっといっても、四番の一側にまだ触れられない状態では中毒の操法にはならない。触れられたら、次の九番を見る。そこがまた硬くなっていたら、十番の三側を内に寄せるように押さえていく。寄せては放す。放すたびに相手が息を吸うように押さえる。つぎに、胸椎十番の棘突起を押さえてゆすぶる。これも吸わせるように放す。

胸椎九番の硬直が三側ではなくて一側に硬結が出来ている場合は、右の股間を押さえる。多くは右側が縮んでいる。まずその側の足を先に弛める。足を引っ張る。それから坐骨神経の処を上から下に押さえていき、股関節のすぐ上の筋肉を下に下げるように押さえる。中毒の場合、非常に硬くなっている。それを弛める。それだけです。

一側の硬直の場合は仙椎二番をやっておく。

次に仰向けで、鎖骨窩の硬くなっている方を押さえる。これを押さえながら、片方の手で肝臓部を押さえる。これは一度でいい。あとは左手を胸椎四番の一側に当てて、持ち上げるようにし、右手は肝臓部を押さえる。一側の処を手前に引くように押さえると、右手の肝臓部を押さえている処に力が入ります。右手と左手の力が合うように押さえる。

次に頸椎二番の硬い方だけを押さえて弛めておく。これは「基本形」ではないが、中毒の操法をやったあとでこれをしておかないと保たないのです。操法の効果を持続させるためにやっておく。

 

鳩尾の上の膏肓という処、病がここに入ると助からないと言われている処。ここは、何かに中毒したときに、最初にそこが硬くなる。中毒していなくてもここが硬い人は沢山いますが、ここが硬くなっている時に右の脇腹を押さえると脈が強く感じられる。そこが強く脈打っている感じがするうちは中毒症状は軽いが、表面にではなく奥の方でそれが感じられる、しかも強い動きがあるという時は、中毒が進行している。

 

胸椎の四番、九番を操法していると、相当体の鈍い人でも感度がよくなって、変化を起こすようになります。だから、どこから手をつけたらいいのか分からないほど鈍った人に対してこれをやることは、とても効果がある。

それから、胆石や腎臓結石、膀胱結石なども、四番、九番を調整すると石を作らなくなるし、石のある人は砕けて出てきます。

 

このように、「基本形」を覚えてから体癖に適う操法が出来るようになると、ぼつぼつ実用になってきます。ただし、呼吸の問題は忘れてはならない。

硬結を見つけたら、それをじーっと押さえる。すると硬結が動きます。動いたときにグッと押さえる。

硬結が動くことを我々は「逃げる」と表現しますが、時には胸椎四番から一番まで逃げていくというのもある。以前やった「頭の穴追い」といっしょで、硬結を追いかけていく。追いかけていって逃げない処までいって、押さえると、硬結がなくなります。

逃げていく順序で中毒している経過や、中毒を起こす理由を読んでいくわけですが、そうなると難しくなってしまうので、しばらくは「基本形」を丁寧にやって身につけていくようにしてください。

「練習型」と「基本形」の違いは大体分かったかと思います。

まだまだ説明すべきことが沢山残っているようにも思いますが、一応今日で一区切りとしたいと思います。

お疲れさまでした。今後の皆さんの精進を心より期待しています。

 

(以上) 

 

 

 

 

 

*最終回を終えて、I先生からの講習や練習の記録を振り返って思うことを少し書いておきたいと思います。

これらの一連の練習の過程は、要約して言えば、刺戟と反応という、一対一の対応原則的な考えから、いかに自分を解き放っていくのかというものであった、ということになるような気がしています。「こうすればこうなる」というような単純な原理を求めようとすることが、いかに身体の働きに即していないものかを、これでもかこれでもかというように、その都度教わっている、そういうことの連続でした。

それと共に、この講習から得られたことは、それまで私が感じたり考えたりしたこともなかった、からだが先験的に持っている機能や潜在的な力を、僅かばかりとは言え実感できる経験でもあった事です。

私の意識にとっては未知であり、未経験の領域、きわめて複雑でかつ全体的自律性を保持し続けている私や人間の、<生命>そのものの不思議さを味わうことのできる、願ってもない豊かで温かい経験でした。そうした経験を、全くの無償で数年にわたり与え続けてきてくださったI先生に、こころより深い敬意と感謝を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

整体操法の基礎を学ぶⅢ(75)操法における「触れる」ということ

野口晴哉氏の思想と技術は、未来を先どりしている。> 私がそう考える理由は、氏が自己の身体と意識のみ用いて、「整体」という理念に向けて、人間の身体や心に働きかけるという方法を見出だしたと見えることによっている。

自分というもの以外の何物も用いない、つまり一切の物や道具を用いないで、獲得した認識と、練り上げてきた手技を始めとした諸技法のみを使って、人間の「いわゆる病的とされる状態」から、あるべきとされる「整体」の状態へと変容させていく方法を見出だしていった。そのことが、極めて未来的だと感じられるのだ。

手に一切の道具や機材や薬などを用いないで、人間の病的現象に対峙しようとすることは、一般には信じられない暴挙だと見られるに違いない事だろうけれど、その方法が野口氏と関りをもった多くの人の「治癒」や「整体」へと導き得たことは、ほぼ間違いのないことだろうと、私には思われる。

ではなぜその方法が<未来的>と言えるのか。それは、自分のからだ、自分の認識という領域は、人間であれば誰にでも開かれたものであるからだ。もちろんそれは可能性としてではあるが、われわれが身体と心をもった一人の人間、ひとつのかけがえのない生命として存在している限り、誰にとってもそれは可能性としては常に開かれているものである、ということを意味しているからだ。

医薬品やCTスキャンがあることは、人間にとって素晴らしい事であることは間違いない。しかし、だからといって、近代医術や医療や高度に精密化した現代医術が無ければ人間は病気といわれるものから立ち直れないと言い切ることも出来ないはずである。

もちろん、高度で手厚い医療が、全ての人に開かれているならば、それは素晴らしい事であるだろう。しかし現実には、そうしたものから縁遠くなってしまう人達もまた存在している。多くの人達がその恩恵に浴してきた国民健康保険制度が、財政的な理由からさまざまな困難をかかえていることも、今後そうした人達の増加に拍車をかけることになることが懸念されている。高度な医療には高額な治療費が必要となるからだ。

では、健康不安や生活不安の高まりの中で、われわれ庶民はどう対処していけばよいのか。おそらく多くの人達は、その不安の中で慎ましい日々の生活を何とか送っているというのも事実ではないか。

もし、「健康と言われるもの、病気からの治癒というもの」が、誰にでも獲得できる方法というものが存在するとしたら、それは素晴らしいことではないか。別にそうした存在を現代医学・医療に対峙させる必要などないはずであるし、代替医療と呼ぶことさえ必要がないはずである。そういうことではなくて、誰にでもそういうものは皆自分の身体や心にあらかじめ備わっているものなんですよ、と呼び掛けてくる声に、ちょっと耳を傾ければいいだけのことではないのか。

そもそも、野口整体法は医療とも健康法とも関係のない領域の世界である。「生命の働きを、気を通して理解し、気を用いて活き活き溌剌たる生き方をしてみよう」ということを標榜しているに過ぎない。唯一確かな事は、<生命に対する絶対的信頼>ということである。

野口氏の言説に接していると、ついこんなふうに、たまには大上段から構えてみたくなるのも、私の相変わらずの無責任な態度によるのだろう。ごめんなさい。

 

I先生。「整体操法講座第十回目の今日も、前回同様操法の基礎の復習です。操法で相手に触れるということの問題、これは基礎中の基礎と言っていいのですが、そのあたりから始めてみようと思います。」

 

相手には本能的に、その人なりの「押されてもらいたい」時の感じとか、「触られたい」時の感じというものをあらかじめ持っているので、そういう感じにそったものでないと違和感だけを感じてしまう。

そういう感じと言うものは、非常に明瞭なもので、下手な人がどんなに気取って押さえたとしても、下手であることはすぐに見抜いてしまう。

嗜みをもって相手に触れるという場合には、相手の吐く息に沿って押さえる。身体を調整するために押さえる場合には、いつも相手が息を吸いこんでいる時におこなう。骨を治す時は、息を吐き切った瞬間を選ぶ。

骨折したときでも、相手の息の吐いている速度で触ると、どんなに乱暴に触ったように見えても痛くない。

呼吸を考えないで触ると、物を扱っているという感じで、そうなるといくらおっかなびっくりソーっと触わっても痛い。最初に触れられた瞬間に、相手には上手か下手かすぐに区別ができる。

 

呼吸しているということの中には、相手の心の動きも伴っている。相手が急いているときに、ゆっくり押したのでは相手は不満足である。急いている時には、速い方が快感がある。簡単なのは、お腹が痛いという時に、おっかなびっくりソーっと押さえると、いよいよ痛い。思い切ってギュッと押さえると楽になる。中から出てくる力がある。痛いというのは縮むことだから、その縮む力以上の力と量でもって、それより<遅い>速度でジーっと押さえると、痛くなく、快感がある。ソーっと押さえても、縮む力より<速い>速度で押さえると痛くなる。

速度が適わないと、ソーっと触っても、強く触っても痛い。ところが、相手の中の縮む力、縮む速度を知って、その速度より一つ強く、その縮む力より一つ強い力でジーっと押さえてしまうと、押さえているうちに、その痛みは除かれてしまう。

自分のお腹が痛い時に、触ってみるとよくわかるが、ジーっと押さえて辛抱している。それで強く押さえると痛くないのではと思ってギュウギュウ押すと、痛くなったり悪くなったりする。ソーっと押さえれば痛くないのかといえば、却って痛みが強くなる。

打ち身の処を押さえる場合でも同じことで、靭帯の縮む速度、痛みを感じている場合の量と、押さえている強さとがピッタリ合っていれば、強くても弱くても痛くないし、そのまま動かしても痛くない。

同じように押さえても、相手の身体の運動状態や心の状態によって違ったものになる。

イライラしている人にゆっくり触ったら、よけいイライラしてしまう。

何でもない人にそーっと愉気をしたら、かえってイライラする。何でもない人に触る場合は、ある程度の力を加えて触る、つまり相手のとっているバランスを少し破るぐらいの力で押さえると、そこに快感が起きる。多くの人は何らかで鬱滞しているので、その発散による快感が生じるためである。

 

最初の触れるという場面で、上手下手が分かれてしまう。

たとえ「型」を一生懸命きちんとできても、そういう恰好の問題ではないので、相手の感受性や心の状態が、押さえていることに相応しいものでないと、相手は快感を感じることが出来ない。

問題はいつも、相手がその刺激をどのように受けとめ感じるかということにある。

一通り「型」を身につけることが出来たのだから、相手の感受性を読んで、感受性の状態に適うように導いていくということを身につけていかなければならない。

それが出来て初めて実用になる。

これまで何度もやってきた棘突起の揺さぶりの練習も、相手の感受性を知る一つの手段です。相手が息を吸っている時に揺すぶれば、それを弾力があるように観察してしまうのではいけない。逆の事もいえる。相手が息を吐いている時に揺すぶれば、弾力がないように感じてしまう。

だからそういうことが生じないようにする為に、吐いている時とか、吸っている時とかどちらかに決めて、一定の状態でその状態を観察できなくてはいけない。

同じ刺激が、相手の感じ方によって異なると同時に、呼吸の状態によってもそれを強く感じたり弱く感じたりする。

 

棘突起の揺すぶりの練習

棘突起を押さえる場合に、「息を吸うごとに押さえる」ことと、「息を吐くごとに押さえる」ことの二通りでやってみて下さい。

次は、「息を吐き切った瞬間」と「息を吸い切った瞬間」の二通りで押さえてみて下さい。

違いが分かりますか。

息を吸いこんでいるのに、押さえるとズブッと入るところは異常のある骨です。息を吸いこんでいて柔らかいところがあれば異常。息を吐いているのに、引っ込まないで飛び出している、同時に硬い、それも異常。吐いて柔らかくならない、吸って硬くならないというのが異常。

これを何度も練習していくと、異常な骨がどういう状態のものか分かってきます。それとともに、相手の心の状態、それが緊張状態なのか、弛緩状態なのかも分かってきます。また、相手の身体の状態、その異常が緊張しようとする傾向の異常なのか、弛緩しようとする傾向の異常なのかもわかってきます。

そういうことが自然にわかってくるまで繰り返し練習して下さい。

初めのうちは難しいと思います。だから今はそのことを頭のどこかに入れておいて、実際に異常な骨を見つけた時に、それを思い出して、押さえなおしてみることを続けると分かってきます。

棘突起の異常を調べる時、まず胸椎五番を押さえます。そこは胸椎の中では比較的可動性が悪い。実際悪い場合は、みな硬く飛び出している。まずそういうところで練習します。

まず胸椎五番を揺すぶってみて、その弾力状況をよく覚えておいて、つぎに他の棘突起を揺すぶって比較してみる。胸椎部に五番より硬いものがあったらそこは異常です。

次に、胸椎二番を押さえます。ここは一般に胸椎五番についで硬い骨です。その次に硬いのが胸椎の一番です。五番、二番、一番の順に硬いのが普通です。

胸椎三番になると割と少しの力で動きます。

胸椎四番もそれと同じぐらいの可動性です。

胸椎八番は少し硬いが、五番に比べればずっと柔らかい。

胸椎十番は、三番と同様に胸椎五番につぐ硬さがある。

胸椎十一番は、それらよりズーっと柔らかい。もし胸椎十一番、十二番が硬い場合は、腰椎の異常を確かめる必要がある。腰髄に力がなくなると、これらが硬くなる。それは歳をとったということである。

月経がなくなったというと、そこが突然強張ってくる。月経が無くなっても、またあるような人と、完全になくなってしまう人とがあるが、それは胸椎十一番の硬さで分かる。

練習としてまず五番を押さえ、次に二番を押さえる。二番が五番のような硬さがある場合は、腕に故障があるのではないかと見る。ただし、腕とかは、その使い方によって非常に差が出るものであるから、単純に二番の硬さだけで決めつけてはいけない。

 

今日の練習の目的は、棘突起の可動性の状態、過敏や鈍りを見るだけではなくて、この骨が異常かどうかを判断できるようにすることにあるので、腕とか脚とかまでは確かめなくていい。

押さえてみて、すーッと戻ってくれば異常ではない。

その骨に可動性があっても、なくても、押さえた時に余分に凹んでしまって戻ってこないというものが異常の椎骨です。それから、押さえても全く動かないというのは異常です。異常の骨というのは、そんなに沢山あるわけではない。

 

さて、異常の骨が見つかりましたか。

それが分かったら、今度は眼をつむって、指で背骨をスーッと触っていく。揺すぶってその異常の骨の感じを確かめます。

何度か、それをやってみて下さい。だんだん異常な骨というものの感じが分かってきます。

家に帰ってから、身近な人の背骨を借りて、何度も異常のある骨の感覚を覚えて下さい。ただし、十五分以上やると疲れてしまって集注できなくなってしまって、分からなくなるので、また間隔をおいてからやるように。

 

では、今日はこれで終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

整体操法の基礎を学ぶⅢ(74)腰部活点の操法

I先生「整体操法講座の第九回目です。前回と同様、操法の基本を練習を通して身につけることを目標に行います。復習とはいえ、指先に集注して真剣にやってみてください。練習とはいえ、相手の身体に触れるということが、結果として相手の身体の自然を乱すようなことになっては全く意味がないのですから、慎重にやって下さい。」

 

腰部活点が硬かったので、一生懸命そこを押さえました、と言っている人がいましたが、そこが硬くなるにはなるだけのいろいろな理由があります。ただ硬かったから押さえたというだけでは、観察が行き届いているとは言えない。

眼が疲れてもそこが硬くなる。頭が緊張してもそこが硬くなる。消化器の系統などに異常があっても腰部活点は硬くなる。

もう少し細かく言うと、腰部活点の硬直には、姿勢の問題だと二側が、頭の系統だと一側が、臓器の問題だと三側が関係してくる。同じ硬直でもそれぞれ元にあるものが違っている。だから前回練習した椎側を確かめるということが必要になる。

二側に関連するという場合は、足の左右に余分な緊張が残っている。足先は緊張していると真っ直ぐになり、弛んでいると曲がっている。緊張が強いと外に足先が出る。左右にアンバランスがある時は、一応二側の異常ではないかと考えて、二側を見るなり、足の位置を変えたりして、弛むかどうかを調べてみる。それで足に異常があれば、まず足を治す。特に右の足首というのは腰部活点と関係が深い。腰部活点が弛緩し、萎縮している時には左の足首と関係が深い。

足の位置を変えたり、治しても、弛まないということが分かってから腰部活点を押さえる。厳密に言えば、頭部第二調律点も一応確かめて、片側が弛緩している時は一側の関係だから、一側を確かめてからやるようにする。

足の異常である場合は、股関節や足首の異常が多い。股関節はその角度に広げていくと、腰部活点は自然に弛んでくる。足を開いて弛むようなら、足の調節が大事である。その調節法は、そういう角度に緊張がいかないのであるから、弛緩している方を掴まえて、そういう角度をとって引っ張ると、緊張がいく。そうすると腰部活点が変わってくる。

足首に異常がある場合、下手な人は強引に引っ張って治そうとするが、角度を開いて股関節の位置が自然の位置にいったときにやると、じきに治ってしまう。

逆側の足を踏んで、それで足を開いていくか、治す足を外に開いていくとかしながら、足首の操法をする。そうすると、力を入れないでもひとりでにボソッとはまるところがある。

原則として次のようなことを覚えておく。操法は相手の体に沿って進めること。真っ直ぐに引っ張って、はまらないからといって、力を入れるのは本当ではない。だんだん開いていって、はまる処にいってはめれば、力を要しない。

普段力で治そうとする癖がついている人は、つい力を入れてしまう。相手の自然の動きに合えば、力なしでスーッと治る。治していこうとするのではなく、相手の身体に無理のないように治っていくところを見つける。つまり、操法で相手の身体を支配しようとしてはいけない。少しの力で治らないということは、無駄な力を加えているのですから、それは力ずくということになる。

角度をとっていくと、サッとはまるところがある。相手の身体の位置や、身体の他の処で、悪い処が自然に治っていくような処を見つけていく。

それで治らなければ、お腹の問題かも知れない。お腹が硬いのかも知れない。そういう場合は、お腹を押さえる前に腰部活点を押さえる。そういう場合は、お腹の問題、つまり二側の問題に限って、腰部活点の操法が重要なので、二側や一側の場合には、それは腰部活点で強引に攻めるということは避けなければならない。

しかし、腰部活点や足に限らず、力を入れてやるということが悪いわけではない。必要な時には力を入れてやるべきです。ただ弱くやればいいというものではない。

だが相手の身体の自然な動きに沿わない様な動きを相手に強いて、それを力で何とかしようということに無理がある。無理に引っ張ってくることを「強引」と言うが、そういう強引が一番いけない。

技術が高度になってくると、練習のちょっとしたミスで相手を毀してしまうことがある。病気と言うものだったら自然に経過していくものですが、身体に強引なことをして毀してしまったものは自然には治っていかない。

マッサージを受けて首が曲がってしまったとか、肩が傷んでしまって痛いとかいうのを、気軽に引き受けると、自然の病気が経過するようなつもりでやって、うまくいかないことが多いが、それらは強引に力ずくでやられたためであることが多い。

道筋を得て病気になっている。だから治すのもごく簡単な力で治る。ところが強引に無理して力を入れて揉まれたりした場合には、肩の筋肉が縮まる力をなくしてしまう。頸の骨を治しても、筋肉が縮んでこないから、せっかく操法しても、筋肉の疲労を増すことにしか役に立たない。

だから整体操法して毀したというような場合には、相当慎重である必要がある。

他の流儀で毀したという場合も、慎重にやらなければならない。

やり過ぎているものは、狂っている側の逆の筋肉が弛緩してしまっているから、そこを引き締める操法が必要になる。

薬を飲み過ぎた為に毀したとか、手術をしたために毀したとかいうものも、自然の病気の経過のようにはいかないものなので、そういうことをあらかじめ確かめておくことも必要になる。

 

病気は自然に治るものであるが、下地のところでやり損なっているとそのようにはいかない。操法でやり損なった場合でも、一度目なら自然の経過を見ていれば良くなるのに、治り際に毀してしまった場合は、今度はそのようにはいかない。二度目も自然に経過するだろうと見ていると、なかなか経過しない。

われわれが練習で、何度も何度も相手の身体の状態を確かめることをまず身につけるようにやっているのも、そうしたミスをしないよう万全を期すためである。

整体操法が「意識」によって設計しおこなうものである以上、いくら万全を期し、全身全霊でおこなってもミスをしないわけにはいかない。慎重の上にも慎重であるべきであることを練習の最初の課題としているのもそういうことによる。

力を弱くすることが慎重であるのではない。押さえてみて痛い、硬直がある、過敏が見つかった、そうしたら押さえる前に、なぜその骨は痛いのか、どういう理由でそうなったのかを相手の身体をくまなく観察して探っていく。異常な刺戟がその部分だけのものなのか、他の異常の反映なのか。体のいろんな変動は、臓器から来ているものもあれば、姿勢のひずみから来ているものもあれば、心の変動によっているのかと、さまざまである。頭の過敏状態ならそれへの対応も必要になる。

相手の背骨の過敏状態でも、背骨がちょっと曲がっているということでも、それは相手にとっては一日中そういう刺戟がそこに加わっているのであるから、わずかなことでも相当の影響があるということです。

だからそれがどういう理由でそうなっているのかを細かく観察していくことが必要となるのです。

下手なうちは特に間違いが起こる。そういうものを減らしていくために、ここでの練習もあるということを、もういちどよく考えて下さい。

 

今日はここまでにします。

 

 

 

 

 

 

整体操法の基礎を学ぶⅢ(73)椎側の操法等の練習

I先生「それでは整体操法講座の第八回を始めます。まずこれまでやってきた整体操法の技術や手順の基礎的な問題について、おさらいの意味で説明してみます。そのあとで、各調律点の練習を時間をかけて行ないたいと思います。」

(椎側の操法

背骨の両端にくっついているのが<一側>です。細い線が何本もまとまって一側を構成している。異常のあるところは、それらの線が固まっている。異常が強く現れている場合は、そこの筋肉も固まってしまっていて、容易に一側に触れることが出来ない。異常のないところは、はじいてみるとバラバラと何本もの線が指に感じられる。

固まった筋肉は、相手の体を弛めていって、一側が触れるようにまで弛んで来れば、その時点で異常はなくなってくる。

一側の触り方は、棘突起のすぐ横の線、それを中心から外側に向けてはじくようにする。その線のうち強張ったものがあれば、それを真下に押さえていくと弛んできます。

 

次に、一つ飛んで<一側>がある筋肉の筋の外側、となりの筋肉のスジが<三側>です。この筋を触ってみると、かたまりのようなものがある。その固まりの外側を押さえるのが三側の操法です。

 

<二側>の操法というのは、筋肉そのものを直接に触っていく。そうすると、その筋肉の中に、ごく小さな、針の頭のような固まりがある。二側のかたまりは、三側の固まりに比べれば総じて小さいものである。また、二側は、一側のような線状のものではない。そして、筋肉の中に、ぽつんぽつんと固まりが触れてくる。それを操法する。

二側の筋肉は、背中の中央から両側に最初に触れてくる筋肉の線で、その場所の下奥にあるのが椎間孔の穴にあたる。各骨と骨の繋がり目が椎間孔であるが、そこからいろんな脊髄神経や血管が出ていて臓器に繋がっている。ただ、その穴は指ではほとんど触れることが出来なくて、触れているのは筋肉です。

骨の歪みを矯正するときに使うのは横突起や関節突起であって、椎間孔やその上にある二側を使うのではない。

よく二側や三側を押さえると、ボキボキ音がして曲がっている骨が治ることがあるが、その治るのは、大抵は身体が弛んでいて異常のないところです。昨日か今日曲がったというような骨がボキボキといって治るので、素人はボキボキいったから治ったように思うのだが、それは一晩寝れば治るようなものです。本当に悪い骨は、押して動かそうとしても動かないほど硬くなっている。いくら押してもボキともいわない。大抵の場合、相手が背骨が痛いというのは、余り悪くない処である。異常を異常として感じられる程度の処である。

知らない人は、痛いと言うから悪いのだろうと思う。しかし、異常があってそれを痛みとして感じるのは、身体にとっては良いことなのです。異常があるのに本人は痛みも何も感じなくて、いよいよ硬くなって動かなくなってしまうというのが悪い処です。

だから愉気をして身体が良くなると、風邪を引いたように感じたり、熱が出て来たり、あっちこっちが痛くなったりというような異常感を感じ出す人があるが、そういう時にはそれに惑わされないで、異常のある場所の系統の二側を操法すると、じきに良くなってくる。

同じ状態の時に、一側を操法すると、相手の異常感はさらに過敏になってきて、痛みが強くなったり、熱が出て来たりといった過敏な変動が起こる。また、三側を操法すると、臓器の痛みはとれてくるが、臓器そのものの変動、例えば下痢とか、糖尿の場合なら糖分とかいうものが、より多くなる。

二側の場合は単純に良くなる。

二側というのは、痛みを止めるには効果が非常に早い。また、脊髄反射によって、臓器をいろいろ動かすのに使えるので、その使い道が広範である。

ただし、そういう反射は身体が敏感な人には効果があるが、鈍い人にはいくら二側を押さえても駄目である。そういう鈍い人には、やはりまず一側を押さえ、次いで三側を押さえ、弛んできた段階で二側を押さえるという手順が必要となる。

相手が風邪などの経過で身体が弛んでいる場合には、そういう手順を省いて、直接二側を押すことも出来る。そういうときは押さえればすぐに異常感がなくなってくる。発熱などしている時には身体が弛み、二側も最も弛んだ状態なので、そこをゆっくり押さえていくと中の硬結に触ることが出来る。それをジーっと押さえているというのがコツです。押さえていると指が痛くなってくるが、さらに愉気していると、それもなくなって、無くなると同時に相手の異常感もなくなってくる。

 

二側の操法は、相手が息をつめている時にゴリゴリやっても効果をあげられない。二側を押さえて、相手が逃げようとするところをちょっと押さえるから効果がある。筋肉を硬直させないように、相手の裡に意欲を呼び起こすように押さえる。

押さえて、ゆっくり放すのがコツです。

 

練習

この日は、これまでいただいた資料も参照しながら、椎側の触りかたの練習と、頭部調律点の触り方の練習、さらに胸部操法の練習、最後に上肢の操法の練習が行われました。説明内容は、本ブロブにすでに掲載してありますので、ご面倒ですがそれらをご参照下さい。

ここでは、手の操法についての説明を掲載します。

 

練習

(手の調律点)

上肢の一番は、呼吸の練習によく使います。ここは頭皮が鈍っている場合に、ここを押さえると弾力が出てくる。後頭部が弛緩している人たちは、掌を刺戟するとそれが引き締まってくる。眠れないという人にも、ここを就寝前に良く押さえて整理しておくと眠れる。身体に水が溜まった人は足の土踏まずの処を押さえればいいが、頭の中に血液が鬱滞している人や、忘れたいことが忘れられないとか、身体が緊張しっぱなしだとかいうような場合は、掌の真中をジーっと押さえていると頭の血が下がって落ち着いてくる。

手の操法は、押さえる処に異常があるかないかを確かめてから押さえる。相手の手がサラッとしていたらいけない。手には多少の湿気があるが、特に掌の真中に湿り気がないのは異常です。掌が硬くなって強張っていれば異常です。そこが非常に薄くなっているのも異常です。湿気がある時は、押さえたあと放すときにべたッとした感じがある。

また、練習の時は、相手が息を吸っているのか、吐いているのか、吐いて吸いにうつるところなのかを掌で確認してください。

次は手の第二。親指の股の処。ここは腕を伸ばしたままの状態で押さえるのがコツです。心臓が悪いとか、食べ過ぎたとか、便秘であるとか、吹き出物が出たとかいうのはみんな一組で、ここを押さえます。肘を曲げたまま押さえない。ここは押さえて痛がらせるのが条件ではない。押さえていていると、硬いところが弛んできて、その中に塊が出てきます。それを押さえる。ちょっと押さえればいい。出来れば痛くなく押さえられるのがいい。

第三は手首です。手首のちょうど真ん中を押さえる。ここは子宮の位置異常や、睾丸炎で痛い時に押さえると治る。また生殖器の力がなくなってくると、ここが柔軟でなくなる。動かしてみて、手首がこわばっているのは、大体生殖器の能力が鈍っている。強張ると同時に、手首が太くなってくる。

手首が太い人は、みな不器用で、生殖器も鈍くなっている。

ちょっとしたことですぐ手首を狂わせる人がいるが、それを何度も繰り返す場合には、腰椎の三番を調整するとやらなくなる。

手首の操法は、裏筋肉を伸ばすように中指を当てて引っ張るのがコツです。

指を一本一本引っ張って弾力を調べて、狂っている指の系統の手首に親指を当てて、角度を決める。第二の場合とは違って、第三は肘から先に力が及ばないように、できるだけ肘を弛めてやる。肘をのばしたままやると、胸椎の四番、五番を毀してしまう。その逆に、胸椎四、五番の狂いを治す時は肘を伸ばしてやる。

練習で、手首の操法をしたら背中が痛くなったというのは、強く身体ごと引っ張てしまったためである。

第三は特に裏筋肉を中指でスーッと引っ張ったまま上を押さえる。上をやる時に下が弛んでしまいがちですが、そうすると駄目で、必ず引っ張ったままで上を押さえることを繰り返し練習して下さい。

第四は手の三里の場所です。ここは便秘の解消や、虫垂炎になった時押さえる。消化器が鈍るとこの第四が硬くなってくる。ここは第二と関係がある。第二が硬い人は、第四を押さえるとそこが柔らかくなってくる。その逆に、第四が硬い人は、第二を押さえると柔らかくなる。そういう関係がある。

第五は臓器が化膿した場合や、口の中に異常を起こしたときに使う処です。

 

大分遅くなってしまいました。今日はこれで終わりにします。

整体操法の基礎を学ぶⅢ(72)愉気法と整体操法の基本的な違いについて

「整体とは何か」、「整体操法とは何か」という問いに対して、野口晴哉氏は一般の人向けの回答と、整体指導者向けの回答の二つを示してくれています。臨機説法ではないですが、これらの問いに野口氏がいかに真摯に、かつ率直に、何ごとも包み隠すことなく、赤裸々と言えるほどに、言葉を尽くして示されています。「先生、そこまで言っちゃって大丈夫ですか」とチャチャが入りそうなほど、<秘伝>とさえ言えそうな事柄が語られている。もちろんそこには、野口氏の冷徹な視線や、学ぶ者への周到な配慮が籠められてもいるのでしょうが、われわれ素人からすると、「えっ」と驚くほどの内容に思えるものです。とりわけ今日の講習内容には、そういった表現がいくつも見て取れるのです。野口氏にとっては、<整体操法には秘すべきものなど何もありはしない。あるのは要点であり、コツであり、秘訣であって、誰にでも出来るものであり、すべて意識的になされる問題です>とでも言わんばかりのものに違いありません。

これは言い換えれば、野口氏の絶対的な自信の表明であり、整体操法が完成されたものであることの宣誓とでもいえるものであって、それゆえわれわれは、野口整体法の持つ魅力に、ますます惹きつけられることにのになるのではないかと思います。

では、講義記録を始めます。

 

I先生「今日は整体操法講座の第七回目です。愉気法と整体操法との基本的な違いについて説明します。」

 

愉気法の愉気というのは、相手の症状が重いほど効果がある。死にかけている時に愉気をすると、的確に効果がある。それは下手でも上手でも出来る。しかし、意識でやる操法というのは、やはり初めは軽いのでないとうまくいかない。愉気法の愉気のような奇跡的な効果は得られない。分相応の、下手なら下手なりの、上手なら上手なりの操法の効果しか得られない。意識していちいち設計してやるのだから、その上手下手で決まってくる。押さえ方の上手下手ということ以外に設計の上手下手というものもある。

そういうようなことで、実力だけの効果しか得られない。効果があった場合は、実力だけの効果しか得られない。そのかわり効果があった場合は実力があったということになる。

幸い整体法では、愉気ということは誰にでも出来るから、難しいところは愉気でやって、やさしいところは操法でやる、当分はそういうようにやっていくといい。

 

整体操法が、愉気より効果が上げられるようになるには、二十年はかかる。二十年を越すと、愉気より断然整体操法の方が、効果をおさめるようになる。

それなら愉気だけでいけばいいのではないか、ということになるが、まさにその通りで、愉気だけでいけばいい。下手なのに、二十年も三十年も辛抱し骨を折って整体操法の技術を磨く理由はない。

ただ、今どれぐらい良くなったかとか、これこれこういう変化が起こっているから、これで良くなった、ということが、指で見ることができる。それだけの為に整体操法の勉強をするのだと言ってもいい。

愉気法だけでやっているうちは、現在の相手の状態が良いのか悪いのか分からない。ただやれば効くのだ、という信仰をもって、遮二無二それをやる。感応したりしなかったりもする。やはり相手が良くなったというまで不安である。

大勢の人をやるようになってくると、愉気をすれば良くなるだろう、でも本当に良くなったのだろうか、と絶えず迷いや不安で寿命をすり減らしてしまう。

整体操法ができるようになれば、ここまで良くなった、あとこれだけだと分かる。しかも、「呼吸」や「度」や「機」というものが読めるようになり、「体周期律特性」が読めるようになってくると、これは幾日間の患いだ、幾日間の毀れ方だ、体周期律特性によって、どの時期に起こった変化で、どの時期に至れば良くなるのだと分かってくる。

その変化を一つ一つ読んでいく。だから見てさえすれば、あと何日と分かる、治さなくても治っていくのです。あと幾日たつと治っていくと見ていると、そして実際に治ってくると、経過を見ていただけなのに、あたかも技術で治したかのように相手が錯覚する。そういう相手の錯覚から「整体のおかげで」、というような評判が立っているのです。

もう一息だ、もう一回苦しめばいいのだ、もう一度熱が出ればいいのだと見ている。相手はたまらないが、そうやってこちらが見ていると、相手もわりに気楽に経過出来るようになる。そういうことを何度も経験すると、相手の潜在意識に対する指導力というものが自然に自分の中に出来てくる。

そういうように効果をあげられるようになるには、整体操法の勉強も大変です。しかしこれを修めると、潜在意識的な指導力も出てくれば、観察力も出てきて、相手を余り心配なく見ていられるようになる。あまり不安にならないで済む。

こういうことが、整体操法でやるということが、愉気法だけでやるということ以上の利益であり、ただそれだけの為に訓練すると言ってもいい。

実際には遮二無二愉気をすることには整体の技術というものはかなわない。良くするだけなら愉気専門の方が良い。整体操法の技術で愉気以上の効果をあげるということは大変なことです。しかし、見て経過することが出来るようになる。

やる人が、愉気をしながら不安でいる、という状態は、やはり健康的ではない。相手が治る前に、こちらの方がずっとくたびれてしまう。

愉気をされて良くなった人は、良くなるとホッとするが、良くなるまでは地獄の苦しみである。している側は、相手が良くなるという確信はあるし、信念もある。だが相手が「良くなった」という言うまでは、良くなったということが分からない。

これは、天心で愉気をするということとはまた別の、緊張や不安がある。こういうことが続くのではやる者の身体にとって良い訳がない。

だから整体操法を始める場合に、相手の体をよく読むということは、まずはっきりと身につけなければならない。

もう一つ、愉気というのは悪い時には効くが、悪くない時には効かない。しかし整体操法は、悪くない時でも悪くならないように使える。悪くなってから治すというような、泥棒を見てから縄をなうというようなことをやらないように使える。

愉気というのは、悪くなった時の手助けにはなるが、相手の力をもっと呼び起こすという点では、何もしないで経過をさせるという整体操法よりも劣る。

また身体の異常、身体の故障を治すという面でも愉気はなかなか難しい。

整体操法の技術を使えるようになると、悪くない処、まだ悪いと感じない処も治せるようになる。それから治るという過程を、身体の修繕にも使える。

病気を治すという考えなら愉気で十分である。愉気の方が効果がある。しかしそれでは病気を利用して、身体をより活発に活かしていくというようなことになると難しい。

だから、整体操法をやろうとする場合に、病気を治すということを目的にしては駄目で、弾まなくなったゴムまりが弾むように、新しいゴムのようにしていく、強ばったゴムを弾力のある状態にしていく、というようなつもりでおこなっていく。

その為には、怪我でも病気でも利用する。相手の中に、潜在している体力を呼び起こして鋭敏にしていく。

こういうように考えていくと、病気を治すという面では愉気にも劣る整体操法であっても、使い方によってはもっと人間を元気にすることができる。

人間を本当の意味で丈夫にするということを行うには、やはり整体操法が他の方法に比べて遥かに的確であると言える。

ただ整体操法の要点は、病気を治すのではなく、その過程を待つということ、自然の経過を待っている。待っていて、その身体の及ばない処を助けていく。整体操法においては、愉気も重要な要素になっているが、しかし愉気法のときのように遮二無二やらないでいい。相手の力のぎりぎりのところを助けて、あとは見ている。整体操法の理想は、何もしないで相手を自然に経過させることにある。ごくわずかな力で補助する。その補助の仕方を通じて、相手の弱いところを強くしていく。整体操法の目的は、あくまで相手を「整体」に導くということにある。病気治療でも健康維持でもない。

健康とか病気とかいっても、どこからが病気でどこからが健康かの線を引くことは難しい。一定の平均的基準を設けても、それをもとにいいとも言えないし、悪いとも言えない。血圧でも基準より高くて何ともない人もいれば、低くても脳溢血を起こす人は沢山いるのだから、何とも言えない。

だから我々はそういう区別を問題にしないで、「整体」を目的にしているのだが、こういうことは、なかなか一般には理解されなくて、そのためにある時代は病気治療としてもてはやされ、またある時代には無痛安産法として、またある時代には体癖の修正法として、最近では健康法としてもてはやされているが、厳密に言えばそういった健康法でもない。

しいて「体力作り」という言い方をしたりすることもあるが、それも適当なものかといえば必ずしもそうではない。

「健康法に非ず、治療法に非ず、体癖修正法に非ず、整体なり」というと、何かわざと難しく、解りにくく言っているように見えるがそうではなくて整体操法をやってきた者から言えば、それ以外に言いようがないからそう言っているのである。

どうかそのことの意味を、そうでなければならない意味を、もう一度しっかり考えてみて下さい。

では、今日はこれで終わります。

 

 

 

整体操法の基礎を学ぶⅢ(71)椎側の問題

この講義記録をブログに書き込んでいる私の心に、いつも去来しているのは、ある種の戸惑いです。野口整体の言葉が、現代を生きている私に何をもたらしてくれるものなのか。野口氏の言葉を、自分の人生のどこに位置付けていけばよいのか。上手く位置づけられないものがあるとすれば、それはどのようなことで、その理由は何なのか。野口氏が生きていた時代と、いまの私が生きている時代との違いはどこにあるのか。その違いは、私たちの「からだ」や「からだ」についての意識に対して、どのような変容を迫るものなのか。

野口氏の獲得した「からだ」についての認識が、私たちが現在の日常の中で断片的に理解している近代医学的「からだ」についての知識と異なったものであるとするなら、その違いはどのような理由から出てくるものなのか。

そうしたことを考え始めると、途方もなく高い壁の前に佇まざるをえない自分の姿ni

唖然としてしまう。

一般に信じられている「からだ」をめぐる認識も、他方で野口氏が提起する「からだ」についての知識も、ともに私には全き実感を伴ったものとして存在してはいないのだ。

この私の戸惑いは、おそらくどこまで行っても解消されないものであるに違いない。

しかし、そうした私の意識や心のありようとは異なった次元で、私という命は、「からだ」をたずさえて、たゆまず生を全うしようと日々その営みを続けている。そして一方では、自らの個的生を保持しようとしつつ、他方では種としての永遠をめざしている。

今夜の「月」は深々として、とても美しく輝いており、こころに染み渡ってくるものが感じられる。でも、昨夜見たその「月」と、今夜見上げている「月」とでは、同じ「月」のはずなのに、その趣が異なって感じられる。源氏物語の時代の「月」と、江戸の時代の「月」とでは随分異なった想いで見上げられていたに違いない。それは当然、こころの在りようの違いであり、感受性の移ろい方の違いである。

わたしたちにとって、「からだ」は意識の対象でありつつも、常に意識にとっての外部として存在し自立しているようにみえる、ちょうど見上げた「月」のように。だから、意識がどんなに頑張って「からだ」を感受し、それに「ことば」を付与し、認識し尽そうとして両手で掴み取ろうとしても、かならず指の間から零れ落ちていくものが残ってしまうのだ。

それは大海の無尽蔵ともいえる水を掬い取ろうとする行為に似ている。しかし、人間は意識を持つことの宿命として、こうした行為を抑えることもできない。

わたしの戸惑いも、その元にあるのは、意識のこうした宿命の故からなのに違いない。

私というものの成り立ちを、「身体的なもの」「心身的なもの」「心的なもの」と便宜的に三つに分けて考えた場合、私の対象として立ち現れてくるものの捉え方も、それに応じて三つの異なったものになる。つまりその対象を「身体的」に捉えるか、「心身的」に捉えるか、「心的」に捉えるかで、随分と様相が異なってくることがはっきりする。たとえば、上司から理不尽な叱責を受けた場合を考えてみる。そのことを「身体的」に捉えた場合は、彼の発する声の音量や、口角から飛び散る泡粒といった物理的なものの理解が主体となる。時には彼が殴りかかろうとすれば、身をかわそうと身構える、そんな領域の事となる。その正反対に、「心的」に彼の理不尽な説得を、その言葉の意味や、その言葉に対する私なりの解釈というレベルのみで考える領域もある。ところが問題となるのは、それを「心身的」に捉えた場合には、上司の言葉は時に私への憎悪と感受され、同時に私の側から上司に対してのむき出しの反感として裡から怒りが込み上げてくる。つまり、上司の情動に私の情動が即座に反応してしまうのだ。

ある事柄が、私の情動を刺戟し、私の生存を脅かすものとしてそれが立ち上がってくる時、わたしはそれを「心身的」に受け止めているということができる。

他者の苦しみが、あたかもわが苦しみのように感受されるというのは、私がそれを「心身的」に受容しているからである。ところが、世界中に日々起こっている様々な事件やそれによる苦悩や煩悶を抱く人々のことは、わたしにとっていつもわがことのようには感受できない。なぜなら、それはすぐさま私の生存に直接影響をもって立ち現れてこないと考えてしまっているからである。

苦悶や煩悶は、それが自分の事であっても、他者の事であっても、「心身的」に受け止めざるを得ない様な、生存にかかわる事や、他者との距離の近さに応じて異なってくる。単に感受性のみの違いによるのではない。

同じ個人においても、その感受性の発動は、時と場所や状況の違いによって意識的に使い分けられるものである。他者との距離の近さが、自身の生存を脅かすものと感じられるがゆえに距離をとったり、逆に我が子の苦しみ故に自身を顧みず身を呈したり、相手の苦しみを背負いきれないと自身の力量を考え身を引くということもある。

相手の苦しみに寄り添うことは出来ても、相手の苦しみを全く同様の苦しみとして感受し対応するということは、なかなかに難しい。だから多くは、一瞬だけ心を痛めるだけで、あとは「心的」なものへと意識の軸を移して、見て見ぬふりをする。「心身」的に受け止める余裕がないとも言えるし、人間的な力量が希薄だとか、情がないとも言えるが、そうやってやりすごしてしまう。それが言わば現実ではないか。

自分自身でさえうまく制御できないのに、なぜ他者の苦しみを我がことのように引き受けることができようか、そんな言い訳も用意してしまう。

野口氏が眼の前にいる一人ひとりに全身全霊で「心身」的に向き合っている姿は、真に感動的であるが、その野口氏の口からは決して「全ての人を」と言う表現がないのも、氏が眼の前の具体的な個々人に「心身的」に向き合うという覚悟があって初めて可能となるものであろう。野口氏は、「心的に」つまり、幻想的に個人という抽象化された対象を相手にはしていないということである。そんなことばかり考えてしまう、相変わらずの私がいます。

では、講座記録を続けます。

 

I先生「整体操法講座第六回目の今日は、椎側について、復習を兼ねて説明したいと思います。」

 

三側操法

椎骨の、本人の棘突起から指三本外側が三側です。三側は、胸椎部と腰椎部では、そのほとんどがお腹の臓器の反射です。三側の異常はお腹の臓器と直接関係している。そしてお腹の臓器の変動に対して、三側を調節すると、一応相手の感じている異常感を解消することが出来る。

お腹の臓器というのは、胃袋、肝臓、脾臓膵臓、腸といった消化器の関連です。臍から下には生殖器がある。その後ろに腎臓がある。腎臓も三側に異常が現れる。時に三側以外に現れる腎臓の異常もあるが、その場合は一側に現れる。それは生殖器関係の泌尿器といって、腎臓自体の異常ではない。

生殖器は一側にほとんど全部出ている。および仙椎部に現れる。生殖器の異常、構造的な異常は一側及び棘突起の上、または仙椎部にそれが反映している。

一方で生殖器の機能的な異常、働きの異常は、腰椎を主体としてその一側や棘突起に現れている。

たとえば腰椎から胸椎六番にかけて一側が緊張している場合は、性欲の食欲転換といって、性欲が生じないで無闇に食欲が生じている状態。だからもし三側に変動があっても、それは消化器の異常とはみないで生殖器の故障とみなすべき性質のものである。この場合、一側の変化が三側に対して優先している。

これが胸椎十番まで続いている場合は、泌尿器、特に腎臓に対する性エネルギーの腎臓昇華という状態になっている。この場合には性欲を感じだすと同時に無闇に小便に行きたくなる。性欲の代わりに小便がでる、そういうことがしばしば見られる。

特に十七、十八歳になっておこる寝小便は、そういう性倒錯という、性欲とが混同してしまっているというような現象で寝小便をしてしまう。そういう機構を知らないと、簡単な寝小便も治せないことになります。

また、同じ一側でも、大脳からくる十番の異常があります。下から上に上がってくるのではなく、上から下がってきている十番、こういうのは碁をやると小便がしたくなるとか、試験会場に入ると便所に行きたくなるとかいうように、尿意が頭の緊張を代用することがある。そうでなくても誰かが小便したくなると自分もしたくなる、連れしょんべいって、人間ならみなそういう傾向があるわけで、これは頭の中がフッと弛むとしたくなる。

ところが一側に緊張があるものは、全部、緊張すると尿意をもよおす。

同じ一側の十番でも、性欲が起こって小便がしたくなるのか、大脳が緊張して小便がしたくなったのかは、区別する必要がある。

腰椎の三番から出る一側の線が、二番の左だけで止まっている人は、性欲が起こると屁が出る。腰椎三番と二番の間に、ちょっと一側の線が上に上がっているというだけで、そういうようなことがある。それがもとで離縁したり、自殺する原因になっている人がいる。

少しの緊張が、命の問題になることがある。だから体を丁寧に観る、ということが必要になる。

ポリープのあった人が整体して、それがなくなったら、「不思議だ」と言う。そんなことは有得ないと言う。しかし、何もなかった処にポリープが出来ること自体が不思議ではないか。環境が変わってそれが出来た、それがまた環境が変わったことで無くなった。ともに不思議と言えば不思議だし、当たり前と言えば当たり前である。

出来たものを不思議と思わないで、治った方だけを不思議だというのは、いかにも考えかたがおかしい。

何でもなかった顔に疣(いぼ)が出てきて、それが引っ込んだ、という言い方もおかしい。そこだけを見ていて、身体というもの全体の中で考えるということが閑却されてしまっている。だから、出たものを切り取る、ということ以外考えられなくなる。

なぜそれが出てきたのか、ということを考えられない。黴菌か何かのせいにしてしまって、それを探そうとする。

癌についても同じです。今までなかったところに出てくる。体内の環境が変わったことによってそれが無くなっていく。出ることに不思議もなければ、治るのにも不思議はないのです。疣と何ら変わらない。体というものから出発して考えれば、そこに区別すべきものなどないのです。区別するのは、体の研究というものがまだ不徹底だということで、行き届いていないというだけのことです。

不徹底だから、今言った、寝小便が時に命に係わってくる場合がある、それは腰椎三番の一側に現れている、などとということは、夢にも思いつかないのです。

あちこちの病院で検査してもその寝小便が治らない、だけど離婚したその理由について、本人も語らないし、医師も気づかない。

腰椎二番は直腸と関連がある。そのため、性興奮が直腸に行く、直腸でないと快感がないというような性倒錯というのもあります。性欲が肛門あたりに振り替えられる場合には、異常性欲になることもある。それらは腰椎の二番、三番の一側の硬結に現れてくる。

 

一側の線というのは非常に重要で、三側と組み合わさっている場合は、三側が一側に優先することは殆どない。いつも一側が優先している。

腰椎部の三側も、胸椎部と同じで、腹腔内の臓器の問題です。

頸椎部の三側は、上頚、中頸、下頸の三か所があるだけです。

上頚は頭の中の血行異常の調節に使う処。頭痛、頭重、めまい、日射病、脳溢血、脳充血、エンボリー、船酔い、鼻づまりなどを治すのはみなここです。

中頸は、内分泌腺、ホルモンの分泌状態と関連している。特に甲状腺ホルモンと関係が深い。あるいはそれを通して副腎ホルモンなどとの関連も深い。

下頸は胸椎部の臓器の変動のほとんどが反射してくる。左側は心臓が多い。右は肝臓が多い。しかし、それ以外の臓器の異常もみな下頸に反映してくる。

面白いことに、骨盤内の臓器の変動も、下頸に影響がある。呼吸器の異常も下頸に影響がある。一側と三側に分かれているものが、下頸ではその両方が下頸に影響してくる。

自律神経失調症も下頸に影響している。このようにいろんな変動が下頸に関連してくるので、その見分けが非常に難しくなる。

肩が凝る、というのはそうした変動の総称みたいなもので、触ってみて下頸に異常があれば、本人の自覚はなくても、その関連した何処かに異常があることが推測できる。

 

三側系統の異常に対しては、腰部活点の操法でほとんど解決できる。腰部活点は、両側ともに問題になる事は少なくて、大抵は左右どちらかに異常がある。

場所の注意点は、腰部活点を、その近くの腰椎二番の二側のところと間違う人が多いので気を付けること。消化器に異常がある場合は、二側にではなく、三側が硬くなっている。

腰部活点は、それをうまく掴まえられれば、下頸ぶの硬直、つまり肩こりといわれるものが、いつの間にかなくなってしまう。

 

二側の問題

説明に入る前に、ちょっと立ち上がって、自分の骨盤の状況を確認してみましょう。

立って自分で触ってみると、左右の骨盤に大きさの違いが沢山ある人がいます。こういう人が、二側操法の練習の際にはわかりやすい。

立って、お尻の大きい方の側の足先を外側に開いてみます。体は真っ直ぐにしたまま。そうやって外側に開くと、お尻の大きさが左右揃って来ます。

まずそれを確認してください。

お尻の大きさに左右差があるのは、大きい方の側の足先が、無意識に内側に向いてしまっている。だから、今とは逆に、お尻の小さい方の側の足先を内側に向けてみると、同じように大きさの差がなくなって揃って来ます。

これは、骨盤の位置異常とその調整ということでもあります。

後ろ側から観察すると、お尻の大きい側の足先を外に向けさせると、体が捻れる。逆の方に捻れる人もいる。あるいは、お尻の小さい方の足先を内側に向けさせてみると、捻れていたものが取れてくる人がいる。そのとき、肩の上がり下がりがよりひどくなる人もいれば、逆に 両肩の高さが揃う人もいる。

この観察から、足先を内側に向けるとお尻の筋肉が弛み、足先を外側に向けると、お尻の筋肉が引き締まってくることは分かりますね。

今度は、骨盤の骨を観察してみて下さい。

骨盤が縮まってくるとお尻の筋肉が弛んできて大きくなります。骨盤が拡がるとお尻の筋肉が引き締まってき小さくなります。

これは見た目とは違っていることは分かりますね。

そこで、立った姿勢で、どちらかの足を内側に曲げるか、外側に開くかしてみる。両方外に向いているのは緊張姿勢。そういう時は両方のお尻が小さくなっている。それでも多少の大きい小さいはあります。大きい方の足は無意識に外に開いている。

このように、足の開き具合で、お尻に大きい小さいが生じるということを確かめてください。

そしてお尻が揃った時に、肩が捻れてくるという場合は、逆の足を使う。たとえば右足を開いたらお尻が小さくなって揃ったとします。その時に肩が前後に捻れたら、逆の左足を内側にしてみると、そちらのお尻が大きくなって揃います。その場合、肩の前後にも無理がないという状態であれば、それは左の骨盤の異常です。つまり、足の位置を変えて揃う方が異常である。

こういう場合、臨時の矯正法として、仰向けにして、足を内側か外側にして、フーっと引っ張る。そしてすぐ起きて、肩の位置とお尻を調べると揃う。

 

さて、二側についてですが、これは身体の形の面での調整に使うところです。だからまず骨盤の位置を見るということから始めます。

骨盤を揃えたら曲がってきた、狂ってきたというところが異常の箇所です。だから、二側の異常というのは、相手の動作から見ていきます。

二側は、骨格の狂いを矯正するために操法するのですが、その為にはその狂いのもとになる骨盤、つまり土台から見ていきます。

さらに言えば、その骨盤と一緒に動いている足や膝、股関節、足首などを見ていく。つまり、二側における観察は、下の方から上に順に見ていきます。

足首が狂っただけで、お尻の大きさが変わる。こういう場合、さっきやった足先の向きを変えるということとは違う問題になる。

よく、立っている時に、何か気にして片足を持ち上げたりしている人があるが、そういうのは足首か膝に異常がある。片方の踵を持ち上げて立ち、それから動き出すというのは足首や膝に故障がある。そういうように相手の動作を細かく観察していくと、それによって動いている背骨の状況もだんだん読めるようになる。初めのうちは、棘突起や横突起を触ってそこへの力のかかり具合などを一つ一つ見ていきましたが、だんだん判るようになる。

上体は真っ直ぐにしているのに、土台は狂っているということもあるが、その場合、真っ直ぐにしているために曲がった処が生じている。そういう癖が靭帯についてしまっているからいつも曲がっている。そのためにその骨を弛めてもうまくいかない。その代償として骨盤が狂っているということもある。全体のバランスをとるためにそうなってくる。

人間は立ち上がって動作をするために、腰や頸が彎曲して姿勢を保っている。だから腰では腰椎三番の処、頸では頸椎の七番の処に一番力がかかる為に、大きくなっている。

身体は、余計に力がかかるところは頑丈になっている。頑丈になっているというよりも、力がかかった為に頑丈になったといったほうがいい。犬や馬などは腰椎三番が特別大きくなっているということはない。

だから立っていることによる独特の姿勢、構造だといえる。

 

長い間かかって曲がるということでではなくて、一時的に臨時に曲がっている、その人一代で曲がっているというようなところは、構造的には丈夫に頑丈にならないので、そこに負担が重なってくる。その負担を調整しようとして、その調整の要求が働いて、病気をちょくちょくやるということである。

したがって、背骨の曲がりと、病気とに関係があるということになる。

曲がっているところには、負担がいつも過剰にかかっている。

背骨は、そこに力が加わると、それが刺戟となって次にそこと関連する臓器に反応を引き起こす。脊髄反射といって、マーシャルホールという人が見つけたものですが、背骨は背骨だけのことでなく、構造的にその背骨が支配している筋肉や神経に影響し、その神経や筋肉が緊張したり萎縮したりして、末端の筋肉や臓器の働きに影響してくる。そういう理由からも、背骨と病気は関係しているということになる。

 

呼吸器の悪い人は、みな前屈姿勢をしている。胃の悪い人はみな背中をまるくしている。腎臓の悪い人はみな体をねじっている、共通した姿勢をしている。

そういうことで、われわれは二側を見ていくきには、体の形による臓器の影響というものをまず意識することが出発になります。

お腹に水が溜まるという人がいる。そういう人は、踵の後ろに力を入れる癖がある。みな踵の後ろの部分が伸び縮みしなくなっている。だから腰椎一番に力が入り過ぎている。あるいは骨盤が開いて恥骨に力が入って、お相撲さんのような恰好をしている。そういう人は、お腹に水が溜まりやすい。

ところが踵の縮んでいるのを伸ばすと水が溜まらなくなって、その元になっている腎臓や腹膜や肝臓の異常も同時に治ってくる。

踵の後ろに力が入り、そこが縮んでいる場合、足を前に進めようとすると、必ず足の親指の根元に力を入れないと進められない。踵から土踏まずの処まで硬くなっている場合、腎臓が悪くなっている。そこで土踏まずのところをジーっと押さえていると、腎臓が働き出す。腰椎一番や五番に力がかかり、そこが捻れたりすると、足の前側や踵に力が入るようになる。それを腰椎三番に入るように矯正するというのが操法です。

いりいろな関連の問題は、沢山あります。腎臓の悪い人は体を捻じっています。

足の内側に力が入る人は、その部分が硬くなってくる。そうすると、喉や耳が悪くなってくる。その硬い処を押さえていると、そういう異常がなくなってくる。

足首の回転運動のできにくい人は、喉や耳や泌尿器を悪くする人が多い。

心悸亢進を起こした人の足の小指の爪の根元を強く押さえるとそれが治ってくる。腎臓は薬指に関係している。

手で言うと、心臓関係は薬指です。心臓の弱い人の左手親指の爪の根元に、過敏点がある。心臓が苦しいとか心悸亢進を起こしたという時に、親指の根元を押さえると良くなってくる。胸椎四番が狂っている場合は、同じ心臓でも小指側を押さえると治る。

 

二側というのは、そうした関連のあるところの経路にあたっているので、手足などを押さえないで、直接背骨を押さえて治す場合もある。

それから「側腹」の問題もある。側腹は、病気と言われる症状の殆どに対して、関係している。特に、操法した後で、それを保たせるために「側腹」をおさえておくと、繰り返さなくなる。その理由は分からないが、側腹が胸椎七番、八番の筋肉の末端にあることと何らかのつながりがあって、そこを摘まむと胸椎の七、八、九を刺戟することと同じで、病気の恢復ということに繋がっているようにも思われる。

まあ、二側の問題をやりだすと、運動系のすべてが調整の対象になってくる。体癖の問題を考えていくときには、二側の問題が非常に重要となってくる。

みなさんも、二側と体癖との関連や、体の形と健康状態の関係や、とりやすい姿勢と体力の発揮の関係などに興味をもって練習を続けていって下さい。

きょうはこれで終わります。