野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

精神療法家としての野口晴哉

さきに見た「整体操法の成立過程」に、整体操法制定委員会委員長としての野口氏の肩書として「精神療法」の記述があった。私はこの記述を初めて目にしたとき、従来からの手技療術を総括し、新たな規範を作成するという趣旨のこの委員会の長が、手技でもなく輸気でもなく、精神療法(家)をその主たる専門領域であると記されていることに、少し違和感を感じたのは確かである。しかし私の感じた違和感は以下の文章に接したとき、すぐさま氷解した。

心理療法読本」(潜在意識教育1心理指導)には次のような記述がある。

 

治療は対人関係にその出発点がある。病気を治す前に病人をして健康人たらしむることが第一。健康になれば自ずから病気は治る。治るよう導くことを忘れて治す工夫をしているところに、慢性病治療の難点がある。治療とは病気を治すことでなくて、病人の裡に健康人を見出し、これを導くの法である。・・・人間はあくまで全一的な存在。このことの判らない人が、心に心理療法を、体に物理療法をと言う。されど治療のこと、心に行わず、体に行わず、ただ生命に行う。

 

野口氏の著作や口述記録のいたるところで、上記と同様の記述が散りばめられていたことに思い至ったからである。野口氏が、整体操法の技術体系を初等(身体領域)、中等(心身相関領域)、高等(心的領域)に便宜的に分けて行ったのも、単に容易な段階から困難な高次の段階へという垂直思考にもとづいていたということだけでなく、人間が持つ重層構造をわかりやすく解析していくための方法としても考えられていたからではないかと思える。

言い換えると、野口整体に於ける操法とは、一対一の対(つい)の人間関係における「生命」同士の交流であり、共感のことである、ということを端的に伝えるための優れた方法であったのだと思える。

つまりそれが外見上、精神療法であったり、手指を用いた物理療法であったりしているだけだ、ということである。