野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶ(26)型とその運用

前回の講座から自修期間が設けられ、ちょうど二か月後の開講となった。I先生から、この自修期間中に整体法を学ぶ覚悟を決めるよう促されてのことであったと思う。このことは、I先生からみた私たちに、ある基本的な部分の欠落が感じられていたということでもあろう。特に私の場合、I先生から何度もご指摘を受けてきたように、どうしても整体思想に関心が向きやすく、頭で理解しようとするあまり、整体の技法に対して鈍感すぎることになっていたのは間違いがない。私にとって、整体操法の技術は、一種の手品か魔法のように摩訶不思議な外観を呈していたし、私の理解から遠く離れた、別次元の世界の物語のように感じてさえいたのも確かである。

しかし、少しずつ学んでいくうちに、整体操法というものが、魔術や秘伝などとは全く無縁の、私たちごく普通の人間が見失ってしまっている世界、見ようとすれば見えたし、触れようとすれば触れ得たはずの世界を、言葉を尽くして微に入り細を穿って説明されているものだ、ということが、だんだん判ってくるのであった。

つまりそれは、手品の種明かしといったようなものではないし、相手を驚かすための心理的トリックなどでもなく、わたしたちが余りにも慣れ親しみすぎていた視点や既成の観念からのパラダイムチェンジを示唆するものであるということ。言い換えれば、からだが表現している事実にまっすぐ向き合ってみよう、という誘いのことばであり、そこには汲めども尽きない魅力的な事実が見出しうるのだということだと思う。

触れてみて初めて見えてくるもの、意識を凝らして触れると、触れたものの先に初めて感じられてくる、気とか生命といったものが、そこに立ち現れてくるということを、野口晴哉という稀有の才能が、その生涯を通じて指し示そうとしたものであることに思い至る。整体を標榜する人たちの多くは、そのことを忘れてはならないのだと思える。自らの指導の手の内を知られないように、それらを秘伝化したり、神秘化したり、寄らしむべし知らしむべからずと、策を弄することほど、野口氏の思いに反するものはないに違いない。少なくとも私にはそう思えてならないのだ。余分なことを、長々と書いてしまいました。申し訳ありません。では、講座の記録を始めます。

 

部分と全体

整体操法を学ぶものにとって、最初に間違えやすいことは、型が操法である、と思い込みやすいということである。というのは、整体操法は部分を対象とするのではなく、いつでも全体を対象にするのだ、という言葉にとらわれて、体中にある処にたいして手の型、足の型、頭の型などを順に全て行えばよいのだと、つい思い込んでしまう。

たとえば、足を骨折した人がいたとする。すると、お腹を調べると硬くなっているのでまず頭を叩く、しかし骨折した当人は、痛むのはここだと何度訴えても、全然それには応えないで、頭の次は胸を押さえ、さらにお腹の型をやって、最後にやっと足にきて、足はチョコチョコっとやって終わってしまった。それで痛い処が止まったかといえば止まらない。そこで相手は、ここがまだ痛いのですが、と訴えると、整体操法は局部を対象とするのではない、全体の操法であるから、一通り操法したからこれでいいんだ、ということを言っている指導者が時々いる。

操法の全体という意味は、全部のことをやればいい、ということではない。たとえば手を握っても、人により状況により、赤くなったり青くなったりする。人間の体はどこでも全体の現れとしての部分があるのです。眼が悪いといっても眼が悪いのではなく、眼を悪くするような体の状態があるのです。胃が悪いというのも、胃が悪くなる体のバランスがある。そういうバランスを調節して、なるべくなら異常箇所が、その人の体の力で、その人の体の働きで自動的に調整できるように方向づけていく、それが整体操法の基本的な考え方である。どの部分からでも全体とのつながりを求めていく、また全体のつながりから、ある一か所の処の変化をもたらす部分を見つけていく。いつでも、部分と全体、全体と部分を考えながら対処していくのが整体操法なのです。

だから、いろいろな部分のいろいろな型を知っていても、それらをどのように使うかということを身につけないと、型の知識を知ったために却って出来ないということがある。ある人に、愉気操法して良くなったからといって、同じことで他の人が良くなるとは必ずしも言えないのです。しかも、同じ人であっても、昨日と今日では違ってしまう。厳密に言えば、同じことは二度とないのです。自分のことでも、他人と同じような病気になると、自分が習い知った悪い状態を思い浮かべて、悪い病名ばかり空想して、不安に落ちていく。他人の場合でも、肺炎にしては脈が遅いとか、腎臓にしては熱が高すぎるとかいうように、いろんな知識を思い浮かべて、判断してしまう。しかし、それらは目の前の現実の体を見ていることにはならないのです。過去に習ったノートを開いているに過ぎないのです。こういうやり方は、「異常を経過する」という整体の立場から言うと怖い行き方です。それはレントゲンで写った影を見て、これは軽い、これは重いと言っているのと同じことです。

いまここにいる現実の病気を持った人、その人の体力状況、抵抗力、病気に対する信念、健康に生きていくという信念、病気に対する理解度、体の使い方、免疫力などすべてをあわせもって病気を経過していこうとしている体が目の前にいるのに、それらを考えないで、ただレントゲンの影だけを追って、悪い軽いと決めつけようとしている。 

 整体操法するということは、自分の経験や、過去の記憶を一旦括弧に入れて、目の前の具体的な個人という現実を丁寧に見る、ということから始めるのです。そこから離れてしまって、病気の型や操法の型を思い浮かべるというような習慣が身についてしまうと、だんだん操法すること自体が難しくなってしまう。

言葉で説明されたことを、そのまま現実の個人に当てはめてみても、それでうまくいくことはない。言葉で言われたことが無意味だというのではなくて、言葉では伝えきれない部分があるということを知って、現実の体に向き合っていくということが大切だということです。言葉にはどうしても限界がある、言おうとして言えなかった部分も含めて、相手の体を見ていくということが必要です。

 

操法の型の概要

改めて、操法の型について復習しておきます。頭部に五か所の調律点がある。その五か所を中心に、頭皮の状態を見る。弛緩していたり硬直している処は異常だから調節する。調節すると、頸やお腹に変化が生じてくる。とくにお腹はその変化が明瞭なので、頭部の調節の度合いをお腹で確認する。頭部第二の柔らかい方を操法すると、お腹の柔らかい方に力が出てくる、そしてお腹の弾力が左右揃った時点で、操法をやめる。頭皮が弛んでいる側のお腹は硬くなって小さくなっている。このように頭皮の操法を行なうと、神経系統のいろんな面で変化がおこってくる。たとえば、神経痛は頭の操法によっておさまる。後頭部の弛んだところを押さえていると、足の神経痛がおさまる。分娩が遅いのも調整できる。お腹にだけ影響するわけではない。体の全部に影響する。ただ、お腹は見やすい、触ってすぐわかる。そこでお腹に頭の操法の度合いを求めるわけです。これが頭の操法です。

お腹は柔らかく弾力があるのが大事で、それが硬くなってきたり、一部分が硬く萎縮してきたりするのは異常である。そして萎縮している処や硬くなっている処をきちんと操法してやわらげることは、体全体を良くすることにつながるのです。お腹が萎縮しているのは頭の反映で、イライラしたり気が短くなって腹が立ったりする。腹が立つというのは、直腹筋の緊張した状態をいう。それを頭が感じてイライラする。お腹そのものが悪い時は、そこが硬くなっている。食後にお腹を触ってみて、胃袋が縮んでいるのが正常で、膨れ上がってしまう時は異常がある、その場合はお腹の冷たくなったところを押さえて愉気するとおさまる。頭部第三を押さえると、胃袋の拡がる癖が改善する。胃が拡張する癖から、その人の食習慣が想像できる。

お腹の異常は、触れば硬いか、特別弛んでいるか、脈が強く打っているかしているが、その場合に頭を押さえたり、背中を押さえたりすれば回復するのだから、無理にお腹を押さえることに結び付ける必要はないと言える。そういう異常を作らないようにと、いくつかの腹部操法の型が出来たのだが、体の調整的な面で言えば、臍の周囲を押さえる型だけで大抵は済んでしまう。

腹部第一はお腹との関連、とくにお腹のだ動運動。分泌運動は、頭の迷走神経の張力が亢まると増えてくる。第二は腹部臓器の位置に関連する。第三は体のバランスがとれているときはここに力がある。だからここは体全体の体力の象徴として調べる。

腹部第一に異常があるときは胸部操法を行なうが、それ以外ではあまり胸部操法はしない。胸部操法は肋間筋を弛めたり、肋骨を上にあげていったりするように操法することがその大部分で、それ以外はほとんど愉気で経過する方がよい。例外は頭部第五が異常な場合ぐらい。

次に背中の操法。背部には、一側、二側、三側と棘突起の四つの型がある。棘突起は脊椎の可動性を調べる、一側はその線になったところにある硬結を調べる。悪い場合には線が固まってバラバラでと弾けない。二側は脊椎の転位の状態やその位置を調べる。三側は内臓の状態を一番反映しやすいところで、そこの硬直や硬結の状態を調べて、それに対する型をおこなう。

以上が、これまでやってきた講座の要約ですが、今はそれらを完全にできなくても、大体の流れをつかんでおけば、次第にはっきりとわかるようになります。出来ないからと嘆く必要はない。操法と違って、愉気というのは、その人の持って生まれた素質みたいなものがある人は、いきなり上達するということもあるが、逆に年数を重ねても心の濁った人はすこしも上達しない。しかも、時として愉気の効果を全くあげられなくなるというようなことも起きる。しかし、整体操法は、意識的に、一つ一つ克明に技術を身につけていくものなので、積み上げてきたものが急に失われるということがない。繰り返し、繰り返し技術を磨いていけば、自然に上手になっていく。だから、整体操法の学習を続けることに意味があるのです。一年や二年やって自信が持てなくても構いません。では、十年やれば自信が持てるようになるかと言われれば、それは否です。三十年やっても自信は持てないのです。しかし、十年やった人には十年の自信がある。三十年やった人には三十年の洗練されたものがある。一年だって、やっていない人とはまるで違う。一年やれば一年だけの効果をあげられる。決してそこに愉気にみるような飛躍はないのです。だから一歩一歩進むしかない。焦って飛躍しようとしても、やった分だけの自信が得られないのです。

整体操法というものは、特別能力のある人を対象に組み上げられたものではありません。どんな頭の悪い人がやっても、馬鹿がやっても効果があげられるという処を正式の型として残してある。整体操法を作るにあたって、手技療術の各々秘伝と称しているものを集めて、それらを下手な人達にもやってもらい、そのうえで大勢の支持があり効果の認められたものを、後世に残すべきものとして型がつくられたわけであるから、目先の故障を回復させることぐらいなら、整体操法の型通りにやればそれで済んでしまう。型が相当に下手でも実際には出来る。しかし、型を身につけるということは、上手になった時、さらに上手にできるようになるために必要なのです。型をマスターするということは、目先の、相手を整えるという目的の為ではなく、自身の将来の為なのです。型が出来るかできないかで、相手の全体に働きかけることに歴然とした違いが生じてくるのです。

 

整体操法の構成

操法の設計を行なう際の特徴は、相手の運動系に対して行うところにある。人間が直立し歩行できるようになり、自由になった手を使うことによって大脳が発達してきた。だから今日の人間の体の状態というもののそもそもの理由は、脚にあるといってもいいぐらいで、それに伴って手を自由に使いこなした結果として頭にもいろいろな変化をもたらすことになった。脚へのいろいろな刺戟が内臓に影響を与え、手への刺戟が頭に影響を及ぼすということになる。こうした意味では、手足という運動系のほうが内臓よりも大事にされるべきだと言えなくはない。胃や心臓から肛門にいたるまで、他の動物とそれほどの違いはない。違っているのは、手足だけと言える。この運動系の構造が他の動物と違うために、人間は今日の人間になってきたわけである。だから、人間の生活におけるいろいろな異常とされる問題は、人間が人間であるために生じてきたものだ、という観点から理解しなければならない。

 

型の運用

型の運用という言い方は本当はおかしいのだが、というのも型は初めから運用するために作られている。運用するのに都合がよいように作られたものだからである。たとえば、風邪を例にとると、いま、 秋の風邪のほとんどは、明け方の冷えによっている。気温は午前五時から六時にかけて一番冷えるが、寝る頃は暑いため、あるいは暑かった時期の習慣が体に残っているために、実際には厚くないのに布団を剥いだりしている。逆に寒い時期を経過すると、そんなに寒くないのに布団を体に巻き付けて寝ているというように、体の記憶というものは体の変化にも影響を与える。病気の場合でもそういうことは沢山にあり、結核の人はちょっと咳が出ただけで結核の悪い時期を連想してしまう。何か体に記憶していると、それによって体が回復しない。一度憶えてしまうと、そこから自由になれない。人間がいろいろ仕込まれると、反抗出来なくなってしまうのも、そういう体の記憶の面がある。これはいい面にも、悪い面にも使える。

暑い夏の記憶が、寒くなっても布団を剥いでしまって、汗をかいたのが引っ込んで風邪をひく。一度かいた汗を引っ込ませると、呼吸器の変動になり、そこで風邪をひいたり肺炎になったりするが、それによって皮膚や呼吸器や腎臓といった排泄機構を悪くする。そういうものは、汗を出してその始末をすればいい。熱が高い時に温めると、汗が出てくる、その汗が出終えた時に、胸椎の五番、八番に愉気をするか叩く。それから腰の両側に愉気をすると、もう一度汗が出て経過する。それをもう一回汗を引っ込めてしまうと、今度は耳に異常が出る。頸椎四番や胸椎六番、あるいは化膿活点にも硬直を生じる。足の喉の処にも硬直が出る。しかし、操法として行う場合は、捻れる傾向さえ正せば済んでしまう。腰椎三番を捻る操法をする。

 

腰椎三番の操法(練習)

横臥。捻って腰椎三番が捻れる位置を見つける。上になった手をうしろにやり、下の手を斜め前に出して捻ると腰椎三番にいくが、三番に来ない場合は異常がある。手枕をしてやると、腰椎一番か二番にいく。頭は浮かしていた方がいい。胸をうしろに、足を前にやって、腰椎三番で捻れるかどうか確かめて、捻ったところでギュッと押さえる。一般的には抵抗のない方を上にして捻るが、両方やっておけばいい。ただ、強く捻りすぎないように、捻る時は力を流さないように止めることが大切。充分にゆっくり捻っておいて、最後にちょっと速度を速くする。ボキッと音がする必要はない、ただ捻るだけで十分。この動作の中心は、丹田と腰椎三番の間にあるが、相手が一番無理なくとる形、捻った形がほとんど腰椎三番に力が集まっている。安定した感じのある時は、三番に力が集まっている。この中心に力が集まらず、ずれると不安定になり、いろいろな故障、心の不安定、皆このために起こる。体中の力を弛めても、三番に力が入っていれば咄嗟に緊張できるが、三番の力が抜けてしまうと、方々が緊張していてもサッと動作が出来ない。相手の健康状態を見るときは、三番の状態からそれを推測できる。

三番の操法の要点は、捻った時にポキッと鳴ったかどうかではなく、左右やってみて素直に、楽に捻れるようになったかどうかにある。捻った時にぎこちない動きになるのは正常ではない。最初に捻ってショックして、もう一度捻ってみて楽に捻れるかどうかを確かめてください。左右両方やる。この確かめが大事で、二度やるというのではなく、二度目は確かめの為です。

なお、泌尿器の風邪の場合は、上記以外に胸椎五番と寒気を取るための八番の愉気やショックを加えることが大事である。冷えの為に喘息の発作が出た時は、三番の調整でいい。急に皮膚が冷えて、腹痛や小便がいつもしたくなる等の時は、足の甲の中指と薬指の間を押さえる、ここは冷え全般に使える。

本日は、以上で終わります。