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未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶⅡ(46)偏り疲労の平均化と眠りの誘導

偏り疲労 体を弛めるということ

運動というのは、体が緊(ひきしま)ることと弛むことで、それが繰り返されることで運動になっている。緊張と弛緩。集注と分散。これは人間の体に限ったことでは無く、宇宙のエネルギー全てが、集注と分散の現れであり、その現れとして人間の体も緊張と弛緩が繰り返されている、と考えるべきである。

そうして、われわれが体を調節しようとする場合の多くは、異常な緊張が対象となる。緊張が偏っている場合に、人間は疲労感を強く感じる。

しかし、疲労していることと疲労感とは違うものである。疲労していても疲労感を感じないことがある。

自分の好きなことを一生懸命やっているときには、体が緊張して疲労緊張の頂点に達して弛みだしているのに、それに気がつかない。それでつい度を過ごす。何か一生懸命やったあと幾日かして疲れをひどく感じるのは、みな疲労していながら疲労を感じないためである。

会社でクタクタに疲れたといっても、マージャンとなると徹夜でもできる。逆に何かの理由があって疲労しているわけでないのに、疲労したと錯覚すると疲れてしまう。おかしなものだが、自発的にやることは疲労感が少ないのに、しかたなくやると疲労していなくても疲労感が強く出てくる。このように、疲労疲労感とは全く別のものである。

疲労の大部分は、緊張と弛緩が偏っている場合で、それが平均している場合は、あまり疲労を感じない。体全体のなかで、ある部分だけが余分に使われて、その部分が伸び縮みしなくなり、その幅が狭くなってくるということが疲労なのです。そしてそれが繰り返し行われると、その部分が強張ってくる。

体の疲労疲労感が一致しなくなる原因の多くは、行動するときに心の焦点がそこにない場合である。焦点がそこにある場合でも、緊張が偏っていて、その為に疲労感がうまく起こらない為である。それは活動意欲の方が盛んになって、緊張感、疲労感を感じなくなっている状態です。

疲労疲労感を別個のものとして考えれば、疲労というものの実体は、体の緊張と弛緩の幅が狭くなることだということがわかる。そしてそういう状態が体全体に及べば、それが老衰であり、ついには死に至るわけである。

体の使い方によって生じる異常というものは、大部分が疲労そのものが原因であって、疲労感によるのではない。われわれは、しばしば疲労を自覚しないことがある。

そこで、整体操法を施す場合には、その疲れた部分に対して力をつけるというような、あるいは引き締めるというような方法をとるよりは、まず体全体を弛めるように行うということが第一の方法となる。

人間は疲れると自然に眠くなり、睡眠によって弛めるようになっている。ところがしばしばわれわれは、疲労によってではなく、疲労感によって眠るという習慣がついてしまっている。

体全体が疲れていなくて、ある部分だけが疲れているのに、疲労感がある為に眠ってしまう。そうすると、疲労している処は睡眠が必要であるのに、それ以外の他の部分は疲労していないためその必要がない。そのため、体の中に眠っている部分と眠っていない部分とができて、眠りそのものが浅いものになっていく。

体全体が使われて、疲労が平均化してくれば眠りは深くなる。浅い眠りは何時間寝ても眠い。眠りが浅いために、頭の中は起きている時と同じように働き続けている状態である。深い眠りの時は、眠ったということさえあまり意識しない。一気に眠ってしまう。一気に眠ってしまえる人は、大体疲労疲労感が近づいて一致していることが多い。

しかし多くの場合は、夜は眠るものであると決めているような生活習慣であるために、体が実際には疲れていなくても、疲労感によって眠ってしまう。そこには疲労の実体がない。

不眠症を訴える人のほとんどは、日中は何も働かないでノラクラしていて、夜寝る時には熟睡したいというように、本来は眠る必要のない、疲労の実体のない体の人である。こういう要求のもつ矛盾に気づかないで、睡眠剤などを用いるというのは、眠りが疲労によって生じた強張りを弛めるためにある、ということを知らないからである。

 

偏り疲労を調節して、疲労をできるだけ体全体に平均化していくようにすれば、もっと眠る時間が短く出来、眠っても深く眠れ、疲れも早く抜けるのだから、眠りというものを積極的に鍛錬しようという考えを持っていいのではないか。疲労感によって眠るというのでは、眠りの欠点を是正しようとする工夫がないと言わざるを得ない。

 

だから人間の体運動の調節をしようと考えるのであれば、眠りの問題にもっと注目し、浅い眠りを必要としないような体、部分の疲労感だけで眠るのではなく、疲労を体全体のものへと平均化していくことが出来るからだ、あるいは偏った体の使い方をしないような工夫をすることを考える必要がある。ただ睡眠時間を増やせばいいというように考えるのは、もったいない事であり、ある意味人生に対する冒とくとさえ言える。

おそらく原始人は体全体で生活していた。しかし次第に分業生活が行われるようになり、職業というものが確立してからは、みな体を部分的にしか使わなくなってしまった。体のある部分だけを使って疲労させることをもって職業とし、生活の手段とするようになっているのだから、そこに何らかの疲労に対処する方法を考えなければならない。だから、眠りというものを積極的に鍛錬する工夫が必要となるわけで、鍛錬しないままこうした状態が続くと、一日中眠ってもまだ眠りが足りなくなるというような時代になるかもしれない。

われわれは、そうならない為に、偏り疲労を全体の疲労へと平均化して移していく、疲労感によって眠るという習慣ではなく、疲労によって眠るということが出来るように部分の疲労を全体的なものに移していく、ということを考えようというのである。

 

疲労感というのは体全体の感じで、実際の疲労は部分的なものです。腕が疲れても、脚がくたびれても、それを全体の疲れのように錯覚してしまう。だから一旦、疲労疲労感を分離して、疲れの実体を見つけ、その部分部分を調節していくことができれば、人間が起きて活動できる時間というものを今よりかなり伸ばすことができるはずです。

分業を生業とする現代では、偏り運動は避けられない。だからわれわれは、各職業によって生じる偏り運動を調節することになるわけです。そのとき、古代人が眠った時よりもっと深く眠れるようにするにはどうしたらいいか、そういう工夫や、眠り方の鍛錬というものが必要になるわけです。

偏り運動が続くと、ある部分の疲れは眠りによって抜けるが、他の部分疲れていないのに無理に弛められてしまう為に、だんだんエネルギー過剰の体の状態になってくる。そうなると、何もしないのにイライラしたり、何か忙しくてしようがないと言った感じがしたり、何か不安であると感じたり、何か緊張している、何か追いかけられている、という感じになる。あるいは何もしたくなくなる、起きていてもなかなか目が覚めない、ぼーっとしている、ということが日々繰り返されることになる。これでは昔の人より体が弱くなるのは当然である。

だからわれわれは、部分の疲労を調節して、それを全体の負担へと移していく、平均化していくことを行なうわけである。こういう偏り疲労に対処する方法を持っていないと、ある筋肉を余分に刺戟してしまって、偏り疲労がますます増えてしまう結果をもたらすことになってしまうのです。

 

練習 偏り疲労の平均化

前回、眠りを深くするための、肋骨挙上の操法を練習しましたが、肋骨挙上して偏り疲労を調節しても、眠りが変化しなかったという場合には、外から加える力が主となってしまっていたために効果が上げられなかったのです。

大事なのは、相手の呼吸を調節するということが主になるということ。肋骨挙上の操法での注意点は、吸うよりも吐かせる量を多くなるように操法を進めるということです。そのために、最初は一気に吐かせるということは難しいので、吐かせ、吐かせ、また吐かせというように弛めていく。弛んでから挙上するということを考えればいい。そうすれば弛めるという目的にも適う。そういうようにしないで、相手が普通の呼吸のままの状態で、いきなりガッと押せば、息を詰めて緊張してしまう。逆に緊張を誘導してしまう。

肋骨を挙上させるということは、息を吸いこませるということで、それ自体は緊張誘導なのです。

肋骨挙上の操法は、肋骨が下がって呼吸が浅くなり、眠りも浅くなっている。疲労が重なってくるにしたがって上がり下がりの幅が狭くなって、胸で呼吸するようになってくる。ついには鼻で呼吸するようになってくる。こういう人は、疲れ抜いている状態です。この呼吸の幅を拡げ自由に動かせるようにするために、肋骨挙上の操法をすると考えればいい。疲れるにしたがって肋骨が下がってきてしまうものを、操法でもう一回上げ下げして、その幅を拡げるわけです。その結果、肋骨の緊張を弛めることになり、それによって眠りを深くする誘導が出来ることになるのです。

疲れ切って肋骨が下がったままでは、眠っても疲れが抜けないのです。疲れて肋骨が下がっているのだから、まず下がる方はそのままにして、上がるのに支障がないようにするためにそういう誘導をする。そうすれば、部分的に下がるだけだったものが、自然に全体的に平均化されて下がる、ということになるのです。

それがこの操法の狙いです。

では、もう一度肋骨挙上の操法を、相手の呼吸を吐かせる、吐く呼吸を多くするということに注意して、つまり相手の呼吸を誘導するということに意識しながら練習してみて下さい。

 

出来ましたか。これがうまくいくと、深い呼吸が出来るようになり、眠りも深くなってくる。呼吸しているかどうか分からなくなるほど眠りが深くなると、睡眠時間が短くなってくる。同時に、体の方々の硬直部分が弛んできます。

子どもの寝小便なども、眠りを深く誘導できると、いろいろ手段を講じなくてもほとんどこれで治ってきます。

病気が重くてどこが悪いか判らないというような時に、この肋骨挙上の操法を行なうと

翌日から元気になってくる。どこが良くなったか判らないが元気になってくる。それを何回か繰り返すと、普通の人と変わらないぐらいになってくる。そうなってから、体を注意して観察すると、悪い処がハッキリ浮き上がって出ていることに気づく。

このことを考えても、異常のある処だけが異常なのではなくて、いつでも部分の異常に対して体全体が連動して合目的な働きがあるということが理解できる。

 

子どもの場合、異常を訴えるということが出来なくて、どういう理由でその病気になっているか判らないことがあるが、この挙上操法を行なうと、判らないままに眠りが深くなり、調節ができるということが多い。子どもの病気の大半は、この操法で調節できると言っていいくらいである。

次回にもう少し肋骨の挙上について説明します。今日はここまでです。

 

(参考:「疲労疲労感」については、本ブログ2018.9.24の「一側操法」を併せてご覧ください。)