野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

養老孟司氏の『遺言。』を読む

養老孟司の近著『遺言。』(新潮新書。2017.11.20発行)を読んだ。養老氏が満80歳になって、ヒトとは何か、生きるとはどういうことかについて、全体的にまとまりがついてきたと思うので本書を書きたくなったのだという。

ここで養老氏が提起しているのは、人間の意識と感覚との関係性についてである。まさに本格的な哲学的試みの書となっている。

 

「意識中心の都市型社会では、個々の具体的な局面で感覚側が社会的には敗北することが多い。(168)」「(少子化)都市は意識の世界であり、意識は自然を排除する。つまり人工的な世界は、まさに不自然なのである。ところが子どもは自然である。なぜなら設計図がなく、先行きがどうなるか、育ててみなければ、結果は不明瞭である。そういう存在を意識は嫌う。意識的にはすべては「ああすれば、こうなる」でなければならない。そうはいかないのが、子どもという自然なのである。・・・都市という物理的環境に問題があるのではない。私はそう思う。人々が自然に対峙する方法を忘れてしまったことに根本の原因がある。なぜ忘れたかって、縷々述べてきたように、感覚入力を一定に限ってしまい、意味しか扱わず、意識の世界に住み着いているからである。(172)」

 

養老氏が単に「意識が感覚より上位だという暗黙の了解がある(168)」と嘆いているわけではもちろんない。養老氏が主張しているのは、意識と感覚とは階層の違う問題だ、と言っているのである。それをごっちゃにして、対立概念として捉えてしまうと間違ってしまうよ、と言っているのだ。

「意識はわかっていないことは、ないことにして無視する。そしてすべてをゼロと一にしてしまう。だから私の芸術に関する結論は簡単である。芸術はゼロと一との間に存在している。(115)」 だから生演奏は強いのだし、デジタルに置き換えられない魅力を持ち続けるのだ。

 

養老氏が意識と感覚を階層の異なる問題だと提起したことは、両者を優劣の土俵にしたがる意識側にとっては好ましくないものに映るということは理解できるのだが、しかし現実にはそうした優劣のほかに、感覚そのもののなかにも優劣の暗黙的了解が存在していることを忘れてはならない、ということを私は指摘したい。

 

視覚や聴覚に対して、嗅覚や触覚は明らかに劣位の立場に貶められていないか。

養老氏は本書では主として視覚・聴覚をイメージして論を進めていて、触覚への言及は殆どない。触覚よりも視覚や聴覚の方が優れている、一般にはそう思われている。

だから問題は、養老氏の言うように意識と感覚の乖離とか、両者の優劣とかの問題というのではなく、意識にとって感覚のそれぞれがどのような位置づけになっているかにこそ問題があると捉えるべきではないか。

つまり、意識にとって視覚や聴覚は、触覚にくらべてより近い距離にある、というふうに問題を捉えるべきではないかということである。

意識というのは、各感覚所与から与えられる情報や刺戟を受容して、知覚を構成し、意識化される。つまり、はじめにあるのは、対象とその前に佇む私であり、意識と感覚というものではない。(このことは、本ブログ「視ることと触れること(2018.8.21)」にも若干触れているので、併せてお読みくださると有難い。)

 

私の意識が、対象をあれこれ焦点化しスポットライトを当てながら、五官を働かせて、可能な限りの像を感受し知覚し意識化しようとするというのが、人間の営みである。だから、養老氏が、意識と感覚を対峙的に設定した時点で、結局のところ、この二項対立の罠から抜け出せなくなってしまったのだと、私には思える。

本当は、対象を知ることに於いて、各感官に優劣など生じるものではなく、対象化の手段が違っているということに過ぎない。手段や方法が違えば、知覚内容も、そこからもたらされる意味内容も異なってくるのは当然だからだ。

 

養老氏はこう断言する。

「カントは物自体を知ることはできない、と述べた。われわれに与えられているのは、感覚所与しかないからだ。白馬が白いとしても、それは馬の「色を見見ている」だけである。馬の体重を計ったとしても、それは体重の目盛りをみているだけではないか。馬自体とはいったいなんなのだ。そう思えば、確実に存在しているのは、頭の中の馬だけじゃないですか。(68)」

 

唯脳論』の著者ならではの飛躍がここにある。対象が消えてしまっているのだ。そもそもわれわれが、外界や対象を知ろうとするのは、それらが我々にとって、生き延びる上でどのような意味を持つものであるかを知るためである。その生存戦略上必要な手段として各種感覚をフル活用し、知覚し、認識する。それが意識であり、心的な内容を構成する基本的構成要件である。

つまり、何よりもまず、対象が我々にとって何ものであるかを明瞭にさせるための働きである心的な行為が、養老氏の断言によれば、対象など存在しなくなってしまい、最後に確実に残るのが頭の中の存在としての白馬でしかないということになってしまう。しかし、そう言っている主体こそ、意識そのものであり、観念であり、養老氏のいう都市生活者の論理の当のものではないのか。

それはまさに観念論である。なぜそのような観念論に陥ってしまうかと言えば、意識と感覚を対立概念として捉えてしまったからにほかならない。本当は両者は対立するものではなく、感覚が意識を成立させている源泉であり、そこから立ち上がってくるものが心的なものと呼ばれるものなのだ。心的なものはその淵源をたどれば、すべての感覚をその基礎としている。

養老氏がこの性急な断言によって、意識に於ける感覚の位置を逆に限定してしまっているのだ。恐らく氏は、意識を人間的なもの、感覚を動物的なものに大雑把に配置してしまったがゆえに、人間にのみ固有の心的領域、つまりこころにこころを重ねる領域、言語を持ったがゆえに可能となった高次の重層的な心的領域についての考察を捨象してしまったと言えるのである。

 

このブログで、身体を対象に、触覚的言語による整体空間を構築した野口晴哉氏の思想や技術を模索している私にとってみると、養老氏のこの断言は、そうした違和感を湧き上がらせる憶見を感じないわけにはいかないのである。