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整体操法の基礎を学ぶⅡ(52)ムチウチ症と被害者の心理

ムチウチ症という病名がつく前から、車の追突事故は沢山あった。それが病名がつくようになったら急にその数が増えてきた。それは冬は寒いという観念現象と同じで、ぶつけられたのだから頸が狂った筈だ。狂ったのだから手が痺れる筈だ。痺れているからムチウチ症になっている筈だと。観念現象というか、あるいはムチウチ症という言葉の自己暗示によるものが非常に多い。

冬の寒いのが、たとえ高温であっても冬だから寒いとか、十度を切ったから寒、というように寒いということでへばってしまう。寒いと思うことによってへばってしまう。気力を失ってしまう。あるいは寒いと思うことによって、お腹が痛いとか、風邪をひいたとかいう人が増えるように、ムチウチ症にも同じようにそれがある。

そこで、もう一度ムチウチ症の精神分析的な処理方法を覚えないと、完璧にはその処置が行えないというようなことになる。

たとえば、頸椎が狂ったままでも、ムチウチ症状がなくなってしまったり、矯正されたのに治っていないと訴える場合が多くある。

以前は頸椎が曲がっている人だけがムチウチ症を訴えたものだが、病名がつくようになってからは、何でもないのにムチウチ症が治らない。頸椎はきれいに治っているのに、症状が全然変わらない。

 

そこで頸椎を矯正する技術を覚えることのほかに、ムチウチ症の観念症状とか心理ショックとかいうものを処理する方法を覚えないと治らない場合が多い。

一般に、病気の中の十分の九は観念現象で、みな自分で作っている。

それは、病気になっている方が優遇されるからです。そういう理由で、病気を自分から必要として抱え込んでいる。だから相手の気分次第で症状が軽くなったり重くなったりする。

病気と言うものが有名になってくると、だんだんそういう傾向が生じてくるもので、ムチウチ症状も、頸椎ヘルニアというだけであったら、おそらく割に簡単に、骨さえ治れば治ってしまう。その証拠に、一般にムチウチ症という病名が公表されてから、急にそれが増え、治らなくなってしまった。

一つには交通事故という特色から、早く治ってはつまらない、重ければ重いほどいい。別に命に係わりないのだから、あとは重い方がゆっくり療養できる、見舞金も余分に貰える方がいいというような利己的な利用で、治りにくいという面がある。多少とも交通事故などにはそういう要素がある。示談金とか見舞金とか、何かそういうプレミアがつくとそういう疑似症状が起こらなくて済んでしまうことも多分にある。交通事故の被害者心理の中には、こういう疑似症状を要求する動きがある。

しかし、治りにくくしているのはこれだけではない。ムチウチ症という言葉が、人間の持っている性欲の中の異常性欲状態と結びついている。最近、異常性欲の人が多くなってきている。結婚して満足に性生活をしている人は極めて少ない。結婚してもする前と同じ顔をしている。それはうまくいっていない証拠であるが、大部分がそういうインポテント的な傾向、成長不完全傾向を起こしている。そこでひとつの変態状態になって、余分に、派手に騒いだり、派手に声を出したりして、自分を余分に主張することから始まって、自分を受け身に持っていくマゾヒズム状態、あるいは人に危害を与えようとするサディズム状態の人が多くなってきた。性器不全状態というのは性欲の変態状態に変化しやすい。そういう人達のなかで、ムチウチ症状という言葉は、マゾヒストの最も希望するところのもので、マゾヒズム的傾向の人がムチウチ症になったら最後、途端に治りにくくなってしまうという傾向がかなりある。そこで、そういう性器異常の転換を行なうと、ムチウチ症を気にする傾向がなくなっていく。

人間の本質の中に、こういう病気になっていたい要求があり、そのため頸椎の異常を治しただけでは治らないということが起こる。その被害者の心に触れなければ治らない。

「もう少し余分に見舞金をもらって、スキーにでも行って来なさい。」と言うのは、被害者の心に飛び込んで言った場合であるが、もう一つ、人間の性欲というか、本能というか、そういうものの中にある受動的な自己主張、それが変態になればマゾヒズムであるが、受動的な自己主張、あるいは女性的な本能、女性的な本能というのは男にもある、男にも女にも女性ホルモンも男性ホルモンもある、その中で女性的なものが多い場合いは、誰かにいじめられて快感があるとか、サントリーざんぼろくそに言われたら胸がスッとしたとかいうような傾向になる。そういう傾向を持っている人がムチウチの疑似症状になりやすい。そういう傾向のない人でも、ムチウチ症という言葉や、被害を被ったという受動的な面だけが強く意識されてしまう、という場合も少なくない。

そういうことに対する処理の目が届かないと、骨を治しただけでは、症状はなくならない。よくムチウチ症治すのに骨さえ治せば良くなると考えて、首をつったり、コルセットをはめたりしているが、多くは失敗している。ただ、長い間首を引っ張っているということは非常に窮屈で辛いことなのだが、そのことでマゾヒズム的な分子を満足させているということが無いわけではないが、整体操法のように頸をガクッとやって簡単に治してしまうということは全くつまらなく思えて、そういう人の心に触れていないと言えるかも知れない。そこで、そういう傾向を転換するために、よその場所にそれを作って、頸を触らないで、よその処で操法するということが多くなるわけだが、いずれにしても、相手の心とか本能とかに入り込まないうちは、うまく治せない。

 

そこで、我々はムチウチ症を治そうとする場合に、被害者心理というものについて、もう少し掘り下げて研究する必要が出てくる。

被害者の心のうちにあるのは、他人に害されたということに対する憤り、悲しみ、それと共に自分がその被害を受けてしまうような立場に立たされてしまったことへの自分に対しての同情、というものがある。自分で自分をかわいそうなものだ、と思い込んでしまっている。憤りが、害を与えた相手に対して向かって攻撃的になるのは陽性だが、悲しい、かわいそう、みじめだといった自己憐憫に陥ると、その被害症状がより一層多くなってきて、それらの異常状態が内攻して継続するようになってしまう。

後遺症といわれるものの多くは、そういった自分自身に対する同情心が働いている。一般に病気というものには、こうした側面がしばしば見られる。そうなると一斉に病気が悪くなるものです。そうなった頃から、マゾヒスティックな傾向が強くなって、かわいそうな自分がさらに一層かわいそうになるとともに、そのことにある種の快感さえ覚えてくる。そういう傾向が出てくる。

こういう傾向で病気を持ち続けるようになる第一の心理は、自分の自分に対する同情ということです。自分で自分の顔に惚れ込んでいるようなナルシシズムがありますが、それと似た、自分の醜い面、かわいそうな面、自分の弱い面をピックアップして、自分が自分に同情されている。そしてそういう自分に満足し、それを自分に対して強調し、さらに惨めな自分を強く主張する。他人に対して主張するというのなら分かるけれど、自分に対してそうしている。そうやって、マゾヒズム的な、変態性欲的状態になっていく。これらの始まりは、自分の自分に対する同情から始まっている。

こういうことが判ってくれば、その転換ということもそんなに難しいものではないことが判る筈である。

 

自分への同情というのは、他の人だと、自分のように同情してくれるはずがないので、そうなってしまう。操法する立場から言えば、自己憐憫もほどほどにして、早く正常なところへ戻ってきてもらう必要がある。

われわれが操法する際に、痛みのある押さえ方をするということが比較的安心してできるというのは、相手がそういう自己憐憫の心情を多分に持っているということと関連している。つまり、こんなに強く痛みを受けなければならないほど、自分はかわいそうな状態なんだ、自分がこんなに病気で痛く苦しいから、操法で痛みを与えられるのは当然だ、と感じて、いまあるその症状にどこかで満足している面がないとは言えないからである。しかし、そうなふうに、自分で自分に酔いしれておられては、こちらはたまったものではない。

そういうものを正常な状態に戻すための一つの方法として、痛みの与え方の技術がある。押す時に、相手が痛みを感じて、その痛みに満足しながらも逃げようとする、そういう痛みの与え方がある。ただ痛いから相手が満足するかというとそうではない。心のもう一つ奥に、その痛みが入っていくように使うと満足する。

たとえば、頸椎の異常を治す場合、痛くない方法でやることも親切かも知れないが、もし相手にマゾヒズム的傾向が起こっているとすれば、痛みを与えるという治し方をするほうが、他のどんなやりかたよりも効果を発揮するという面があるのです。

痛い中に快感がある。その状態でやめる。あるところまで行って、痛みの限界に至ると弛緩する。そこまでが快感の限界で、それを越えると本当に痛くなってきて、それを我慢していると今度は本当に悪くなってしまう。そのすれすれのところまで押さえて行って、止めるというのがその技術です。

操法して痛みがあったからといって、痛みがあったから治った治ったかと言えばそうではない。痛みという物理的な意味はないのです。しかし、操法としては効能があるのです。

だから単純に、痛くない操法がいい、ということではない。痛いということには、痛い事の道筋がある。その道筋に沿って痛みを使えば、その痛いという感じは、治療的な働きを発揮する訳です。決して相手の快感を破らない範囲で痛みというものを使う。

こういった痛みの使い方を覚えると、難しい慢性病も治し得るようになる。

力を入れて物理的に痛みを与えることは誰にでも出来るが、それでは相手の心の奥に届く力を発揮できない。痛くないのに痛く感じさせるというのが、一番大事なのです。

しかし、こういうことは、体のどこを使っても出来るのです。相手に息を詰めさせておいて押すと痛い、吐かせておくと痛くない。

 

練習

痛みを与える練習をすこしやってみましょう。

たとえば、仰向けになった相手の上胸部を押さえます。息を吐いている時に押さえても痛くない。その程度の力で押さえます。ところが、相手が息を詰めた時に同じように押さえると痛いのです。これは体のどこでやっても同じです。

だから、どういうところでも痛く出来る。

お腹を押さえる場合でも、呼吸に合わせて押さえている限りは痛くない。ところがやはり息をつめさせると段々に痛みが出てくる。

痛みを作る操法というよりは、息を吸ったまま止めさせる。吐いてしまって、止めても駄目である。入れたまま止めるということを覚えて、今まで練習で呼吸をリードするということをやってきましたから、それを使って息を止めさせる。どこでも特定の場所を痛く押さえる。

ただ、止めたては痛くない。息を止めて、吐きたくなってきた時に止められると痛い。

ふっと吸いこんだだけでは痛くない。吸い込んだのを吐きたくなり、吐こうとするのに押さえてしまうと痛くなる。だから、息を吸いこんですぐに押さえても痛くはない。吸いこませて吐こうとしたときに、吐きたいのを我慢させてしまうところに痛みの起こる理由がある。

 

やる処はどこでも構いませんから、同じ処を同じ力で、痛い痛くないというように出来ればいい。

そして、今度はそれを使って、どう相手の心の中に飛び込むか、というのが高等技術になるわけです。

 

これまでの練習では、体を弛めるということで、息を吐きながら押さえる、痛いところでも痛くないように押さえるということをやってきたわけですが、今日の練習では、痛くない処でも痛く押さえる、ということをやってみます。

後でお互いに話し合って、どこが痛く感じるか、どういうように押さえた時に痛くないか、あるいは痛いかを、確認してください。

上肢の第四、上胸部、下肢の大腿部、脇の下などが練習に適したところですが、どこでもいいです。要は、押さえ方によって、痛くも、痛くなくも押さえられるということです。ただ、足を押さえた時の痛さと、手を押さえた時の痛さ、胸を押さえた時の痛さ、背中を押さえた時の痛さは、みんな言葉は痛いという表現は同じであっても、痛みの質はみな違うことは判りますね。

 

操法で痛みを作る場合、相手のマゾヒズム的な傾向を満たすための痛みと、相手の意志にたいして発奮しろ、元気を出せというように働きかける痛み、あるいは弱い処をじっくり押さえられるような痛み、惨めな気持ちをさらに強調させるような痛み、相手を激励するような痛みなど、それぞれあるのです。

それらはみな痛みに質が違います。

技術が出来てくると、相手の心理状態に応じて、積極的に痛みを与えるか、消極的に痛みを与えるか、みじめな気持ちを強調させるか、勇猛な気持ちを誘導するかなど、押さえる時間、押さえる場所、つまり相手の心理状態に合う痛みの場所を選び取って操法出来るようになります。

 

お互いにやり合ってみて、それぞれの痛みの質を分解していくと、どの場所をどのように使うかという課題が出てきます。胃袋が痛いときに、そーっと抑えられると却って痛くなります、そこを思い切ってギューッと押さえられると楽になる。ところが、指を切った時などに、ギューッと押さえられたら痛くてしようがない。

そういったいろんな痛みの質を利用して、相手の意識に対しては言わないで、相手の潜在意識に対してスーッとその痛みを伝えていくのです。そして相手の裡にあるものと波長が合うと、その中に在ったものが、手を放すと一緒に消えていくのです。

 

こういうことを利用して、ムチウチ症の処理というものを考えていくと、相手の痛むところは手や頸や頭といったところで、範囲は限られているので、稀に足が痺れるというのもありますけれども、その限られた場所の痛さというものを、どのような相手の被害者心理に働きかけるか、あるいはもっと本能化したマゾヒズム的心理に働きかけるか、ということを利用して、その痛むということを通して、「共振」させて、無くしていく。「共振」すると、時に増幅することもある。同調することもある。だからそれらは、なかなか難しい問題なのです。

体力が欠乏すると、誰でも多少によらずマゾヒズム的な心理に偏る。男でも女でも体力が欠乏すると、変態的な傾向が亢まる。あるいは非常に抑えつけられられると、みなサディスティックな傾向が起きてくる。だからそういう心理的傾向をつかまえ、利用して、与える痛みの加減によって、かなり自由に処理することが出来る。みんな押す処やその押し方の問題だと思っているが、そうではないのです。

急所を押せば治る、中国伝来の経穴を押せば治る、などというけれども、重要なことは、相手の体全体に対してどのように働きかけるかということがあって初めて、それらのことが考えられなければ駄目なのです。

 

私たちは、急所に対して技術をもって押さえるということの前に、相手の全体、心も体も含めた全体に対して、どういうリズムに調整するとどういう変化を起こすか、そのリズムを変化させるとどこがどう変わるかを見ていきます。そうして、相手の潜在意識に対して、そうした痛みを操法の一つとして使っていくわけです。

相手が痛いと訴えたその痛みに対して、相手はその痛みを一分間耐えたらどうなるか、三分耐えたらどう変化するのか、五分の場合は。その痛みに対して、陰性の痛みを与えた場合どうなるか、陽性の痛みを与えた場合にはどうか。陰性の痛みを長く与えた場合に体はどう変化するのか。

 

こういうことは、指で物理的に押すということとは全く異なった技術で、指で押したことが、相手の心理上に知覚変化を伴って生じてくるということを利用する方法なのです。目的は、相手の潜在意識の中身に触れ、それを変えていこうとすることにあるのです。

被害者心理というものは、それを真正面から取り組んでいこうとすると、とても難しいものです。たとえ催眠術で取り除こうと暗示を与えて取れるものではない。言葉による暗示ということでは難しい。ところが、痛みとか痒みとか、快感があるという心理状態は、潜在意識に最も近しい関係にあるもので、それらの情動は潜在意識に働きかける手段としては最もふさわしいものなのです。それらは潜在意識に働きかける言葉として利用できる。だからそうした言葉としての痛み利用しないで放っておくことはできません。

押さえるその強さ、弱さ、押さえたときの快感、不快感、押さえたことによる痛い、痛くないというようなもの、それらを言葉の代用として操法に使っていく。

今日練習してみて、押された時に痛かった処、痛かったけれど快感もあったという感覚、あるいは痛くないだけでなく不快でもあったという処とか押さえ方、いろいろな痛みの感覚を持ったと思いますが、そういうことに今後興味を持って、さらに練習に励んでください。

自分にとって快感のあることが、他人には不快である場合もある。大事なのは、自分の感覚ではなく、相手がそれをどう感じているかを正確に判断できるようにならなければならない。しかし、まず自分の体の今の感覚をはっきり理解することによって、自分の裡に潜んでいる潜在意識の傾向も判ってきます。次回でそのあたりのことも触れてみたいと思いますが、とりあえずは、自分の痛みについての分析を家に帰ってやっておいてください。

今日はここまでにします。