野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶⅡ(62)気と観察

明けましておめでとうございます。風もなく澄んだ夜空に星々が煌めいています。2019年が、平穏な日々の繰り返しでありますよう、心からお祈りいたします。遠くの真宗のお寺からは参拝者が順々に突く除夜の鐘の音が響いてきます。

私も体を清め、といってもお風呂に入っただけですが、心新たに、このブログに向き合っています。いつもこの拙いブログを読んでくださっているみなさまには心より感謝申し上げます。

私は、「野口整体を愉しむ」というタイトルで、自分のいい加減さから逃げようとしているのかも知れません。要するに無責任で気楽な立ち位置を確保したいがために、<愉しむ>などと表現しているのですが、それによって野口整体について書きやすくなった面はそれなりにあるのですが、いつまでも心のどこかに後ろめたさから抜けきれない自分も感じたりしています。

私がI先生から、折に触れ指摘されたことも、この私の整体に対する立ち位置の不真面目さ、いい加減さにあったことは確からしく思われます。

しかし、それでもあいかわらず、野口整体の魅力に惹きつけられたままの自分がいて、そのことにある意味で我ながら驚きを禁じ得ないのです。このブログを何とか続けておられるのも、そういう自分がよく判らない為であるからかも知れません。

 

野口晴哉氏の言説は、どこまでも操法<する人>の言葉です。野口氏は、病んだ他者を眼の前にすると、思わず手を当てずにはいられなくなる資質の人です。

 

「昔、私が病気の治療をやっておりましたころ、病人を観ると、自分が不安なのです。そして苦しんでいる人を見過ごすということがどうしても出来ない。自分の中にあるその気持ちを平静にするために病人を操法しに行くというようなことをやっている。すると、それに対する感受性がだんだん敏感になって、遠くに苦しんでいる、というそれだけでも気にかかってくる。つまり、苦しんでいる人を見ているのが不安で自分の気持ちを治すつもりで手を出した。病人がよくなるとか、よくならないというよりも、自分自身の不安をなくすために操法した。・・・」(「背く子、背かれる親」p.311)

 

ここには、野口氏の治療方法の源基というよりも、むしろ世界内における野口氏自身の棲まい方というべきものが語られています。

病人を前にすると、何故「自分が不安」になるのでしょうか。

普通なら、何気なくやり過ごしてしまったり、つかの間心を痛めるといった場面において、氏はそれを「見過ごすことがどうしても出来ない」ために、ひたすら「自分の不安を治すため」の行為として治療を行った。

この明らかに尋常ならざる傾向性の積み重ねが、さらに、より一層病人に対する氏の感受性を高めていくことになります。

自分自身の不安をなくすために手を伸ばした。つまりその「病人」とは、実は自分自身だったということでしょう。これが氏の痼疾でなくて何でありましょうか。

そして、病人を観ると不安になっていた位相から、それが徐々に一つの絶え間ない「観察」として、氏の技術的な組織化を促していくその始源を指し示しているように思われます。他者を癒すことが、同時におのれをも癒すことになる。

氏にとって、資質と化したその痼疾こそ氏の「情熱の形式」(小林秀雄)と呼んでよいものでしょう。

野口整体法の淵源を辿ってゆくと、おそらくそれは野口氏個人の肉体に収斂し、氏が若き日格闘したその痼疾に行きつくことは容易に見て取れるのではないでしょうか。

 

「人体はもともと部分品を組み立てて造ったものではない。一つの生殖細胞の生と発展の現れとしての存在である。それ故、全一的存在であって、胃は胃の胃ではなく、全体の現れとしての胃である。一本の指の動くのにも全体の力は現れる。」(「月刊全生 昭和57.11)」

こういう認識は、とりたてて驚くべきものとは言えません。人体が一つの有機的存在であることは、誰しも分かり切った事だからです。しかし、こういう認識が、単に<知識>として与えられているという場合と、四十年以上、毎日十八、九時間現実に操法してきた人間の結論として述べられる認識の場合とでは、おそらく天と地の違いがあるのは確かだと思われます。またそういう認識としてわれわれは理解すべきでしょう。

事実、今日の医療の現場で、果たして胃の治療が「胃の胃ではなく、全体の現れとしての胃」として取り扱われているのでしょうか。仮に、もしこの観点を徹底して推し進めたとしたら、今日の医療体制はどのようなものになるのでしょうか。

 

人間にとって<病い>、<異常>とは何か。そういうものがあり、現に人間を苦しめているということを、どのように認識するか、あるいはどのようにそれに対処していくかは、当然さまざまでありえます。

野口氏にとっては、それらは決して性急に異常視したりマイナス符牒で括ってしまうことがないという態度において、一貫したものがあります。氏にとって病的症状とは、もともと自然体として生まれ、かつその本性を有する人間の身体が、それをとりまく外部としての環境と、その自然的身体にとってはある種異物であるところの心的なもの、つまり内部環境とによって構成されるフィールドの中で生成葛藤する劇のようなものに他なりませんでした。

だから、病的症状がある種の必然性を持っているとするならば、その必然性の発露を逆に辿ることによって、この身体的、心的変容を回復させていくことが可能であるはずだというアプローチを基本的に据えたのです。

だから、人間の自然的身体が発するあらゆるサイン、たとえば汗、熱、くしゃみ、咳、あくび、をはじめあらゆる症状は、生命体の必然として「肯定」されます。言い換えると、一般に考えられている病的とされること、異常とみなされる症状や事態は、いったん自然的身体の側からその意味を翻訳し直されるべきものにほかならないのであって、これらサインをいたずらに恐れたり忌避したりしようとせず、そのあるがままを「体の要求に依る也」という位置から取り上げていこうとするわけです。

 

ところで、わたしたちが、現在の医療体制の中に自分の身を晒したときに感じる、あの漠然とした不安や不満はどのように考えたらいいのでしょうか。恐らくそれは、今ここでなされる診察=治療というものが、大げさに言ってしまえば、自分のこれまでの<人生>全体と決して釣り合っていないのではないか、という感じを受けてしまうということが、その理由の一つではないでしょうか。私の病気や異常は、すなわち私だけのものであり、私の生そのものの軌跡から滲み出してきたものにほかならないにも関わらず、そのような軽さでよいのかと。

 

また野口氏にとっての整体操法の主戦場はどこにあるかるのか。

おそらくそれは「自然的身体」と呼ぶべき領域にあり、人間が人間であることの最も際立った特徴である「心的な世界」は、そこでは第一義的な関心の対象からは一応外されているか、「自然的身体」に翻訳可能なものとみなされるかだと思います。

それは「心的なもの」を軽視するということでは決してなくて、というのも整体法は「潜在意識教育」という契機を自己の体系・方法に盛り込むことを目指したもので、氏にとっては排除の対象ではなかったのだけれど、ただ、氏にとっては自然的身体をとりまく、それ以外の諸要素、諸契機は、すべて自然的身体を通じて、窓口として、そこに顕れた限りにおいて捕捉され、意味を与えられたのだと思います。

それは、野口氏の主戦場が「体を整える」という技術・操法にこそあったために、決して手放されることのなかった視点であると言えます。これは自然的身体そのものが本来持っている生命の理路に「後からついていく」という、氏の方法自体から促される要請でもあったと言えると思います。

しかし、そうした方法の徹底性によって、これまでわれわれが視ることのできなかった世界を浮上させてくれているのは間違いない事だろうと思います。

 

しかし、一方で、われわれが自然的身体でありつつ、常に心的存在としての自己を疎外せざるをえないところの非自然的齟齬をかかえた全体である以上、常に自然的身体としては自足しえず、つねにそこから<逸脱>し、<余剰を>産み出すほかがない存在であるという課題は、野口氏にとってどのように処遇されたのでしょうか。それは、整体操法の先に何があるのか、という課題に繋がっていくと、私のは思えます。

 

また、とりとめのないことを書いてしまいました。では、記録を始めます。前回で、I先生のご指導による「整体操法中等講座」も終了し、新たな、そしてI先生からお教えをいただく最後の講座「整体操法講座」へと向かうことになるわけですが、その前の助走期間としての講座を何回か、期間をおいて実施してくださいました。 

今日は、その第一回目の講座記録です。

 

身構え

緊張すると、頸をふっと前に出す人がある。捻じれる人もある。手を組む人もある。人によってみな身構えということは違う。

身構えにはいろいろな個人的特徴というものが現れています。その人が頭を使う為には、なぜそのような形をとるのかと言えば、それが便利だからである。なぜそのような形をとるかという段階になると、体癖という問題にぶつかる。

体癖によっていろんな身構えの様式があります。だから無意識のうちに、相手が何かを言おうとする前に、何を言おうとしているのかを想像できたりする。

特別な、個人的な特徴だと思われている身構えでも、多くの人を観察すると、そこに類型があるのが判ってくる。この類型が体癖というものです。

体を縮めてしまうような身構えをする、開閉傾向、からだの伸び縮みが敏感な、緊張すると収縮する傾向。緊張すると前屈する傾向。左右に偏ってしまう傾向、緊張すると重心のある側に曲がってしまう。

このような上下、左右、前後、捻れる、開閉と、この五つの運動が組み合わさって、個人の身構えというものを作っている。そこで、五つの身構えの方向のどれがあるだろう、ということを見ます。

 

見物と観察

普段のからだを見るということは、観察によってすすめなくてはいけない。この人は肩が上がっています、頸が曲がっています、左の膝が前に出ています、というだけでは見物しただけなのです。練習でお辞儀をし合った時に、頸を左に曲げている、右に曲げている、深く下げている、こんなことを見たってそれは観察ではない。

そういう動きが、なぜそうなっているのか、その行程というものを観察し、そして操法の問題に入っていかなければならない。

初心者はみな見物からそのまま操法に入ろうとする。頸が曲がっている、だからこう治せばいいと。だが、曲がっているものを真っ直ぐにしたなら、それでいいのだろうか。腰を治せば、その上にある頸は真っ直ぐになる。だから腰が狂ったままなら、曲がった頸をいくら押して治しても、また曲がる。

頸が曲がる前に腰が曲がる。腰が曲がる前に根性が曲がる。腰の曲がりが、腸の故障によるものなのか、生殖器の弱い為なのか、力がなくなって前屈するのか、力が抜けるから左右に曲がる度合いが強く感じるのか。

そういうように考えていくと、熱が出たといって下げようとする、痛いというとそれを止めようと思う。曲がっていると治そうとする。

歯が痛い時に歯を押さえる。いかにも自然です。けれども痛む前に虫歯がなかったかといえば、それはあった、あっても痛くなかった。痛くなるような体の状態と結びつかなくてはいけない。風邪を引いても虫歯は痛む。試験や何かでのぼせても歯が痛くなる。借金の言い訳を言っても痛くなる。そういうように、血が上に上がる条件ができてくると、虫歯が痛んでくる。虫歯が痛むのだからそれを治さない限り痛みはなくならないと思ってしまうが、顎の下を押さえると止まってしまう。前歯の真中が痛い場合は、恥骨を押さえると止まってしまう。

 

糖分が出たから糖尿病だ、蛋白が出たから腎臓病だという。けれども精神的に非常に緊張すると、あるいは非常にがっかりすると糖が出る人がいる。それは糖尿病とは関係がない。悪いものを食べて吐いたとしても、それは胃袋の正当防衛であって病気ではない。ところが、それを見て吐いて苦しんでいるから胃が悪いのだと思い込んでしまう。

同じ現象を前にしても、見る角度、つまり視点が違うと、それを病気と見たり、逆に健康と見たりする。どちらも正当な見方だと言えるけれども、正反対の認識となり、当然対応の仕方も異なってくる。

 

整体操法では、そういった人間の意識で作り上げた「健康」とか「病気」とかいうものにはとらわれないことにしていますが、それは人間にはそういう「健康」も「病気」もないからです。あるのは、エネルギーの集注と分散のバランスの有無だけで、バランスがとれているか、取れていないかだけを見ていけばいいと考えているのです。

 

われわれが観察するというのは、「気」がどこに集まっているかを見るということです。恰好を見るのではない。同じ格好の中にも、気が集まっている時もあればそうでない時もある。そういう「気の密度」、あるいは精神集注の密度というものを見ていくのです。

「気のない手」と、「気の入った手」との違いが、外から見てわかるようにならなければならない。からだだけでなく、言葉にも気が入る。気の集注している状態を見ないと、いくら恰好を丁寧に見ても、それは見物の範囲を出ないのです。

気の集まっている処は、その生理状態も活発です。恥ずかしいと思うと、赤くなるまいと思ってもポーっと赤くなるように、そう思うと気が集まって、そういう方向に動いていく。だから形に現れたものを見ようとしていると違ってしまう。

ときどき人間は自己弁明的な言葉を出します。嫌だと感じたのに「好きよ」と言ってしまったり、好きなのに「嫌い」と言ってしまうこともないとは言えない。自分の気持ちに弁明している。叱っておいて、お菓子をやるなどというのは、その代表的な例です。お菓子をやるくらいなら叱らなければいい。理由にもならない小言を言ってしまって、慌ててお菓子をやる。それは自分の気持ちに弁明している。

気を見るということは難しいからといって、観察を気の集まりから出発しないと、生きた動きというものは捉まえられない。

痛いと言っても、訴えることと、痛いということとは違う。痛いと言うのは、余裕があるからそう言える。もっと痛い人は、ムキになってじっと我慢する。本当に痛い時は全部が痛くて、痛いとは言ってられない。痛みが消えるにつれて、痛いという声が大きくなる。それは未練症状で、もうちょっと私に注意してくれ、というような声があがるわけです。

気という言葉はしょっちゅう使われているけれども見えない。けれども、人間はお互いが「気の塊」だから、すぐに感じられる。見えないけれど感じることができる。

気があれば聞こえる、気がなければ聞こえない。気があるかないかで違ってくる。

「気を気で制していく」というのが整体操法です。

人間を理解する場合に、気というものを除いたままで考えるために、難解なものになってしまっている。

昔の治療家は、生理解剖学の知識もないまま、精神統一、思念による集中、断食といったものを通して、信念を持ってやっていた。

ところが、だんだん知識を求めるようになり、もっと楽にやる方法はないか、もっと儲かる方法はないか、もっと客を集めるにはどうしたらいいか、そんなことばかりに気が行くようになってしまった。

信念の現れだったものが、それを見失い、知識の現れになってしまった。そして、利害の為に動くようになってしまった。

技術の修得というものが知識的なものになればなるほど、そういう動きをするようになってしまった。

 

気が集まると、黒い気が立つ。気が満ちていると黒く感じる。密度が薄くなると白く見える。それがわかるのがどうも難しいようであるが、そういう傾向がある。

人間が生きているのは、気があるからである。相手の気にしている処に気が集まる。普段は何ともないのに、胃が悪ければ胃が気になる。心臓が気になると、そこに気が集まってしていると、体中がドキドキするような感じになってくる。

病気というのも気の変化です。気の病んでいる状態を正すことが整体操法するということです。いろんな病気の治し方があるが、要求と行動をスッと結び付けるように気を持たせる方法が、一番早く治せる方法なのです。

気を見ることが出来るようになれば、気を転換するということもそう難しいことではない。

 

今日は、この辺でおしまいとします。