野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶⅢ(67)頭部調律点と解剖図

I先生の講座を通して、間接的にではあっても、野口氏の息遣いや、その情熱の形に触れることで、整体操法の凄さといものが、より鮮やかに私たちに伝わってくる、そんな想いを抱きながら、このブログを書き進めています。

最近では、多くの人達によるさまざまな野口整体法への言及も多く、それを学ぼうとする者にとって恵まれた環境になってきていると思います。

それらあまたある言及の中に、どれぐらい野口氏の目指したもの、あるいは氏が目指してなお達し得なかったものなども含めて、塗りこめられたものになっているか計る上で、本ブログの口述記録は一定の役には立つのではないかと思います。

私はいつもながら、野口氏の用いる「心」や「体」という言葉に対して、次の三つのレベルを想定して理解しようと努めています。

つまり、それが「身体レベル」での言葉なのか、あるいは「心身相関レベル」での言葉なのか、さらには「心的レベル」での言葉なのかというように。

 

私の理解では、野口整体法の言葉は、基本的に「心身相関レベル」での言葉だと言っていいと思います。

それは生理学的・解剖学的な「身体的レベル」の言葉ではないし、また「心それ自体といえるレベル」での言葉でもない。

「身体」・「心身」・「心」という三つのレベルは、それぞれに固有の原理を持っているはずです。だから、それらは分けて考える方が野口氏の語る「こころ」や「体」をより理解しやすくなるし、余計な混乱も避けられるはずだと思うのです。

例えば、禅宗のお坊さんが「心とからだはひとつじゃ」と言えば、その言葉は、「心身」レベルに属する言葉だと理解出来るし、「すべては夢、幻にすぎんのじゃ」と言ったとすれば「心」の領域の事を主として言っているのだし、坐禅中に警策で背中を打たれて感じる痛みについて語っていれば、それは「身体」のことを指している、というふうに分けて理解すること出来る。

つまり、言葉は、それが語られる場面やレベルに応じて、その主たる意味が異なってくる。その違いをより明確なイメージで理解できるのではないか。

野口氏の言葉が「心身があたかも相関しているように見なせる領域」の言葉であるというのは、それが「生理的身体そのもの」を語っているのでもなく、また「心的なものそれ自体」についての言葉でもないからであって、「心身相関」レベルに固有の原理が働く領域での言葉である、そういうことを理解するうえで役に立つはずである。

なぜこのような分け方をするのかと言えば、「心」と「体」の中間領域にある世界を主題化することが出来、そこに固有の原理を見出すことが可能になるはずだと思えるからです。

 

心身領域に固有な領域とは何かといえば、「心」「体」をつなぐ<気>の問題の領域であり、「意識」と「無意識」をつなぐ領域の問題であり、また「感情」とか「情動」とか「感受性」「体癖」といったものも当然そこに含まれてくる問題である。

これらは<身体>そのものにも還元できないし、<心的>なものそれ自体にも還元できない、「心身領域」に固有の問題領域として考えられるべきものである。

 

わたしたちは普段、心身二元論の罠にはまり込んでしまいがちだが、こうした「中間領域」を設定すれば、「心」だけでもなく、「体」だけでもない領域が、意外にも広大なものであり、人間を理解するうえで極めて重要なファクターとして存在していことが徐々にはっきりしてくるはずなのだ。

野口氏の言葉は、それが文学作品や絵画などに言及する場合でも、必ずこの「心身相関」領域を意識して語られる。そこに表現された人物を、その言葉や形からではなく、「体癖」や感受性を主題としてのみ語っている。これは野口氏に固有の語り方である。

或る絵画について、この裸婦の顔形から見ると、そこに見られる大腿部の太さには矛盾があるというような表現は、普通は見られないものだ。ある文学作品の登場人物の感受性からすれば、この場面でこのような台詞をいうのは奇妙だ、などという文学批評は普通はしないものだ。文学や芸術というものは、本来は「心的なもの」自体に属すはずのものであるからだ。

こうした、野口氏固有の語り口の特徴は、きわめて「心身相関的」領域に特化した独特のものであり、ユニークなものではあるのだが、文学や絵画の世界は、人間の世界に於ける「心的なるもの」自体から受けざるを得ない喜びや安らぎや共感、さらには苦悶といったものから成り立っており、「心身相関」領域からの視点とは自ずと異なったレベルでの幻想的な世界であって、別のレベルからの視点からしか論じ切れない多くのものを含んでいる筈である。

やはり、人間現象を理解する場合には、そこで語られる言葉や芸術的表現がどのレベル、どの領域のものであるかを明確に切り分けてからでないと、真にその価値や理解には到達し得ないのではないか。そんな風に私には思えてならない。

いつもながらの脱線をしてしまいましたが、そろそろ講座の記録に戻っていくことにします。

 

I先生「では、整体操法講座の第二回を始めます。」

 

整体操法では、技術を集中する場所というものがある。それは相手の感受性の高まっているいる処です。感受性が敏感だという処は、刺戟に対する反応が生じやすい処です。また、そういう処は、こうすればこうなる、という関連性もはっきりしている。そういう処を整体操法では調律点として、体のあちこちに特定し、制定しています。

そこは、単に敏感な処ということではなくて、そこを刺戟したときには、こういう変動が起こってくるということがはっきりしている、そういう処を調律点として選んでいるそして、そういう関連がはっきりしている処で、しかも外部からそれを調整できるという処が選ばれている。

これは、生理、解剖の表から作成されたものではない。昔から整体操法をやってきた人たちが、自ら経験して、その経験を他の多くの人達で実験して、実際の技術で証明出来たものだけを集めたものである。誰かある個人の見つけ出したというものではなく、大勢で見つけてきたものと言える。だから、或る人がやって効果があっても他の人がやったら効果がないというものは、調律点としては採用しないで、全て外している。誰がやっても、技術の上手下手や、やる人の人格的影響をあまり受けないで、機械的にやっても刺戟に対する反応が割に明瞭に現すことが出来るというものだけを選んで調律点として採用されたものである。

生理解剖学の知識は当然参考とされているた。しかし生きている時と、死んでいる時とではどうも違うようで、たとえば丹田に力のある人はみな丈夫です。第三の虚といって、ここに力のない人は、歳をとってしまっている。歳をとって種族保存の本能が働かなくなっている。本能はあるだろうが、それが行動にならなくなってしまった人は、みな第三が虚になってしまっている。ところがその場所を解剖してみたらどういう場所かというと、別段そういうものとは関係がない。臍下丹田というが、解剖してしまえば丹田なんて何処にあるのかわからない。他の調律点でも同じで、生きていれば明瞭にそこは凹んで、指がピタッと入るのに、死んでしまうとそんなところはない。どこを触っても、指がピタッと入るという調律点はない。生きているとそれがある。そこで解剖学的なそういう神経の組み合わせになっているところをいじってみても、身体に変化を起こさない場合が多いのです。

たとえば胸椎の八番や九番を刺戟すると、副腎の働きが増えてくるが、そういう処は副腎そのものではない。副腎の実際の皮質を、副腎そのものを掴まえて揺すぶったからといってホルモンが増えるとは限らない。咽喉をこすれば甲状腺が刺戟されてホルモンが出るのかといえば、出るとは限らない。よくそういうような錯覚をもってしまうが、関係のない処を刺戟するとホルモンが分泌されるのに、そのホルモン分泌器官を直接刺戟たら出るだろうと思っていると出ない。小内臓神経というのが胸椎の八番から出て、胃袋に分布している。だから八番の神経経路を押さえたら胃の痛みが止まるように思うが、実際にはその神経から少し外れた外側を押さえると止まる。解剖学的な処では止まらない。神経を押さえたから神経が働くとか、神経を押さえたからその神経は力が出たというようなことは実際にはなくて、解剖学的な構造と場所が少し違うのです。何処かということはまだ分からない。

実際に忠実であるために、解剖学的な、つまり知識でその場所を歪めないで、指でピタッと当たる処、指で異常を感じられる、感じるそれに応じた変化を起こしている場所を直接触るようにして、必ずしも生理解剖学の示す処とは一致していない。

野中氏の恥骨操法、こんなところを押さえて、皮膚が変化するはずがない。永松活点で身体の毒素が出るわけがない。足を押さえて腹痛が止まるというが、お腹と足の甲とどういう神経が関係があるかといっても、それはない。だから生理解剖学的な場所というのは、必ずしも生きている人間の処ではない。

だから、生きた人間で、実際に指で触れる処をもって、その場所を決める。主体的な問題はその後学者がなんとか理屈をつけて決めるだろう。我々のやることは、実際にそれらを使って、効果をあげられるという立場で場所を選ぶ。その為には大勢で使ってみて、正確に指で覚えるということが重要である。

もともとの処というものは、カイロプラクティックとかオステオパシーとか、按摩、マッサージ、こういうものが操法の中にいろいろ混ざり合っている。しかし原形を留めているものはなくて、実際に使い、実験して技術というものを練って、生きている身体に当てはめて効果があったというところを整理して、整体操法の処として存在しているわけです。

額の髪の生え際、頭部第一、ここを刺戟すると、身体の反射が鈍ってくる処。この周辺のペコぺコしている部分も含めて第一調律点という。脳の異常の場合にそこを冷やすと急に熱が下がってくる。あるいは、そこをジーっと長く押さえていると身体の反射が鈍ってくる。だからわずかなことで蕁麻疹になったり、痙攣を起こしたりする人には、その部分を刺戟すると、そういう度合いがずっと少なくなってくる。

脳の異常で熱が高い場合は、後頭部を温めると熱が上がりきりになって悪くなる。そういう時には、冷たいタオルで冷やし、第五を温めると下がる。また、熱だけをどうしても下げたいという場合は、第一だけを冷やすとさっと下がる。下がったために病気が悪くなるかもしれないが、一応下がる。反射が鈍るためであろうと思われる。

 

第二は、活元運動の誘導に用いるということからも判るように、頭の働きを一応緩やかにする。大脳的な働きを緩やかにする。催眠術でも、ここを押さえてからやるとよくかかる。

頭が過敏に働くと小便が出やすくなるという人がある、お腹が空く人がある、屁の出る人、下痢をする人、太い便の出る人、いろいろあるが、頭を刺戟すると、身体にいろいろな変動が起こるが、それが起こり過ぎて身体に異常を起こしている人の場合、ここを押さえていると落ち着いてくる。これらはみな臨床的な使い方である。

整体操法の立場からいえば、お腹が緊張して硬くなっている時、お腹が萎縮している時に、第二を押さえると、臍の両側の腹直筋が弛んで拡がってくる。

昔、中井房五郎という人の自彊術が流行ったことがあったが、彼は六方揉みといって、お腹を一時間以上かけて揉み、柔らかくする技術を行った。手だけでは間に合わず、膝を使ったり、棒につかまってお腹の上に乗って足で揉む。確かにお腹を柔らかくすると健康になる。しかし、そうやってお腹を柔らかくするというのは大変なことである。特にお臍の周辺の硬いのはなかなか取れない。そんな中、山下祐介利という紅療法という、頭部第二を紅をつけた棒で三十分から四十分叩いてお腹を柔らかくするという技術を持った人がいた。これはお腹を直接揉むということに比べると効率のいい方法ではあるが、相手の体のリズムを無視して叩くために、最初はむしろ硬くなってくる。そしてある程度強く叩いていると、頭の働きが鈍るのか、お腹が柔らかくなってくる。

そういうなかで、愉気、あるいは指による叩打、押圧というように範囲を決めて第二を刺戟すると、もっと少ない時間でお腹が変化してくるということが分かってきた。お腹の筋肉が柔らかくなると一緒に、方々の働きが活発になってくる。

 

頭部第三、ここは寝小便を止めるために使っている人が随分沢山いた。脱腸を治すのにここを押さえている人がいた。子宮脱を治すためにここを押さえるのだと主張する人もいた。いろいろ違っているが、共通しているのは括約筋を引き締める、弛んでいるものを引き締めるのに使っているということが分かり、それが第三への押圧、愉気によって身体の方々の括約筋が引き締まるということが実験でわかり、第三調律点として使われる場所になった。

 

第四は、生殖器に反射が起こる。また泌尿器に反射が起こる。また、食中毒の麻痺をとるのにここを使う、中毒の解消点。

 

第五は、延髄の場所。そこをちょっと叩くと死んでしまう。針が刺さっても死んでしまう。ここは身体の眠りと関係が深く、これが弛んでくると二度寝する。眠れないと骨が飛び出してくる。夢を見ると、これが鍋の蓋を被ったように段が出来てくる。段が出来たり、強張っている人は、肋骨の可動性が鈍くなっている。肋骨は上から押さえると多少へっこむものですが、へこまない。硬くなり強くなって、触ってもピンとはじくような肋骨があるが、そういうのは丈夫そうに見えて、実際は眠りが浅くなっている状態である。だから疲れが抜けない。筋肉が柔らかくならない。どこか陰気になったり、苛立ったり、自分の考えでない様な行動を時にやってしまったり、というようになる。第五と肋骨の可動性とは非常に関係があって、肋骨が落ちているような時は第五を下から上に愉気していると、上がってくる。可動性のないものは肋骨を押さえていると弾力が出てくる。神経衰弱の人に、第五を押さえて、飛び出しがなくなるように愉気すると治ってくる。神経が疲労してくると、体じゅうが強張ってきて、重い病気をやるようになり、軽い病気はやらなくなる。異常が古くなると、肋骨が動かなくなってくる。そういう人達の事を「無病病」と呼んでいる。こういう神経衰弱の古くなったものは、十二種的な身体になっていく。第五が多少によらず飛び出しているものは神経衰弱になっている。そこで昔は神経衰弱の治療点のように思われていたが、実際は肋骨の第四番目の骨を拡げる働きがある。そういうことから、眠りを深くすることにも関係がある。

第一は凹んでいる。第二は平ら、しかしジーっと押さえていると凹む。第三も凹んでいる、ただし凹み過ぎは鈍っている状態、飛び出しも異常。飛び出しはブレーキが利かないくなった人、怒ってここが飛び出して来たら、次は暴れ出す。凹んでいれば大丈夫、ブレーキが利いている。第四は異常になると凹む、第五は飛び出す。

 

この五つは、どれも押さえていると変化してくるので、ジーっと触っているだけで凹んでくる。あるいは周りが凹んで飛び出しがはっきりしてくる。指の跡がつくように弛んでくるのが必要。

押さえていてもなかなか弛まないという場合は、頸上の調律点、鈍い方は下がっている、特に三番を押し上げるような角度で愉気をする。そこが左右揃ってくると、急に変化が早くなる。

 

第一は鳩尾に関係がある。ジッと押さえていると鳩尾が弛むか、逆にもっと硬くなる。禁点を見つける時は、第一を叩いてから調べると触りやすくなる。

第二はお腹の腹直筋に関係がある。頭が緊張すると、硬直してくる。左右を比べて緊張している方の側の第二を押さえる。ジーっと押さえて指のところが凹んでくると、左右が揃ってくる。

第三は、お腹の第四や側腹が変化してくる。

第四は、腰が変化する。妊娠や泌尿器の異常、腰の神経痛など腰に関係したものは、頭の第四を押さえていると変わってくる。

第五は、肋骨の可動性をみる。

 

押さえていても上手く弛まないばあい、頸上を押さえる。それでもうまくいかない場合、大抵は腕の筋肉が緊張しっぱなしの人が多い。腕の筋肉の中の一部分が硬くなっている。それを弛める。第三が硬い人の親指の股が硬くなっている。

 

今日の講義をこれで終わります。