野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

触印象の言語化

野口晴哉氏の整体操法についての講義録に貫かれている方法とは何か。わたしはそれを「過程を重視する方法」だと言ってみたい。プロセスを重視するというのは当たり前のように見えて、実は誰もが容易になしうることではない。

野口氏の言葉を丁寧に辿っていくと、触印象の言語化という現代でも極めて困難とされる領域に積極的に参入し、そこで悪戦苦闘している姿が鮮明に浮かび上がってくるように感じるのは私だけだろうか。

言語というものを考えてみた場合、それは視覚的な要素が強く、触覚的な要素はかなり希薄だという印象をうける。

対象を明確に縁取ったり、それを微細に分析したり、分割したりするという作業は、視覚にとって得意とするところで、触覚がそれらを得意とするとは考えにくい。科学的官能検査をみても触覚は機能的分化の発達程度が他の知覚に比べて低いという理由で、ほとんど問題にされることがないというのが実情だ。しかも、触覚による検査は、不安定性が極めて高いとされ、心身の状態に強く左右されやすく、再現性にも問題が多いとされる。

事実、わたしたちが整体操法を学ぶ際にいつも感じるある種の戸惑いは、そうした触印象をめぐる不安定性によることに起因しているだろう。

指導者から指し示される「これが一側の硬結です」という言葉に、ある人は首をかしげ、他の人は「7本のうちの3本目のところですね」としたり顔。一側が知覚できない人が多数、といった場面はよくあることである。

こうした場面があたりまえの整体操法の学びの場で、その言葉を実感を伴って触知することができなければ、それは単なる言葉としてしか存在しないわけだ。

どれだけその言葉の厳密な意味での理解が可能となるのかが、決定的に重要となるのが、整体操法を学ぶ場の特異性と言えるし、触覚による知覚のもつ不安定性の問題性ともいえる。

しかし、整体操法をものにするとは、そうした困難性を乗り越えることを意味している。その意味で、整体操法がだれにでも簡単に身につけられるということは言おうとしてもなかなか言えるものではない。

徹底的に意識化し、言語化された体系として整体操法は構築されている。その意味では、整体操法野口整体の体系のなかでも特異な領域なのである。

活元運動や愉気法が、徹底的に意識を排除して初めて成立する領域であることを考えれば、両者の違いは明らかだろう。

野口氏はこの二つの領域を互いに最大限言語化し、からだの持つ豊かな意味をわれわれに開示したわけである。