野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶ(18)一側操法

今回で三回目の「一側」をめぐる講義です。一側について、これほど豊かな表現を与えている野口氏に、驚きと畏怖の念を抱かずにはおられません。素人の私たちにも何とか一側のもつ多彩な表情をとどかせようと、くりかえし繰り返し、重層的に語りかけています。どうせ理解は出来ないだろうと、高みから放り投げるような言葉が、まったく見られないのです。そこに、野口氏のとてつもなく深淵から発せられる決意がひしひしと伝わってきます。

 

一側操法

すでに見てきたように、一側の変動の観察はまず棘突起の可動性を調べ、つぎに可動性に異常のある骨の一側を調べるという手順をとるのであって、いきなり異常のある一側を探すのではない。一側を調べるというと、一側ばかり調べてこの手順を忘れる人がいる。椎骨の可動性を調べ理解するというのは、何年もかけて指で憶えていくもので、一朝一夕の練習だけで身につくものではない。

 

可動性を調べる(練習)

今日は、相手の動きの悪い骨、可動性のない鈍い骨を見つけ出し、他の骨の可動性と比較してみてください。調べ方は、うつ伏せの相手にまたがって、棘突起を一つ一つ押してみる。押す場合は、指だけで押さないで、指をピタッと当てたら構えて腰を上下に動かして可動性を確認する。指は当てたまま。

可動性のない鈍い骨をみつけたら、その骨のすぐわきの一側を背骨の側に押さえてみる。痛みがあるか、過敏があるか、圧痛があるかを確かめる。

過敏のところは、骨の上に脂がくっついているような感じがある。可動性は鈍っているのに動かすと余分に動く。動かないときはジーっと押さえると痛みを感じだす。

表が硬いのに中が柔らかいというのが圧痛がある。

中も硬い、表も硬いというのは多くは鈍って萎縮している。

過敏、圧痛、鈍りの三つを、椎骨を揺すぶって調べる。

 

一側操法の押さえ方(練習)

過敏の処は、そのぬるぬるとした脂のあるところにピタッと指を当てて愉気し、脂を骨から剥がすようなつもりでちょっと角度をとって愉気する。しばらくすると可動性が急に回復する。脂が少しずつずれる感じがある。脂が動き出したらあとは放おっておいていい、そこで放す。

鈍っている処、固まっている処、圧痛のある処があったら、そのままさらに力を加えて、ジーっと押さえる。椎骨の狂いを矯正する方向に角度をとって、ジーっとこちらの体重をかけるようにして愉気をする。そうすると脂のようなものが動き出すから、動き出したら放す。放すときは、もう一回押さえてから放す。放すときは早い放し方。

 

一側の愉気の仕方であるが、ゆっくり押さえていって愉気をして、脂がいよいよ流れたと思った時、もう一回さらに押さえてポッと放す、それが要点。押さえて愉気をする場合、当てた指で押さえるのではなく、肘を胴につけたままで動作する。

 

愉気は掌でやるよりは指でした方がはるかに効果がある。太陽の光をレンズで集めるようなもので、掌は満遍なく当たるけれども、それだけ公平で害が少ないかわりに、集注したことによる変化が少ない。

押さえているうちに、中から異常感が起こったり、ある一か所を押さえているのに、思いもよらない所に変化をおこしたりと、いろいろある。また、人によって、押さえる処が同じであっても、相手側の体の状態で、受け取り方はみな異なっている。人間の体というものは個々に異なった選択性があって、よくなろうとする活気の旺盛な人は、どんどん吸収するし、鈍い人はなかなか吸収しない。しかし、いずれにしても、ジーっと押さえて愉気していくと、誰でも変化を起こしてくる。

 

疲労と疲労感

どこが疲れているのか判らないが、疲れて体が重いというような時には、背骨の一側のどこかに硬直した部分がある。普通そこに愉気をすると、足の重いのから、頭の重いのまでなくなってしまう。人間が体に感じる「疲労」は、だいたい筋肉系統に変化を起こすのであるが、「疲労感」というのは神経系統に感じるもので、両者は必ずしも一致しない。

筋肉が疲労すると、弾力がなくなり強張ってくる。するとその周辺の筋肉も一緒に疲労してくるために、感覚が鈍くなってくる。疲労している処ほど、疲労を感じにくいという傾向がある。

気が張っていろいろ働いて、三日ほどたってから疲れを感じだす、ということがある。何かの目的のために一生懸命やっている人というのは、実際には体が疲れているのに、疲れを感じないという場合が多い。このように、疲労したから疲労感があると一概には言えないわけである。だから、疲労したから疲労感がある、というのはある意味で錯覚で、本当は疲労した場所ほど疲労を感じなくなっているということも考えておく必要がある。麻痺性の鈍い体ができてくるのも、体中弛まなくなって脳溢血やがんになるまで気づかないでいるというような、疲労と疲労感が乖離してしまった麻痺性体質なども生じてくるわけである。また、ボディービルなどをやって、筋肉隆々としている人たちも、筋肉の疲労を感じなくなっている、むしろその麻痺したことに快感さえ抱く。

また、会社でくたくたに疲れていても、麻雀に誘われたら徹夜でもできるということがあるが、それは体や筋肉はくたくたでも、神経の方が緊張しているために「疲労感」が起こらないためといえる。その逆に、お使いなどを頼まれると、急に体が重くなるのは、筋肉は疲れていないが、その疲労感が急に強くなるからである。

疲労が無くても疲労を感じることはいくらでもある。何かの行いの謝礼が少なかったといってサーッと疲れるが、多いと疲れが抜けてしまう。それほどに、疲労と疲労感とは結び付かないものである。

 

整体操法の場面では、疲労と疲労感はいつも区別して扱う。筋肉の伸縮する力がなくなっている状態が疲労の実体である。ところが頭の中で疲労を思い描くと、筋肉の伸び縮みとは無関係に疲労感は生じてくる。

だから、疲れた、と訴える人に、その筋肉のこわばった処が疲れているのだと判断して、そこをもんだり弛めたりすると、体中が綿のように弛んでしまい、かえって相手はくたびれが増したように感じてしまう。

ところが、だるい、眠い、疲れたという訴えの多くは、神経的な「疲労感」だから、背骨のどこかの硬直している部分をジーっとゆきしているとなくなってしまう。手でも、頭でも、胃でもいい、それに応じた一側の硬結や硬直を愉気するとなくなってしまう。

一晩眠らなかったから疲れた、と言う人の疲労感も一側を押さえるとなくなる。一食抜けたら体が疲れた、というのも疲労感である。

「疲労」というのは、感覚が鈍ってしまって体が強張っている状態をいう。物を持ってもポロっと落としてしまう。何かのやり損ないがある。ぎこちなく転ぶようになる。それなのに本人は疲労を感じていない。動作がトゲドゲしくなる。柔軟さがなくなり、疲れを感じないのに能率が悪い。ゴルフをやっても上手くならない。これらはすべて、自分が思うように体が動かないという状態、これが「疲労」の特徴です。

 

疲労感に対する一側の操法

実際の「疲労」に対しては二側や、骨格の矯正が必要になるが、「疲労感」には一側で対応するのがほとんどである。疲労感の大部分は、一側及び一側が固まって一本一本が判らない、全部スーッと硬くなっている。特に、骨の上に脂が盛り上がるようにある。そういうような場所が疲労感には一番関連がある。

病気で苦しんでいる場合でも、病気は神経やある部分の鈍りや亢ぶりだから、実際には筋肉や知覚神経には関係はなく、胃がこわれたと言っても胃が痛むわけではない。それは筋肉に反射して痛みとして感じたり、疲労感として感じるわけである。

だから一側の処理をすると、疲労感的な面がなくなるので、病気だと思っていた疲れやいろいろな異常感がなくなる。そのために当人は病気がなくなったような錯覚を生じるが、大体そういう病気自体が錯覚によって生じていることが多いので、そういう感じがなくなると一緒になくなってしまう病気は非常に多い。

だから、疲労感をなくするために積極的に一側の硬結を整理することを多く使うが、それは病気をなくすためではなく、当人が病気だと思っている疲労感的な異常感をとるためである。

もう少し詳細に言うと、こうした疲労感に関係がある一側の硬直部分に愉気をしていると、中から痛みが起こってくる。こちらの手には、ビリビリした感じがある。この感じが起こってきたときに、どこが痛んで来たかを聞いて、その痛んできたところに手を移して、そこを押さえていると、大抵の場合はその場所が少しずつ動いて変わっていく。その動きを追って順に押さえていくと大抵は頭に行く。頭に到達すると、頭の一、二か所に筋肉が弛んでくる処がある。弛んできたらもう一か所を触って、次の弛んでくる処まで押さえて、二か所の弛みが終えたところで止める。そうすると疲労感はすっかりなくなる。この逆に、頭から押さえていって、体の中の疲労感の敏感だった部分にだけ痛みを感じやすくなったら、そこを押さえると疲労感はやはりすっかり抜ける。

頭からやっても、一側からやってもいいが、一側から始めて、頭を押さえて、過敏な処が出てきたらそこを押さえるようにすると、一番早く整理ができる。

人間の感じる異常感、疼痛感はみな感覚的なもので頭で感じている面が強い。だから頭の処理をするということは意外に役に立つ。ある場合には、そのことだけで他の異常がひとりでになくなっていくこともある。もちろん、一側で椎骨を処理するのではない。椎骨を調整するには、二側の処理が必要となる。

なお、一側を触る方法は、相手がうつ伏せの状態でおこなうことだけでなく、座位によって触っていく方法もある。その場合は、例えば右の一側をやるばあいは、右手親指を一側に当てて、左手で相手の体を、角度を合わせるように持ってきて行う。

 

一般に頭が疲れると、椎骨は上がっていく。そして一側は硬直してしまう。呼吸器や生殖器の異常の場合の一側は、細い線が感じられるが、頭の、神経系の異常は一側がまとまって大きくなり、骨を覆うようになっていれば間違いない。

繰り返すが、一側は相手が異常をどの程度の度合いで感じているのかを確かめるために調べる。

たとえば、湿気が多くなると、誰でも一側が硬くなる。その硬さの度合いに応じて、陰気になったり、だるくなったり、体がなにか鬱陶しくなったりする。この感じは、湿気が直接もたらしたものではなく、湿気により皮膚呼吸が抑えられて、その結果呼吸器の悪い人が湿気を強く感じてしまうからである。次に、泌尿器の弱い人が、体のだるさを余計に感じるようになってくる。それは、泌尿器の弱い人は、発汗でその機能を代用しているのだが、湿気によって汗の出口を抑えられたためにそう感じるわけである。それから、神経系が過敏の人は、一側の緊張そのものによって、だるくなったりイライラしたりする。

下半身が重いとか、だるいとか感じるのは泌尿器系の人、何となく気力がなくなり、息苦しいと言うのは呼吸器系の人、異常感を強く感じてイライラするのは神経系統のひとである。椎骨でいうと、胸椎十番なら泌尿器系、三番、四番なら呼吸器系、胸椎五番なら神経系統の人というように大雑把に分けることが出来る。

お産の場合に、一側を見ればどのくらい恐怖を持っているかが推測できる。あるいは、お産の苦痛にどの程度敏感かがわかる。寒い処の人は寒さに弱いように、体の記憶の状態によって同じ痛いのでも強く感じたり、弱く感じたりする。一度ごく寒い思いを経験した人は、ちょっと寒いだけで、すぐその寒さを連想して、体が萎縮してしまう。お産が痛くて苦しいと言っても、その人の記憶の状態などによって、純粋な痛みにバイアスがかかる。陣痛というのは子宮の収縮で、その収縮感という筋肉の緊張感が痛みに転嫁したものだから、出産にまつわるいろんな先入観や記憶や空想によって、さまざまな感じ方をする。

しかし本当は一側が緊張していなければ、お産はそんなに苦痛の激しいものではない。

 

病気と一側

病気の場合もそれと同じで、一側の硬直の処理さえすれば、病気も純粋に体の感じだけで経過できる。それほど苦痛はない。むしろ快感のある場合もある。熱に対する恐怖心を除いてしまえば、熱が出てだるくなっても、体の気分は良くて、きわめてうっとりとした感じになるということがある。

一側の硬直によるさまざまな不快の感じも、一側の処理によって、スーッと体中が軽く感じてくるのである。

疲労は、偏り疲労している体癖的な偏り部分さえ処理すればよく、せいぜい五分か十分で解消できる。何時間もかけなければ疲労を解消できない、効果をあげられないというのは、この「一側の処理」ということを知らない人の言うことである。