野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶ(19)病気を経過させる

第19回目のこの日の講義は、野口整体法の重要なキーワードの一つである「病気は経過させるもの」についてです。野口氏の言葉のすべてに通奏低音として鳴り響いているのが、生命や生きていることそのものへの敬意であり、生命に対しての礼をもっての受動的身構えであり、意識的、人為的行為の持つ至らなさであると言っていいとおもいます。では、さっそく記録を始めます。

 

病気を経過させる

病気の経過を見ている、というのは、見物とは異なる。「手遅れ」という言葉におどろかされて、病気を見ていることが出来ないひとは多いが、ほとんどの変動は、ただ見ているだけで回復してしまう。頭の中の妄想で、それを悪い方悪い方に感受して、イライラしたり不安になったりして、病気が悪い経過をとるのであって、我々にとって大事なのは、病気を見ないで、人間の生き方を見る。また、病気になっている人も、その病気を見ないで自分の生きている力を見るようにすることである。

たとえば熱に悩んでいる人があったとしても、熱は病気の現れである、とみる。細菌が机についたって机は発熱しない。生きているから熱が出てくる。何のために熱が出るかといえば、細菌の増殖を防ぐためである。熱が出るという現象そのものが、生きている体の抵抗力である。だからそれは体の回復作用としての現象である。だから、発熱の経過を冷静に見ていれば、なくなってしまう。

 

整体操法をやっている人の中にも、病気に対していろいろなことをやって治すのだ、と考えている人もいるが、そうではない。まず相手に、我々が見ている「生命の働き」というものを見せて、生命の無限の力を、相手の空想の中にピタッと入れて、それを相手の信念として動かなくしてしまう。そうすれば、何もしない方が、却ってよく回復する。血が出たって、血が出ることを見せて不安に陥らせれば、血はどんどん出てくるが、血は凝固するということを興味をもって相手に見させれば、見ているだけで止まってしまう。血の固まることに興味を持たせると止まるのに、流れ出ることに興味を持たせると不安になり、止まらなくなるのです。熱でも、平熱以下に下がった時に警戒が必要だ、ということを教えると、熱の高い時に平気でいられるようになる。

 

なぜ技術を修得するのか

われわれが技術を修めるのは、病気を治すためではない 。ただ病気を治すだけなら、何もしない方がよほどいい。その方が、自然に治ったほうが体が丈夫になる。しかし、ただ丈夫になるというだけでは、どこが丈夫になったのか判らない。そこで背骨を調べ、背骨の悪い処と病気の起こるところを睨み合わせて、それを繋ぐ方法を講じるのです。そうすると病気を経過した後で、背骨も回復していくことが判る。

たとえば、喘息の子どもに発疹が出たような時に、「これで、おそらく喘息の傾向がぬけるのではないか」と言う。おそらく・・・じゃないか、という曖昧な表現が、相手に「そうなるかもしれない」という空想を働かせる。曖昧だからこそ、そういう空想を呼び起こすことができるのであって、「そうなる」と断定すると、逆に相手には「そうならないかも知れない」という思い込みを植えつけてしまう。

曖昧な表現で言うと、相手は「もしかしたら良くなるのではないか」と、そう思い込む相手の潜在意識に入れるために、そう言うのです。そう思いこめば、病気は自然に経過していくのです。

相手が病気の悪い事ばかりに気が行ってしまっているのを、人間はいききいき生きているものなんだという方向に、転換すれば、いろんなことに脅かされているその目が輝きを取り戻すのです。そうなれば、あとはじっと待っていればいい。

ただ、そういうことが出来るようになるためには、体を正確に読めるようにならないと難しい。今出ている熱が、何日後の何時になれば下がる、と相手に言ってその通りになれば、誰も心配はしないのです。熱も、痛みも、苦しみもじっと耐えることが出来る。

 

本来、人間のからだは、どんな難しい病気でも回復できるように出来ているのです。体はどのような変動に対しても回復していけるような準備をしているものなのだから、どんな状況の中でも生きていける。だから、生きていること、生命というものに、絶対の確信を持っているべきだし、そうでないと他人を指導することなど出来ないのです。

病気になるということすら、その人の潜在意識的要求によることが多いのであって、怪我をするのだって必ずしも偶然だとは言えない。だから、そうした要求を見つけ出し、その要求の方向を変え、転換できれば、その病気はもはや存在する理由を失うのです。隠れている要求、抑圧されている要求、歪んだ要求を見つけ出し、それを吐き出させればいいのです。背骨の観察といったものも、その目的はそうした隠れた要求を見つけ出し、方向を転換させるために行うのです。

これまで見てきた一側の観察も、相手の感受性の歪みを、正常な方向に向け変える、て相手の感受のしかたを矯正する技術なのです。