野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

野口整体の基礎を学ぶⅡ(64)「勢い」ということ

I先生、「これまでの講座で皆さんに覚えてほしかったのは、体のなかにある力、これを一応「勢い」と呼んでおきますが、この「勢い」の使い方とその処理ということが、中等講習での重要な課題としてずっと流れていたものなんです。そこで今日は、まず「勢い」とは何かについてお話してみたいと思います。」

 

「勢い」というものは実体のないものだから、なかなか説明するのが難しい。1→2→3→4→5ときたら、この5には勢いがあるが、10→9→8→7→6→5場合の5には勢いがない。1→2→3→5というふうに4がひとつ抜けると、この5は抜ける前よりももっと増える。10→9→6→5となると、勢いがもっと沈むが、その逆に下に行く勢いが出るかもしれない。勢いを論じるには、順序良く並べて、順々にいったものだけでは駄目で、そこに飛ばすものがなくてはならない。1→2→3→6→7→9というように飛ばすと、勢いが出てくる。飛ばしてもその通りいくのが勢いというものです。

その勢いの使い方の一つが、「機」というものです。

チャンスと言っても同じですが、この「機」というものを感じとれることが出来る人が、「機」を捉えられるようになり、「勢い」を作り出すことが出来るようになる。

1から順に7までやっても、それだけでは相手は自分の力で動き出せない。かといって、

 1→2→3→6→7→9と教わった通りに決めつけてやっていると、それも違うのです。

初等では1→2→3と順にやることを覚えていきますが、中等では5・6・7を抜いてしまう。そして抜いたことを相手に意識させない。そうすると相手の力で「勢い」が出てくる。「勢い」の誘導法は、この「飛ばす」ということだけなのです。

もう一つは、「度」の問題があります。

お酒二合で酔う、一合で酔う、一升で酔うというような、体に加わる量とそれに対する体の反発力とがちょうどマッチしているところを「度」と言うのですが、相手の「勢い」を誘導するためには、「機」だけでなく、ある量の力が加わっていないと、「飛ばす」ということが出来ないのです。だから、「機」の問題と、「度」の問題とは一体のものなんです。

もちろん「機」のつかめていない人が、「飛ばす」ことをしても、勢いが出るどころか、そこで閊えてしまう。「機」が判っていれば、閊えないで「勢い」を誘導することが出来る。そして、少しの力を加えただけで、それを大きく感じさせることも出来る。

これが高等の技術の段階になると、「間」という飛ばし方の問題が出てきます。これも「飛ばす」ということと同じことなのですが、それは「呼吸」の問題につながってきて、今の段階では説明できないですが、中等の「機」と「度」の問題を身につけていないと、この「間」の問題に入っていくことは難しいのです。

今の皆さんの段階では、そういうこともあるのだということを覚えていただければいいと思います。

 

ところで、火事場の突発力なども、潜在体力として誰もが持っているのですが、そういう力というのも「勢い」があって初めて出てくるのです。野次馬が人をて倒したり傷つけたりするのも、それは「勢い」に乗じてしまうからなんです。

こうした、「勢い」に乗じるというものがないと、普通のことしか出来ない。「勢い」というのはそういう力を持ったものです。

整体操法が他の療法と異なるのは、そういう「勢い」を使いこなしていく、というところにあるということが言えます。中等の技術では、初等と違って、型通りに押さえるというのではない押さえ方、「勢い」を使うということによって、普通では得られない、普段の相手には出来ないようなことを誘導していく、といったことを身につけていくことが一つの課題でした。

だから整体操法を受けた人の中でも、軽い症状の人は意外に手間取ったりする場合があっても、症状の重いひとがサッと変わってしまうということがあるのも、この「勢い」が動き出したからなのです。「勢い」というのは余裕綽綽のときよりも、追い詰められて切羽詰まった状態のほうが高まっているのです。だから、使い方次第で、非常に強い働きをする。生きるか死ぬかといった境にあるような時には、普段ないような力がもっと出てくる。

操法でも、看病でも、至れり尽くせりという状態では、相手の力が、相手の「勢い」というものがなかなか出てこない。明日食べる米がない、というところに追い詰めらると、何とか力が出てくるのです。満ち足りると、「勢い」というものは出てこない。完全に欠乏してしまっては出せる力も出てこないが、「勢い」というものは、なにかあるものが欠乏し始めた時に、それを補おうとする力なのですから、「勢い」を誘導するために、ある特定の欠乏状態を作って追い込むと、普段出せない力を出せるようになる。

 

操法というものは、相手が追い詰められた時にはやりやすい。それは「勢い」が使えるからです。型通り、順番通りにやることを覚えたら、こんどは「飛ばす」とか「抜く」ということで効果を得ていくということも覚える。

相手の訴えを丁寧に聞くと言うだけではなく、途中で「聞かない」ということをやると、相手は言いたいことを抑えられたと感じて、もっと訴えたいという気持ちが高まってくる。「勢い」が増してくるのです。それを二度、三度繰り返すと、言ってはいけない様なことまで思わず言ってしまう、さらに「勢い」が出たわけです。

相手の要求を否定すればするだけ、それをはね返すだけの力で訴えるからそうなる。そういう良くなっていく「勢い」を誘導することも操法というものであることを知っておいてください。

骨が曲がっている、その時に、ただ元の状態に戻す、というのではなく、曲がっているそれをもう一つさらに曲げることによって、相手の中に戻る「勢い」をつけさせて、その反発する自分の勢いで、元に戻るようにする。こういうことが、整体操法というもの、整体の個人指導というものの要領というものなんです。

以前にもやった、三側の操法で、押さえてから「戻し、戻し」するというのも、相手の中に反発する力、「勢い」を誘導する方法なのです。三側というのは臓器と直結するものであるから、そうやって「勢い」を誘導しながらやらないと、逆に臓器を萎縮させてしまう。だから三側の痛む処をポッポっと抜いていくと、そこが痛くなってきますが、それは裡のはたらきが増えるからなんです。ジーっと押さえていると痛みが止まる。働きが薄れてくる。縮んでいるものが拡がるからなんです。痛みが止まるからといって、どの場所もジーッと押さえているというのは考え物である。やはりそういう技術を使い分ける必要がある。ポッポっとやった後でジイっとやっていればジイっとやっている効果が上がるし、ジイっとやったやった後ではポッポっと放した効果はあがるであろうし、いずれにしても相手の中の勢いの状態、潜在体力を呼び起こす、そういう感受性の条件を充たすような勢いを使う為の速度であればいい。

 

溺れた人を助けるような場合、相手は助かったとホッとする、ホッとすると死んでしまう。だから泳いできてへばりついて「これで助かった」と思うとぐたっとなる。あるいは水を吐かせて活を入れると、ハッと生き返り、「助かった、まぁよかった」なんて周りが言うと、ガタっと参ってしまう。そこで活を入れるのに慣れている人達は、息を吹き返してくると、ピシャっと叩いて、「馬鹿野郎」と、どやしつける。舟にかじりついたら一旦突き放して、それから助ける。そうすると助かる。

だから、瀕死の際に活を入れるのも、腰椎三番を叩くのも、胃袋を押さえるのも、吐かせるための型なのです。吐かせて、活を入れてそれだけで生きるだろうかというと、生きるのもあり死ぬのもあるのです。死ぬ中の何人かは、フッと弛むために死ぬ。馬鹿とどやしつけて殴る技術があったら、生きるかもしれない。舟につかまってきたのを、もう一回溺れさせる、それから活を入れると助かる場合がある。

生きるか死ぬかという時になると、そういうごく簡単なことが、非常に大きな働きになるのです。

やる方から見れば大変なことである。馬鹿野郎!と殴って、それっきり死んでしまったら、言い訳がつかない。そう言わないで、「さあ、しっかりするんだ、しっかりしろ」と言えば、ホッとして死ぬに決まっているんだけれど、そういうように言えば、周りの人は「親切な人だ」と思う。「あんなに一生懸命やってくれたのに死んだのだ」と、褒められるかもしれないが、やった本人は気分が悪い。

やはり、技術のある者から言えば、殴りつけたい。そういう「勢い」というものを知ったために、かえって自分を窮地に追い込んでいくようなことがよくあります。

馬鹿野郎と言って、助かるに決まっているなら、こんなことで悩むこともない。しかし、そう言って死んでしまったらと思うと出来なくなる。「こいつめっ」なんて言って蹴飛ばすと、なお憤慨する。一番いいのは唾を吐きかけることなんです。「なんでこんなことをしたんだ。ペッ!」と唾をかける。それを本人が見ててくれれば役に立つが、本人はぐたっとなってしまっていて、見ているのが周りの人だけだったりすると始末が悪い。そういう問題もある。自分の面子なんかを考えたり、もしそういうふうになったら具合が悪いなどと考えたら、もう出来ないのです。

 評判が悪くなろうと、何て言われようと構わない、とやってしまう。助かれば「おかげさまで」と言って後は忘れてしまうが、死んでしまった時は、あの人にやられたと、いつまでも恨まれる。こういう問題は、どんなささいな場合でも、技術を修める以上は、絡んできます。

もう良くなったと思う時に、まだ完全にはよくなり切らないのに、トンと突き飛ばすと治ってしまうのがある。頼らしていたら、必ず駄目になってしまう。

良くなってからも、もう一度、もう一度と相手が来る時に、そのつどそれに応じていたら毀れてしまう。自分で治る力がなくなってしまう。ところが、「はい、ここまで」と言って、それで治らなかったら醜態をさらします。しかし、治り切っていないものを「ここまで」と言って打ち切ると、フッと相手の気が変化して治ってしまうのです。人間にはそういった面がある。

操法する為には、時に自分を捨てなければならなくなることがある。自分を大事にして、自分を可愛がってしまったんでは、肝心の時に技術が使えない。憎まれても恨まれても、やることはやらなければいけない。これは技術を知った人の宿命であり、自分のお化粧に一生懸命な人には使えない。普段は出来ます。上手だとか、気持ちいいとか、だけど死ぬか生きるかという土壇場になったら、それでは何にもならない。

他人は、助ける技術を観ているだけで、判らない。それは技術というものではない。そこまでいくと、それは信念なんです。その人の生活態度なのです。どこまで技術に対して自分の人生を捧げるかということで、技術をやり切る人間にならなければそれは出来ない。面子を気にするようでは、助け起こして気がついた人を蹴飛ばすようなことは出来ない。助けるのに、気がついていない人を蹴飛ばしても駄目ですよ。気がついたときに、間髪入れずに、「馬鹿野郎」と怒鳴りつける。そう言って活を入れたら助かったという人があります。

叩くのでも唾を吐きかけるのでも、その時期というものがあります。

曲がったのを治すのでも時期がある。治すだけでは駄目で、相手の体の力を動員し得た時にやる。

もちろんそういう時期の見定めは当然大事ですが、何よりも自分を、技術の為に捨てる、という考え方を身につけることが重要です。気取りや、自分の立場を考えていたら、そんな危険なことは出来ません。一歩間違えば、ハッタリになってしまうし、批判の対象になる。しかし、技術というのはそういうものなのです。

いまはそういうことが出来なくても仕方ありませんが、少なくとも相手の「勢い」を呼び起こすことが出来るように自分を訓練していって下さい。その為には、少なくとも、自分のなかにある「勢い」をいかに取り出していくか、ということに集注して練習するのも一つの方法です。それさえできるようになれば、これまでよりずっと技術が上達します。

 

練習 相手の背中で呼吸する

いろいろ言いましたが、そういう中で忘れていけないのは、相手に気を通すということです。これまで自分の背中で呼吸する練習を何度もしてきましたが、今日は二人で背中を合わせて、相手の背中で呼吸する、という練習をしておきましょう。

 

正坐で、背中を合わせて目をつむります。まず、二人が一緒に息を吸います。初めは自分の背中で呼吸します。呼吸するつもりでいいです。そうすると背中の中が温かくなってきます。つぎに、息を吸いこんだまま、眼を開けて、互いの背中を少し離して、息を吐きます。

次に、もう一回背中を合わせます。今度は一人が主体となって、その人が相手の背中で息を吸いこみます。相手の人は、ただポカーンとして自然な呼吸をしていればいい。

吸いこんだら耐えたまま、さっきと同じで、互いの背中を少し離します。そして吐きます。すると、相手も、自分の背中が温かくなるのを感じます。

今度は、相手の人が主となって、同じように相手の背骨で呼吸します。そして背中を離します。

最後に、二人一緒に呼吸を合わせて、吸いこみます。息をこらえたまま、背中を離し、息を吐きます。

 

このように、相手の背中で息をすることを、「気を通す」といいます。気を通すと、それに応じて感応が生じます。

慣れてくれば、面と向き合ってもそれが出来るようになります。離れていても相手の背中で呼吸出来るようになります。

 

そうしたら、今度は一人が仰向けになり、やる人の方は、相手の後頭部に左手を当てて愉気をします。それから左手を当てたまま、右手を相手の恥骨に当てて、その左右の手の間で呼吸します。今度は愉気ではなく呼吸をする。そうやって相手と一緒に呼吸します。そうやって気を通すのです。ではやって下さい。

気が通りましたか。気が通れば、相手の背中が温かくなってきます。

 

では、これで今日の講義は終了です。家に帰って、何度も練習してみて下さい。