野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

片山洋次郎氏の整体の本(1)

片山洋次郎氏の整体についての著作群は、私のお気に入りである。いつも片山氏の本をバッグに詰め込んで、喫茶店や地下鉄車中でぱらぱらと眺めたり、就寝前に寝転がったまま一言ひとことを味わうのがこの上なく愉しい。

それは、片山氏の語る<整体>が、野口晴哉氏の思想・技術をOSにして、どこにも気負いのない涼しげなことばで、片山氏自身の身体解読を披露してくれるからだ。何よりも、<現代>という固有の生活環境の中で、逞しく生きている人間の<身体>を実に緻密に解読してくれていることが、心地よいのだ。

そこには、片山氏独自の<整体>解読がなされていて、わたしのこわばりかけたからだやこころをやわらかな雰囲気で包んでくれる。

私が息子から「整体について誰のものを読めばいい」と訊かれた時、最初に薦めたのも片山氏の整体本であった。

インターネットと携帯端末が普及し、高度な情報社会が強いてくる身体の変容に、気づかぬうちにそれなりの適応能力を果たしつつある若者と、それに対応しかねている大人の身体との差異をこれほど明確にとらえた著書は少ないだろう。

著者のデジタル・ネイティブとしての若者の身体に寄り添った、非常に読みやすい文体は、整体という世界を息子に初めて推薦するにはとてもふさわしい著作だと私には思えたからだった。

 

『ユルかしこい身体になる』(集英社 2012.1)で片山氏は、次のように本書の目的を語る。 

近年は、人間が作り上げたはずのテクノロジー環境に身体の側が追いついていないために、「うつ」や不眠、アレルギーなど、情報ストレスに関するさまざまな障害が発生している。それどころか、身体のどこかに不調を感じていない人のほうが少ないといった状況である。(中略)小中学生の頃から携帯電話を当たり前のように所有してきたデジタル世代と、それ以上の年齢の人々とでは、整体的に見て、身体の反応に大きな違いがある(具体的には、骨盤や胸椎の反応の仕方が違う)。・・・本書では、デジタル世代といわれる20代の若者と、それ以上の世代の身体のメカニズムと行動を整体の手法を用いて観察・分析し、これからの身体(人間の暮らし)の可能性を探ってみたい。(2-4)

 

片山氏は、現代人の身体が近年の情報量の急速な増加の海のなかで、「その波に圧倒されながらも、何とか溺れないで浮かぶ術を身につけつつあるようにも見える」(12)として、そうした情報に反応するセンサーとしての「胸の中心と胸椎五番」に注目し、90年代以降から増加を続けるアレルギーやアトピー性皮膚炎も、その部位の過敏反応がもたらしたものだと分析する。

野口整体において胸椎五番は、免疫系の反応と関連し、風邪の引き始めの最初の変化の処とされ、五番の変動に伴って発熱や鼻水、炎症などの症状が現れるとされる。

アレルギーやアトピーは、環境物質や清潔すぎる環境の問題や食生活の変化、あるいはストレスなどの外的要因が指摘されているが、これらはともに身体の免疫系の反応が引き起こした現象である。

片山氏は、そうした現象を身体の側からみれば、胸部の情報センサーの過敏状態であり、その過敏状態が引き金となってそれらの症状が噴出しているのだと説明する。

つまり、外界の情報環境の肥大化とそれを受け止める身体との間に、胸部センサーという媒介項を差し入れることで、人間の身体の感受性の問題に向き合おうというわけである。

さらに片山氏は、<共同体>のあり方に言及し、現代の若者と、それ以降の大人たちにとっての<共同体>とには大きな変化が存在していると指摘する。この違いこそが、高度情報社会に生きる人々の情報の受け止め方の差異を決定づけていると分析する。

今では、会社でも学校でも、周りに気を遣わねばならない。人間関係がかつてよりも不安定なものになったからだ。情報環境の変化とともに、共同体的な安定的な関係というものがなくなり、人間関係の場がより流動的になったことが原因と思われる。

上の世代が(職場等で:註、引用者)議論や喧嘩をしていたのは、彼らが今の若い世代に比べて覇気があったからではない。かつての会社は、その構成員に喧嘩をしても大丈夫と思わせる、安定した場や秩序といった共同体的枠組みを提供できていたのだ。だから、安心して喧嘩をすることもできた。ところが今は視界不透明な時代で、会社も学歴も実はあまり頼りにならない。至るところで共同体的な枠組みが崩壊してしまった結果、人々は、かつてより不安定になった人間関係の維持に気を遣わなければならなくなった。(47)

 

そして片山氏は、「オタクこそが肥大化する情報環境に適応するための、言い換えれば、情報の洪水から自分の身を守るための身構えを実践した最初の人々なのである。」とする。しかし、さらに猛烈となっていく情報量の増加が、この<オタク的適応>さえも限界に曝していく。情報の増大と細分化が、一部の情報にだけ反応していればよかったはずの対処の仕方を打ち壊すまでになてしまったからだと分析する。そしてその過剰さを解消し、リセットするために身体がとるのが<骨盤運動の鋭敏化>という身構えだと説明する。その詳細は本書に当たっていただくこととして、片山氏の観察は、<胸部>とそれと連動する<骨盤>とに注目し、情報過多で過換気症候に似た状態に対処する方法をいくつも提示している。

片山氏の提示する方法は、<相手の体力を賦活させ、自身の力によって外界等からもたらされる障害の原因に対処出来るよう導いていく>という、野口整体操法本来の目的に沿ったかたちで行おうとするものであるのは勿論だが、それだけにとどまらず、個人が組織や共同性の中で生きるとは何を意味しているのかとか、自らの身体の感受性に添って生きることの大切さとか、日常的に出来る簡単なリセットの方法とかなどについて、豊富な事例によってわかりやすく解説してくれている。

まだ手にされていない方には、是非お読みいただくことをお薦めしたい。

 

 

「整体操法高等講座」を読む(5)相手の力の使い方(3)

前回の講義録を読んでいる途中から、急に永沢哲氏の大著『野生の哲学野口晴哉の生命宇宙ー』(ちくま文庫 2008)が読みたくなり、書棚から取り出して改めて読んでみました。その書き出しは<天使>ということばで始まっています。そしてずっとキーワードとして使われていきます。わたしは永沢氏のこの<天使>という西欧キリスト教的なことば使いにずっと違和感を持ち続けてきたのです。私のイメージしている野口晴哉像にとって、これほど馴染めない響きはない、そう勝手に決めつけていたからですし、ポスト構造主義的な文脈を象徴するような<天使>という用語に野口氏を置き重ねてほしくないという、理由のよくわからないままの距離感が、そうさせているのだと思っています。

こうした私の勝手な違和感や距離感については、もっときちんと考えてみなければならないのでしょうが、このツルツルピカピカした私のなかの<天使>というイメージや言葉遣いは、永沢氏がこの著から十年後に著した『野生のブッダ』(法蔵館1988)に収められた野口晴哉論のなかに同様な響きをもって<天使>が登場してきます。

それは密教マンダラに言及する中沢新一氏の文体とも共通する、何とも言えない<のっぺらぼう>の<天使>がダンスしているイメージで彩られており、それゆえに今回読み直してみても、それまでの私の<天使>のイメージが少しも変わらないばかりか、ますます強くなるばかりなのです。

なぜそう感じてしまうのか。その理由の一つは、恐らくこういことではないか。

前回の野口氏の口述記録からも浮かび上がってくる、私にとっての野口氏のイメージというのは、痛みや苦しみを抱えてやってきた、今現にここに生きている個人に対して真正面から向き合い、共感し同調し、時に反撥する、熱き思いを持って悩み抜く、極めて人間的な存在としての野口氏です。そこにいるのは、血と肉と心をもった一つの個性であって、どこにも無表情な、ツルツルとした感じや、空無の底から照らし出されてくるキラキラとした光と共に<天使>のダンスを踊る野口氏の像などではない。それは<天使>という形容ではとても表現し得ない、もっと湿度に満ちた、人間的過ぎるともいうべき姿をした野口氏だからです。

人間でありつつ人間を超え出てしまった<天使>としての野口晴哉。そんな超越者に仕立て上げられた野口氏などというものは、私の興味を引くものではないし、もっと人間的に苦悩する生身の野口氏を身近に感じたいのです。

野口氏の発したことばのほとんどは、超越者のことばではないし、その言葉は宗教家然とした姿かたちを持ったものではない。

むしろそこには、自然的身体や生命、総じて<肉>体が有する神秘的魅力のまえで踏みとどまり、格闘している生身の野口氏が存在しているだけだ。私の実感を伴った印象から言えばそう感じられてならないのです。

私にとっての野口晴哉像というのは、あくまで人間の出来事としてのことであって、そこから超越し、至高の境涯から現世を取り結ぼうとする存在のことなどではないからです。

人間として生きて死んだ仏陀が、死後のことについて<無記>と表現したことに深く共感する私にとっては、まるで見てきたように死後の世界を語ることばを、容易に信用することができないのです。あくまで生きている身体に意識で向き合い思考を重ねるという姿にこそ、野口氏の真の姿があるはずだし、<気>とか<意識>といったものも、<肉>に宿っているからこそ、人間的な豊饒さを獲得できるものだと信じるからです。

 もちろん、永沢氏の功績と私のこういう印象とは、本来何の関係もないものであり、それは私の勝手な読み違いから来ているかも知れないのですが、一応、こうした感想をこのブログにメモとして書きとめておくことはお許しいただきたい。

 

整体操法高等講座 5」(1967.5.15)

(以下の引用は、これまでと同様、原文からかなりの変更を加えて、私なりに編集し直したものであり、小見出しや<>等やそこでの表記、あるいは句読点も、原文にはないものとなっています。その為に原文の意味のとり間違いや、誤った省略、ニュアンスを正確に伝えきれていなことなども多々あると思います。それらは、全て引用者・要約者である私の責任ですので、お気づきの点など是非ご指摘下さい。直ちに訂正させていただきます。)

 

 「相手の力の使い方」(3)

前回は「一点の手抜き」、つまり<急所を外す>とか<一瞬息を遅くする>といったことでした。吐き切ったところをショックするそれを、吐き切って吸ってきたところを、一つ吸いを残す。それは急所の刺戟法として効果を遅くするのです、下手な時は。

これを徹底的に鍛錬して、その急所にピタッと、呼吸の間隙に押さえていくというようにしなければならない。

中等講習ではもっぱらそれをやりましたが、急所を間隙にピタッと押さえていくということは、料理で言えばレストランの料理である。普段に常用する技術ではない。

 

<一瞬手抜きをする>、<一瞬遅くする>、<一瞬、ちょっと急所を外す>。上手になってきたら、そういうように力を使うものです。

そうしないと、まず<反動>が大きい。また、相手の力をいつもフルに使うということになる。それでは相手の力に<余裕>がない。それをあっちもこっちもキチっと押さえてしまうと、相手の力を発揮する余地がなくなってくる。

この<一瞬の手抜き>、<ちょっとした急所の外し>をしていながら、なお急所をピタッと押さえたのと同じ効果をあげられるようになれば、そこには相手の力が何らかの形で働いていたということになる。

 

<勢い>

相手の力、というときに一番大事なのは<勢い>というものです。以前にも説明しましたが、同じ三の力でも、一、二、三という時の三には力がありますが、五、四、三の三には力が抜けています。加えているときの力と、抜いていくときの力とでは同じ三とは数えられない。行きと帰りでは違う。

 

人間というのは、全部<勢い>で行動している。

スタートの時だけではない。<勢い>でズーっと生きている。その<勢い>というものを使うことを考えるようになると、<一瞬手を抜く>ことをすることで、相手の<勢い>によって、抜いたところを埋めていく、そういうことが出来るのです。

 

私達のやりかたの殆どが、そういう<勢い>の使い方に尽きていると言っていいぐらいで、抜いたり外したりしたところを相手の<勢い>で補っていく。

急所をピタッと押えることが出来るがゆえに、それが外せるわけで、そのことがこちらの<余裕>になってくる。言い換えると、それが出来ることで、<技術の幅>が厚くなったと言える。

 

叱言でも<含み>と言いますか、相手の逃げ道を一つ作っておくと、そこに相手の力が逃げ込んでいく。知っていて知らない顔をしている。相手の弁解できる余地を残しておく。そうすると、言った叱言の力は残ったまま、相手を方向づけることが出来る。完全に囲い込んでしまうと、強く反発して、言った叱言の力まで無くなってしまう。

 

操法でも同じことが言えるのであって、ちょっと外して逃げ道を作り、相手の逃げる方向を決めて、それによって相手の全体の動き、力の方向を決めていくのです。

 

私も昔は、相手が病気だというと、完璧に相手に付き添っていないと<不安>でした。

今は相手の様子を聞くぐらいで、あとは殆どその人の体の力に任せている。その人の体の力がずれている時には、ほんのわずかな力でそれを正すことをする。むしろ急所は使わないで、出来るだけ相手の力で治っていく方向に向ける。

できれば相手自身が、自分自身で気づいて、力を発揮できるように、相手に決める余地を与える。そうすると、治った後に無理が無くて、再発するとか毀すということは滅多に起きない。つまり、相手の力で治るというのが一番自然なので、操法というもので完璧に治すというようなことは、やってはいけない、ということです。

もちろん、このことは高等技術としてそう言っているので、間隙をピタッと押さえられないうちにそういうことは出来ない。技術に幅がでてきて初めてできることで、そうでなければ役には立たないと思います。

呼吸は外していい、などと思いこまれては困りますが、ピタッと掴まえてそうして外す、これが出来ないと、相手の体を本当に丈夫にすることが出来ない。

 

満腹になるとそれ以降は味がなくなってしまう。そして満腹の不快だけが残る。満腹になる手前で、一口慎んでおけば、次の空腹時まで美味しさが続いていく。

全ての中にある<勢い>というものを使っていこうとする場合には、この<一瞬の手抜き>ということが大事であって、それは手が抜けてしまうのではない。敢えて抜く。自分からわざと外す。この外す度合いが操法する時の急所といえるもので、そこに<技術>というものがある。

 

相手の<力>というものを考える場合に、一番大切なものはもちろん相手の体の持っている<体力>ですが、それだけではなく、<気力>とか、相手がそれまでに積み重ねてきた<教養>とか、<記憶>とか<知識>、<観念>などあります。

われわれが目標とするのは、相手の持っているそうしたいろんな力を、さっと体の力が発揮できる方向に向けられるようにする、ということですから、相手の心の中にあるそれらのものを知って、その人がどういう心の状態になった時、サッと心がまとまって、体の方向を変化させるかを知っていくことが必要になる。

毀誉褒貶がそういう体の力になる人もいれば、好き嫌いというものがその力になる人もいる、あるいは利害得失がその力になる人など、人によって随分違うし、時代によってもそれが異なります。お国の為などという表現で自分を満足させる人が多い時代には、そういった表現を上手く使うと、力がさっと取り出せるということもあった。戦後は利害得失に敏感に反応するということも多い。いまは大分種族保存的になって次世代の為にと言う人も増えてきた。他人の為、大勢のためということにサッと体の向きが変わるという人が増えてきた。まだ皆がそうなっているわけではないし、自分の体まですっとその方向に向くというまでは行っていないが、これからは自分や自分の家族の為だけでなく、もっと多くに人の幸福の為にと、さっと体が動くようになっていくかも知れない。もっとも、そういうものも、ある意味では利害得失の一種であるといえるわけで、時代の中にまだ利害得失が働いているわけですが、これからの時代が、種族保存的なもの代わるかもしれない。

 

いま、私たちは、それまでおこなわれてきた<養生>という一般の考え方を否定するということをしています。毀れた体に合うような生活を奨励するなどというのは、裡にある回復要求を殺すようなものだ、だから「不摂生しろ」、その方がはるかに力を呼び起こすのに効果があるのではないか、と言って。

それは、過去に蓄積されてきた<養生>というものへの愛着、薬への愛着、他人に寄りかかる事の喜び、そういうものを利用して、それを壊すことをもって、新しい自分というものによって治っていこうとする<勢い>を引き出していこうとしてやっているわけです。

それは過去に「安静が養生だ」、「他人より余分に栄養を摂ればばいい」、といった考え方があるからであって、そういう考えを持たない人にいくらそんなことを言ったって意味をなさない。問題はそういう考え方を身につけて、それを実行していくことが、やがてやり過ぎるようになり、そのために害が生じてくる、そうなった時にわれわれの言っている<否定>が使えるということです。

文明化していないところの人には、整体操法をやるよりは、ピカピカした金の針を打つ方が効果があるかも知れない。一人ひとり押さえるなどということも野暮なことなのかも知れない。問題は、その人が心の中に蓄積してきたもの、そういうものを、どういう角度でつかまえることができれば、相手の体を一瞬にして動かす力に方向づけ出来るか、ということにあるわけです。

どういう角度で刺戟を与えれば、相手の持っている<心>の方向を、サッと体の力を発揮できる方向とか行動に向けさせることが出来るのか。それは<心の力>というものではなくて、相手の心に過去から蓄積し溜めてきたもの、それを引っ張っていく。<心>が体を動かす方向に引っ張っていく。

 

誰でも、元気であろうとして、病気を治そうとして、あるいは失敗から立ち直ろうとして気張ります。しかし、気ばかり焦って、実が伴わないというのは、<気力>が無いと言える。ある方向に向かっていて、それが一体どこまで続くか分からないで、結果を出すまで同じ力で進んでいく、そういうのは<気力>があると言える。

こういうものも、相手の力として使っていく。使う時には、やはり<一瞬外す>という技術を使うと、足りない処に相手の力が集まってきて、自分の力でそれを補おうとするのです。

前回説明したのは、そういうことですが、どうもうまく伝わらなかったようです。<一瞬の手抜き>とか<一瞬外す>という技術が出来るようになって初めて、相手に害を与えることなく、相手の力を引き出せるようになる。その前提になるのは、急所をピタッと押えることが出来るということなのですが、それで足れりとしてはいけない。そこが高等の技術の入り口であって、相手が自分の力で自分を動かしていけるように指導するということがわれわれの目標であって、整体指導の基本もそこから始まるのです。

 

それが出来ないと、全部を自分の技術で果たしていこうとして、相手に技術を押しつけるということになる。そうなると、どこまでいっても相手の異常との戦いになってしまう。われわれは、相手の異常に敵対関係で臨むのではない。相手の力を呼び起こそうというのですから、友好関係でなくてはならない。

相手の力を使う、ということを解さないうちは、相手は意外にも、悪くなろうという方向をこちらに指示してくるのです。養生はしない、肝心なところで不摂生をする。こちらの言うことは聞かない、そして同情だけを求めようとする。病気をもっと重く見られたいという要求が強くなってくる。口では丈夫になりたいと言いながらである。

そうなると、こちらもムキになって、相手を屈服させるつもりで押さえるようになる。だから<戦い>になってくる。

私もそういう時期があって、操法は真剣勝負だと心得て、自分の隙を全く見せず、相手のどんな隙も見逃さないで、戦争をみずから望んでいるような気分で操法していた。いまは、友好関係でやっています。

こちらに余裕があると、相手にも余裕が出てくる。余裕なく、相手の力を使い切り、自分の技術も使い切る気持ちでやっていると、相手は早く治ろうと焦り出してくる。

 

前回やったのは、相手の力を使おうとする時に<手抜きをする>、<呼吸を一つ遅くする>ことが、相手の<気力>を強くしたり、体を丈夫にするうえで大事なことだと言った意味なのです。体や心に働きかけるときに、一つの余裕を持ち、一つの<間延び>があるために、相手の体がそれを埋めようと自ら動いてくる、つまり、相手の勢いとか力といったものを呼び起こす手段としてそれをやっているのです。

 

今日は、そういう問題をさらに一歩進めて考えてみましょう。

 

(体力とは何か)

相手の体力を使いこなす場合に、相手の体力がどういうものか判らないのでは困る。<体力>というのは<加えられた刺戟に対して反応する力>のことです。

加えた力が、刺戟として相手の中の反応や<気力>を呼び起こさないようなものは、<体力>を使ったとは言えない。

相手の<体力>を構成しているのは、<刺戟に反応する速度>や、<刺戟に反応する度合い>や、<刺戟への反応が持続する状態>であって、<体力>に働きかけるということは、それら<体力>を構成する速度、度合い、持続状態を変化させることを意味している。

<体力>というのは、それを本人も、操法する側も、相手がそれを使いこなせないうちは、<体力>とは呼べないのです。

大きな体をしていても、小さなものを運んですぐに疲れるというのは、大きい体格であっても<体力>はないと言っていい。<体格>では<体力>は測れないということです。

何らかで取り出せる、そういうものが<体力>です。

取り出すための手段は、その人のもっている技能とか、教養とか、気力とか、心の働きとか、心の中に溜まっているものとかいろいろですが、「取り出せる力だけを<体力>と呼ぶ」のです。

刺戟に対して反応できる力、反応できる働き、それを<体力>と考えるのです。

 

或る一点に加えた刺戟によってどういう変化が生じるか、その変化の現れる状態によって<体力>を見るということが正当な見方です。

<体力>がある状態だと、外界からの刺戟に敏感に反応している。胃が悪ければ胸椎の六番に硬結が現れる。胃潰瘍なら八番か十番に圧痛点が現れる。十二指腸潰瘍なら五番に硬結が現れる。

ところが癌の場合は、そういう反応が非常に弱いのです。異常というものが背中にハッキリと現れていない。いくら探しても硬結が見つからないのに、実際は悪いというのは、<治りにくい体の変動>を背負っているとも言えるわけです。

だから、相手の<体力>の状態を見る時には、一定の処に刺戟を加えてその反応を見るとか、自然に加わった刺戟に対する反応が、背中にどのように表現されているか、ということを見れば判る。

<体力>の有無を知る指標は、まず<筋肉の弾力>と<椎骨の弾力>です。弾む力、動いているものは全部弾力を持っている。それらの<弾力>は、相手の体の<勢い> を現しています。弾力があるというのは、刺戟に対して敏感に動いて、すぐに元の状態に戻ってくる、中心に帰ってくるという力のことである。これは、人間の体で言うと、「人間の中心を保つ力」とでも言えるもので、最終的には<お腹の力>によっています。

 

(体力の象徴としての腹部)

腹部の弾力の有無を調べる時は、まず<頸>を刺戟します。<頸>を刺戟すると、<鳩尾(みぞおち)>に変化(硬直)を起こす。次いでその変化が<臍の周り>に移ります。この一連の変化は生理的なもので、普通の変化です。体力の有無には関係がない。

<鳩尾>(腹部第一)に移ってきた硬直は、腹部第二を押さえていると、腹部第三に移っていきます。

この一連の経過が、二呼吸以内に行われれば、弾力のある状態である。それが三呼吸以上しても移ってこない場合は、刺戟に対する感受性はあるけれども、弾力というものが無い状態で、体に異常を抱えている人は、第一までは早く移行するけれども、その先の第三に移っていかない。

このようにして、相手の体の<刺戟に対する感受性>の状態を観察します。

 

その次に、<臍の周り>を押さえて刺戟します。すると<首>が変化してきます。<首>の変化は、<頭皮>の変化を引き起こします。これは生理的な普通の変化です。ただ、首の変化が<頭皮>の変化を引き起こすということは、外から与えられた刺戟を、自らの力として受け入れた、つまり吸収したということでもあるのです。

<臍の周り>の刺戟に対して、<同調>したということです。

そういうことを見ることで、外からの刺戟に対して、相手がどのように反応し<同調>するかということを検査する指標となるのです。

 

練習

まず最初に<膏肓(こうこう)>の<湿気>の状態を見ます。体力が無くなると<膏肓>が乾いてくる。これが乾いている人は、<臍の周り>の力も無くなっている。

湿気を見る時は、直接肌に触れないと判らない。しかし、直接触れると汗ばんでいることは分かっても、すぐに空気で乾いてくるので判りにくい。だから少し離して湿気を確かめます。

普通は<臍の周り>が硬いのはよくない。何処かに体力が働いていないところがある。その硬いところを刺戟して柔らかくなってくると、体力が働いてくる。それまで体力があっても遊んでいたのです。体力があって、それが頭の働きになっているような時は、<臍の周り>には弾力があります。こういう場合は頭部第二を刺戟すれば硬いところも柔らかくなってきて、体力も復活してきます。

ところが、第一が柔らかいのに弾力が無い状態で、そこが乾いている、湿気が無い。そしてそこに<無気力な(硬い)処>が、一、二か所あるというのは、それが現在の異常で苦しんでいるところなんです。そして、その<無気力な処>が消えれば、もう死ぬのです。だから<膏肓>が乾いてきて、その硬い処(禁点の硬結)が消えるまでは、生きていて、いまの苦しみが続くと言えるのです。

 

<膏肓>を調べたら、次は第二を押さえているうちに、第三に硬直が移行し転換していくかどうかを確かめます。

お腹を見る時に、まず第一を右手で押さえます。その時、左手は相手の首を持ち上げます。動くのは頸椎の七番です。それを可動範囲でちょっと上に挙げます。そして放す。次いで第二を押さえ、放す。そうしながら、変化が移行していく状態を確かめる。変化が早く起こってくれば体力ありとみる。首の上げ下ろしの前と後の第一の変化をそうやって確認する。

 

お腹は、そういうように相手の体の力が働けるようになっているかどうか、働けるはずなのに、どこかで閊えて働けなくなっているか、というようなことを見ていく場所なのです。難しいですが、今の段階からそういうことに慣れていく。三年くらい練習して判れば、それが標準です。練習ではなかなか判らないが、実際の場面で触ると、病気が重い人ほどそういう変化が判りやすい。練習している人同士で湿気があるかないか調べても、それはあるに決まっている。帰りに電車にぶつかって死ぬという人は別ですよ。しかし、そういう場合は湿気が薄れています。病気で死ぬという場合は、完全に湿気がなくなっています。

まあ、どんな場合でも、一応相手の体に変動があったというときは、お腹を確かめる、第一の湿気の有無を確認するということをやってみて下さい。

では、今日はこれだけで終わります。(終)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「整体操法高等講座」を読む(4)相手の力の使い方(2)

どれほど最善を尽くし、完全を期したつもりでも、それが人間の意識によって行われている限り、必ず一定の限界を持つものである。

整体操法という人為による他者の身体や生命に働きかける技術というものも、その例外ではありえない。こうした事実に、謙虚に向き合い、さらなる完成に向けて思考していくという姿勢が、野口整体の思想や技術の裡に常に息づいている。

これは稀有なことではないか。

大抵の場合、その時点でこれ以上ないと思われる考え方や方法が見いだされれば、その結果が<自然>や<生命>にとって不都合な結果であろうと、止むを得ないことと考えられることの方が多いだろう。

意識による働きかけ、人為による<自然>の改変という行為が、結果として何をもたらすかという思考を、あらかじめその思想に孕んで進むことは、出来そうで出来ないものに違いないからだ。

整体操法を学ぶということの奥深さも、野口氏のそのような思想的態度によっていると、私には思えてならない。

本日の講義録にも、そのあたりのことが読み取れて、ますます深みにはまりそうな予感がするのである。

 

整体操法高等講座4」(1967.5.5)

 

相手の力の使い方(2)

操法する場合に大事なことは、相手の力をどのように使うか、相手の持っている力をどのように活かして使うかということであります。

これまでは、「呼吸の間隙」に処理することを練習してきました。

「呼吸の間隙」というのは、相手が<息を吸い切って、吐く一歩手前>であり、<吐き切って、吸う一歩手前>のことで、それぞれが、その前の吸ったり吐いたりする惰性を持っている状態です。そういう惰性が働いているために、急に体を弛めようとしても、あるいは急に引き締めようとしても、身動きできない状態なんです。

そういう状態が、たとえば柔道や相撲で技にかかる瞬間で、力を抜きさえすれば技に掛からないのに、力を抜くことが出来ない状態のまま掛かってしまうわけです。

息を吐いた惰性があるので、急に力が入らなくてつけ込まれる。

 

そういう「呼吸の間隙」を操法に使う練習をしてきたわけです。これは、相手の抵抗をすっかり封じてしまって骨を動かしていく方法でした。

「呼吸の間隙」などという技を使うので、あたかも高級な技術のように思われているのですが、その技術をやり慣れてくると、果たしてそうなのか、という思いもまたしてきます。というのは、<相手の抵抗を封じる>ということが、<相手の生きているということを無視するやり方>であることは、確かだからです。

あたかも人形を修繕するように操法するというのなら、その方法も便利なものですけれども、本来の操法というのはそういうものであってはいけない。

だから、相手の抵抗する力そのものを封じるのではなく、活用すべきものとして扱っていかなければならない。呼吸についても同様です。

そして、そういうことが出来て初めて、「呼吸の間隙」を活かすということの意味も判ってくるのです。

中等の技術としてそれを練習したのは、<呼吸>というものに注意を向けることを知らなかった人たちに、<呼吸>というものを意識させ、注意を向けさせたいがために、問題提起として出したのです。

<呼吸>は操法する際の邪魔者では決してないのです。「呼吸の間隙」を狙うということになると、それは邪魔なものに感じられるけれども、操法というものは、相手の<呼吸>を無視しては進めることが出来ないのです。

 

(弾むが如く相手を押さえる)

下手な人が押さえると、相手は息を止めてしまいます。息を止めるから、押しても撥ね返ってこないのです。そして押された方は、あとでそこが痛くなったりする。

その逆に、上手な人は、相手の<呼吸>のリズムに乗って操法するので、同じように押しても弾力がある。

相手の<呼吸>を使えるようになってくると、ある一か所を押しただけで、体じゅうに押した影響が拡がっていく。相手は、一か所を押されている筈なのに、体じゅうの変化を感じるのです。

そうなるのは、相手が息を一杯に吸いこんでいるか、少ししか吸いこんでいないかの違いによって生じてきています。

ちょうどゴムまりを押したときのように、空気が一杯入っていればよく弾むのです。

相手が息を吸いこみ切って、まだこらえていな状態の時に、つまり「呼吸の間隙」に押さえると、相手は息を吸ったり吐いたりはできる状態なので、押してもそれが固定されないので、弾力が出てくるのです。

ところが、相手が息を止めてしまうと、相手は動かない。

そのへんのことは、先回やった「腹部操法」でよく分かったと思いますが、相手が息を吸ってそのまま止めた状態の時は、指が中に入っていかない。また、その逆に息を吐き切ってしまった時に押しても、押したきりになって、そのあとに盛り上がりがうまく起こってこない。

腹部でやると、そういうことが判りやすいですが、そのことは、背中の操法の時も、手や脚の操法の時も、全く同じで、相手の<呼吸>する動きをうまく活用できないと、<リズムに乗って操法する>ことが出来ないのです。

 

相手は、押さえられた時に、そこが悪い処であった場合は、息をフッと止めるのです。急所の処を押さえられると、必ず息を止める。本人は意識して止めたのではない。それは体が持っている<本能>によるといえるが、余分にいじられて悪くなるような処を押されると、そこを守ろうとして息を止めてしまうのです。

体というのは、そういう時には、非常に敏感に反応し、自分を護ろうとします。だから気楽に押さえていって、相手がフッと息を止めた処で、「おやッ」と思えば、そこが急所なのです。

そうしたら、そこを改めて操法すればいい。

とにかく、相手の<呼吸>に乗っかって操法するということは、<操法による害>というものを防ぐことになるし、異常の処が明らかになってくるし、相手の弾力を誘引することやリズムを作り出すこともできることになる。

人間の生きているということは、呼吸しているということです。その呼吸を利用するとしないとでは、操法する人も、それを受ける人も疲れ方がずっと違ってくる。また、操法に対応して起こる体の動き方も違ってくる。

だから、呼吸を使うという立場に立つと、呼吸くらい便利なものはない。

 

人間には、固有の動きがあります。みな同じように動いている筈なのに、一人ひとり何故違うのかといえば、その動きのリズムがその人固有で独特のものだからです。

そのリズムを作っているのが呼吸です。

だから、相手のリズムに乗って操法すれば、スムーズにいく。

 

以前、「掌の操法」をやりました。どなたもそれが出来ないまま今日に至っているのですが、それは、<相手のリズムに乗る>ということが身についていないからです。

操法する場合は、相手が力を入れる時には弛め、抜く時には押さえる、というようになっていることが必要ですが、その時に相手の呼吸を使うという立場を得ていないと、それが判らないのです。

お腹の場合はすぐ判るのですが、背骨になるとつい忘れてしまう。手や脚になると注意を凝らしても判らない ということになる。けれども、いつも呼吸を感じているようにならないと操法は行えないのです。

背骨を押さえる時も、相手の呼吸の幅を知って押さえなければいけない。ある時は、相手に呼吸をさせないように押さえるために、息を吸いこむごとに押さえるということも出来なくてはいけない。そうやって押さえている時には、相手に弾力があるのです。そうやって相手の弾力を誘導していく。また、吐いているところ、吐いているところを押さえていって、相手の動きの幅を少なくしていって、それによってこちらの力を強く伝えるというような押さえ方も出来なくてはならない。「呼吸の間隙」に押さえることを覚えるだけでなく、そういう押さえ方も一緒に覚えていく。

相手に強い力を与える時は、吸いこんだ頂点で押さえていくようにしないと、強く出来ない。骨を動かす、といった場合には強い力が必要になります。

ただし、強い力を与えるのは目的とする一か所だけで、他の場所にまでその強い力を与えてはいけない。他の処が壊れてしまうからです。

そういう場合には、他の場所には息を吸わせておいてショックすればいい。

呼吸というのは、からだ全体で吸ったり吐いたりしていると考えられているが、実際にはどこか一か所に力を入れてしまっていると、そこだけは呼吸が出来ていない。

だから肩が凝って、そこだけ息が吐けないというようなものがあれば、そのこと自体を操法に利用することだってできる。

つまり、からだのある部分にそういう凝りといったものを作っておけば、そこだけは息が吐けない状態を作り出せるということです。そこだけが全体の呼吸から外れた別個のものとして扱えるのです。

このように、ある部分だけ息を吐かせ、他の部分は息を吸わせるということも、その逆に、ある部分だけ吸わせて、他の部分は吐かせる、ということも、架空の事ではなく、実際に可能だし、そういうことはいくらでもあることなのです。

 

ですから、必要のないところは吸わせておいて相手に防御をさせるとか、相手の防御する力である呼吸というものを、そのまま使うように、呼吸の頂点だけを押さえていくようにすれば、相手を息を吐かずに吸いこむ、吸いこむという状態にできる。

 

(回復力の訓練としての操法

そうやって、相手が普段吸いこまない処に吸いこむことが出来るようにすることは、相手の体力を呼び起こす上で非常に重要な方法であります。回復力の弱いところというのは、息が通らないのです。そこへ息を吸いこませ、吸いこませするように息を集めていきますと、急速に回復が行われるのです。

吸う息、吸う息で押さえる、という「吸う息の訓練」とでも言うべきことをやっていきますと、体の回復する力というものが、しないときよりも格段にあがってきます。

私は操法というものを「回復力の訓練」というように考えていますから、相手が息を「吸いこむごとの操法」というのを非常に大事にしています。

 

うつ伏せの相手の腰を押さえたとして、押さえた力をはね返すような力があれば回復力もあるといえるが、弱ってくるとそれが無い。操法は、そうした弱った回復力、反発力を引き出してくることがその最初の目標でして、それが出てこないうちは操法の効果も発揮できないのです。

相手の体力を呼び起こす方法として、息を吸い切った時に押さえていって、あいてのリズムに乗り、次には回復のリズムにそれを乗せていくのです。

ですから必ずしも或る急所を押さえなければ体は変わらないというのではなくて、どこを押さえたにしても、弾力が誘導され、弾力のある体になっていけば回復してくるのです。その上で急所の利用が活きてくる。

弾力のあるように急所を押さえるということ自体が、操法としての急所でもあるのです。

「呼吸の間隙」を押さえるというのは、相手を死んだ状態にしてしまって、こちらの都合でやることになるけれど、「呼吸の吸ってくるところを押さえる」というのは、生きている相手の力を誘導し、その力を誘い出す訓練としての方法になるのです。

操法の目標が<体力の喚起>にある以上、そうした方法を覚えなければなりません、

体力があり弾力がある人には、「呼吸の間隙」に相手の弾力を殺して押さえることも必要ではあるけれども、体力のない人には、弾力のあるように誘い出して押さえることはもっと重要なことになります。

 

練習 呼吸で操法をつないでいく

今日は、相手の弾力を誘導する方法を練習したいと思います。

お腹でやるのが判りやすいのですが、今日は背中でそれをやってみたい。

胸椎九番から十二番までは割に動きが大きいのです。特に十一番と十二番は肋骨が繋がっていないために動きの巾が大きいのです。逆に言えば、そこは構造的には弱いところです。だからガンとやれば狂ってしまう。そういう弱いところというのは、本能的に息を吸いこみやすいのです。壊されまいとして、ちょっと押されると、息を吸いこむというよりは止めてしまう。

弱いところを練習に使うのは物騒なことですが、弱いところの為に、すぐに息を吸って止める。それが非常に速く行われるのです。

そのため、息を吸って弾力あるように押さえられる人と、そうでない人が、つまり上手と下手の違いが非常にはっきりする。

大抵は止めてしまうのです。

吸った頭を押さえると、相手はなお吸って来ます。それでもその吸ったところ、吸ったところを押さえることが出来るようになれば、呼吸の頭を押さえたと言えるし、それが出来るようになれば、今度は相手のリズムに乗って操法するということが出来るようになる。

けれども、そうやって「吸った頭」だけを押さえているのでは、相手に変化は起きないのです。そこで、そうやって押さえることが出来るようになった上で、今度は「吐いた頭」も押さえられるようにならなければ技術にはならないのです。

吸った頭を<押さえ、押さえ>しながら、「吐いた頭」をちょっと押さえると、そこで変化が起こってくる。

 

まあ今日は、「吸った頭」を押さえることを練習したい。

胸椎十一番を対象にして、それを続けて三回から五回押さえる。これまでだと、それで相手に弾力があるからいいとか、弾力がないから悪いとか見ていただけですが、今日の練習では、自分のやる技術としてそれを得ようというわけです。だから弾力の有無を相手のせいには出来ません。弾力のない人にも、弾力があるように誘導していかなければならない。もちろん弾力のある人にはあるように押さえる。

すでに強張ってしまっていて弾力のない人に対して、<吸いこんだ頭、吸いこんだ頭>というように押さえていきながら、相手の吸いこむ状態を続けさせる。

ごく下手な人がやると、押さえてもなお自然に相手は吸いこんでいる。それは相手の呼吸の動きに乗っかっているだけで、ちょうど触手療法をしている人と同じで、技術として押していないのです。

もう少し上手になった人が押しているのを見ると、相手の弾力が無くなってしまうような押し方をしている。プロとしてそうやって押している人は、相手が信頼してまかせきっているので、ちょっと押されるとひとりでに吐いてしまうのです。相手が警戒しているうちは押しても吸って来ますが、信頼されたプロには、意外と弾力を持たせる吸わせ方が出来なくなってくる。

操法というのは、だから信頼され過ぎても難しいし、信頼されなくても難しいのです。

 

今やっている練習の時間というのは、そういう点でやるのが一番難しいのです。自分より上手に押さえられると癪に障る。そうすると押されたところが痛くなる。あの人に押さえられたら痛くなったという中には、体が実際に感じているもの以外に、多分に潜在意識的な問題も絡んでいる。あるいは自分より下手だとことさらに強く感じて、下手にやられたという感じが、体にかえってその部分だけの息を止めたりなどして、異常を起こしてくる。ですから練習で異常を起こしたという人の八割はそういう潜在意識的な問題が絡んできている。そうして、呼吸が外れがちになる。

ですから練習するということは一番難しいのです。けれども、その一番難しいところで練習しておけば、実際の場面で、無抵抗 な相手に対しては極めて上手に行えるようになる。

みなさんが上手になって、油断して押さえて相手を壊すようになったら、一応この練習を行わないといけない。

まず、胸椎十一番からやって下さい。

指を当てなくて腕橈骨で結構です。それが上手くいった人は九番を指で押さえる。そうして同じように弾力が出せたら、脚の上、股の三か所を押さえる。それから腕を押さえる。出来るだけ一番強張った処をつかまえて、そこが弾力あるように押せるかどうか、強張っているものを弛め得るかどうか、それを練習したいと思います。

ではどうぞ練習して頂きます。

 

(愛情を持って気楽に)

息を吸いこんでいる時に押さえるということは難しいことで、相手は瞬間にフッと息を止めてしまいます。それを止めさせない押さえ方というのは、<親しい人が愛情を持って気楽に押さえている>時の状態なのです。

触手療法をやっている人達が、愛情を込めて手を当てている時は、相手は自然の呼吸のままで任せています。そういうことが最初に要るのです。そうでない限り、もう相手の息は不自然になるのです。

ここでやるのは、人を操法するなんていうことを全然知らない人が、愛情を持って触ったときとか、抱きしめたとかいうような、相手の呼吸が自然に行われている状態で触るということを練習するのです。そうして相手に息を一定量吸わせておいて、呼吸が行われている段階で操法をやろうというのです。

 

相手が息を吐いたからといって、それは吐き切ったわけではない。吐いても吸った空気は体に残っているのです。その逆に、吸ったとしても漏らしているものはあるのです。

たとえば、ある場所に力を込めて息をつめている場合でも、息をつめきりには出来ないために、ほかの場所では呼吸して弛めているのです。

全身を硬くしている場合は、すぐに息を吐いてしまうほかない。

お腹で息をつめていれば、胸で呼吸している。そうやって、どこかで逃げているのです。

 

(残気の量を増やしていく)

息を吸わせて、その吸った空気の量を一定程度なくさないようにして、吸っている時、吐いている時のそれぞれにいろいろなショックを与えながら、呼吸を止めさせないで、その空気の量をだんだん増やしていく、というのが今日の練習の目標なのです。つまり、生理的に言うと、普通の呼吸をさせながら<残気の量を増やしていく>と言ったらいいでしょうか。

そういうことが出来ると、かなり過激だと思われるような操法をやったとしても、相手は衝撃を感じないし、異常も起こさない。与えた力が相手にそのままぶつからないで、和らげられるのです。<残気>がショック・アブソーバーのような働きをする。そしてショック・アブソーバーに吸収された衝撃が、徐々に相手の体に影響を及ぼしていくことになる。

この状態が、相手の体の弾力を増やすことに役に立つのです。

しかしこの要領は難しいですから、やはりもう一度<お腹>でやってみましょう。

 

(お腹で練習)

お腹でやると、吸う、吐くがよく判ります。肋骨の下に指を入れます。当然吐かなくては入れられませんから、吐いていくときに指を入れる。これで後、息を吸わせればいい。これで普通に呼吸していればいい。つまり普通に呼吸しているということは、相手が触わられているということに早めに慣れてしまって、特別な感じではなくなっているのです。ところがよく見ると、普通の呼吸よりも、この方が深く呼吸しているのです。触っているために普通よりも呼吸が深く大きく行われている。触って相手が大きく呼吸しているようだったならば、触り方が上手なのです。これがそれよりなお強く押さえても、同じように呼吸が深く大きく行われているようならば、非常に上手で信頼されている。息を止めてしまうようなら、下手なのです。

ただ、このままでは操法にならない。当てた指を動かして、肋骨を挙げなければならない。あげる時に、相手はどうしても息を止めてしまうのです。そこで、左手を使って、息を止めるはずの時に、<首を持ちあげる>と、そのまま吸ってくる。<首>でなく<頭>を持ち上げてしまうと、息を止めてしまいます。

そうやって普通の呼吸を続ける。

やり方は、まずみぞおちに右手を当てます。当て方は、相手の吐いている時に、その吐く速度で押さえていけば抵抗が起こらない。そしてそれよりも強く押さえると、相手は息を吸いこんで止める。そうやって<抵抗をつくる>。

この最初の力をそのままでちょっと保てば、相手は自然に押し返してくる。

吸いこんでくるそれに対して、押し返さないで一定の圧力を加えておくと、呼吸が深くなってくる。

一定の圧を加えないで、吸いこんできたら離し、吐いたら押さえるというようにしていると、呼吸は浅くなって、しまいには息を止めてしまう。

一定の圧を増やさず、減らさずに保つと、呼吸はだんだん深く大きく行われる。

そうなったら、吸った時に、首の下に手を入れて、ちょっと持ち上げる。

持ち上げた時に、右手の位置をちょっと変える。その変えたことが、相手の意識には分からないで、首を触っている左手に意識が向いていれば、呼吸は普通のまま変わらない。

今度は、首ではなく、肩とか手とかいった全然お腹と縁のないところを左手で押さえてみて、相手の意識がその押さえた肩や手に向いている限り、お腹に当てた右手の場所の変化は起きなくて、呼吸も変化しない。

そのように押さえることが出来れば、相手の<呼吸を止めないで押さえる>ということが出来る。

では練習して下さい。

 

「呼吸の間隙」に押さえるというのは、相手の抵抗を封じてしまう。それは抵抗を邪魔なものと考えていることと同じであり、生きている者に対する態度ではない。われわれの技術は、相手の抵抗を封じ切っていくのではなく、相手に抵抗する余地を残させておいて、そこでいろいろ抵抗を試みるようにさせると、その抵抗すること自体によって相手の体に力が出てくるのです。

相手の動く余地をそこに設ける、というのが生き物の力を働かせるうえには有利で、われわれは抵抗を邪魔にしたままでは操法はできないのです。その抵抗を活かして使う。相手の逆らっているものを、逆らっているように力としていく。病気があっても、病気を健康法にしていく。相手の抵抗するものをみんな吸収していくようにしなければならないのです。

呼吸したまま押さえるという状態は、ちょうど力のない赤ん坊が触わってきたときにわれわれがしている呼吸の状態と同じで、息をとめたりはしません。あるいは、押している相手を馬鹿にしているようなときも、自分の息を止めたりはしません。

そういう全くの技術のない、あるいはやろうという意志もない人が触っているのと同じように触れるようになるために、われわれは技術を会得しようとするのです。

そういうことの意味をまず憶えていただきたいのです。

 

抵抗できない隙に、サッとつけ入っていくのも技術には相違ない。上手な技術ではあります。けれども、<相手の抵抗を活かす>という立場から言えば、それは技術の一つではあっても、自然なものではない。

赤ん坊や何でもない人が触った時には、触られたひとは呼吸を変えない、普通の呼吸のままである。そういうところまで一旦技術を戻していく、そういうことをしないと本当の意味で技術を使うということは出来ないのです。

 

<呼吸の頭を押さえる>ということの意味がそこにあります。相手の抵抗を操法の一つとして使っていく。そして相手は、抵抗しながら生理的な働きが高まっていく。

 

以前、調律点をショックする時は、相手が吸った間隙を押さえるとその反応が大きくなるという話をしましたが、それを活かすためにも、<吸った頭、吸った頭>に押さえていく。

それに対して、<間隙、間隙>と押さえられた人というのは、操法に対して敏感になりながら、だんだん<気>が弱くなってくるのです。そして体の動きがだんだんおとなしくなってきます。

ちょうど子どもを教育する場合に、<間隙、間隙>をつかまえて叱言を言っていると、子どもはよく判るけれども、活き活きとしたところがなくなってくる、そんな感じになります。

ところが頭の悪いお母さんが、出鱈目にワイワイ叱言を言いながら、いざとなると真っ赤になってその子を庇う。そういうようなお母さんの子供には<勢い>がある。

それは、そのお母さんの叱言が、吸ったところ、吸ったところを押さえるというのと同じようになっているからなのです。

 

相手の<全体の力を活発にする>為には、息を吸っている時に操法するということが大事になるわけです。

それが技術として使えるようになる為には、<間隙>も自由に押さえ得、そのほかの難しい技術も会得した後でないと、技術を全く知らない人と同じように使うということが出来ないのです。

そういった<何でもないような技術>を技術として使う、ということが一番大事なことなのです。

愉気の場合は、触っても離しても効果は変わらない。ですが、触ってなお相手の呼吸を深く誘導できようになると、さらにその効果は大きくなる。

相手の呼吸を止めさせるほどの力を使って、なお呼吸を止めないでより深くさせる為の方法が、この<呼吸の頭、呼吸の頭>を押さえていくということなのです。

まあこれを表現するのは難しくて、説明が不十分だとは思いますが、要するにそういうことを技術として使う必要があるということをお伝えしたかったわけです。

 

このことは、難しい操法をする場合の前提となる問題ですが、そのことの他に、もう一つ<心の中の働き>を操法の技術として使っていく場合の前提となる問題でもあります。

 

「力を生(なま)のまま使わない」

今言った<呼吸の頭>を押さえる方法というのは、相手の<体の力>を高めるための主要な問題でしたが、そうやって押さえるというのは、それは一見すると下手な人が何気なくやっているのと同じように見える。下手で何気なしにするには技術など要らないのですが、上手になって、十分に気を配り抜いて、相手の一挙手一投足も見逃さないように注意が行き届く様な段階になると、そのことでかえって相手を封じてしまって、相手には無闇に注意を向けられているような感じを与えたり、普段の動作が出来なくなって強張ってしまう、というようになってしまう。

そうならないために、<何気なく操法する>ということを技術として使っていくことが必要になる。それが出来れば、使う技術が活きてくるのです。「呼吸の間隙」とか、「注意を四方八方に配る」ということが、害なく効果が上がるように使えるようになる。

それが出来ないと、相手の心がストップしてしまい、ノーマルに操法の方向に向いてこなくなってしまう。

だから普段からこのことを<嗜み(たしなみ)>として覚えていただきたい。

そうして、相手の本能的に抵抗するところも知っていなくてはならないし、その抵抗する度合いも知っていなくてはならないし、それらを知ることで相手に対する刺戟量というものが判ってくるのです。

そうして相手の中に抵抗する余地を与えながら操法を進めていく。西洋流のやり方ですと、油断なく隙なく全部がんじがらめにしてしまうのですけれども、それだけでは相手の力を呼び起こすには不十分です。もっと相手自身の動ける余地のあるように操法していく。それが相手を丈夫にするには重要なことです。

 

少し難しいとは思いますが、今日の練習はそういう目的でして頂いたのですが、しかしまだ皆さんの注意が<生(なま)>のまま出ている。力が生のまま出ている。

時に<間を抜く>というような操法も必要になります。機敏に隙なくサッと動ける人だけが必ずしも上手になるわけではないのです。

今の練習では、適当に間の抜けた人達は非常に上手に行っています。ただそれは無意識にそうやっているだけなので、そのままでは褒められませんが、隙なく機敏に動けるようになって、間を抜くことが必要な時に意識して間が抜けるように、せっせと技術を勉強していけば、ちょうど適当な処がつかめるようになるだろうと思います。

 

わたしは、操法ではそういうふうに間を抜くことをこの二十年間ズーとやってきているんですが、教えるという面ではまだそれを会得出来ていないんです。だから弟子のやっていることを、その隙ばかり見つけて、力をフルに発揮して「下手だ、下手だ」と睨みつけている。ですからみんな萎縮が早く起こってくる。それは私の教え方が下手なのです。

けれどもこれは私の習癖で、長い間ジーっと人のアラばかり見る生活を続けてきて、アラだけがさっと映る体癖を持っているためで、教えることについてはまだ会得出来ていないのです。

 

昭和十七年のことですが、私は操法をやっていて、お腹の中の子供の男と女とを間違えたのです。それまでは絶対に間違えたことはなかった。それがその時間違えた。そうしたら、全ての自信を持っているものがみんな崩れてしまって、何も出来なくなってしまった。それで私は操法をやめるという報告を出して、本当にやめるつもりでいました。

そうしたらみんな反対して、その中で浜田さんという人が、「こういうように大勢の人に頼られたらもう個人ではない、公器だ。それが個人の勝手で動いては困る。自信があろうが無かろうが、あなたを頼っている人達の自信を壊すようなことをしないでもらわないと困る。あなたの自信が壊れてもよい。我々の自信が壊れるようなことにしないで貰おう。」というように言いました。

けれども、まだその時はその意味に気がつかなかったのですが、それで「じゃあ後継ぎをつくればよかろう。つくってからやめよう。」というのがこの講習を始めた最初なのです。

そうしているうちに戦争がひどくなって、大勢の子供を連れて新潟へ疎開しました。ところが村では米を配給しないという。それで操法しようと思いました。操法するには村の情勢、どんな暮らしをしているかを知っていないと出来ないから、村をぶらぶら歩きました。そうしたら、屋根から落っこちた人がありました。落っこちて気絶して、ワイワイ騒いでいた。そこで「こうやるんだ、憶えておけ」と言って、ガっと脳活起神法をやったらすぐに生きました。「骨が折れているかどうか調べてやるから後で村へ来い」と言って帰りましたら、その人にくっついて「おらも診てくれ」と言う人が大勢くっついて参りました。みんな金を持ってきたので「金など要らん、米を持ってこい」と言いましたら、それからみんなで米を運んでくれて、東京へ帰る時には米も炭も二百何俵余るくらいでした。ですから操法はよかったのですが、その時を通して、自信というものは操法する者が持つものではなくて、受ける人が持つものだということに気がつきまして、浜田さんが「俺たちの自信を壊すな」と言った意味も急に判ってきた。

そうして東京に帰る日になって腰の曲がったおばあさんが来て、「どうしてもなおしてくれ」と言う。もう帰るんだからと言って断ったが、「やってくれるまでは帰らない」と言って座り込んでしまった。仕様がないから「ばあさん、うつ伏せになれや」と言って、みてやろうと背中を触ったら、とたんに「ありがとうございます」と言って、ピンと腰が伸びてしまった。

それからは、相手の人達の自信というものを中心に操法をするということを始めました。俺が自信を持たなくてもよい、操法する相手の力を呼び起こすことが大切tなんだ、というふうに考え方の転換が行われて、戦後はそういう立場で操法を致しました。

技術を尽くして一生懸命操法するというよりは、相手の中の動きを高めて、相手の力で治っていくようにするというように方向が変わりました。そうして自信を持たないままで操法をずーっと続けることが出来るようになりました。

これは自信を持って、自分の力をフルに使ってやるのとちがって、楽です。そして相手の力で経過する読みも楽に行える。

自分の技術をゼロとして計算するということが平気になってきている。自信でやっている時は、どんなことをやっても、ゼロとは思いたくないし、自分の努力の報酬である、自分の熱心の反映であると思いたい。それこそ、相手の為に命を削ってもいいというぐらいな真剣な気持ちで、死ぬ人があったら代わってやろうと思うくらいな一生懸命な心持でやっておりました。

今は、そういうことが可笑しくて、「一人で気張っている。そうして自分の持っている実力も発揮出来なくなっている」とうように、いつの間にか見るようになってなってしまった。

 

操法の行き着く一点>

そういう転換が、操法において「呼吸の頭を押さえる」ということになってきたのですが、最近は、私の考えている中では、これが<操法の行き着く一点>だと確信しています。

 

急所をピッタリ押えられないうちに、こういうことを言うのは本当は乱暴なことです。ですから、みなさんが二十年ぐらい経ってからこういう話をすべきなのです。押さえられないうちから<外す>なんてことを言ったら、初めから外れている方がいいように思ってしまう。けれども、私が教え方が下手なために、つい早く<種明かし>をしてしまうのです。

しかも講習というシステムの中でやらないといけない。特に高等講習は、今後二十年ほど技術を使っていって、初めて要領を得て、身についてくることだと思うのですが、それを十年間で要領を得られるように出来、さらに三年で要領が得られるようにできれば、この講習としては成功だと言えると思うのです。

どうぞ普段の操法を、そういう心構えで行い、それを充分に活かしてお使い願いたいと思います。(終)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「整体操法高等講座」を読む(3)相手の力の使い方(1)

口述記録の冊子の作成というのは、担当された方が、野口氏の講座を、一回一回テープに録音し、それを再生して、テープに耳をそばだてながら、一言一言聞き洩らさないように丹念に文字に落としていく作業です。やったことのある人ならすぐに判る事と思いますが、一行書き起こすために、何度も何度も引き返し再生し直しながら書いていく為に、それこそ語られた時間の何倍もの時間を必要とする大変骨の折れる作業です。そして、一通り出来上がった草稿を見直し、それを野口氏に推敲してもらう。必要があれば新たに言葉を書き加え、聞き取れなかった部分を野口氏に尋ね、用語の漢字が分からない処を辞書で調べたりして、ようやく完成原稿が出来上がる。それを最終的に野口氏に確認したうえで、やっと必要部数の印刷に回します。今回のような比較的簡易な冊子の場合は、ホッチキスで止めて製本するところまでが、担当者の作業だったと思われますので、この作業に従事された方のご努力や大変さには、本当に頭の下がる思いがします。そうした有難い思いを抱きつつ、以下に要約を続けることにします。

 

整体操法高等講座3」(1967.4.25)

中等講座の終わりの時に、右の力と左の力を一つに使うことを練習しました。それは一方の手で押さえて、その力を相手に逃げさせる。そうしてその逃げ道を他の手で閉ざすというやり方でした。たとえば、腰を押さえる場合にも、右で腰を押さえてこれを向こうへ逃がす。逃がしたのを左で受け止め、押さえた力と受け止める力とが一つになる位置を作り出す。それが中等技術でした。ですから力を逃がすとか、逃げ道をふさぐとかいう意味はお分かりだと思いますが、それだけではまだ自分の力でやっているのです。

高等技術ではそれにもう一つ付け加えるものがある。それが付け加わらないと本当の力になっていかない。

それは何かと言うと<相手の力>なのです。

<相手の力>というのは、<相手の呼吸>なのです。それを使わないと、逃げ道をふさいで押さえても、本当の力にならない。

うつ伏せで相手の背骨を押すという場合でも、そこに弾力が出てきて、押せばいくらでも動く。下手なうちは、相手の呼吸を閊えていないので、反撥を引き出せないために板の上を押さえたようにコツコツになる。

相手が息を吸いこんでくるところ、吸いこんでくるところというふうに押さえると、弾力が出てくる。

吐いている時に押さえると、全然反撥してこない。押さえられて苦しくなって、息をつめてしまうが、それでは相手は苦しいだけでなく、萎縮してしまう。

だから、右と左の力を拮抗させて押さえるだけではだめで、その時に相手の息を吸いこませておいて、そこで押さえてしまう。そうすれば、押しても放しても、それが弾力となり、反撥する力となる。

息を吐いたときは、こちらの力が小さくても、相手は強く感じるのです。その逆に、息を吸っている時には、弱く感じるのです。

相手の力を使う為には、その前提として、こちらの<型>か決まっていないといけない。それと同時に相手の<呼吸>が分からないといけない。

<呼吸>を刺戟として使う場合には、「吸いこみ切って、吐こうとする頭」をフッと押さえる。そうすると、相手はそこで吐けなくなる。相手が吐こうとする寸前にピタッと押さえるのです。吸い切った瞬間に押さえると、相手は吐こうとしても吐けなくなる。押さえている間、相手はそれがたとえ短くても長く感じるのです。苦しいのを我慢させられるから長く感じる。長く感じるということは、押さえられている力を強く感じることと同じです。そうなったら、逃げる方向がハッキリしてきます。力の集まる方向がハッキリしてくる。

 

こちらの押さえる速度が、相手の吐く息の速度よりも速い場合には、相手は息を止めてしまう、そしてこらえる。初等技術の場合は、吐く息で押さえることを練習しました。これは触って相手の体を調べるには都合がいいのですが、操法の効果から言うと、息を吐いた留守にギュウギュウ押さえても、その反撥は望めない。反撥する力を使っていくためには、相手に息を吸いこませたところを押さえないと役に立たない。吸いこんだ時に息を止めさせないように押さえていきますと、割に強い力を使ってもそれがこたえない。

こちらの力と相手の吸う息の力が同じ時には、その力はゼロになる。ギュッと押さえても相手が息を吸いこんだら同じなのです。ところが高等技術としては、そういったような相手の呼吸をいろいろと使うことよりは、「相手が息を吸いこんで、吐こうとする頭に、比較的速い力を加える」のです。そうすると息を止めてしまうのです。吐く前で止めてしまうのです。相手の吸って吐こうとする息よりも速い速度で押さえてしまう。そうするとそこで止まる。止めて操法を進める。

ですから、お腹の操法でも、背中と同じように、割に速い力を使う。速い力で、吸う頭、吐こうとする間際を押さえてしまって、お腹の中に一杯空気を吸わせたままで止めさせてしまう。それが高等技術の第一歩であります。

中等技術では、お腹の力と押し合うとか、右手と左手の力を押し合うとかいう二つの事だけでしたが、高等技術ではそれに<呼吸>を加えて、三つの力を一緒にして使っていく。それが大事でありまして、その三つの力を使いこなさないと、操法というものがなかなかスムーズに行えないのであります。

相手の<呼吸>を使わないと、いくら上手になっても、その操法が相手の中に入っていかない。こちらから加える力だけでは、加えた力がみんな逃げられてしまって、加えた力はうまく進まない。

 

たとえば、坐って首を押さえるとします。こうやって相手の吐く息にそって押さえますと、相手が逃げてしまいます。そうなるといくら力を加えても駄目である。ところが、吸手の息をつめておくと逃げない。放すと返ってくる。ご覧になったらわかりますね。ちょうど体の前にベッドを立てかけてしまうようなものなのです。そのベッドを作るのは、相手が吸いこむごとにチョッ、テョッとかかるこの力なのです。吸いこむときにこうやると、息を止めて動かないのです。それから押せば、いくら押しても大丈夫なのです。決して逃げない。

ただ、これはやりいい、やりにくいという問題だけではなくて、そういうように使わないと相手の体の力が使えないのです。

 

そこで今日は、それを「腹部操法」でやろうと思います。

「腹部操法」での急所は腹部の「側縁」であります。そのなかでも「両肋骨の内側」が一番の急所でありまして、そこを押さえることが第一番。

第二番は、「臍の周囲」。腹部の「第一」調律点から「第四」調律点までは、初等、中等において問題にするもので、それらが出来るようになったら、一応頭の中から抜いておいて、「腹部の側縁」と「臍の周囲」に焦点を集めて操法するのです。

「禁点」は、実は操法の急所なのです。ここは水月といって、ここを突くと死ぬ場所なのです。柔道では水月の受け身の術というのがある。それは、突いてきた時に息を吸いこんで前に突き出せば、全然こたえないのです。相手が突いてきた時にハッと身を引くと、ガクンと入って気絶してしまう。実際問題になると、すごい顔をして突いてこられると、思わず身を引いてしまう。そこで入って、目を回してしまうのです。私も二、三回やられてからは、いくらやられても全然平気になりましたけれど、息を吸いこんで突き出せば入って来ない。つまり空気がショックを防ぐ働きをする。

そんなことで、息を吸いこむということは、いろんなことで予防的な働きになる。

操法の際も、相手に息を吸いこませて押さえていくということが出来るようになれば、この鳩尾をギュウギュウ押しても、余り害はなくて、押さえた効果だけが出てくる。

極端な言い方をすれば、お腹が悪いという場合に、どこが悪いか分からなくても、この鳩尾をジッと押さえていると良くなってくる。良くなってくるにしたがって、異常感がハッキリしてくる。お腹のどこが悪くても、その痛みが激しい時は鳩尾に痛みを感じる。盲腸炎の時もここに痛みを感じる。同時に臍の周りにも痛みを感じる。

そこでまず、鳩尾を押さえる、それから臍の周りを押さえる。そして異常感がハッキリしてきたらその悪い処を押さえるという順序になる。

私は、相手のお腹のどこが悪くても、まず鳩尾、禁点をジッと押さえる。禁点そのものを押さえておりますと、悪いうちは指が入らない。息を吸っているのに弾力がない。それが息を吸って一緒に弾力が出てくると、もう治り出してくる。弾力が出てきて、ズブッと指が入るようになったら、もう禁点は御用無し。

こんどは、臍の周りの問題になる。 

臍の周りは、息を吸いこませて押さえていると硬いが、息を吸いこませているのにズブッと指が入る処がその悪い処で、そこにジッと手を当てて押さえる。そうすると悪い処に<感じ>が起こってくる。そうなってから、その部分に愉気すればよい。

操法は、相手の<感じ>に従って進めていく。ただ相手についていく行くだけではなく、そうと決まったら、こちらで相手の感覚を引っ張っていく。そんなようなやりかたがありますが、まず鳩尾を押さえる。ズブッとへこんだら、それがもう次に移る時なのです。ですから、ズブッと指が入るのを待つように押さえる。力を入れすぎない。といって力が足りないのでは困る。相手に息を一杯に吸わせ、その吸った相手の力とここで押し合っている。

息を吸いこんだのにズブッと指が入った時がもう終えた時であり、次に移る時であり、その時と相手が楽になったという時とは、いつも一致するのです。

何処が悪くても構わない。みんな鳩尾でこらえているのです。

鳩尾に息をつめてこらえていると、一応<苦しい感じ>に鈍くなるのです。胃痙攣でも、心悸亢進でも、喘息でも、みんな鳩尾に力を入れてこらえているのです。

そこをやわらげるのですから、どんな苦しい場合でもそれがとれるわけですが、鳩尾に力をいくら入れても、自分だけでは入りきらないのです。そこにほかからの力が加わると、自分ももっと力を集めることが出来るようになって、それで一層早く楽になるのです。そうしているうちに、ズブッとへこむ。へこむというか、指がスッと入る。入ったら、入れない。そこでやめて、臍のまわりに移る。

これが操法の進め方なのですが、鳩尾が硬いままにそこだけいくら押さえてても、時間がかかって大変なので、そういう変化が早く起こるようにする為に、肋骨の縁をきちんと押さえるということが必要になる。

 

もう一つ重要なことは、お腹を押さえながら、首に当てた左の手で、その押さえる度合いを調べていくということです。中等でやりましたが、左手を頸椎の一番、二番、三番に当てて、腕橈骨を返しながら首を持ち上げる。持ち上げると、相手の息はここにこもってきます。ですからこもる前にちょっと押さえておいて持ち上げる。上げると一緒に押さえる。そうすると相手が息を吸いこんで吐く前に、相手の鳩尾を押さえられる。それで放せば、すぐに相手は吐くのです。

首を持ち上げると鳩尾の力が抜けます。抜けたらそのまま押さえてしまう。そうすると首を放したときに下りが遅くなる。そのさがりの遅いのを、途中で止めるのです。鳩尾に力の入る処で止める。放すと下がる。そうして上げた時に頸椎を調べます。

三番でこらえている場合は、左の肋骨の下に指を入れるのです。こう押さえていきます。相手は息を止めますから、止めないように首を持ちげて息を吐かせる。押さえる。首を弛めてそこから吐いていくようだったら、まだ余裕があったわけです。ちょっと深く押さえると息を止めてしまうのです。そうして首を弛めてもなかなか降りてこない。なかなか降りてこないところまで押さえて、放していく。そうしてもう一回頭がこう下がっている時に、ギュウッと指を押していって、次の持ち上げる時に、右手を放して次の場所へ移す。

次の場所へ行ったら、ギュウッと押さえて、こらえて、頭が下りないところまで来て、それから少し弛めて吐かせて、また次へ移るというようにして肋骨の下に指を入れていくのです。

これが最初の問題。

今から皆さんにやってもらいましょう。

難しいのは、「度合いを見る」ということなのですが、今日の練習ではそれは抜いて、そういうものだと憶えておいて頂くだけで結構です。

息を吐いたまま押さえて、吸いこんだ時にもう一回押さえて放す。右手の方は放さない。そうしたら相手の首の落ちるのが止まるだろうか、それを確かめて、止めたならば放して次に移す。止まるところで押さえるということをやりながら、少なくとも三か所か四か所押さえて肋骨の下に指を入れていくということを練習したいと思います。

 

今やったのは、「膏肓(こうこう)に作用する押さえ方」なのです。放すたびに呼吸が深くなっていくかどうかということが非常に大事なことで、操法が上手くいくと、一回ごとに息が深くなっていくのです。

一回ごとに息が深くなっていくのというのを見る、ということ大事で、弱い人は鳩尾まで、もっと弱っている人は胸までしか息が入らない。第二調律点まで入ればまだいい方で、臍までくればいい方。第三調律点まで来るのが正常です。そうやって確かめる。

指を放したときに、呼吸が押さえていた処より下まで来るような人でないと、それは弱っているのです。そうやって確認すれば、相手の異常がすらすら治っていくかどうかという、相手の体力の状態がわかる。では、二人組になって練習して下さい。

それから私、説明するのを忘れていましたが、肋骨の脇に指を当てまして、首の位置を動かしていきますと、力の行く角度が変わってきます。そうしながら、レーダーを出しまして<気>を通していくのです。そうしますと、悪い処へいくと<気>が通らない処がある。そうしたら直接そこを押さえます。そういうようにしていくと、集注するところが分かりやすい。

私は順々に、そうやって押さえているのですが、傍で見ている人には、私の指が動いていない様にしか見えない。しかし、受けている人には、私が押さえていくその都度に、みな違った処を押されているように感じているのです。もちろん、私にもみな違った感じがしています。

そうやって相手がこらえるごと、息が止まっている毎に押さえていく。そうして<気>の行きにくい処、一番抵抗のおこる処を、今度は直接押さえる。ですから、順々に押さえては放す、というのではなくて、押さえてグルっと<気>を通して、それから悪い処を直接押さえる。

私はそれを無意識にやっておりますが、その方が便利です。便利ですが難しいですから、<気>の通るのが判らない人は、順々に押さえていって調べた方がよい。けれども、念のためにグルっと<気>を通すこともやってみて下さい。意外にどこが閊えているかが判るかも知れません。判ったら、その方向に押さえると、必ず硬直している部分があります。

では、もう一度やってみて頂きます。

 

首の重い人は、息を吐いた時に持ち上げてしまっているのです。息を吸いこんだ時にちょっと持ち上げると軽く上がります。吸いこんだ処を、ちょっと速度を速めて押さえますと、首が上がるのです。それに乗じて持ちあげればちっとも重くない。

 

それから、「レーダーを出して」といきなり言ったので。少し難しかったようですが、やはり一つひとつ押していった方がいいようですね。そうやって押していく場合には、相手に息を吸いこませておいて押さえることで、強く押してもそれが害にならない為の要領になります。息を吸わせていない状態で押すと、あとでそこに痛みが残ることがありますので、吸わせて押さえ、また吸わせて押さえる、という要領を覚えて下さい。

ただ、吸わせるためには、その一瞬手前で手が当たっていないと出来ない。そうでないと、どこを触っても力が入らないですから、一瞬手前に押さえてから、すぐに吸わせて、それから押す。そういうつもりでやって下さい。

 

今やった事を、次は「お臍」の周りでやってもらいます。臍の周りだと、今やったよりももっとハッキリ判ると思います。

やり方は同じ要領ですが、押さえる幅は、もっと少ない。

そこで、確かめるのは頸椎ではなくて胸椎二番に当てて行ないます。胸椎の二番は胃袋の急所となっています。臍の真上と、臍の左右の三か所が胃袋の急所ですが、左手の指を胸椎二番に当てて、ちょっと動かしてみる。すると、いつでも臍のまわりの三か所に影響があります。

胸椎二番の<一側>か<二側>、時に<三側>に指を当てて調べます。今は<二側>に指を当てて、その指をちょっと立てるようにすると、その影響、変化がもっとはっきりしてきます。

では、二番に指を当てて、この三か所にどういう変化があるのかを調べ合って下さい。

 

終わったら、相手が、お腹のどこで呼吸をしているかを確かめておいて下さい。

「腹部操法」は、操法直後の呼吸が、どこでまとまるか、ということを見ることが重要で、むしろそれを見るためにお腹を操法すると言っていいぐらいです。

これはお臍の周囲のどこかでまとまれば、それが標準です。お臍のさらに下で呼吸しているなら、それは非常にコンディションがいい時です。腹部第二より上でなら、少し落ちている状態。みぞおちで呼吸している時は悪い状態の時です。

右肋骨下で閊えている人は、下手をするとみぞおとから上で呼吸するようになる人です。

みぞおちから腹部第二にかけて閊えている人は、みぞおちから上で呼吸することになるので、その場合はみぞおちを押さえますと、弛めば呼吸がスーッと下へ行きます。そして臍の上か下で呼吸するようになります。

 

はい、どうどおやめ願います。

いま、上手に押さえたのに、呼吸が下に来ないでみぞおちに行ってしまったとか、呼吸が斜めに行ってしまったという人がありましたが、それらで多い原因は、その人の腰椎二番と三番が捻れている人です。その場合は必ず相手の片方の脚が短くなっていますので、その脚を引っ張っておきます。アキレス腱側をグッと引っ張って、そのまま上をグーっと引っ張ると伸びてきます。伸びてくると一緒に、呼吸も下に下がって深くなってきます。そうなった時に放せば、伸びたのが保たれます。

それからもう一つの原因は、首が曲がっている場合とか、腕の使い方の異常によるものです。その場合には、首の位置を変えるとか、腕を上げるとか伸ばすとかしてみて、首や腕の位置を決めて、つまり呼吸の深く入る位置を見つかれば、どこが原因であったかが 判ります。

 

「腹部操法」をする大きな目的は、相手の体力状況を測定することにあって、だから私の操法では、それだけは略すことはありません。体力が消耗してくるにしたがって、下腹の呼吸がみぞおちに、さらにそれが胸に息、さらに肩に行き、鼻翼にまで行く。

鼻の先で呼吸を始めたら、物騒なのです。呼吸は下の方でしているのがいい。

 

体に異常があった時に、腹部第二調律点を境にして、それより下で呼吸していればそれは回復傾向にあります。第二より上の場合は、戸惑っている状態。

第二付近で呼吸が下に下がらない時は、先ほどのように、みぞおちに呼吸が閊えているのですから、そこを押さえるとスーッと下がってくる。

下腹で呼吸して、みぞおちが<虚>の状態になり、第三、丹田のところが<実>の状態であれば、それが我々の言う<整体>の状態です。

 

「腹部操法」は<体力測定>といいましたが、それだけではなく、<体力発揮>という面でも、相当な働きをするものでもあります。

ですから、極端に言えば、お腹だけ操法していれば、間違いなく良くなる、とまで言えるのです。

この異常はあと幾日で治るとかいうことも、そこで<度>を見ていくわけです。厳密に言えば、体周期の問題や、体癖の問題をしてからでないと、正確な<体力測定>といったものはできないわけですが 、三日や四日の誤差があっても構わないという大雑把な測定であれば、「腹部操法」の観察で可能です。

まあ、この次にそんなこともお話しましょう。(終)

 

 

「整体操法高等講座」を読む(2)「間」について

今日の要約は「整体操法高等講座」(昭和42年4月15日)の第二回目です。

<読む>ということは、とても難しいことです。野口氏の表現した言葉に込められた意味を抽象化された概念として理解することの難しさであり、野口氏自身が経験し、獲得した知見や思いや心の触りのすべてを私の中で再現することの難しさでもあります。

たとえば前回のテーマであった<要求>という言葉一つとってみても、あるいは今回のテーマである<間>という言葉にしても、野口氏がその言葉に込めた意味や価値といったものは、すべて野口氏という個人の体験を基礎にして語られ彩られているからです。

だからこそ、そこで語られる言葉は、それまで他の多くの人々によって語られた言葉と、概念としては一般性を持つ指示的な意味としての共通性を持つのは当然としても、その一方で野口氏の心に芽生え育まれてきた思いが、その言葉に折りたたまれていることで、その言葉に野口氏固有の価値というものが生まれてくるわけでしょう。

つまり、ある言葉を<読む>という行為は、語るその人のすべてを理解していく、あるいは追体験していく過程であるということになります。

野口氏があれほどまでに多くを語り、多くを書き残したということの秘密も、伝え難いけれども何とかその思いを伝えたいという、その思いの深甚さによっていることは明らかでしょう。

そんなことを考えながら、今日も野口氏の口述記録に向き合っていこうと思います。

 

「間」ということ

高等技術の焦点は「間」ということです。それは何もしない時間です。操法として絶えず外側から働きかけられている間は、相手は自分自身の働きでない働きをある意味で強いられている。一旦その働きが遮断されると、操法した影響だけでなくて、初めて相手自身の体の働きやその方向というものが浮上してくる。その浮がび上がってきたものも同時に見ていかないと指導の方法も出てこないし、相手が今どういう状態にあるのかを知ることも出来ない。

 

「間」というものを置かないと、やることがどんどん行き過ぎになってしまう。その逆に「間」を開けすぎると、やったことが抜けてしまって、また初めからやり直さなくてはならなくなる。

表から加えた力がまだ働いていているうちに、次に移り、また次に移っていくというようにしなければならない。

また、吐く時なら吐くとき、吸う時なら吸う時を使って押さえていくと、相手は繋がりを感じることになる。バラバラに押された感じがしないで、相手の感受性が高まっていく。操法する場合には、この「呼吸でつなぐ」ということが大切です。

これが原則です。

しかし、「間」というものを活かすことが出来ると、この原則を外して操法することも出来る。

たとえば、押した後、吐く息を一つ置いて、その次の吐く息で押さえても相手はつながって感じる。

三呼吸置いて次につながるのが限度の人もある、一呼吸置いただけでつながりがなく乱れてしまうなら、その人は「間」を詰めていかないと裡の力が盛り上がってこないのです。

三呼吸が限度の人に、一呼吸置いたり、二呼吸置いたりすると、相手は早すぎる感じに受け取って、次の<体勢>が起こってこない。起こってこないうちにこちらがギュウギュウ押して気張ってしまうと、反発が起こってくる。押したことの応答が出来ないうちにこちらの操法だけが進んでしまうことになり、相手の力の働く余地を奪ってしまう。

だから操法する場合に、相手がその体に加えられた刺戟がどれくらい続くのだろうかという「間」を確かめておかなければならない。

このことは、一回の操法にだけ言えることではなくて、何度も操法する全体の期間についても同じようにいえる問題です。

私は今、大体週に一度、あるいは五日に一度、時に十日に一度というように、操法する人を分けております。そうすると、気の急いている人は、間が伸びすぎていると感じる。今日やって、明日もやってもらいたい。

私がそうやって分けてやっているのは、こちら側の都合でそうしているのですが、そうしないとやってもらいたい人が押しかけてきて一日で悲鳴をあげることになってしまうからです。繋げないで間延びしてしまうとその都度ポツンポツンの操法になってしまうので、いろいろ工夫をして繋ぎことを考えました。はじめはその間延びを防ぐ方法として、「こういうことを是非やらなければいけない」とか、「何日目にこういう体操をしなくてはいけない」というように、やるべきことを示して「間」をつなぐようにしました。そうすると、気が急いている人でも五日間をそう長く感じなくなってきて、繋ぐということが出来るようになる。十日間も同じです。

そうやって相手の<感受性>を訓練しながら、私の都合に合わせられるようにやっていました。

でも、普通の場合には相手の持っている自然の「間」を使って操法を進める。そして相手の体を動かしていくために、「間」をつめたり、拡げたりしていく。相手の自然の「間」を外すことで相手の体をいろいろ動かしていくのです。

隔靴掻痒という言葉があるが、見当はずれの処を掻いてもらっていると、イライラしてきてその手を振り払いたくなる。それは早く掻いてもらいたいという要求に対して、それが間延びして感じられるからである。自分で搔けない処だから掻いてもらっているのだけれど、痒いところに当たっていない為によけい痒さが増してきて、苛立ちつのってくる。

それと同様に、「間」のとり方にもそういう面があって、体の働きも、心の働きも皆変わってきてしまう。何よりも<要求>そのものが一番変化してしまう。

靴を隔てて痒いところを掻いているとイライラしてくるのは、痒みをとろうとする<要求>が満たされないで抑圧されたために、その<要求>がかえって高まってしまった為である。正確に痒いところに触れれば掻きたい<要求>も無くなるが、抑えると高まる。そういうように、<要求>の度合いや方向が変わってくる。

 

人間の体は<要求>があると働き出す。お腹が空けば食べたくなる。チップでも少ないよりたくさんもらった方が「もっと荷物持てますよ」と動きが軽くなる。妙なことですが、チップが体の中にある要求の度合いを変えたとしか考えられない。

 

操法の場合は、「間」を変えることで、相手の<要求>を変化させることが出来る。

ただ、相手の動きを変えようとして相手の<意識>を対象にしてやる限りは、<要求>を変化させることは難しいのです。「漠然としたもの」「はっきり形づけしていないもの」の方が、<要求>を変化させるためには必要となるのです。

操法は、相手が「体を良くしたい」という<要求>を持つように導くということが大切なことですが、初めから寄りかかって、他人に良くしてもらいたいと思っている人には、一旦それを突き放すと、かえって<要求>がはっきりしてくるという場合も少なくない。あるいは「はい、これで良くなった。もう来なくていい」と言ったことによって、治る<要求>が起こり、そこから治り出すという場合もしばしばある。親切庇っているために治らないでいるということもよくある。

そんなわけで、人間の体の動きというのは、意識的な動きも無意識的な動きも、ともにその人の<要求>によって起こっている。

 

(<要求>をリードする為の<間>) 

<要求>をリードしていく為には、この<間>というものが一番大事です。昨日、中等講座で、いろいろな場合の頸椎ヘルニアの治し方を説明していて、私はついうっかり口を滑らせて高等講座の問題にまで話を進めてしまいました。

「首がグキッと音がして、首が動かなくなった」と訴えてくる人がよくありますが、実際は音が出て狂うということは無くて、音などしないで黙って狂うのです。しかし、当人は音がして狂ったそのことを動けなくなったことに結び付けている。そういう場合には、どこの場所でもいいから音をさせてみる。「音がしました」と相手が言っても、聞き流す。音に気づかない人には、「音がしましたね」と念をおしてみる。すると相手はハッとして音がしたんだ、と思う。そして相手は「これで良くなったんですね」とこちらに言いたくなる。しかしそれを言わせない。それで良くなるんですよ、というような明確な言葉を与えないで、ただ漠然としたままにしておく。そうするとよくなってしまう、そういうことを説明してしまった。

実際、音がして狂ったと思っている人には、どんな上手な技術を使っても、治らないのです。外科手術して繋いでも治らない。

ところが、どこかをボキっと音をさせて、あとは良くなったとも何とも言わないで、相手の頭の中に「音がしましたね」という言葉を漠然と入れておくと、良くなってしまう。そして、こういう場合には、二度と首を触らないでおく。確かめてもいけない。そうすると、翌日には良くなるのです。

それで相手は「良くなりました」と言ってくる。しかし、それを認めないでおくと、次にはもっと良くなってくる。ところが、それを認めると、またそこで痛み出す。

実際の操法とはそういうものなんです。

首をガクッとやって、「良くなったでしょう」と言うとします。相手は「はい、お陰様で」と言うが、翌日になるとまたどこかが痛くなったと訴えてくる。音がして狂った、と訴える人には、そういう傾向の濃い人が多い。

そういう人の体を、あっちもこっち確かめて「はい、良くなった、大丈夫だ」と言うと

 、立ち上がった拍子にまた「ちょっとここが痛い」とかなんとか言いだしてくる。

そういう時に、相手が立ち上がったところをつかまえて、「ちょっと待った」と言って、ちょっと押さえると、本当にきっちり治ってしまうことがある。痛いと言われて続けて押さえたら効果がないのに、そうやって<間>おいて押さえた、立ち上がって帰りがけの相手を呼び止めて押さえた。そういう時には、すっかり良くなってしまう。

 

こういうことは、明らかに高等の技術であって、中等で説明するような問題ではなかった。まあ、そんなことで、「漠然としたままで置いておく」という方法は、いい場合にも、悪い場合にも、その方向に誘導していくのです。

 

だから、体を良くするような方向に相手の<要求>を導いていくということが大事なわけです。

自分の弱いところを見てもらおうと思っている人達は、痛いところを止めてもらうと、口では「お陰様で」と言いながら、またもっと痛くなる。それは痛がって自分の弱いところを示したいと思っていたことを、痛みを止められてしまったために、そういう<要求>を遮断されてしまった為です。

 

こういう「病気でありたい」という<要求>を抜かないままで、相手を治した場合、治ってしまったという現実を見せつけられると、治ってもまた悪くなるのではないか、今度悪くなったら大変だ、というふうに自分で次々と空想して、また悪くなっていく。

 

病気を余分に怖がったり、余分に早く治そうと焦るような人のなかには、こういう「病気のままいたい」という<要求>を遮断されたことで、治した人に不平を抱く、などということは沢山あるのです。

 

体の特性を示す一側

そんなわけで、相手の体の変化をジッと見、相手の動きをちゃんとつかまえないと、自分の感覚で「間」をつくってしまう。相手の状況を知らないと、一人で気張ってしまうことになる。

この相手の体の状況を知るために、一番初めに調べなくてはならないのが脊椎の<一側>です。

エネルギーが余ると腰の<一側>が硬くなる。だから若い人達の腰を調べると<一側>が硬くなっている。エネルギーが足りなくなってくると、それがバラバラに別れてくる。それがバラバラとわかるような人は歳をとっている。

頭が緊張してくると、<一側>が上から下に向けて硬くなってくる。頭の緊張が強くなってくると胸椎部まで硬くなって、背中が曲がらなくなってくる。ノイローゼとか神経衰弱というのはそういう状態になっている。

最近、ストレス学説といって、頭の緊張が体の方々に異常を起こすという生理のシステムが分かってきましたが、その説でも、ストレスが体のどの部分にどのように現れるかについては予測がつかないし、繋がりも分かっていない。

ストレスがリウマチや心悸亢進、あるいは胃痙攣や胆石、カタレプシーを起こすことは分かってきたが、どういう体の人が、どういうどういう変動を起こすか、ということは分かっていない。

ところが、<一側>を調べると、下から硬直が来て胸椎六番の右に硬結がある人は胃痙攣を起こす。六番で<一側>の線が切れている人は、エネルギーが余ると食欲が異常に増える。性欲の食欲転換と言えるような現象が起こっている。お腹が空いていないのに、食べなくては不安定だといって食べている。これが八番だと胃が痛いという状態になっている。八番と四番の左に両方とも硬結がある場合は、エネルギーが余ってくると間違いなく心悸亢進を起こす。

このように、頭の緊張によって起こる体の変化というものも、性エネルギーが余った為に余分に働く体の変化というものも、みな<一側>に変化として現れているのです。

そういうことが分からないから、蕁麻疹も喘息も、胃痙攣もストレスのせいにして終わっている。或る人は風邪を引くと食欲がなくなる、別の人はそうでないのは何故なのかということが分からない。<一側>をみればそういうことも分かってくるのです。

エネルギーが大脳に昇華する途中に起こる体の変動というのは、突然激しくなり、そしてサッと引いてしまう。こういう突発的な体の変動こそ、「間」というものを使って治す以外に方法はないのです。

首の三番が捻れて鼻が詰まっている、胸椎八番が捻れて胃が痛い、というのはその捻れさえ治せばいい。ところが捻れていないのに痛んでいるといった場合には、治しようがない。そういう治しようのない病気というのは非常に沢山あるのです。歪みを治したのになお痛みが続く、そういうものを治す為の手段を知っていないと、いろんな以上に対処することが出来ない。

そういうことは病気に限らずいろいろあります。たとえば、ボールを遠くへ投げるというそれだけのことでも、自信があっても無くても腕力には関係ないから同じように遠くに投げられるはずなのに、一旦自信を失うと遠くへ投げられないということが起こる。体の面でいろいろ全部調整しても遠くへ投げられない。ところが、自信を取り戻したら、体が歪んだままでも前より遠くへ投げられるようになった。そういうことがある。

<自信>などという訳の判らないようなものの有無によってそういうことが起こる。

人間の体と言うものは、そういった訳の判らないもので動いてくることが沢山あるのです。

「間」を活かすというのも、そういう訳の分からないものを動かす為のものです。そして、この「間」を的確に活かす為には、<一側>の観測を正確にできるようになっていないと、一人合点で終わってしまいます。

 

次回から<一側>の読み方と調整の方法を説明していきますが、今日一つ憶えていただきましょう。

下から来る硬直が胸椎十番で終わっている人は、エネルギッシュに反抗します。事柄に対する反抗ではなくて、何とはなしに自分の力を発揮しなくてはという感じで反抗し、強情を張ります。ですから強情を張って反抗している人があったならば、「ちょっと失礼」と言って十番を調べる。その一側が硬かったなら、それ以上構わない事。構うほどに、反抗の為の反抗、逆らおうがための逆らいが起こります。叱言を言えば、言い訳をしてきます。その言い訳は、相手を逆襲するような形の反抗形式をとります。ですから十番の硬くなっている人にうっかり叱言を言うと、それが簡単なものなのに、サッと攻めてくるような激しい逆襲があります。それ自体がその人の言い訳なんですが、逆襲が激しいので、こちらが逆に攻められているような気になって、受け身になると、そのまま押されてしまいます。ですから十番の硬い人には手を出さないこと。手を出す場合には、相手にまず喋らせること。相手の痛いところを一つ突っついて逆襲させる。「ごもっとも」と言うと、さらに逆襲してくる。もう一度「ごもっとも」と言う。そうやっていって、相手がすっかり分かったろうと思える頃に、「君、何て言ってたんだっけ、さっきから」と一回聞き直す。そうすると、もうさっきのような勢いで逆襲できない。その後で「これはこうだね」と言うと、こちらの言うことを聞くようになる。

十番の硬くなった人の逆襲は、言わせるだけ言わせて、「あれ何だっけ」とか「もう一度言って」とか言うと、二度と繰り返せないんです。言うだけ言って、消耗してしまうと、同じ調子が出ないのです。逆襲している途中で咎めだてたりすると、もっと激しい逆襲になるのですが、「あそこのところが分かりにくかった。もう一回言ってくれないか」と言うと、もう言えないのが特徴で、言えなくなった時に叱言を言うと、その方が割りに強く相手に入るのです。言えなくなった状態の十番を見ると、弛んでいて、その緊張が八番に上がっていった場合は感情的になっている。腰の一番に下がっている時は、頭の働きになっている。下に行く方が頭は落ち着いてくる。

これが、十番の硬い人を説得したり、叱言を言う時のやり方です。

風邪の場合に、十番が硬くなるのは、熱が出る前。十番の硬くなるのが分岐点で、それからちょっと経つと、普通は四時間、周期時間の長い開閉型の人でも八時間、周期の短い上下型では二時間ぐらい、熱が出る。

ですから、背骨を触る立場から言うと、逆襲も発熱も同じようなものだということです。(終)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「整体操法高等講座」を読む(1)体を動かすもの

整体操法高等講座を読む」と題して、野口晴哉氏の口述記録を始めたいと思います。このブログで「整体操法の基礎を学ぶ」と題して70数回の講座の記録を紹介してきましたが、それらはI先生宅での研究会の様子を、I先生が作成した資料に沿って記録したものでした。だから、その資料には当然I先生のバイアスがかかったものになっていましたが、しかしその元資料は、I先生が直接経験した講習会の度に手にした野口氏の口述記録であったろうと推測しています。(I先生は、出典について語られなかったし、われわれもそのことについてお聞きする機会を持てませんでした。)

今回は、かなり以前に、たまたま手にした「整体操法高等講座」十数冊の冊子のコピーをもとに進めますが、「整体操法の基礎を学ぶ」シリーズとちょうどうまく接続できるものとなっていると思います。

 

今回のシリーズに<読む>と題して、<学ぶ>としなかったのは、私がこの記録をただ<読む>ことしか出来ないという理由によっています。I先生のような指導者を介在して学ぶことが叶わなかった以上、私は私自身のために、この口述記録を丁寧に読み進めていきたいと思います。本来なら、そのまま全文を記載できればいいのでしょうが、それは著作権上の問題にもなると思いますので、私なりの引用や私なりの省略や私なりの言い換えや解釈を行っていくことになると思います。そうした要約には、当然危険がつきまといます。なぜなら、野口氏の<語りことば>を私なりに解釈することは、私の稚拙な視線から、野口氏の思想や技術を狭く切り分け、縮めることにしかならないのは確実だからです。読者の皆様には、ぜひそのことを念頭に、冷めた目で眺めていただきたいと思います。もしこの要約に、問題や間違いがあれば是非ご指摘下さい。その責任はすべて要約者、引用者である私の責任ですから、よろしくお願いします。

 

整体操法高等講座1 体を動かすもの(1967.4.5)

 

(<間>を活かす) 

これから整体指導法の高等技術を説明しますが、高等技術には手でやる技術は殆どないのです。手でやる技術というのは高等技術を会得しない人が一生懸命やることで、そういう技術をどんなに使っても治らないものが沢山にあるのです。いや、そういう技術を使わなければよくなってしまう場面もまた多いのであります。従って高等技術を会得しているかいないかということは、何もしないという<間>を活かせるか活かせないかという問題に連なり、<間>を活かすということが高等技術の根本になっております。・・・

私達のやっていることは、体運動を調整することがその目標でありますから、人間の体運動の起こるもとは何だろうかということを一応確かめておきたい。・・・

 

(<要求>について)

人間は生きているから動くわけです・・・生きていることは物質と比べて非常に弱い存在です。ちょっと空気が切れても、ちょっと食べ物がなくても、ちょっと体をぶつけたというだけでも死んでしまうことがある。・・・だから人間は自分の体を護るために、いつでも無意識に<適>に向かって動いている。・・・<適>を得ることがなければ死ぬよりほかない。もっとも、死ぬこともまた生き物にとっては<適>です。人間なら百年を待たずに死んでしまう。同じ存在としては続かない。そこで積極的に繁殖という方法で、種の存続を果たしている。生き物は個体が<適>によって身を護る事(個体維持の要求)と、<繁殖>によって種として存続する(種の保存の要求)という二つの動きを、その<要求>として持っているのです。つまり、人間を動かしている一番の元は、この<要求>というものと言える。・・・

生き物はすべてこの二つの<要求>によって動いているが、生き物の構造の違いによって蛇はにょろにょろし、蛙はぴょんぴょんする。関節構造や運動系の構造が違うからです。要求としては同じでも、表現様式は異なってくる。・・・

人間の場合は、立って手を使って行動するというのがその運動様式の特殊性です。・・・この二本脚で立つということは、安定を保つ上ではかなり不利な条件である。だから人間の動きは、バランスをとる働きによって運動する、という面が多いわけです。そのため、四足動物に比べて関節のわずかな左右の違いが、激しく動作に影響してくる。関節の異常が、他の動物とは比べものにならないほど身体全体に影響を及ぼす。

中等講座で腰椎の一、三、五の治し方をやりましたが、腰の痛いのは一番、動けないのは三番、脚に響いて痛いのは五番。ところがレントゲンで撮るとみな四番が狂っている。それを見て四番を治そうとすると大抵失敗する。一、三、五以外のところに手を出すと治らない。

壊れた処を、つまり四番を直接いじくるような操法をしてしまうということがなぜなされてしまうのかといえば、操法する人が「人間の体の<要求>を活用する」、ということを考えていないからである。言い換えると、その操法は今言った二つの要求を果たそうとする生命の働きを活用するという視点がないということです。

繁殖に向けて進む生命のエネルギーというものは凄まじいもので、そのエネルギーによって<死>を無化しようとしている。それが<性欲>と言われるもので、このエネルギーが人間の一定期間の体の動きに転換していく。このエネルギー転換として最も多いのは「エネルギーの大脳昇華」というもので、若い人がくだらないと思えることにもゲラゲラわらってみたり、騒いでみたりするということがおこる。最近出来たACS(註:整体協会内に出来た若い会員の研究グループ、アラーム・クロック・ソサエティ。I先生もここのメンバーだったということです。)の人達の録音テープを聞いてみると、初めから終わりまで皆笑い通しです。ところがこの高等講座のテープを聞いてみると森閑としていて、まるで私が墓地で話をしているようである。比べてみると吃驚するのですが、こちらの会は一定年齢に達した、エネルギーが大脳昇華しなくなった人達、言い換えればあの世が近くなっている人達の集まりであり、ACSのメンバーはあの世が遠いとも言えるわけです。そんなように性エネルギーが余ると、まず感情が激しくなり、同時に激しく動くようになる。ですから、彼らは会がある時は毎晩午前三時四時まで体癖について質問に来たりする。そして私が寝るまで頑張っている。ですから私としてもなかなか大変なのですが、それぐらい飽きることなく追求する。私が喋ったことをそのままにしないで、すぐに確かめていく。そういうのはみな性エネルギーの大脳昇華現象である。

この現象は、時に特殊な心理現象を引き寄せて、<嫉妬>とか<怒り>とか<悩み>とか、さらには<深刻な不安>といったものになる。生理的には、<心悸亢進>とか<胆石>とかを起こしたり、ひどい場合には<がん>をつくったりというように、いろいろな体の異常を作り出します。そのため、病気の中には性欲のエネルギーの転換によるものが多く認められる。また、子どもがざわざわしたり、非行に走ったり、喧嘩をしたりというのも、このエネルギーの過剰によることが多いのです。

こうした過剰となったエネルギーを皆持て余しているだけですが、それを使いこなせないものだろうか。

たとえば、<苦痛>というものを考えた場合、人間が何か体の中に「必要な変動」というものを求めている場合には、<苦痛>といってもその中に<快感>があるのです。

性欲の中にはマゾヒズムのように苦痛を受けることを快感とする側面がありますが、それは誰のなかにもある。自分より力のある強い存在に頼ろうとするのもそうしたのの一つと言える。

そういう面から言えば、病気の<苦痛>をそのまま<快感>に転じるということも、決して不可能なこととは言えない。

苦しいことを除こうと足掻いたり、それを何とか防いでいこうとしたりすることだけを考えたりして、かえって体を鈍くしてしまうという行き方は本当とは言えないのではないか。その逆に、<苦痛>というものを、体のエネルギーの働きと考えて、そのエネルギーを活用していこうとすることは出来ないものだろうか。

それは技術さえあれば、決して不可能なことではないはずである。

今言った人間の裡の二つの<要求>、それを活用すればそれは可能です。個体を維持しようとする<要求>よりも、もっと激しいのが種の保存の<要求>ですが、その繁殖のエネルギーを、体を強くする為に利用するという技術を使えば、それが楽に行えるようになるのです。

苦しんでいるから何とかその苦痛を除いてやる、というのも整体指導ですが、苦しいということそのものを快感に変えていくというのも整体指導なのです。いや、そういう指導がなくては、本当には苦しみは無くならないのです。

モルヒネをいくら使っても、借金の苦しみは抜けないのです。煩悶に対していくら鎮痛剤を与えても、それは誤魔化しでしかなくて、煩悶が消えるわけではない。

信仰というのは多分に性エネルギーの大脳昇華を利用するという面がありますが、それは今の医術的な痛み止めに比べれば、少しは進歩した面もないとは言えませんが、それはたまたまそういう緩和をつくり出しているだけで、偶然そうなっているにすぎません。そうではなくて、<技術>としてそれを作り出していく。

それが出来れば、過剰エネルギーというものもそれほど問題では無くなるのです。性エネルギーの過剰はいろんな病気の原因であったり、病気からの回復を邪魔するものであったり、他人に迷惑をかける働きだったりするということだけが問題にされているけれども、たとえば非行に走るエネルギーをそのまま勉強するエネルギーに変えるということは不可能ではないのです。

病気の苦痛においても、そういうエネルギーを転換することで、耐えられない苦痛を快感にしたり、それを耐えられるように体力を呼び起こすということがあっていいわけです。

 異常の場合の体の働きを高めていく場合には、そういうことが出来ないようでは、技術無しと言わなくてはならないと思う。

ですから、壊れているからそこを治す、苦しんでいるから苦しいんだ、というような考え方で接しているうちは、私はその人が技術者だとは思いません。

壊れているところがあっても、そこに手をつけないで治せなくてはならない。

苦しみ悩んでいれば、苦しみ悩んでいることそのものをエネルギーとして、それを体を回復するに必要な力として使いこなすことが出来なければならない。

 

体のエネルギーが頭のエネルギーになったり、頭のエネルギーが体のエネルギーになったりして、ぐるぐる巡って生きていることが、生物の中で特に大脳の発達している人間の特色でありますから、頭の働きだからいつまでも頭の働きのままにしておくとか、体の働きだからいつまでも体の働きにしておくというような区別をしなくてもいいはずなのです。それらは同じ一つのエネルギーだからです。

そういうつもりになれば、大脳に昇華するエネルギーも、大脳から体に及ぼしかけるエネルギーも、同じように使いこなせる。

 

(<間>を使いこなす)

頭のエネルギーや体のエネルギーを使いこなすために、それらエネルギーが働く余地として<間>というものを使いこなしていく。

<間>というのは、単なる空間といったものではない。<間>というものは、<心理的エネルギーの身体支配>やその逆の<身体的エネルギーの心理的支配>というものをスムーズに行う為の時期を意味しています。

 

人間の体運動の基にあるものは、そういうエネルギーの問題だけではなく、ほかにもいろいろあります。

たとえば<感受性>の問題もそうですし、<意志>の問題も体運動の基になる。あるいは<潜在意識>の問題も同様です。

われわれが、人間の運動調整を考える為には、それらのもの全てをひっくるめて、積極的に使いこなしていくということがなされないと、本当の意味での運動調整は出来ないのです。

そういったいろいろな要素の中で、初等技術では「関節構造の調節」がテーマとなり、中等技術ではその関節構造の調節を行う為の「感受性の使い方」というものが付け加わり、最後の高等技術では「潜在意識の問題」および「性エネルギーの昇華傾向」の使いこなしということを問題にしているのです。

 

高等技術では、関節構造に対する働きかけというのは少なくなっている。人間の要求のもとにあるエネルギーを動かして、相手の裡に「自発的に回復していこうとする要求」を引っ張り起こす、ということに主体をおいているわけです。

 

回復要求を引っ張り出すと言っても、<意識>が対象になっているのではない。異常の状態というのは、そういう要求が働いていないから引っ張り出そうとするわけですから、<意識>の問題ではない。<意識>はそういう状態の時はただ「早く治したい」と焦るだけです。そういう時の<意識>というのは無力なのです。

ところが、一旦その回復要求が動き出すと、途端に焦りなどなくなってしまう。

 

人間の体を治す際に、息せき切っている相手に、さらに駆け足をさせるようなことは無駄なことです。だからひとまず相手を落ち着かせる。あいてのバタバタしている心を一旦脇にのけておく。

「早く、早く」と焦る心に道筋をつけて、他所へ流すように誘導すれば、生きている限り、死ぬ間際まで楽しく生きるということができるのです。ゆったりした気持ちに誘導できれば、回復する動きがひとりでに出てきて、自然に回復してしまう。

イライラして焦っているうちは、エネルギーが頭に昇華するばかりで、回復の要求が起きないばかりか、むしろそのことで回復を阻害してしまう。そして手っ取り早く過剰となったエネルギーを鬱散させるために、<適>に向かうことよりも、体を壊す方向に向かってしまう。なぜそうなるかといえば、過剰エネルギーを<壊す>方に向ける方が、手っ取り早く鬱散させることが出来てしまうからです。<意識>による焦りというのは、そういう働きに加担してしまう。

 

高等講座では、「要求が表に現れてくる傾向」といったものを観察していく、ということが話の中心になっている。

一昨日から花が突然咲いてきれいになっていましたが、その前日はまだ蕾の状態で、少しふくらんで赤みを帯びてきたかなと思えるぐらいだったのに、それが突然のように咲き始めたのですが、それだって要求が裡にあって、咲いてきたのです。

人間の要求も同じで、裡にある要求は必ず実現してくるのです。実現の過程が細やか過ぎて見ても分からないような変化ですが、その見えない様な状態をジッと観察して、それが感じられるようにならないと、相手の裡にある要求というものはつかまえ出せないのです。動きが見えないからといって、それを空想するのではない。ジーっと観察していないで、時々見るだけで、自分の空想でそれが見えたと錯覚している人がいますが、私たちはそういうことではなく、自分の手で相手に触ってそれを感じとっていくのです。われわれの<要求>の観方というのは、必ず手で触って見ていくのです。

繰り返しますが、高等技術では練習することは非常に少ない。会得すべき手の使い方というものは殆どないと言っていい。もっとも全然無いというのでは見物になってしまう。我々がやっていくのは、あくまでも相手の<意識>や、相手の体の<知覚>を経由してのものであるから、高等においても相手に触れて、言葉をかけながら<心>を連ねていく。そうやって、相手の裡にあるエネルギー、相手の潜在意識に直接触れていく、それが高等の技術です。

しかし、中等の技術と同じように相手に触れ、言葉をかけていく際に、中等の時の技術よりもさらに内輪の使い方をしていく点が異なっている。

相手の裡の変動がまだ表面に現れないような段階で、その兆しを受け取って、それをそのまま拾い上げていく。

相手の関節が動かなくなってしまってから治すというのが中等で、高等では関節が動かなくなりそうな段階で治してしまう。

つまり高等の技術とは、中等の時よりもっと相手の細かな動きや変化を見て取ることが必要であり、したがってもっと細かい処理でその変動に対処していく。だから技術としては簡単に見えるが、非常に微細な対象を微細に処理するための繊細な技術が必要になる。

そうした技術というのは、極端に言うと、こうした講習会のシステムで身につく様な問題ではないのです。

しょっちゅう相手の傍にいて、何か変化がある度に見ていく。たえず一つことにずーっと集注していって、集注し抜いたときにポツっと分かってくる。そういうものです。

こういうことを会得できた人というのは、一心に打ち込んで、「分からない、分からない」を何年か繰り返して、ポツっと分かってくる。いつから分かったか、それも分からない。分からないの極端まで行って、フッと分かってくる。教えた経験から言うと、分からないということが分かっている人が一番早く分かるようになる。

分からないということを強調するつもりはないが、結果から言うとそういうことになって、ある処まで行くとスッと開けるのです。

これは個人差が大きい。それは精神集注の密度の差によるからです。

 

まあ、何回か、何人かの人をやっていくと、細かなことがだんだん見えてきます。小さな動きに敏感になり、その動きを見逃さないような目をつくることが、高等技術習得の基本であります。

 

以上が、第一回の講座の要約です。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

野口裕之氏の論文に学ぶ

「月刊全生」最新号(平成31年2月号)が昨日届けられた。そこに「生きること死ぬこと-日本の自壊ー」の先月号に次ぐ完結編がある。これは「教育哲学研究」第89号(2004年5月)に掲載された野口裕之氏のシンポジウムでの発表論文の再掲である。

 

明治維新以降の百四十年間、間断なく施行され続けてきた国策、それを裕之氏は「欧化啓蒙政策」と呼び、それが齎したものを次のように要約する。

「その国策とは、日本人の伝統的な生命観、身体観・自然観を根源的に崩壊せしめた」ものであると。

そして氏は、この政策の行きつく果てに、日本文化そのものの衰弱と消滅があることを諸事例を示しながら、それら無くなりつつある日本の文化を哀惜し、心の底から悔しがっている。

氏は、この教育哲学会でのシンポジウムの為に準備したレジュメの中で、<文化の形成>について次のように記述している。

「文化は、観測や分析、実験や論証などといった理知の営為から把握され、表記される客観的事実の集合によって、形成されていくものなのではない。寧ろ、空疎な客観的事実を歪曲する能力によって形成されるものである。」

「人生に於いて最も確かな客観的事実は、「我々は刻々と死につつある」ということであり、この最も確かで空疎な客観的事実を、「刻々に生きている」と歪曲する能力こそ文化の形成の本義と言わねばなるまい。」と。

 

そしてまた、今日われわれの誰もが容認し違和さえ覚えない、死をかたちどる我が国の病院にみられる機械的、科学的死の風景に、我が国の文化の自壊を予感している。

こうした裕之氏の考えは、氏が整体協会の中に在って、それから相対的に自立しながら探求してきた「内観的身体」とその技法やその体系化という課題の、基本的思想となっていると言っていいのではないか。

それは同時に、野口晴哉氏の指し示そうとした整体法の諸言説の意味を、晴哉氏の生きた時代とは随分異なってしまった現代という時代性の中で架橋しようとした裕之氏の、渾身の近代科学思想批判であり、日本文化論となっていると私には思われる。

そこで最も問われているのは、<自然>というものとどのように対峙すべきかということでもある。「欧化啓蒙思想」が標榜するのは、<自然>の加工であり、<自然>の人工化である。<自然>を<自然>として扱ってきた長い人間の歴史の中で、<近代>は加工という特異な態度で<自然>に対峙してきた。少しでも楽をしたい、少しでも労働の手を省きたいとして飽くなき<自然>の加工に勤しんできた。その行きつく果てに、伝統的な生命観、身体観・自然観の消滅さえも招きかねない事態になったのではないか、そう裕之氏は言っていると思う。いや、もう少し強く<消滅>というイメージでそれを語っているようにも思えるが・・・

 

野口整体、とりわけ整体操法の思想が、裕之氏の言う「自然を自然として扱う」とか「自然を自然に導こうとする」技法であることは間違いないに違いない。しかし、野口晴哉氏自身の身体(それは現代の多くの我々の持つ身体とはかなり異なっている)が感受した自然身体というものが、現代においてはすでに様々な局面で失われつつあるとき、それをどのように現代の我々にその価値として繋ぎとめることができるのか、というところに裕之氏の問題意識があったのではないか。それはもちろん、失ったものを取り戻すことが絶望的であるという諦念とは裏腹の、裕之氏の夢であるように思う。

今の私は、裕之氏の「内観的身体技法」がどのようなものであるかをきっちりとらえることなどまるで出来ない。しかし、裕之氏のその夢、その考えていることが、野口晴哉氏の思想と技術を真正面から見据え、現代の我々に<架橋>しようとして<動法>を新たに提示しようとしていることだけは分かるつもりです。

だから私は、次号以降の「月刊全生」での裕之氏の文章を心待ちにしているのです。

 

なお、裕之氏の文章としては、上記のほかに「体育の科学」に掲載された、「動法と内観的身体」(1993.7)、「日本文化の身体(像)観と動法」(第五十一回日本体育学会 体育原理専門分科会シンポジウム)があります。