野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

整体操法の基礎を学ぶ(22)礼について

礼について

整体操法では、礼というものは、お互いの生命を大事にする、尊重するために行うということになっていますが、そのほかにもいろいろな意味合いをもっています。

整体操法の欠点の一つとして、相手に手を当てると、つい親しくなって、余分に親切になってやりすぎることがある。他人の苦痛を自分の苦痛のように感じて、押さえている人もある。相手の糞がつまっているとき、こちらが気張ってもしょうがない。相手が痛がっているとき、こちらが気張ってもしょうがない。むしろ一歩退いて、相手の心の中にその痛みに耐える心を開いてやるべきであるが、そういう余裕がなくなって、懸命にやるというのは、手を触れる者の欠点であるが、しかしこの操法の最初と最後に行う礼というのは、この欠点から免れる時間として、かなり役に立つものといえる。

特に最初の礼では、相手の全体のバランスを見極める手段となりうるし、最後の礼では、相手との一定の距離をおいた状態で相手の変化を確認する手段ともなる。触れることによってついつい距離が縮んでしまうことで親しくなりすぎ、一生懸命になりすぎてしまうことへの是正といった面で有効である。

自分の命を削ってでも何とかしてやりたい、その人の為なら死んでもいい、と思ってやっている人もいるが、自分の命を失くして相手が生きるわけではない。そんな思い詰めるような心で相手に操法するなどということは以ての外で、操法は絶えず冷静に、合理的に行われなければならない。初めのうちは、操法した人としていない人を比べて、どうしても操法した人の方に気が行ってしまうし、一歩退いて純粋に客観視することが出来ないものである。もちろん、操法にそれほど打ち込まない人にとっては、このことは必要ないことではあるが、もし操法に打ち込みたいと考えるのであれば、終わりの礼というものを特に大事にしてもらいたい。

 

最初の礼は、その人の裡の動きを、礼の動きから見つけ出すためなのですが、初めのうちは難しいですから、その恰好から見ていく。だんだん格好をつくっている内側の中身を掴まえだせるようになります。

まずは、どこの部分に力を入れてお辞儀をするのか、どこの力を抜いてお辞儀をするのか、お辞儀をした格好はどうなのか、ということを見極める。初めのうちは判っても判らなくてもいい。とにかく相手に真剣に打ち込むという気持ちのほうが大事なのです。操法すると決まったら、どんな瞬間も、相手のどんな動きでも見逃さないという決心で坐り、そして操法する処を見つけていけるように、心を全部集注していくことが必要で、そのことが同時に愉気の始まりになるわけです。

判っても判らなくてもいいと言ったのは、判らなければ判らないほどやろうとして、そこに注意が集注し、気が集まってくるのです。だからなまじ判ってしまうと気が集まらないので困る面もあります。肩が狂っているな、と判ってしまうと、その途端に肩以外は見えなくなってしまう。こういう傾向は誰にもあるのですが、そういう先入観から出発してしまうと、大事な処を見損なってしまいかねない。判ったと思うよりは、判らないまま、まだある、まだある、だが判らない、というように判り切らないことのほうが、愉気を行なう場合にはいいのです。

まあ、いずれにしても相手に注意を傾けるという構えが、操法の着手の基本なのです。

 

判ってもいい、判らなければ尚いい。礼をするとき、相手をグーっと見るつもりで、フーっと集注して、判らなくてもそれからポカンとして背骨を調べると、普段なら判らないような細かな動きが判ります。逆に、初めの礼をきちんとしないで、つまり注意がフーっと集まるようなことをしないまま相手の背骨に触れていっても、そうした細かい動きが判ってこないのです。

初めの礼の時に、ふわーっと注意が集まってきて、相手をその気で包んでしまえれば、普段判らないような異常までちゃんと判るようになります。

 

始まりの礼と椎側の観察(練習)

いま述べたように、まず相手の礼の動きを注意を集めて観察します。判っても判らなくても構わないが、心を集注して、集まった自分の気で相手を包むようにする。そのあと、相手の胸椎の三番から七番のあいだの椎側、一側でも二側でも棘突起でもどこでもいいが、「押さえて痛くない処」、「押さえると少し痛む処」、「押さえると特別痛く感じる処」を見つけてください。見つけたら、相手に確認してください。

今までやったような骨の転位を見るのなら簡単ですが、今日の練習では、それとは違って、相手の痛いと感じる処そのものを見つけてください。

最初の礼が、きちんと出来るようになっていれば、すぐわかるようになります。