野口整体を愉しむ

未来を先どりする野口晴哉の思想と技法

体癖

知以前の知、新しい生き方

すでに言語化され意識化された対象についての知が、対象が本来持つはずの可能性としての知の一部分でしかないことは言うまでもない。しかし、私たちの身体は、そうした知の対象であるとともに、すでにそれ自体として生きられているという意味で、身体以外の…

愉気(輸気)とは何か

野口整体法の基礎になっているものの一つが、気であり、気の運用である。それほど重要な概念である気について、野口晴哉氏は「気は気であるとしか言いようがない」あるいは「整体操法の技の中心は、この輸気とその感応にあるのであるが、残念ながら気の問題…

気の方向を変える

野口晴哉氏が1968年4月におこなった「整体操法高等講座」の口述記録からの引用です。 死ぬか生きるかという場合に私のやることは、気の向きを変えるということなんです。あとはその人に体力があれば生きるし、なければ生きない・・・。 普段の操法においても…

技術以前の問題としての気

「整体法の基礎」(38pから39p)から引用。 私のいう人間の気は、・・細かい物質(オーラ、ミトゲン線)の分散ではなく、分散する力なのです。必要なものを集めてくる力、不必要なものを捨てていく、分散していく力をいうのです。 細かく分散されたもの、…

整体本来の道を

治療から体育へと大きく舵を切った1964年。先に見た「月刊全生」に続く6月号には、「整体本来の道を」と題する野口晴哉氏の文章に、指導者や会員に向けての新生整体協会の決意が示されている。 「・・私にとっては戦前の落合道場の時期が最全盛の時で、治療…

治療からからだ育てへ

野口晴哉氏が長い治療家としての立ち位置を大転換して、からだ育てへと変貌していく時期に書かれたのが、以下に紹介する「40年の治療を捨てて」(「月刊全生」1964年3月号瀬田道場開館記念号)である。全国の多くの指導者の命を削るほどの努力による新道場建…

完成された技術としての整体操法

以下、野口晴哉氏「整体法の基礎」(28pから29p)からの引用です。 体の問題は理論ではないのです。事実が真理なのです。どんな理論でも、事実によって裏書きされなければ、信じるに足りない。胸椎の八番に愉気をすれば胃の痛みが止まるというのは、誰がや…

整体操法の制定過程

昭和18年(1943)12月 整体操法制定委員会設立 昭和19年(1944)7月 毎夜の論議を経て整体操法の基本形を制定。同月の東京治療師会役員会にて発表。全員一致の支持を得て、東京治療師会、手技療術の標準形を決定。その後、様々な角度から検討が加えられ、一…

合掌行気の実習

野口晴哉氏のおこなった講義の口述記録を引用・要約しながら、野口整体の基本用語を学び、実習してみましょう。 手に注意を集めます。これを合掌行気と申します。 手に息を吸い込んで吐くのです。 両手の掌の間を3センチほど開いて、両手がくっついて来るの…

整体操法の概念

以下では、「月刊全生」(1979.1月から2月)に掲載された野口裕之氏の「整体法について」と「整体法実践の個人指導」から引用して、まず整体操法の概要や整体法における位置づけなどについて学んでおきたい。 「整体法は、次の四者を基幹として構成されてい…

触印象の言語化

野口晴哉氏の整体操法についての講義録に貫かれている方法とは何か。わたしはそれを「過程を重視する方法」だと言ってみたい。プロセスを重視するというのは当たり前のように見えて、実は誰もが容易になしうることではない。 野口氏の言葉を丁寧に辿っていく…

野口整体を学ぶことの愉しさ

野口整体を学ぶことが楽しくて仕方がない。理由はよくわからないが、講習会や研究会、あるいは仲間内の勉強会に参加することがとにかく楽しいのだ。もちろん毎月送られてくる「月刊全生」を寝転がってじっくり読み進めることも同様に楽しい。 何十年も前に知…

気と人間関係

野口整体の根本にあるのは気である。整体操法も野口晴哉氏と被操法者との気を媒介とした、一対一の直接的な人間関係としてとらえることができる。 生きてそこにいる個人と個人の直接的な関係性の場が整体操法の場である。つまりこの対(つい)の関係性は、自…

視ることと触れること

視ることと触れることとは、対象を知るうえで不可欠の要件である。視ることだけでも、触れることだけでも、対象を構成することはできるけれども、五官のうちのどれか一つだけによって対象を構成してもそれだけでは対象を十全に知ったと言うわけにはいかない。…